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宮廷薬草師リツの調書録  作者: 妙原奇天


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第7話「皇妃の涙」

 皇妃シオンの寝所は、いつもより静かだった。


 重ねられた刺繍入りの簾の向こう、薄く薫る香油は控えめで、代わりに薬草の乾いた匂いが漂っている。部屋の隅には医官たちが控え、その手前に、侍女たちが不安そうに身を寄せ合っていた。


 そのいちばん奥。白い寝台の端に、皇妃シオンは浅く腰掛けていた。


 淡い水色の衣をまとったその姿は、噂に聞く「華やかな皇妃」よりも、ずっと人間らしく見えた。頬は少しこけ、目の下には薄い影がある。それでも、立ち上がろうとする侍女の腕をそっと押しとどめる仕草には、気品がにじんでいた。


 リツは、部屋の入り口で一度だけ深呼吸をした。


 香りが変わっている。


 昨日までこの部屋に充満していた、甘く重たい夜の香りは薄れ、代わりに薬草庫から運ばれてきた浄化用の葉の匂いが増えている。医官たちが慌てて香袋を入れ替えたのだろう。


 その香りの変化を鼻の奥で確かめてから、リツは一歩踏み出した。


「お前か」


 医官コクエンが、嫌そうに眉をひそめる。いつもの癖で、鼻の頭に皺が寄っている。


「下働きのくせに、また皇妃さまの部屋にずかずか入り込むとはな」

「呼ばれたから来たんですけど」


 リツは肩をすくめた。コクエンの後ろから、カゲロウが静かに進み出る。


「陛下のご命令だ。『今回の件について、皇妃さまにも説明を』とな。リツの話は、その一部だ」


 カゲロウの低い声に、コクエンは不満げに舌打ちする。


 そのやり取りを、皇妃シオンは黙って見つめていた。やがて、静かに口を開く。


「みな、顔を上げて」


 その一言で、部屋の空気が少し変わる。侍女たちが一斉に背筋を伸ばし、医官たちも慌てて頭を下げ直した。


「今回のこと……キセラのことも含めて、わたしは何が起きているのか知りたいの」


 皇妃の声は、思っていたよりも細かった。でも、芯は揺れていない。


「コクエン」


 名を呼ばれ、医官は前に出る。


「は、はい、皇妃殿下。ただいまの件、すべては侍女キセラの独断による軽率な行動でございます。花街で覚えた粗末な薬の用い方を、この後宮に持ち込んだ。その結果、殿下のご体調に一時的な不調を──」


