第6話「調薬の夜」
皇妃さまの居住区へ続く回廊を、リツは全力で駆け抜けていた。
磨き上げられた石床に、足の裏がぺたん、ぺたんと響く。いつもなら「廊下を走るな」と眉をひそめてくる侍女たちも、今日は誰もそんなことを言わない。むしろ、すれ違うたびに怯えた視線を向けてくるだけだ。
「ねえ、さっきここを薬袋を持って走ってた侍女を見なかった?」
角を曲がったところで侍女二人を捕まえ、リツは息を切らせながら問いかける。肩で息をしているのに、鼻だけはしっかりと動いている。
「み、見たわ……! あの、花街出のキセラよ。なんだか真っ青な顔して、こっちの棟の方へ……」
「薬袋は?」
「茶色の布袋。手にぎゅっと抱えて……」
そこで、リツの後ろから歩いてきたカゲロウが、侍女たちに一歩近づいた。
「キセラの居室はどこだ」
「え、えっと、この先の侍女部屋の、いちばん奥……!」
侍女たちが慌てて指差す。リツとカゲロウは顔を見合わせる暇もなく、再び走り出した。
廊下の空気が変わる。皇妃さまの居室に近づくにつれ、香油や香袋の上品な匂いが濃くなる。しかし、その奥底には、微かに刺さるような薬草の香りも混じっていた。
(やっぱり、いる……)
鼻の奥が警鐘を鳴らすようにむずむずと反応する。リツはそれを確かめるように、もっと速く走った。
◇
侍女たちの部屋が並ぶ棟の、いちばん奥。
キセラの名が書かれた札が掛かった扉の前で、リツは足を止めた。扉の隙間からは、かすかに乾いた薬草の匂いが漏れている。
「カゲロウ」
「ああ」
二人は視線だけで合図を交わす。カゲロウが扉に伸ばした手を止めることなく、リツは先に鼻を扉板に近づけた。
乾いた薬草。砕かれた根。少し焦げたような匂い。さらに、粗末な香油の残り香と、慌てて走り回った人間の汗が混じっている。
「……中、荒れてるわ」
短く告げると、カゲロウは黙って扉を押し開けた。
中は、予想以上にひどい有様だった。
細長い寝台の前には、布団がぐしゃぐしゃに投げ出されている。床には乾いた薬草があちらこちらに散らばり、小さな木箱がひっくり返っていた。机の上では、小瓶が数本横倒しになり、そのうちのひとつからは薄黄色の液体が垂れた跡が残っている。
リツは一歩踏み込むと、思わず額に手を当てた。
「ああ……」
机の上に開かれた紙束。そこには、拙い字で薬草の名前と分量、効果らしきものが書きなぐられていた。
「『夜よく眠れる薬』『身体をあたためる葉っぱ』『花街で人気だったやつ』……なにこれ」
読み上げながら、リツは深くため息をつく。
「分量が適当すぎる。『ひとつまみ』とか『少し多め』って、何よ。しかも組み合わせが……」
記されている薬草の組み合わせを目で追うたびに、鼻の奥が危険信号を発する。眠気を誘う葉と、血の巡りをよくする根。体を温める皮と、気持ちを落ち着かせる花。
一つ一つは身体を楽にするものでも、分量を誤れば呼吸を浅くし、心臓の動きを乱す。ましてや、花街で使われていたというあやふやな記憶だけを頼りに混ぜれば、事故が起きるのは時間の問題だ。
「あー……完全に事故を起こすタイプのやつだ、これ」
リツは片手で頭を抱え、もう片方の手で紙束をぱたぱたとあおいだ。
その横で、カゲロウは机の上や棚の隅を静かに見て回っている。倒れた小瓶の底を指でなぞり、光に透かしながら、その表情をわずかに曇らせた。
「ここにあるのは、花街で使われる簡易薬が中心だな。疲れを取るもの、体を温めるもの、眠りを深くするもの……。医官の許可なく持ち込んだとすれば、それだけでも処罰ものだ」
「でも、誰かに売るために隠してた匂いじゃない」
リツは散らばった薬草袋を拾い上げる。鼻を近づけると、粗悪な香油と混ぜられた匂いがした。
「この香り……皇妃さまの寝所から採ってきた布と似てる。誰かのために、慌てて作って、そのままここまで運び込んだ感じ」
「皇妃さまのため、か」
カゲロウが小さくつぶやいた、そのときだった。
