第2話 侍従カゲロウとの出会い
宮廷薬草庫の朝は、静かで、そして忙しい。
皇妃シオンが倒れた翌日。後宮全体に薄い緊張が張りつめる中で、薬草庫の奥では、リツがひとり机に向かっていた。
細長い乳鉢。擦り減った乳棒。安物の簡易試薬を入れた小瓶が、いくつも並んでいる。
その真ん中で、あの布片が無残な姿になっていた。
「……さて、と。あんまりこういうの、堂々とやる仕事じゃないんだけどね」
リツは、布片に縫い込まれていた乾いた薬草を、乳鉢の中でゆっくりとすり潰していく。粉になっていくにつれて、匂いが一段と立ち上ってきた。
鼻先を近づける。瞬間、視界がかすかに澄んだ。
「やっぱり、疲労回復系が主成分……高山で採れる清香草に、血の巡りを良くする紅根、それから……体を温める火袋の種。順当に行けば、夜の冷え対策には悪くない組み合わせ」
そこまでは、教本にも載っているような無難な配合だ。だが、リツの眉はすぐに寄る。
「問題は、量と……混ぜ方、かな」
火袋の種の匂いが、他より強すぎる。清香草の爽やかさと、紅根の鉄っぽい香り。その奥に、じわりと重たい熱の気配が潜んでいる。
簡易試薬を数滴垂らす。乳鉢の中で粉が淡い紫色に変わり、ゆっくりと黒ずんでいった。
「……やっぱり。血行を良くするどころか、心臓に負担をかける濃度になってる。素人が『よく効け』って気持ちだけで倍量にした、って感じ」
ため息が漏れた。
「誰かが皇妃さまのためを思って作ったんだろうけど……知識のない善意ほど危険なものはないよね」
もし皇妃が疲れていても、もし本当に冷えが厄介でも。この布片の粉を長く吸い続ければ、体は少しずつ悲鳴を上げる。倒れたのは、偶然ではない。
そこまで考えたところで、薬草庫の扉が乱暴に開いた。
「おい、リツ。昨日の診察記録は――って、何をしている」
現れたのは、医官コクエンだった。寝不足なのか、目の下に薄い隈を作っている。
リツは肩をびくりと震わせ、慌てて乳鉢を背中に隠した。
「い、いや、その、乾いた薬草の状態を確認してまして!」
「その色の試薬を使う検査を、私は指示していないが」
逃げ道が一瞬で塞がれた。コクエンはため息をつきながら歩み寄ると、リツの手から乳鉢を取り上げ、中身を覗き込んだ。
「……これは、皇妃さまの枕元にあった布のかけらだな?」
「……はい。勝手に持ち出したのは、その……怒られるって分かってましたけど」
素直に認めると、コクエンの眉間の皺が深くなる。
「勝手に皇妃の部屋の物を持ち出すとは、どういう了見だ。首が飛ぶかもしれん行為だと、分かっているのか」
「分かってます。でも、あのまま放っておく方がまずいと思って。その……これは薬と言えない代物です」
リツは短く息を吸い、見てきたものと調べたことを簡潔に説明した。
主成分が疲労回復に効く薬草であること。だが量と組み合わせが危険な域に達していること。長時間吸えば心臓に負担をかける可能性が高いこと。
「皇妃さまの症状と、匂いの残り方を考えると、これが原因の一つになっていてもおかしくないと、私は思います」
コクエンは黙って聞いていたが、やがて腕を組み、重々しく口を開いた。
「……理屈としては筋が通っている。だが、確証がない」
「でも――」
「皇妃さまに『素人の粗末な薬』が使われていたなど、軽々しく口にできん。誰が聞いているか分からん噂ほど、国を揺るがすものはない」
冷静な医官としての顔だった。リツは唇を噛みしめる。
「しばらくは様子を見る。皇妃さまは一応、意識を取り戻されたそうだ。ただ、原因が何であれ、今は静養が第一だ」
「……はい」
突き放されたような、けれど完全に否定されたわけでもない。微妙な返答だった。
コクエンは乳鉢を机に戻し、リツをじろりと睨む。
「おまえは余計なことを言いふらすな。薬草庫の仕事だけしていればいい」