「それだけ、なのかしら」


 皇妃シオンの言葉は、柔らかかったが、コクエンの言葉を確かに遮った。


 コクエンは一瞬だけ口ごもる。皇妃の視線が、その隣に立つリツに向いた。


「そちらの娘が、何か別のことを伝えたがっているように見えたわ」


 リツは肩をびくりとさせた。まさか、自分がこの場で直接話すことになるとは思っていなかった。


 コクエンが慌てて割り込む。


「いえ、殿下。この娘はただの下働きです。薬草庫の手伝いをしているから鼻が利くだけで、難しいことなど分かるはずが──」

「話させて」


 皇妃シオンが、今度ははっきりと言った。


 静かで、けれど誰も逆らえない声音。コクエンは唇を噛み、しぶしぶ一歩下がる。


「……恐れながら」


 さすがのコクエンも、皇妃の命には従わざるを得ない。代わりに、リツの方へ鋭い視線を投げた。


「余計なことを言えばただでは済まんぞ、という目だな」


 カゲロウが小声でつぶやく。リツは思わず口元を引きつらせた。


「分かってるわよ」


 小さく息を吐き、皇妃の前まで進み出る。


 皇妃シオンと真正面から向き合うと、背筋が自然と伸びた。金糸を織り込んだ髪に、薄い唇。笑えばきっと華やかなのだろうに、今は少し強張っている。


「お名前を」


「下働きのリツです。薬草庫で……匂いを嗅いでます」


「匂いを嗅いでいる?」


 皇妃の目が少しだけ丸くなる。その反応に、リツは内心で苦笑した。


「えっと……香りを覚えるのが得意で。薬草や薬酒、香袋の匂いを嗅ぎ分けてます」


 変な自己紹介になった気もするが、今さら取り繕っても仕方ない。


 リツは一度深呼吸をし、頭の中で順序を並べ替えた。


「今回の件は、キセラひとりの薬だけで説明できるものではありません」


 短く、はっきりと。


 その場の空気がぴん、と張り詰めた。医官たちがざわめきかけるのを、皇妃シオンの視線がすぐに押しとどめる。


「続けて」


「はい」


 リツは布袋から、例の布片と小さな瓶を取り出した。


 皇妃の寝所のカーテンから切り取った布。枕元に置かれていた香袋。部屋の間を結んでいた淡い香りの線。


 それぞれを、皇妃の前の小さな卓に並べる。


「これは、殿下のお部屋の布です。ここには、二つの香りが重なっています。ひとつは、キセラが使っていた花街の眠り薬と似た匂い。でも、もうひとつは、もっと前からこの部屋にあった香りです」


 皇妃が、そっと布に触れる。指先から、かすかな緊張の匂いが伝わってくる。


「もうひとつの香りは……?」


「医官さまが処方する薬酒にも、同じ薬草が少しだけ使われています。でも、その量は決まりがあって、浅い眠りを補う程度のはずです」


 リツは小瓶を持ち上げた。


「ここに残っていた液体と、殿下の枕元の香袋、それからキセラの薬を比べると、微妙に配合が違う。キセラがやる前から、誰かが薬草を少しずつ足したり、香袋の中身を入れ替えたりしていた可能性が高いです」


「なっ……」


 コクエンが顔を真っ赤にした。


「そんな馬鹿な! 殿下の薬酒の配合は、余が管理しているのだぞ! 勝手にいじれるものか!」

「だからこそ、です」


 リツはコクエンを見た。


「医官さまの薬酒だけじゃない。香袋や献花、寝具に縫い込まれた香料。殿下の周りには、たくさんの『香りの入口』があります。そこに、少しずつ、ちょっとずつ……」


 指先で宙に線を描く。


「眠りを深くする薬草が混ざっていました。キセラの薬と似ているけれど、砕き方も分量も違う。だから、キセラが動く前から、誰かが殿下の香りに手を加えていたはずです」


 皇妃シオンは、卓の上の布と小瓶を見つめていた。その視線の奥で、何かが崩れかけているのが分かる。


 医官コクエンが再び口を開こうとしたが、その前に皇妃が静かに制した。


「……黙って」


 短く、しかし確かな命令。コクエンは肩をすくめ、一歩下がる。


「娘」


 皇妃シオンが、リツを見上げる。


「あなたの言っていることは、嘘ではないのね」


 リツは少しだけ驚き、すぐに頷いた。


「鼻は、嘘をつけませんから」


 妙な言い回しになったが、事実だ。匂いの層や変化は、ごまかしようがない。


 皇妃の瞳が、かすかに揺れる。まつげの先に、光が滲んでいた。


「キセラは、どうなるの」


 唐突な問いに、リツは一瞬言葉を詰まらせた。


「それは……陛下や上層部の方々が決めることです。ただ、今は隔離されていて、すぐに処罰される状況ではありません」


 横でカゲロウが補うように言う。


 皇妃シオンは、きゅっと唇を結んだ。


「あの子は……」


 堰を切ったように、言葉がこぼれ出る。


「あの子は、わたしがこの後宮に来たばかりの頃、誰よりも優しくしてくれた侍女だったの」


 その声は、震えていた。


「右も左も分からなくて、夜ひとりで泣いていたときに、お茶を持ってきてくれて……。気づかれないように、そっと背中をさすってくれた。身分を忘れて、『よく頑張っていらっしゃいますね』って、笑ってくれたの」


 リツは黙って耳を傾けた。


「だから、わたし、キセラにはつい、たくさん頼ってしまっていたのかもしれない。眠れない夜には『少し話し相手になって』と呼んで、疲れた日は『あの香袋、よかったわ』なんて、何気なく言って……」