廊下の向こうから、ばたばたと足音が近づいてくる。
リツとカゲロウは即座に目を合わせた。リツは紙束を机に押し戻し、カゲロウは扉の影に身を滑り込ませる。
足音は扉の前で止まり、乱暴に取っ手が回された。
「はあ、はあ……」
息を切らした細い声とともに、扉が開く。部屋に飛び込んできたのは、まだ十代半ばといった風情の侍女だった。髪を簡素に結い上げたその女の子は、両腕に抱えた小さな布袋を、胸の前でぎゅっと握りしめている。
キセラ。
花街出身、簡単な調薬経験あり。書庫で見た帳面の文字が、リツの頭の中で繋がった。
「……!」
キセラは一歩踏み出したところで、部屋の中に人影があることに気づいた。驚いて目を見開き、そのまま踵を返そうとする。
「逃がすわけないでしょ!」
リツは飛びつくように手を伸ばした。腕が布袋に当たり、ずるりと滑る。けれど、二度目に伸ばした指先が、キセラの手首をしっかりと掴んだ。
「いやっ、離して! お願い、わたし、なにも悪いことなんて──」
叫びながら、キセラは必死に振りほどこうとする。細い手首から伝わる脈が早鐘のように打ち、汗の匂いが一気に濃くなった。
その背中側に、ひそりと影が回り込む。
「暴れるな」
低い声とともに、カゲロウがキセラの肩を押さえ、扉の方を塞ぐ形で立ちはだかった。
逃げ道をふさがれたキセラは、目に涙をためたまま、ぶるぶると震える。
「やめて……! わたし、本当に、皇妃さまのために……!」
布袋を奪われまいと抱きしめながら、絞り出すように声を上げる。その姿は、悪意に満ちた犯人というよりも、怒られた子どもそのものだった。
リツはキセラの手首を掴んだまま、そっと鼻を近づける。
汗と恐怖と、あと少しの後悔の匂い。そこに、嘘をついているとき特有の、乾いた金属のような香りは混じっていない。
(この「皇妃さまのため」は、本物だ)
それだけは、すぐに分かった。
「落ち着きなさい、キセラ」
リツは少し声を落とす。キセラの耳元で、できるだけ柔らかい調子で話しかける。
「ここまでのことを知ってて見逃せって言うつもりはないけど、何も聞かないうちに怒鳴ったりはしないから。まずは、話して」
キセラの肩が、びくびくと震えながらも、少しだけ力を抜いた。
カゲロウが押さえていた手を、ほんの少し緩める。その視線は鋭いままだが、今にも剣を抜きそうな気配はない。
「……本当に、話を、聞いてくれる?」
「聞くわよ。その代わり、全部ね」
リツはキセラの手首を離し、代わりに布袋を指差した。
「まず、それ。何が入ってるの」
「こ、これ、は……」
キセラはおそるおそる布袋の口を開く。中からこぼれ落ちたのは、粗く砕かれた葉っぱや根、乾燥させた花びらの混じった粉末だった。
部屋に、甘くて少し湿った香りが広がる。
リツの鼻が、ぴくりと動いた。
「花街で使う眠り薬、ね。それに血の巡りを良くするやつを混ぜて……ちょっと待って、これ、温める皮まで入れてるじゃない」
紙で包まれた中身を、指先で少しつまんで鼻に近づける。香りの層の多さと、不安定な混ざり方が、嫌でも伝わってきた。
「眠りを深くする薬と、血を巡らせる薬を一緒に飲ませたら、心臓がびっくりするわよ。体を温める皮まで足したら、余計に」
「で、でも、花街のお店では、それでみんな、ぐっすり眠れて……!」
キセラが必死に言い返す。頬を涙で濡らしながら、リツとカゲロウを交互に見上げた。
「皇妃さま、最近いつも、お疲れの顔をしてらしたから……。夜も眠れていないって、侍女部屋で噂になってて。だから、その……少しでも楽になればって……」
震える声には、嘘の響きはなかった。ただ、無知ゆえの危うさと、届かない憧れが混ざっていた。
「だからって、勝手に薬を混ぜて飲ませようとしたわけ?」
リツは、冷たくなりすぎないように言葉を選びながら、問いを重ねる。
「誰かに頼まれたの? それとも、誰かにやり方を教えてもらった?」
「ちがう……! 全部、わたしが勝手に。皇妃さまに、喜んでもらいたかったから……」
