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宮廷薬草師リツの調書録  作者: 妙原奇天


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第11話「消えた医官コクエン」

 夜の宮廷は、昼とはまったく違う顔を見せていた。


 日中は人の声と衣擦れで満ちていた回廊も、今は灯りを落とされ、ところどころに置かれた行灯だけが床を照らしている。衛兵たちの足音が、石の廊下を静かに渡っていく。


 その一番奥。


 謁見の間へ続く前室に、リツは立っていた。


 膝が笑っている気がする。


 それでも、逃げ出さずに踏みとどまれているのは、横に立つカゲロウの無言の存在感のおかげだろう。


「震えているな」


「ふ、普通の下働きが皇帝陛下に会う機会なんてないの。震えるのが普通でしょ」


 半分は本音、半分は強がりだ。


 けれど、鼻だけはいつものように働いていた。


 前室の空気は、蝋と香木の匂いで満ちている。昼間の暑さを閉じ込めたような空気に、夜の冷気が少しだけ混じって、重さが和らいでいた。


 奥の扉の向こうから、別の香りがゆっくり近づいてくる。


 墨と紙と、上質な衣の香。そこに、微かに薬草の気配が混じっていた。


「陛下がお出ましだ」


 カゲロウが膝を折る。


 リツも慌てて真似をした。額が床すれすれになる位置で止まり、浅く呼吸を整える。


 扉が開く音。


 足音は軽い。けれど、その一歩一歩には、重さがあった。


「顔を上げよ」


 若い声だった。


 穏やかで、耳に心地よい響き。だが、その奥に冷たい刃が隠れている。


 リツは恐る恐る顔を上げた。


 そこにいたのは、自分が想像していたよりもずっと若い皇帝だった。


 まだ二十代の前半だろうか。端正な顔立ちに、よく通る瞳。豪奢な衣をまといながらも、どこか少年の面影を残している。


 だが、その目は、年齢よりずっと老いていた。


 人の生死と、権力の争いを見てきた目だ。


 皇帝の隣には、顔の下半分を布で覆った護衛が一人。そして少し後ろに、いつものように表情を消したカゲロウが控えている。


「おまえが、薬草庫の下働き……リツだな」


 皇帝の視線が、真正面から突き刺さる。


 リツは一瞬喉が詰まりかけたが、なんとか声を出した。


「は、はい。薬草庫で匂いを……いえ、薬草の管理をしています」


「匂いで良い」


 皇帝の口元がわずかにだけ笑う。


「その鼻のおかげで、いくつも小さな事件が未然に防がれてきたと聞く。皇妃の件も、そうだそうだな」


 隣のカゲロウが、静かに膝をつき直す。


「恐れながら、陛下。殿下のご体調に関する香りの変化を最初に指摘したのは、この娘です」


「そうか」


 皇帝は短く応じると、少しだけ視線を落とした。


「皇妃の容体が不安定なままなのは、医官たちの診断に不審があるからだ。過労、気鬱、体質──似たような言葉を並べるだけで、何ひとつ本質に触れていない」


 穏やかな声が、わずかに冷えた。


「だから、おまえの鼻が感じたことをすべて、隠さず話せ」


 言葉に、命令というより「期待」に似たものが混ざる。


 リツは、胸の奥で何かが固まるのを感じた。


 もう、戻れない。


「……分かりました」


 唇を引き結び、頭の中でこれまでの出来事を並べ直す。


 花街の薬屋から始まった、小さな違和感。


 キセラの善意の薬。皇妃の寝所の香りの濁り。禁苑の花の混入。風の流れを利用した香りの運搬。侍従休憩所の調薬跡。