 まぶたの端から、透明な涙が一粒、こぼれ落ちた。


「わたしが……あの子を、間違った方向に走らせてしまったのかしら。『役に立ちたい』って気持ちに、気づかないふりをして……」


 その涙の匂いは、清潔な水に、ほんの少しだけ塩を混ぜたようだった。


 リツは、思わず口を開きかけて、言葉を飲み込む。何を言えばいいのか、一瞬分からなくなる。


 代わりに、鼻が先に動いた。


 皇妃の周りの香り。肌に浮かぶ微かな汗。涙の匂い。そこに、あの危険な薬の香りは、今はほとんど残っていない。代わりに、医官の浄化用の薬草の匂いが強くなっていた。


 混ざり方が違う。


 誰かが意図的に自分で薬を調合しているときの香りは、もっと「能動的」な尖り方をする。さっきのキセラの部屋の匂いがそうだった。


 けれど、皇妃の周りに残っていたのは、受け取るだけ、浴びるだけの人の匂い。


 リツは小さく息を吸った。


「皇妃さま」


 静かに、声をかける。


「最近、眠れていますか」


 唐突な質問に、部屋中の視線がリツに集まった。医官たちが「お前は何を聞いているんだ」という顔をする。カゲロウだけは、目を細めて成り行きを見守っていた。


 皇妃シオンは、目を瞬かせる。


「どうして、そんなことを」


「香りが、そう言っているからです」


 リツは皇妃の枕元をちらりと見る。そこに置かれている新しい香袋からは、まだ弱い薬草の匂いしかしていない。


「眠れない日が増えたのは、いつ頃からですか」


 皇妃はしばらく黙っていた。振り返るように天蓋を見上げ、遠い記憶をたぐる。


「……季節が変わる頃からかしら。雨の多い季節に入る前後。夜中に目が覚めてしまうことが増えて、それから、朝まで眠れない日が続いたわ」


 リツの頭の中で、香りの線が重なった。


 あの薬草の混入が始まった時期。医官の出納帳に残されていた、特定の香袋の出入りの変化。侍女たちの配置換えの時期。


 全部が、同じところを指している。


「眠れないとき、誰かが何かを持ってきませんでしたか。新しい香袋とか、温かい飲み物とか」


 皇妃は、はっとしたように目を見開いた。


「……あったわ。侍女たちが、いろいろと工夫してくれていたの。『眠りに効くお茶です』とか、『花街で流行っている香りを薄めてみました』とか。わたしは、その好意が嬉しくて……」


 その先は、言葉にならなかった。


 自分が不調を訴えるたびに、誰かが何かを持ってきてくれた。そこに、誰の、どの薬が混ざっていたのか。皇妃自身は、把握していなかった。


 リツは、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。


「皇妃さまのせいじゃありません」


 それは、自然に出た言葉だった。


「殿下が誰かを頼ったから悪いんじゃない。殿下の周りにいる人たちの『好意』を、誰かが利用したんです。間違った知識を与えた誰かがいて、善意を都合よく使った誰かがいる。それが一番の問題です」