キセラは首を左右に振る。そのたびに、涙が頬から飛び散る。
「だって、皇妃さまはわたしたちみたいな下の侍女にも、ちゃんと目を合わせて『ありがとう』って言ってくださるの。そんな方、他にいないから……。花街からここに来て、最初は何も分からなかったわたしに、言葉をかけてくださったのも皇妃さまだけで……」
言葉と一緒に、胸の奥で堰き止めていたものが溢れ出す。
「だから、わたし、役に立ちたくて……! 花街で覚えた薬なら、少しくらいは……って。でも、医官さまに相談したら怒られるだろうし、『余計なことはするな』って言われるだろうし……だから、せめて、少しだけ……」
キセラの鼻から出る息に、恐怖と後悔と、それでも消えない憧れの匂いが混じっているのが分かる。
リツは、無意識のうちに口を閉じた。つい責める言葉を投げかけそうになる舌を、ぐっと噛み締める。
カゲロウが黙って話を聞いていたが、やがて低く口を開いた。
「皇妃さまに薬を渡したことはあるのか」
「そ、それは……」
キセラの視線が泳ぐ。リツの鼻が、ぴくりと動いた。
「……一度、だけ。皇妃さまがお休みになる前に、お茶に混ぜて出したことが、あります。『夜、少し楽になりますよ』って……。でも、その日は……たしかに、いつもより、息が浅かった気がして……」
恐怖が一気に濃くなる。キセラの指先が、布袋を握る力を失いかけていた。
「侍女が倒れた朝は?」
カゲロウの問いに、キセラはひっ、と喉を鳴らした。
「わ、わたし、その前の晩、皇妃さまの枕元に香袋を置きに行ったの……。調合した薬草を、少しだけ、香袋に混ぜて。そしたら、侍女長さまに見つかりそうになって、慌てて逃げて……。次の朝、その侍女さんが倒れたって聞いて……」
言葉の最後はほとんどかすれていた。恐怖と罪悪感が、キセラの身体中から立ち上っている。
リツは息を吸い込み、鼻の奥で香りを確かめる。
嘘の匂いはない。少なくとも、今話していることに関しては、本音だ。
「……誰かに『こうしたらいい』って、教えられなかった?」
リツは少しだけ問い方を変える。
「『この薬草を、このくらい混ぜるといい』とか、『この香袋ならばれない』とか。そういうことを言ってきた人は?」
「そんな、はっきりとは……」
キセラは目を閉じて、記憶を掘り返すように眉を寄せた。
「ただ、前に……洗濯場で、誰かが話してるのを聞いちゃって。『皇妃さまは夜、眠れないらしい』とか、『医官さまたちもあまり役に立ってない』とか。『花街の薬なら、すぐ眠れるのに』って……」
「誰が言ってたの」
「それが、その、はっきり覚えてなくて……。ただ、声だけ……」
キセラの言葉はそこで途切れた。リツは、内心で舌打ちしたくなる衝動を押さえ込む。
(声だけ、ね。でも、その声が「きっかけ」だったのは確か)
医官の権威をさりげなく下げ、花街の薬を持ち上げるような囁き。それを偶然聞いたキセラのような子が、勝手に動き始めるように仕向ける。
一人で全部を計画したにしては、手が込みすぎている。
「カゲロウ」
リツは小声で侍従の名を呼んだ。カゲロウも同じことを考えていたのか、わずかに頷く。
「キセラ」
今度はカゲロウがキセラの前にしゃがみ込み、目線を合わせる。
「おまえがしたことは、決して軽いものではない。皇妃さまの容体悪化も、侍女が倒れた件も、おそらくおまえの薬が一因だ」
「……はい」
キセラの肩が大きく揺れる。嗚咽が喉元まで込み上げてきているのが、匂いでも分かった。
「だが、おまえの『皇妃さまに役に立ちたい』という気持ちが、本物だということも分かった」
思わぬ言葉に、キセラが顔を上げる。その目は涙でぐしゃぐしゃだが、そこに映るカゲロウの顔は、いつもの無表情とは少し違っていた。
「だからといって、罪が消えるわけではないけれどな」
カゲロウは淡々と続ける。
「上に報告すれば、『薬を使った侍女の暴走』で片付けようとする者もいるだろう」