「それじゃ、また同じことが起きるかもしれないじゃないですか」
「だからこそ、慎重に動かねばならんのだ」
コクエンはそれだけ言うと、診察記録の束を掴んで足早に去っていった。
残されたリツは、乳鉢と布片の残骸を見つめ、肩を落とす。
「……慎重って言ってるうちに、手遅れになることだってあるのに」
納得はできなかった。だからといって、医官の命令を無視して勝手に動けば、本当に首が飛ぶ。
それでも。
「……調べられる範囲で、調べるしかないか」
布片に染み込んでいた匂いの記憶を、頭の中で逆さにたどっていく。
清香草、紅根、火袋の種。それから――あの、鼻の奥をやけに刺激する、雑多な香り。
「……花街の、安物の体力薬。あれに似てる」
昔の記憶が、鼻先に蘇った。賑やかな笑い声。安っぽい香水。酒場の熱気。その中に混じる、よく働くための安い薬の匂い。
花街育ちである自分だけが知っている匂いだ。宮廷育ちの医官たちには、きっと分からない。
「宮廷の中で、花街の薬を手に入れられる人間……」
リツは机に肘をつき、顎を指で押さえた。
「花街と行き来のある商家か、搬入に関わっている人たちか……供給路を探せば、誰が布片を仕込んだかに近づけるかも」
その考えがまとまらないうちに、薬草庫の入口から声が飛んだ。
「リツ。書庫まで薬草の届けだ」
若い医官見習いが顔を覗かせ、籠を指差す。中には香りの強い薬草の束が山盛りだ。
「また書庫ですか?」
「上からの命令だ。文官たちが、最近の薬草の出入りを調べたいらしい。さっさと運べ」
タイミングが良いのか悪いのか。リツは小さく肩をすくめ、籠を持ち上げた。
「あーあ、重いなあ。文官の人たち、自分で運べばいいのに」
ぶつぶつ文句を言いながらも、足は自然と早くなる。
書庫。宮廷中の記録が集められる場所。そこには、薬草の仕入れ先や商家との契約記録も眠っているはずだ。
花街とつながる供給路を探すには、ちょうどいい。
そんな下心を胸に秘めて、リツは書庫の重い扉を押し開けた。
書庫の中は、いつものように紙と墨の匂いで満たされていた。高く積み上がった書架。山のような帳簿。静まり返った空気。
……のはずだったのに。
「あー……、また積み方が雑だな。これ、ひとつ崩したら全部落ちてくるぞ」
聞き覚えのある声が、書架の陰から聞こえた。
昨日、皇妃の部屋でリツを睨んだ侍従。その男が、山積みの書物の隙間からひょいと姿を現した。
艶のない黒髪を後ろで結び、簡素な侍従服をまとっている。けれど、その立ち振る舞いには、どこか宮廷の雑用とは違う洗練があった。
「……あんた」
リツは思わず足を止める。相手も同じように彼女を一瞥し、わずかに目を細めた。
「薬草庫の、鼻の良い雑用か」
「雑用って付け足すの、やめてくれない?」
籠をどさりと床に置き、リツは少しだけ顎を上げた。
侍従は、籠の中身にさっと視線を滑らせる。その瞳が一瞬だけ細くなった。
「その中に、花街から来た草が混じっているな」
「……は?」
動揺が顔に出るのを、自分でも止められない。侍従は、わざとらしく鼻を鳴らした。
「湿り気のある甘い香り、薄い酒精の残り香。宮廷の薬房が扱う乾ききった薬草にはない匂いだ」
「……私以外にも、匂いで分かる人がいたなんてね」
リツは悔しいような、嬉しいような複雑な気持ちになりながら肩をすくめた。
「あんたの匂いの覚え方は、私の次くらいには悪くないよ」
「自分を一番に置くあたり、鼻だけでなく自尊心も強いようだな」
さらりと返される。妙な張り合いが生まれるのを、自分でも感じた。
侍従は書架に背を預け、改めてリツを見下ろす。
「昨夜、皇妃さまの部屋から、何かを持ち出したな」
探るような声色だった。
リツは一瞬、視線を右に逃がしてしまう。そのわずかな動きさえ見逃さず、侍従の口角がわずかに動いた。