 皇妃の瞳に、再び涙がにじむ。


「でも、わたしがもう少し気をつけていれば……」

「具合が悪いときに、自分で全部確かめろなんて、無茶ですよ」


 リツは首を振った。


「眠れない夜に、差し出された湯飲みを、いちいち『どこから持ってきたの』『誰が調合したの』なんて聞き返す人、そうそういません。殿下は、ただ、信じてたんです」


 自分でも不思議なくらい、言葉はすらすらと出てきた。


 皇妃シオンは、一度眼を閉じ、静かに涙を指先で拭う。


「……あなたの言葉を、信じたいわ」


 その声は、先ほどよりも少しだけ強かった。


「キセラも、ほかの侍女たちも、本当はわたしのために動いていたのだと。そこに、よからぬ意図を混ぜた誰かがいるのだと」


「はい」


 リツは小さく頭を下げる。


「その誰かを見つけるために、わたしは、もっと香りを追います」


   ◇


 皇妃の部屋を辞し、廊下に出ると、リツはどっと疲れが押し寄せてきた。


 膝が笑いそうになるのを、なんとかこらえる。


「よくやったな」


 隣から、カゲロウの声がした。


「あんたに褒められると、なんかむずむずするんだけど」


 リツは顔をそむける。カゲロウは小さく笑っただけで、それ以上何も言わなかった。


 少し歩いたところで、リツは立ち止まる。


「皇妃さまは、本当に何も知らない」


 ぽつりとつぶやく。


「さっきの香りの濁り方は、どう考えても『受け取る側』のものだった。自分で薬を混ぜたり、こっそり香袋を作ってた人の匂いじゃない」


 カゲロウは頷いた。


「俺も、殿下の目を見ていてそう感じた。あの方は、嘘をつくのがうまい人間ではない」


「じゃあ、やっぱり『皇妃を狙った攻撃』っていうより、『皇妃の周り』を利用した計画ね」


 皇妃という大きな存在の周囲に集まる人々。その善意と憧れ、その手足を使って、誰かが少しずつ毒を混ぜる。


 香りの線は、その「誰か」に向かって確かに伸びているのに、あと一歩のところで途切れてしまう。


「その線を、繋げる場所がひとつある」


 カゲロウが言った。


「禁苑だ」


 禁苑。宮廷の奥にある、薬草と珍しい花々を育てる特別区画。皇帝と、ごく限られた者しか立ち入れない場所。


「最近、皇妃さまへの献花に『見慣れない花』が混じるようになったという報告があった。医官も、花の管理役も『知らない』と言っている」


 カゲロウは目を細める。


「だが、その花の匂いが、さっきの布片から微かにした。俺が最初に布を預かったときから気になっていたが、確信までは持てなかった」


「禁苑の花、ね……」


 リツは鼻を鳴らす。


 禁苑で育てられている花や薬草の一部には、幻惑作用や強い眠気を誘う成分を持つものがある。だからこそ、栽培も使用も、厳重に管理されているはずだった。


「禁苑に入れる人なんて、限られてるでしょ。そこから皇妃さまの寝所にまで香りを運べる人は、もっと少ない」


 リツの胸が、少しだけ高鳴る。香りの迷路の向こうに、ようやく出口の光が見えた気がした。


「禁苑の調査は、俺の権限でもそう簡単にはできないが……陛下に直接進言すれば、扉は開く」


 カゲロウの声には、静かな決意がこもっていた。


「おまえは、その前に、もう一つ確認しておけ」


「何を」


 カゲロウは皇妃の寝所の方を振り返る。


「香袋だ。さっき、医官が慌てて中身を入れ替えていた。だが、殿下の枕元にひとつだけ、交換されずに残っているものがあった」


 リツは目を瞬かせる。


「見てたなら教えてよ、そういう大事なこと」


「今、言っている」


 さらりと返され、リツは小さく舌打ちした。


「分かった。もう一度行ってくる」


「行ってこい。俺もすぐに禁苑の許可を取りつける」


   ◇


 皇妃シオンの寝所に戻ると、さきほどよりも人の数は減っていた。医官たちは別室で相談するために去り、侍女たちも最低限の人数だけ残っている。


 リツは侍女頭に一礼し、枕元の香袋に近づいた。


「失礼します。香りの確認をしたいので、少しだけ」


 許しを得て、香袋を両手で包み込む。鼻を近づけ、ゆっくりと息を吸い込んだ。


 柔らかい布を通して、いくつもの香りが重なって届く。


 乾いた葉の匂い。甘い花弁の匂い。ほんのわずかな苦み。


 その一番奥に、微弱な、けれどはっきりと分かる香りがあった。


「……これ」


 リツの背筋に、冷たいものが走る。


 幻惑成分だ。


 心を少しだけぼんやりとさせる。夢と現の境目を曖昧にする。宮廷内でも、儀式や特別な治療以外では栽培も使用も禁止されている花の匂い。


 禁苑の奥の、さらに柵の向こうに、数株だけひっそりと植えられているはずの花。


 その花の香りが、確かにこの香袋の中に紛れている。


「禁苑の花、だ……」


 小さな呟きが漏れる。


 こんなものが、どうして皇妃の枕元に。


 リツは香袋をそっと元の位置に戻し、布団の端を整えた。


「何か分かったの」


 背中から、静かな声がする。振り向けば、皇妃シオンが、起き上がらないままこちらを見ていた。


 リツは一瞬迷い、しかしすぐに口を開いた。


「禁じられている花の香りが、ほんの少しだけ混ざっていました。眠りを深くするかわりに、心を惑わせる成分があります」


 皇妃の瞳が、また揺れた。


「それを、わたしはずっと吸っていたのね」


「量はごくわずかでした。すぐに命に関わるほどではありません。でも、長く続けば、身体にも心にも負担がかかります」


 リツは続ける。


「本来、その花は禁苑の奥でしか栽培が許されていません。誰かがそこから持ち出し、殿下の香袋に紛れ込ませた……そう考えるのが自然です」


 禁苑に侵入できる者は、限られている。皇妃の寝所に香袋を置ける者も、限られている。その二つに共通する人物は、さらに少ない。


 その事実が、冷たい鉛のように、胸の奥に沈んでいく。


「誰かが禁苑に侵入している」


 リツは、誰にともなくつぶやいた。


 その「誰か」は、今日もどこかで、禁じられた花の匂いをまとって歩いている。


 禁苑の奥から、皇妃の枕元まで。香りの線は、もう一度、一筋に繋がろうとしていた。

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