「ちょっと待って」
そこまで聞いて、リツが思わず割り込んだ。
「『片付けようとする』って、あんたはそうする気なの?」
「規則どおりに考えれば、キセラを拘束し、上層部に引き渡すのが筋だ」
カゲロウは一切の感情を込めない声で言う。侍従、そして密偵としての顔だ。
「そうすれば、宮廷は一時的に安心する。『花街上がりの侍女が、皇妃さまに危険な薬を使おうとした』。そういう話で終わらせられる」
「それで、真犯人は高みの見物ね」
リツはきっぱりと言い返した。
「キセラの薬は確かに危ない。でも、あの調整の量と、香りの変化の仕方は、一人分の手つきじゃない。皇妃さまの周りの香りは、もっと前から少しずつ変わってた」
布袋の中身を机に少しだけ出し、指先で砕け具合を確かめる。粗く砕かれた部分と、やけに細かく粉状になっている部分が、はっきりと分かれていた。
「見て。こっちはキセラが慌てて砕いた跡。大きさもバラバラだし、匂いの混ざり方も雑。でも、こっちの粉は、同じくらいの大きさで、すり鉢か何かで丁寧に砕いてある。匂いの層が、ちゃんと重なってる」
リツの言葉に、カゲロウも粉を指ですくい取り、じっと見つめた。
「……確かに。ここまで均一に砕くには、それなりの経験と道具がいるな」
「キセラ、ここにある粉、全部、自分で砕いた?」
リツが問いかけると、キセラは目を丸くした。
「い、いえ……そんなにたくさんは。花街の店で見てたのを思い出して、適当に……。でも、すり鉢なんて持ってないから、石と板で……」
「じゃあ、この細かいの、誰の?」
キセラは首を振るばかりだ。恐怖の匂いの中に、困惑の匂いが濃く混じる。
「わたし、本当に、わからない……。誰かが部屋に入ったところなんて、見たことないし……」
リツは机を見渡す。棚の隅、床の傷、扉の取っ手。そこに残っている微かな香りを、一つずつ拾い集めていく。
そこには、医官の着る衣の匂いも、文官の墨の匂いもない。代わりに、別のものがかすかに混じっていた。
「……香油」
囁きが、無意識のうちに漏れる。
洗練された香油の匂い。後宮で高位の女官や側室が身につけるような、華やかで、それでいて鼻につかない香りが、粉の上にほんの薄く乗っていた。
「キセラ」
リツは侍女を振り返る。
「最近、誰かがここに来た? 例えば、あんたより身分の高い侍女とか、女官とか」
「……あ」
キセラの表情がこわばる。思い出した記憶を言葉にすることを、どこかでためらっているようだ。
「誰」
カゲロウの声が、少しだけ鋭くなる。その圧に耐えきれず、キセラはぽつりと口を開いた。
「この前、侍女長さまが……様子を見に来たことが、あります。『最近、仕事に慣れてきたか』って。でも、そのときは、薬の話なんて……」
侍女長。
皇妃さまの身の回りを取り仕切り、侍女の人事も任されている女。皇妃さまの寝所に出入りする回数も多く、香袋や薬の管理にも口を出せる立場だ。
リツは、香油の匂いを鼻の奥で確かめる。皇妃さまの側でいつも漂っていた匂いと、限りなく近い。
(あの線は、もっと前から続いてる。キセラの善意の薬は、その上に乗っかっただけ)
喉の奥が、ひやりと冷える。
「カゲロウ。キセラを上に渡したら、多分、そこで話は終わる。『花街出の侍女が勝手に薬を作って皇妃さまに飲ませた』。それだけ」
リツはきっぱりと言った。
「そうなったら、今まで少しずつ香りを変えてた『別の手』は、全部なかったことになる」
カゲロウは黙り込んだ。侍従としての義務と、密偵としての役目が、そこでもぶつかっているのが分かる。
やがて、長い沈黙のあとで、彼は小さく息を吐いた。
「……分かった」
短い言葉だったが、それは大きな決断でもあった。
「キセラは俺から陛下に報告する。『未熟な調薬により皇妃さまの容体に悪影響を与えた可能性がある』とな」
「それって、つまり……」
