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宮廷薬草師リツの調書録  作者: 妙原奇天


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第4話 小さき毒見役の推理

 皇妃シオンの体調が持ち直した、という噂が後宮に流れたのは、それから数日後のことだった。


 倒れた直後こそ「もしものこと」を口にする侍女たちもいたが、意識を取り戻してからは、皇妃は静かに食事を摂り、短い会話もできるようになったという。もちろん、公には「過労による一時的な不調」と発表されている。


 宮廷という場所は、よくも悪くも“忘れる”のが早い。


 人々の関心は、また日々の雑事と噂話に戻りつつあった。


 そんな中で、二度目の「倒れる」が起きた。


 後宮の食堂の片隅で、侍女がひとり、音もなく崩れ落ちたのである。



「……また、ですか」


 その報告を聞いたとき、リツは薬草庫で干した葉をひっくり返しているところだった。


 使いの侍女が青ざめた顔で駆け込んできて、「コクエンさまがお呼びです」と息を切らしながら告げる。


「倒れたのは誰?」


「第三班の侍女、ミヨさまです。持病があるって話も聞きましたけど……さっきまで普通に笑ってたのに、急に顔色が悪くなって」


「症状は? 皇妃さまの時と、似てる?」


「わ、分かりません。でも、呼吸が浅くて、脈が速いって……」


 そこで言葉を切る。リツは小さく息を吐き、干し台を後輩に預けた。


「分かった。すぐ行く」


 足を食堂へと向ける。


 皇妃が倒れたときと同じだ。体調が一時的に持ち直したと思ったら、今度は別の誰かが倒れる。偶然と言うには、少々できすぎている。


(それとも、偶然で片付けたい誰かがいる、ってことかな)


 そんなことを考えながら、食堂の入口に辿り着く。そこには、すでに慌ただしい空気が渦巻いていた。


 床に敷かれた布の上に侍女がひとり横たわり、数人の侍女が顔色をうかがっている。コクエンが脈を取り、別の医官が瞳孔を確認していた。


「到着しました、コクエンさま」


 リツが声をかけると、コクエンは一瞬だけ顔を上げ、すぐに侍女に視線を戻した。


「リツ、来たか。おまえには現場の“匂い”を見てもらう。さっきの皇妃さまの件もある。慎重にだ」


「了解です」


 床に横になっている侍女――ミヨは、まだ若い少女だった。頬は青白く、額にはうっすらと汗が滲んでいる。呼吸は浅く、間隔も不規則だ。


 リツは膝をつき、その顔にそっと近づいた。


 口元。爪の色。汗の匂い。


 ひとつひとつ、鼻で確かめていく。


(脈が跳ねている感じ……呼吸が浅いのは、皇妃さまの時と同じ。汗の匂いも、どこか似てる)


 ただし、決定的に違うところもあった。


「症状は軽いですね」


 小声で呟くと、近くにいた医官のひとりがぎょっとした顔をした。


「軽い、だと?」


「皇妃さまの時より、脈の乱れ方が少ないし、唇の色もまだ戻りそうです。毒……いえ、薬草の量が少ないか、他に混ざっていたものがないか。どちらか、あるいは両方だと思います」


「おまえ、ここまで嗅ぎ分けるのか……」


 感心とも呆れともつかない声が漏れる。リツはそれを無視して、周囲を見渡した。


 侍女が倒れた場所のすぐそばには、座卓が並び、その上には食べかけの器がいくつか残っている。


 粥の椀。野菜の煮物。香辛料の効いた肉料理。漬物。


「食事中に倒れたんですか?」


「ええ。片付けが終わる前に急に……」


 近くにいた侍女のひとりが答える。リツは頷き、器の並びに目を凝らした。


 本来なら、香りの強い肉料理の器に、一番匂いが残っているはずだ。ところが――。


(粥の方が、香りが濃い)