「黙っていてもいいが。後宮で『怪しいものを皇妃さまの寝室から持ち出した』などという噂が立てば、おまえの首では済まぬかもしれん」
「脅してるつもり?」
「事実を述べているだけだ」
侍従の瞳は冷静そのものだった。そこに悪意は見えない。ただ、こちらの出方を待っている。
リツは舌打ちしたくなるのをこらえ、籠の取っ手を握り直した。
「……変な薬草の布を見つけたのは事実だよ。でも、あれは皇妃さまを苦しめるつもりで使われたものじゃない。多分」
「多分、か」
「疲労回復の薬草が主成分。でも、量を間違えたせいで毒みたいになってた。そういう『素人の善意』みたいな匂いがしたんだよ」
言ってしまってから、口が軽かったかもしれないと後悔した。だが、侍従の目が一瞬だけ真剣さを増したのを見て、胸の中で小さくガッツポーズを取る。
興味を持たせることには成功した。
「……それを見せろ」
侍従は短く言った。
「もう粉にしちゃったけど、残りなら薬草庫に……って、なんであんたに見せないといけないの」
「皇妃さまの命が関わっているからだ」
返ってきたのは、それだけだった。
その一言に、リツは言い返せなかった。
昨日の皇妃の蒼白な顔が、ふと頭をよぎる。息の浅さ。冷えた指先。もし布片が原因の一つなら、また同じことが起きる可能性がある。
「……分かったよ。でも、あんた誰なの? ただの侍従が、こんな話に首突っ込んでいいの?」
問いかけると、侍従はほんの少しだけ口元をゆるめた。
「俺のことはカゲロウと呼べ」
「……絶対本名じゃないよね」
「影のようにどこにでも現れ、どこにも属さない。それくらいの意味だと思っておけばいい」
「ふうん。影みたいにふらふらしてるから、似合ってるかも」
軽口を叩きながらも、リツはその名を頭に刻む。
カゲロウ。侍従。皇妃の側にいる謎の男。
彼にどこまで話すべきか、本能が慎重さを訴えてくる。それでも、皇妃の命がかかっていると言われてしまえば、完全に無視することはできない。
「じゃあ、後で薬草庫に来なよ。残りの粉くらいは見せてあげる」
「いや、ここで渡せ」
カゲロウは一歩近づき、リツの手元をじっと見る。
「今、おまえの袖からも、同じ匂いがした」
「うっ」
慌てて袖を押さえる。粉が服に染み込んでしまっていたらしい。
「そこまで嗅ぎ分けるとか、気持ち悪いんだけど」
「お互い様だろう」
淡々と言われ、言い返せなくなる。
「……ちょっとだけだよ」
リツは腰帯に挟んでいた小さな紙包みを取り出し、中身の粉の一部を見せた。
カゲロウは指先でわずかにすくい取り、鼻先に近づける。表情が、ほんの一瞬だけ引き締まった。
「これは宮廷の薬房で配合されたものではない」
「やっぱり?」
「外部の配合だ。雑だが、外の空気の匂いがする。宮廷の中だけで混ぜていたら付かない匂いがある」
分析の仕方が、リツとよく似ている。匂いの奥にある空気を嗅ぎ分けるような感覚だ。
次の瞬間、カゲロウは何も言わず、紙包みをそのまま懐にしまい込んだ。
「ちょっと! それ返しなさいよ!」
リツは思わず声を荒げ、一歩踏み出す。
「これ以上、おまえのような下働きが持っていていい物ではない」
カゲロウの返答は冷たく、そして冷静だった。
「皇妃さまに関わる証拠だ。上に報告するにしても、扱いを誤ればおまえが疑われる。俺が預かる」
「だからって、勝手に……!」
口汚い文句が喉まで出かかったところで、リツはふと気づいた。
書庫の奥。書架の陰から、数人の視線がこちらを見ている。
丸眼鏡をかけた文官。帳簿を抱えた書記。何人かが、小声で何かを囁き合っていた。
(……見られてる)
「薬草庫の下働き」が、謎の侍従と何やら言い争っている。皇妃に関わる話題らしきものを扱っている。
その印象だけで十分だ。ここで騒げば、余計な噂をばらまくことになる。