「正式な裁きは待たれるだろうが、その間、厳重に隔離される。直接皇妃さまに近づくことはできなくなるが、命を奪われることもない。『真犯人を炙り出すために利用価値がある』と判断された、という形でな」
言いながら、カゲロウの目が細くなる。その奥には、冷静な計算と、かすかな怒りが混じっている。
「宮廷の連中が、簡単に『侍女の暴走』で全てを終わらせないように、陛下に直に釘を刺す。……多少、仕事は増えるだろうが」
「最初から増える前提の顔してたくせに」
リツが呆れ混じりにつぶやくと、カゲロウの口元にかすかな笑みが戻った。
「おまえが掴んだ『別の手』の線は、俺が皇帝側から追う。おまえは、おまえの鼻で後宮の中を洗ってくれ」
「命令口調ね」
そう言いながら、リツの心の中には、少しだけ安堵が広がっていた。キセラの命が、今すぐ理不尽に奪われることはなさそうだということ。そして、自分の嗅いだものが無駄にはならないということ。
リツはキセラの前にしゃがみ込み、自分の目線を相手の高さに合わせた。
「キセラ」
名前を呼ぶと、キセラはびくっと肩を震わせる。
「あんたの気持ちは、分からなくもないわ。皇妃さまみたいな人に、認めてほしいって思うのは、普通のことよ」
リツ自身、下働きとして扱われてきたからこそ、その気持ちは痛いほど理解できた。
「でもね。薬は、正しく使わなきゃ毒になる。さっきあんたが持ってた薬は、皇妃さまを楽にするどころか、命を削りかねない」
キセラの瞳に、また涙が滲む。それを見ながら、リツは言葉を続けた。
「それに、あんたひとりの問題だけじゃない。あんたを利用しようとした誰かがいる。その人は、あんたみたいな子が勝手に動くのを、きっと最初から期待してた」
「……わたし……」
キセラの肩が小さく縮こまる。
「だから、これからは喋って。自分のしたことも、覚えていることも、全部。怖いかもしれないけど、その方が、きっと皇妃さまのためになる」
キセラはしばらく黙っていた。涙をこらえる匂いが、部屋の中にじんわりと広がる。
やがて、彼女は小さくうなずいた。
「……はい」
その一言は、震えていたが、ちゃんと前を向いていた。
◇
キセラはその日のうちに、他の侍女たちとは別の小部屋に移され、見張り付きで隔離されることになった。
リツは部屋を出る直前、机の上に置かれたままの薬草袋に、もう一度鼻を近づけた。
粗く砕かれた葉の匂い。その下に、すり鉢で丹念に砕かれた粉の、きめ細かい香り。そして、そのごく薄い上に、更に重ねられた香油の膜。
「……やっぱり、キセラだけの匂いじゃない」
小さくつぶやく。
キセラの手が触れた部分には、慣れない調薬のぎこちなさがあった。けれど、その下にある層は、もっと前から、もっと慎重に作業をしていた者の匂いだ。
皇妃さまの枕元で、少しずつ、香りを変えていった誰か。
キセラの未熟な薬は、その上に乗せられた最後の一押しにすぎない。
「リツ」
背中側からカゲロウの声がした。振り向くと、彼はいつものように少し離れた場所に立ち、部屋全体を見回している。
「キセラの件は、ひとまず俺に任せろ」
「分かってる。でも……」
リツは薬草袋を持ち上げ、指先で粉をはたきながら言った。
「キセラの薬は確かに危険だった。でも、あの香りの線は、もっと前から続いてる。あんたの言う『真犯人』は、まだ別にいる」
カゲロウは静かに頷いた。
「ああ。真犯人は、まだ近くにいる。皇妃さまのすぐ傍に、な」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ冷たくなった気がした。
外の廊下からは、いつもの後宮のざわめきが聞こえてくる。誰かの笑い声と、誰かの噂話と、誰かのため息。
そのどこかに、香りを少しずつ変える手を持った誰かが紛れている。
リツは薬草袋をそっと机に戻し、深く息を吸い込んだ。
甘く、重く、そしてどこか鋭い夜の香り。
「調薬の夜は、まだ終わってないってわけね」
誰に聞かせるでもなく呟いた言葉は、すぐに薬草の匂いに溶けていった。