 薄味の粥から、かすかに薬草の匂いが上がっている。清香草と、火袋の残り香。あの布片と同じ系統だ。


 一方で、肉料理の器には、肉と香辛料の匂いしか残っていない。薬草の影がほとんどない。


 皿の底に指を這わせ、器の縁をそっと嗅ぐ。香りの残り方が不自然だった。


「皿の並びと、配膳の順番が変ですね」


 リツはぽつりと言った。


「本来なら、香りの強い料理の方に匂いが残るはずなのに、粥の方にだけ薬草が強く残ってる。後から何かを入れたか、途中で器を取り替えたか」


「そんなこと、誰が……」


 侍女たちの間に不安のざわめきが走る。


 リツは彼女たちを見渡し、それ以上動揺させないよう、わざと明るめの声を出した。


「とりあえず、ここは医官のみなさんに任せましょう。私は、匂いの線を追ってみます」


 そう言って立ち上がると、床に残る足跡と、空気に残ったわずかな香りを辿り始めた。



 皇妃の部屋。倒れた侍女の部屋。食堂。そして、その間を繋ぐ通路。


 リツは鼻と記憶を頼りに、順番に歩いていく。


 皇妃の部屋には、いまだに高級な香油と香炉の匂いが漂っていた。だがその奥に、例の薬草の残り香が微かに残っている。


 侍女の部屋は質素だ。干した布と粗末な石鹸の匂いが混ざっている。だが枕の辺りだけ、ほのかに薬草の気配が濃い。


 食堂への廊下。途中までの空気は澄んでいるのに、ある角を曲がったあたりから、薬草の匂いが強くなる。


(線になってる)


 皇妃から侍女へ。侍女から食堂へ。


 微量毒の匂いが、後宮の中で細い線を描いている。


 だが、その線には一貫した“殺意”の匂いは感じられなかった。どちらかというと――。


(……実験してるみたいな匂い)


 皇妃の枕元にあった布片は、明らかに濃すぎた。倒れた侍女の粥に残っていた匂いは、それより薄い。


 まるで、少しずつ分量を変えながら、どこまでなら「効く」のかを試しているような。


「効果の強さを確かめるために、少しずつ変えている……?」


 そう呟いたとき、廊下の向こうから足音が近づいてきた。


「なるほどな。おまえの鼻は、目に見えない線を引くのが得意だな」


 壁の陰から姿を現したのは、カゲロウだった。


 相変わらず侍従服を身にまとい、気配を限界まで薄くしている。さっきまでまったく気づかなかった。


「また陰でこそこそ見てたの?」


「仕事柄、陰にいることが多いのでな」


 さらりと返される。リツは眉を吊り上げた。


「そういう言い方すると、余計に怪しいんだけど」


「怪しいかどうかを決めるのは、おまえの鼻か?」


「そうだよ。鼻は正直だからね」


 ふたりで廊下に並んで立ち、ほんの一瞬、同じ方向に視線を向ける。


 食堂へと続く廊下の先。そこに縫い留められたように残る、微かな薬草の香り。


「で? おまえの鼻は、何と言っている」


 カゲロウが興味深そうに問う。リツは腕を組み、言葉を選びながら答えた。


「これはね……毒じゃなくて、薬の匂いだよ」


「ふむ」


「もちろん、結果としては毒みたいに働いてる。でも、多分本人は“薬を試してる”つもりなんだと思う」


「どういう意味だ」


「優れた薬を作って皇妃さまに献上したいとか、宮廷内で自分の立場を上げたいとか。そんな浅はかな野望を持った誰かが、『体に良いはずのものだから』って、自分の調合を周りにこっそり飲ませてる」