 そして、それらを繋ぐ「香りの線」。


 リツは、できる限り順序立てて話し始めた。


   ◇


 最初に花街の薬屋に足を運んだとき、そこに漂っていた甘い香り。


 皇妃の枕元から拾った香袋の中に、その香りによく似た成分が混じっていたこと。


 キセラが独断で作った眠り薬は確かに危険だったが、それと同じ匂いが、もっと前から皇妃の部屋に存在していたこと。


 禁苑で見つけた摘み跡。薄紫の花弁に残った粗い切り口。土に混じった、皇妃の寝所の床と同じ清浄香。


 風の通り道。通気穴と天井の痕跡。香り袋を吊るして風に乗せ、枕元だけを狙って幻惑成分を送り込むための仕掛け。


 侍従休憩所の茶器に残った薬草の粉。細く長い指の跡。侍女ではない、体格の良い者の匂い。


 全てを、香りとともに語る。


 皇帝は途中で一切口を挟まなかった。


 隣の護衛も、カゲロウも、微動だにしない。ただ、炎の揺らぎだけが、時間が流れていることを教えてくれる。


 話し終えたとき、リツは自分の心臓の音が響きすぎているのではないかと不安になった。


「以上です」


 最後の言葉が、少し震えてしまった。


 沈黙が落ちる。


 やがて、皇帝はふう、と小さく息を吐いた。


「……おまえの話は、医官たちの報告よりよほど筋が通っている」


 その言葉に、リツは思わず顔を上げた。


「医官たちは症状だけを並べ、曖昧な病名で蓋をしようとしている。だが、おまえは“どうしてそうなったか”を説明した」


 皇帝の目が、少しだけ柔らかくなる。


「残念なのは、それを裏付ける“証”がまだ足りないということだ」


「証……」


「皇妃の枕元の香袋は、すでに中身を入れ替えられている。禁苑の花の摘み跡は、自然の枯れとも言い張れる。侍従休憩所の匂いも、時間が経てば消える」


 淡々と現実を突きつけられ、リツは唇を噛んだ。


 香りは真実を教えてくれるけれど、目に見えない。


 信じてくれる人がいなければ、証拠にはなりにくい。


 それでも──


「だからこそ、まだ逃げていない“証人”が必要だ」


 皇帝の視線が、カゲロウの後ろへ向いた。


「医官コクエンを呼べ」


「はっ」


 護衛が一礼し、すぐさま部屋を出て行く。


 リツは思わず息を呑んだ。


 コクエン。


 皇妃の診断を担当していた医官。夜間外出を繰り返し、禁苑に似た外気を纏って戻ってくる。けれど、その体からは禁苑の花の匂いがしない、矛盾した男。


 彼がこの場で何を語るのかによって、事件の向かう先は大きく変わるだろう。


「コクエンは、医官としての腕は確かだ」


 皇帝がぽつりと言った。


「だが最近、診断の内容が妙に歯切れが悪い。何かを隠しているのは間違いない」


 後宮の派閥争い。静かな反乱。皇妃を巡る思惑。


 そのどこかに、コクエンは巻き込まれているのだろうか。


 リツが考え込んでいると、廊下を駆ける足音が戻ってきた。


 扉が開き、護衛が青ざめた顔でひざまずく。


「申し上げます!」


「コクエンは」


 皇帝の声は静かだが、底に鋼のような硬さがあった。


「医官コクエンの姿が、宮中のどこにも見当たりません」


 護衛の言葉が、謁見の間に落ちる。


「何?」


 カゲロウがわずかに目を細めた。


「医官室、診療室、寝所……全て確認いたしましたが、本人の姿はなく。机の上に、いくつかの書状と、空になった薬瓶だけが残されておりました」


 リツの胸が、ぎゅっと縮んだ。


(まるで──犯人が逃げたみたい)