リツは奥歯を噛みしめ、無理やり声のトーンを落とした。
「人を道具扱いするの、やめてよね。鼻が利くからって、便利に使われるのはもう慣れてるけど」
「俺は便利に使うつもりはない」
「へえ?」
「利用価値があると言っただけだ」
カゲロウは微かに笑ったようにも見えた。けれど、その笑みはすぐに消える。
「花街の薬の匂いを追うつもりだろう」
「…………」
図星だった。
「おまえ一人で行けば、すぐに足がつく。宮廷の者が花街をうろついているとなれば、目立つ」
「じゃあ、どうしろっていうの」
「しばらくは宮廷の中で情報を集めろ。花街に出入りする商家、荷を運ぶ者、門番。鼻が利くなら、匂いだけで分かるはずだ」
言いたいことだけ言って、さっさと立ち去ろうとするその背中に、リツは思わず叫んだ。
「名前、ちゃんと覚えたからね、カゲロウ!」
「そうか」
振り返りもせず、軽く手を振るだけ。
その姿を、また別の書架の陰から文官たちがじっと見ていた。
「今の侍従と薬草庫の娘、何かあるのか?」
「皇妃さまの倒れた件で、薬草庫周りが騒がしくなっていると聞いたが……」
「変な噂になる前に、記録だけはきっちり残しておこう」
小さなささやきが、ひっそりと広がっていく。
リツはそれに気づかないまま、薬草籠を運び終えたあと、書庫を出た。
廊下に出ると、昼前の陽射しが石畳を照らしていた。門の方向から、荷車の軋む音が聞こえてくる。
「……まずは、門番からだね」
カゲロウの言葉が、頭の中に残っている。宮廷に薬草を卸している商家の中に、花街とつながる者がいる。
それを見つければ、一歩前に進める。
リツは足を門の方へ向けた。
宮廷の正門。兵士たちが槍を構え、出入りする荷車を検めている。
よく見ると、その端に剣を腰に差した門番が、荷車の空き時間に退屈そうに欠伸をしていた。
「おつかれさまです、門番さん」
「お? 薬草庫の嬢ちゃんか。今日はやけに愛想がいいな」
顔見知りの門番だ。いつも薬草庫への荷の出入りを手伝わせて、余った干し肉を分けてくれる、実は優しい人である。
リツは笑顔を作り、門番の隣にちょこんと立った。
「最近、薬草の荷、増えてません?」
「ん? まあ皇妃さまの容態が不安定だからな。薬も増えるさ」
「それって、いつもの商家からですか?」
「いや、ここ数日は見かけない商家も来ているな。夜遅くに荷を下ろしていくのもいるし」
門番は顎をさすりながら、記憶をたぐるように天井を見上げた。
「ほら、あそこの通りの先に店を構えてる商家があるだろう? 昼は真面目そうな薬屋だが、夜になると妙に荷が増えるって噂だ。花街から荷を運び込んでいるとか何とか」
リツの心臓が、どくりと跳ねた。
「その商家って、宮廷にも薬草を卸してるんですか?」
「卸しているどころか、最近は上の方から『あそこの薬草は気前がいい』なんて話も聞いたな。余りを花街に回しているのか、花街から余りを持ってくるのか……まあ、俺の知ったことじゃないが」
門番はあくびをひとつして、また荷車の列に視線を戻した。
リツは拳を握りしめる。
(宮廷に薬草を卸している商家が、夜な夜な花街から荷を運び込んでいる……)
皇妃の枕元にあった布片。花街の安物の体力薬の匂い。外部からの配合だと断言したカゲロウ。
点と点が、少しずつ線になり始める。
「ありがとう、門番さん。干し肉、今度おまけしますね」
「おう、期待してるぞ」
軽口を交わしながら、リツは門から離れた。
胸の中で、わくわくと不安が混ざった奇妙な高鳴りが渦巻いている。
「よし。商家のこと、調べてやろうじゃないの」
自分の鼻と、少しだけ増えた味方――侍従カゲロウ。
その二つを武器に、リツはゆっくりと歩き出した。
まだ、誰も知らない後宮の渦に、彼女は一歩踏み込もうとしていた。