 リツは指先で空中に線を描いた。


「皇妃さまには濃すぎる薬。侍女には少し薄めた薬。まだどこかで、別の誰かにも試してるかもしれない」


「なるほど。つまり、おまえは“犯人は殺意が薄い”と言いたいのか」


「今のところは、ね」


 リツは小さく肩をすくめた。


「少なくとも、最初から誰かを確実に殺すつもりで動いてる匂いじゃない。もっとふわふわしてる。『効いたらいいな』『喜ばれたらいいな』っていう、甘い想像の匂い」


「だが、現に皇妃さまは倒れ、侍女も倒れた」


「そう。それが問題」


 カゲロウは腕を組み、天井を見上げた。


「……殺意が薄い者ほど、途中で歯止めが効かなくなる」


「え?」


「自分の行為を“善意”だと信じているからだ」


 淡々とした口調だった。


「最初は誰かのために、と言う。次には、自分のためにと願う。そのうち、自分の願いが叶うなら、多少の犠牲は仕方がないと考え始める」


 リツの胸が、きゅっと縮んだ。


「今、おまえが追っているのは、『悪人』というより、『暴走しつつある善意』かもしれない」


「……厄介だな、それ」


「だからこそ、厄介な駒であるおまえに期待している」


「勝手に駒扱いしないで」


 ぷいと顔をそむけながらも、リツは自分の中に生まれた小さな不安を否定できなかった。


 皇妃を想い、後宮に入ってきた花街出身の侍女たち。彼女たちの口から何度も聞いた「皇妃さまのために、何かしてあげたい」という言葉。


 その善意の延長線上に、危険な薬草の配合があるとしたら。


「……私も、似たようなことしてるのかもね」


「何の話だ」


「鼻が利くからって、勝手に嗅ぎ回って、首を突っ込んで。自分の正しさを信じてるところは、あいつと変わらないのかも」


「違いを挙げるなら、自分で自分を疑えるかどうか、だろうな」


 カゲロウはちらりとリツを見る。


「おまえは今、自分の行いが正しいのかどうか迷った。それだけで、少なくとも“暴走しつつある善意”ではない」


「……慰め?」


「事実だ」


 あっさりと言い切られ、リツは肩の力を抜いた。


「とにかく。今は、線をはっきりさせることが先だよね」


「そうだな」


 そうしてふたりは、再び匂いの線を追い始めた。



 ミヨの部屋は、後宮の端にあった。


 小さな寝台と引き出し、質素な屏風が置かれているだけの狭い空間。窓から差し込む光が、薄い埃を浮かび上がらせていた。


「侍女ミヨの部屋は、しばらく誰も触るな」


 カゲロウが侍女たちにそう告げると、みな不安げに頷き、廊下に下がる。


 リツは部屋に足を踏み入れ、まず空気を吸い込んだ。


「……布と石鹸と、少しだけ薬草。皇妃さまの部屋ほどじゃないけど、ここにも匂いがある」


 棚の上には、小さな香袋がいくつか置かれていた。花街で売っているような安価なものと、宮廷で支給されるものが混ざっている。


 リツはひとつひとつ鼻を近づけ、香りを確かめた。


「これはただの防虫袋。これは安眠用のハーブ……こっちは、洗濯物に吊るす香り袋」


 どれも危険なものではない。問題は――。


「枕元、ですね」


 カゲロウが先にそこに目を向けていた。


 寝台の上。薄い布団と枕。その周囲だけ、微妙に空気が違う。


 リツは枕をそっと持ち上げ、その下と隙間を丹念に探った。


 やがて、布団の端に指が何か硬いものを触れた。


「……あった」


 布の縫い目の間に、小さな小瓶が挟まれていた。親指ほどの大きさで、中身はほとんど空になっている。


 瓶の底には、ほんのわずかな沈殿が残っていた。リツは慎重に栓を抜き、鼻先に近づける。


 瞬間、胸の奥がひゅっと冷えた。


「これ……」


 皇妃の枕元にあった布片と、同じ匂い。


 清香草。紅根。火袋の種。あの雑多な甘さと、微かな酒精の匂い。


 紛れもなく、同じ系統の「薬」だった。


「これで、線が繋がった」


 リツは小さくつぶやいた。


 皇妃の枕。花街の薬屋。商家の手代。花街出身の侍女たち。そして、この小瓶。


 ばらばらだった点が、一気につながっていく感覚。


 そのときだった。


「――それ以上、勝手な真似は許されない」


 背後から冷たい声が飛んだ。


 振り返ると、扉のところにコクエンが立っていた。いつの間に来たのか、顔は険しく、視線は小瓶に釘付けになっている。


「コクエンさま」


「リツ。おまえがどこまで首を突っ込んでいるかは、なんとなく察していたが……これは明らかに度を越えている」


 コクエンは部屋に歩み入り、手を差し出した。


「その小瓶を渡せ。証拠物は医官の管理下に置くべきだ」