 でも、それはあまりにも出来すぎている。


 皇帝の前でコクエンの名が出たその夜に、コクエンが「消える」なんて。


 偶然というには、あまりにもタイミングが良すぎた。


「医官室へ案内しろ」


 皇帝が立ち上がる。


 穏やかな顔に、冷厳な支配者の表情が浮かんだ。


「陛下、危険です。ここから先は我々が先に──」


 護衛が言いかけたのを、皇帝は手で制した。


「それでも、確かめなければならぬことがある」


 カゲロウが一歩前に出る。


「陛下のお供は、俺と──」


「リツ」


 皇帝の視線が、再びリツを捉えた。


「おまえも来い」


「え」


 声が裏返る。


「コクエンの部屋に残っているものが自然のものか、作為のものか。最も早く見抜けるのは、おまえの鼻だろう」


「……はい」


 逃げ道はなかった。そもそも、逃げるつもりも、もうなかった。


 リツは自分の手をぎゅっと握りしめ、皇帝たちの後に続いた。


   ◇


 医官室は、昼間とはまるで別の空気をまとっていた。


 普段なら薬草の匂いと煎じ薬の蒸気でむせ返りそうなほどなのに、今は妙にすっきりしている。空気が薄く、季節外れの冷たさが漂っていた。


「……変」


 扉をくぐった瞬間、リツは違和感を覚えた。


 並べられた薬瓶。棚に揃えられた薬草の束。机の上に置かれた診断書類。そのどれもが、教科書の挿絵みたいに整っている。


 けれど──


「匂いが、少なすぎる」


 リツは小さく呟いた。


 長年薬を扱ってきた者の部屋なら、もっと多種多様な匂いが入り混じっているはずだ。


 煎じ薬が鍋からあふれた匂い。棚から落ちた粉薬。こぼれた酒と薬酒。床に染み込んだ薬草の汁。


 それが、ここにはほとんどない。


 感じるのは、「最近急ごしらえで並べた薬」の匂いだけだ。


 瓶の口が新しく、ラベルに貼られた糊の匂いすら残っている。棚の手前の方だけが、妙に同じ香りで揃えられていた。


「これは……作られた部屋だ」


 思わず口に出ていた。


「作られた?」


 皇帝が問う。リツは頷いた。


「長くここで薬をいじっていた人の匂いじゃないです。最近、誰かが『医官の部屋っぽく』見せるために薬を並べた匂いです。奥の方の棚は、ほとんど空っぽ」


 リツは棚の奥を指差した。


 瓶が並んでいるのは手前だけで、奥には埃だけが積もっている。棚を動かした跡もない。ここしばらく、誰も本格的な調薬をしていないのだ。


「机も、きれいすぎる」


 リツは机の上に並べられた書状に手を伸ばした。


 皇妃の容体に関する診断書。侍女たちの体調記録。どれも、きちんと整えられている。


 けれど、一枚目をめくった瞬間、リツの鼻より先に目が引っかかった。


「この字……」


 コクエンの字は、癖が強い。


 薬瓶のラベルに書かれた文字を、いつも見ている。独特の跳ねと、丸め方。勢いのある筆の動かし方。


 今、目の前にある診断書は、それと微妙に違っていた。


 似せてはいる。線の角度や大きさは似ているが、勢いがない。慎重に真似た字だ。


「ここ、殴り書きしてるように見えて、線が均一です。コクエンさま、考え込むときは強く書きすぎて紙に穴開けるタイプです」


 思わず余計なことまで口に出てしまった。


「これは……コクエンさまの“癖”が薄い。誰かが真似してます」


 皇帝の眉が、わずかにひそめられる。


「つまり、誰かがコクエンになりすまして診断を記録し、本物をどこかへ連れ去った可能性がある、ということか」


「匂いも、おかしいです」


 リツは机に顔を近づけた。


 墨の匂い。紙の匂い。その奥に、ごく僅かに残る薬草の香り。


 だが、それはコクエン特有の混ざり方ではなかった。


 本物のコクエンの机には、薬草の匂いと酒と焦げた紙の匂いがいつも混ざっていた。失敗したときの焦げ跡。酔い覚ましの茶。そこに、動物用の薬の匂いまで加わる。


「ここには、そういう“生活の匂い”がないです。書状の上にだけ、最近の薬草の匂いが、薄く乗ってる」


 まるで、書いた人間が「それっぽさ」を出すために、わざと手に薬草をこすりつけたみたいに。


「陛下」


 カゲロウが机の端にあった薬瓶を手に取る。


「ここにあるのは、眠りを浅くする薬、頭痛を紛らわす薬、熱を下げる薬……どれも“皇妃の症状”に対応したものです。ただ、瓶の底がどれも同じくらいに減っている」


「不自然だな」


 皇帝が低く呟く。


「普通なら、効きのいい薬とそうでない薬で、減り方に差が出る。よく使う薬ほど早く減るはず」


「なのに、ここでは全部、同じだけ減っている。誰かが最近になって、中身をバランスよく使ったふりをして並べたと考える方が自然です」


 リツは胸の奥に、冷たいものが広がるのを感じた。


 コクエンの姿はどこにもない。


 残されているのは、「コクエンらしさ」を真似しようとして失敗した部屋だけ。


 まるで、コクエンという人間そのものを、ここから切り取ってしまったようだ。


   ◇


「……禁苑の匂いがする」


 ふと、部屋の隅から、知った香りが鼻をくすぐった。


