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宮廷薬草師リツの調書録  作者: 妙原奇天


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第1話 後宮の朝と、倒れた皇妃

 まだ陽が昇りきらない後宮は、しんとした静けさに包まれていた。夜の涼気が廊下に残り、石畳には朝露が薄く光っている。そんな中、宮廷薬草庫の一角では、ひとりの少女が机に突っ伏しそうな勢いであくびをしていた。


 リツ。後宮付きの雑用係。そのくせ薬草の匂いを嗅ぎ分ける腕前だけは誰にも負けない、不思議な少女だ。


「ふぁ……今日も乾いてるのと半乾きとで分けろって、なんで今なんだろ」


 文句をこぼしながらも指先は正確で、干した薬草を次々と仕分けていく。瓶の蓋を開けた瞬間、彼女は微かに鼻を鳴らし、ぼそりとつぶやいた。


「……四川産の紅花。去年のより香りが弱いのは、摘まれた時期が遅いからだな」


 自分でも聞こえないほどの独り言。それでも薬草庫の隅に座って帳面を広げる医官は、聞いた瞬間ぴくりと眉を上げた。


 リツはこういう子だ。匂いだけで薬草名はもちろん、その産地や収穫時期まで言い当ててしまう。上役の医官たちが彼女を便利に使う理由は、まさにこれだった。


 だが正式な身分はあくまで「雑用」。医官見習いですらない。薬草の目利きとしては重宝されながら、どれだけ働いても資格はもらえない。それでも生活のために働くしかないのだった。


「……まあ、匂いを嗅ぐだけで褒められるんだから、楽といえば楽だけど」


 そんな風に自分を納得させていると、薬草庫の入口がどたばたと騒がしくなった。


「大変です、皇妃さまが、皇妃さまが倒れられた!」


「息が浅いって! すぐ医官を呼べ!」


 侍女たちの慌てふためく声に、リツは瓶を抱えたまま固まった。すぐに白衣をまとった医官コクエンが現れ、顔をしかめて薬草庫に入って来る。


「なんでこんな時に限って……。リツ、おまえ」


「はい?」


「鼻が利くだろう。現場を見て、怪しい匂いがないかだけ確認してこい」


「え、現場って……皇妃さまのお部屋ですか? 私、そんな場所――」


「医官の付き添いという形なら問題ない。さっさと来い」


 完全に押しつける言い方だったが、逆らえるはずもない。こうしてリツは、雑用の身分のまま、後宮の中心へと向かうことになった。


 皇妃シオンの私室は、静けさと緊張が入り混じった空気に満ちていた。豪奢な寝台の上で、皇妃は蒼白な顔をして横たわり、侍女たちが泣きそうになりながら脈を確かめている。


 そんな場違いな場所に足を踏み入れたリツは、喉がひゅっと鳴るのを感じた。


(うわぁ……本当に後宮の奥って、別世界だ)


 だが感心してばかりいられない。コクエンが眉間に皺を寄せたまま指で合図し、


「嗅げる範囲でいい。余計なことはするな」


 と言って脈診に戻る。リツは小さくうなずき、静かに室内を歩き始めた。


 香炉の香り。花瓶の白花から漂う甘い芳香。寝具に含まれた上質な香油。茶器に残る薄い茶葉の匂い。


 そこまでは後宮なら普通だ。しかし枕元に近づいた瞬間、彼女の鼻先に、ひっそりと異質な香りが引っかかった。


(……何、この混じり方。薬草? でも香油の線もある……いや、これは)


 リツは周囲の視線を気にしながら、枕の隙間や寝台の下をのぞき込んだ。侍女たちが怪訝そうに彼女を見る。


「ちょっと、雑用が勝手に触らないでよ」


「医官さまの命令でして……失礼しますね」


 頭を下げつつ、執拗に探る。そして――見つけた。


 枕と寝台の隙間に押し込まれていた、小さな布片。


 縫い込むように乾燥した何かが付着しており、粉になって崩れている。


(薬草……じゃない。いや、薬草だけど、混ぜ方がおかしい。いくつも揃えた匂いが、一瞬で鼻に飛び込んできた)


 リツは布片を手に取りたい衝動を飲み込み、そっと袖の内側で指先に挟んだ。


(ここで勝手に判断したら怒られる。まずは持ち帰って調べ……)


「何をしている」


 背後から低い声が響き、心臓が跳ね上がった。


 振り返ると、見たことのない侍従が立っていた。整った顔立ち、無駄のない所作、そして金属のように冷たい瞳。


 彼の視線が、リツの袖の膨らみに向かってまっすぐ伸びてくる。


(ば、ばれてる……?)


「粉が落ちないように押さえてるだけです。ほら、掃除が行き届いてなかったらしくて」


 咄嗟に惚けたが、侍従は彼女の表情を観察するようにじっと見た。


「後宮の者が勝手な真似をするな。医官の指示以上のことはする必要がない」


 あくまで静かだった。しかしその声の奥には、警告がこめられていた。


(あ、この人……絶対に何か気づいてる)


 追及されるかと思ったが、侍従は皇妃の容態に視線を移し、それ以上は何も言わずに歩き去った。


 足が軽く震えた。だが今はとにかく、この布片を確かめることの方が重要だ。


 薬草庫に戻ると、リツはすぐさま袖から布片を取り出し、瓶詰めの薬草を次々と開けて匂いを比べ始めた。


「これは……宮廷で使う滋養薬草。で、これは……なんで花街の香りが」


 布片に混じっていた匂いの正体は、後宮では決して使われない安価な強壮剤。花街の薬屋で売られるもので、富裕層の世界とは関係ない雑多な調合だった。


「後宮の皇妃さまの枕元に、こんなもの……?」


 誰かが意図的に布片を仕込み、その粉を皇妃に長時間吸わせたとしか思えない。


(薬としては、弱い。でも混ぜ方によっては……毒にもなる)


 リツは瓶の中身と布片の粉を何度も嗅ぎ比べ、最終的にひとつの答えに辿り着いた。


「これは……薬のつもりで使った毒だ」


 ぽつりとつぶやいた瞬間、背筋に冷たいものが走る。


 皇妃の倒れた理由。あの布片。花街の薬。


 そして、あの冷たい瞳をした侍従。


「……大きな面倒に首を突っ込んだ、かも」


 苦笑とため息が漏れる。


 だがそれでも、目の前の謎を放置する気にはなれなかった。薬草の香りに誤魔化された皇妃の苦しさが、脳裏に焼きついて離れない。


 リツの中で、静かな決意が芽生えていた。


「よし。あとは、どう動くか」


 こうして、雑用の少女は知らぬ間に後宮の渦へと足を踏み入れた。


 それが後に、帝国の歴史を変える騒動の始まりとなることを、この時のリツはまだ知らない。

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