「ちょっと待ってください。これは私が嗅いで、線を――」


「嗅ぐなと言っているわけではない。だが、おまえが持っていていい物ではない」


 コクエンの声音は厳しかった。だが、その奥にあるのは怒りだけではない。焦りと、そしてどこか怯えにも似たもの。


「……隠そうとしてるんですか?」


 思わず口をついて出た言葉に、コクエンの眉がぴくりと動いた。


「そうではない。ただ、扱いを誤れば、誰が疑われると思っている」


「私、ですか?」


「そうだ。皇妃さまの部屋から怪しい布を持ち出し、花街と宮廷を行き来している下働き。そこにこの小瓶が加われば、いくらでも話を作れる連中がいる」


 図星だった。リツは唇を噛む。


「それでも、ここで手放したくはない」


 小さな声で言う。


「今まで繋いできた線が、全部どこかに持っていかれちゃいそうで」


「疑いすぎだ。私は医官だ。皇妃さまの命を守る側の人間だぞ」


「それでも、コクエンさまが全部正しいとは限らない」


 言い返した瞬間、空気がぴんと張り詰めた。


 コクエンの目が細くなる。


「リツ」


 名前を呼ぶ声には、怒気だけでなく、失望の色も混じっているように聞こえた。


 リツはそれ以上、何も言えなくなってしまう。


 そのとき。


「――証拠の扱いについて、ひとつ提案がある」


 ふたりの間に、すっと影が差し込んだ。


 カゲロウだった。


 いつの間にか、彼は部屋の入り口から数歩のところに立っていた。気配を殺していたため、リツもコクエンも気づいていなかった。


「カゲロウ殿か」


 コクエンが眉をひそめる。


「侍従が医官の領分に口出しをするつもりか?」


「領分を侵すつもりはない。ただ、後宮の秩序を守るのも、私の仕事だ」


 カゲロウは落ち着いた声で言った。


「この小瓶は、確かに重要な証拠だ。医官が診断に用いるべきでもあり、後宮の安全管理の観点からも保全されねばならない」


 そう言いながら、リツの手元とコクエンの手の間に、さりげなく自身の手を差し入れる。


「だからこそ、ここは私が預かろう」


「は?」


「は?」


 リツとコクエンの声がきれいに重なった。


 カゲロウは小さな苦笑を浮かべ、言葉を続ける。


「医官の診断に必要なときは、もちろん貸し出す。その際は私が立ち会う。リツの“鼻”を使いたいときも同じだ」


 そして、リツを一瞬だけ見る。


「これなら、証拠がどこかに消えることもないし、誰かひとりに責任が押しつけられることもない」


「……自分を一番信用してるってこと?」


 リツが呆れ半分で言うと、カゲロウは肩をすくめた。


「侍従というのは、そういう役目だ」


 コクエンはしばらく黙っていたが、やがて重い息を吐いた。


「……おまえたち二人に組まれると、どうにも分が悪いな」


「組んでるつもりはないけど」


 リツが即座に否定すると、コクエンはかすかに笑った。


「好きにしろ。ただし、リツ」


「はい」


「おまえはこれ以上、勝手に動き回るな。今度こそ、本当に首が飛ぶぞ」


 忠告とも警告ともつかない言葉を残し、コクエンは部屋を出て行った。


 残されたリツとカゲロウ。小瓶は、いつのまにかカゲロウの手の中に収まっている。


「……器用だね、あんた」


「仕事柄、手先も器用でないとな」


 カゲロウは小瓶を懐にしまいながら、リツを見た。


「線は繋がった。あとは、その線の先にいる者の顔を、どうやって炙り出すかだ」


「炙り出すって、簡単に言うけど」


「おまえの鼻と、俺の目と耳があれば、できない話ではない」


 リツはふっと笑った。


「さっき『厄介な駒』って言ってた人にしては、頼りにしてくれてるんだね」


「厄介だからこそ、使い道もある」


「やっぱり道具扱いじゃん!」


 抗議の声を上げながらも、リツの胸の中には、不思議な高揚感が灯っていた。


 皇妃の枕元から始まった匂いの線は、今や後宮全体を走り、花街や商家、侍女たちの善意と欲望を絡め取りながら、少しずつ輪郭を明らかにしつつある。


 その先にいるのが、本当に「悪人」なのか。それとも、善意の仮面をかぶった誰かなのか。


 まだ分からない。


 ただひとつ分かっているのは――。


「小さき毒見役の出番は、まだまだこれからってことか」


 リツは自分の鼻先を軽くつまみながら、そう呟いた。


 誰も気づかない匂いの線を辿れるのは、後宮広しといえども、彼女ひとりだけなのだから。

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