 リツはそちらに向かって歩み寄る。


 棚と棚の間、少し隙間の開いた空間。掃除の手が入りにくいのか、埃が溜まっている。そこに小さな袋の切れ端が落ちていた。


 拾い上げると、ちいさな布片だと分かる。香袋の一部だろう。


 鼻に近づける。


「……禁苑の花」


 確かにそうだ。


 あの甘さ。頭の奥をふわりと揺らす危ない香り。


 けれど、ここに漂っている禁苑花の匂いは、妙に軽かった。


 長い時間かけて染み込んだ匂いではない。さっき開けたばかりの袋から、強引に放たれた香りだ。


「空気に馴染んでない」


 リツは布片を見つめた。


「ここにある禁苑の匂いは、最近、誰かが香袋を開けて『わざと残した』匂いです。前からここで禁苑花を扱ってた人の残り香じゃない」


「わざと残した……」


 皇帝の目が細くなる。


「つまり、医官コクエンの部屋に禁苑の香りを残し、『犯人は医官だ』と思わせたい誰かがいる、ということか」


「そうとしか思えません」


 リツは布片を握りしめた。


「本当にここで禁苑の花を使っていたなら、香りは床にも、棚にも、机にももっと広く染み込んでます。でも、禁苑の匂いがするのは、この布の周りだけ」


 点の匂い。


 本来なら、線や面になって広がるはずの香りが、一箇所だけに留まっている。


「だから、これは『犯人はコクエンです』っていう、すごく雑なメッセージです」


 言いながら、少しだけ悔しくなった。


 香りを使って誰かを騙そうなんて。


 自分の得意分野を汚された気がして腹立たしい。


「……なるほどな」


 皇帝は静かに言った。


「コクエンは逃げたのではない。消されたのだ」


 護衛たちの肩がわずかに強張る。


「もしくは、どこかに匿われている。生かしておく必要があったのか、口を塞ぐ必要があったのかは分からぬが──いずれにせよ、このまま放置はできん」


 冷たい光が、若い瞳に宿る。


 次の瞬間、その光が宮廷全体へ向けられた。


「禁苑と後宮を封鎖せよ」


 低く、しかしはっきりとした命令。


「すべての門を閉じる。医官も侍従も侍女も、誰ひとり外へ出すな。外からの出入りも、しばらく禁じる」


「はっ!」


 護衛たちが一斉に動く。


 宮中全体に、緊張の波が走るのが分かった。


 外から、門の閉ざされる重たい音が響く。


 どこかの回廊で、侍女たちが驚いてざわめく声がした。


「これで、犯人は宮廷のどこかに閉じ込められた」


 皇帝は静かに言う。


「出られない箱の中で、誰がどんな匂いを纏っているか……おまえの鼻なら、嗅ぎ分けられるな?」


 視線を向けられ、リツは少しだけ苦笑した。


「……においは逃げられませんから」


 たとえ人間がいくら逃げて隠れようと、香りだけは、必ずどこかに残る。


 禁苑の花。花街薬。調薬の油。風に乗った香気の名残。


 それらを追っていけば、いつか必ず、誰かの背中にたどり着く。


「カゲロウ」


「ここに」


「おまえはリツと共に、“最後の嗅ぎ分け”を行え」


 皇帝の声には、迷いがなかった。


「この宮中で禁苑の香りを纏う者は限られている。その線を一つずつ辿り、黒幕を見つけ出せ」


「承知しました」


 カゲロウが膝を折る。


 リツも慌てて頭を下げた。


   ◇


 医官室を出ようとしたときだった。


 扉の取っ手に手をかけたリツの指先に、ちいさな違和感が走った。


「……ん?」


 指が、粉っぽい。


 リツは扉を引く前に、反射的にその粉を鼻に近づけた。


 乾いた薬草の粉末。嫌でも嗅ぎ慣れた匂い。


 花街薬の苦さと、禁苑花の甘さが、ごく薄く混ざっている。


「取っ手に……」


 思わず声が漏れた。


 扉の外から、誰かがこの部屋に出入りしたのは間違いない。医官本人か、犯人か。どちらにせよ、その手には禁苑と花街薬を混ぜた粉が付着していた。


 その手で取っ手を握り、それが薄く残っている。


 扉の内側。そこから、外側へ。さらに廊下の手すりへ。柱へ。衣へ。


 粉は、目には見えない細い線となって、きっと宮廷のどこかまで伸びている。


 リツは指先を見つめ、細く息を吸い込んだ。


「どうした」


 背後からカゲロウの声がする。


「コクエンさまの部屋に出入りした人の匂いが、取っ手に残ってます。禁苑花と花街薬の混ざった粉です」


 リツは顔を上げた。


「この匂いを辿れば、必ずどこかで“線”が濃くなる場所があるはず。そこが──」


 犯人のいる場所。


 あるいは、連れ去られたコクエンのいる場所。


 どちらにせよ、事件の中心へ近づける。


「これを追えば、必ず辿り着ける」


 自分の声が、思ったよりしっかりしているのに気づいた。


 怖さは、なくなっていない。


 だけど、それ以上に、嗅ぎ分けたいという気持ちが大きかった。


 香りの線は、すでに引かれている。


 あとはそれを、最後まで追い切るだけだ。

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