-> "story": return "episode 2: Whole New World" (2/4)
脱衣所の中がいつもと違う気がする。短パンを脱ぎながら見回すと、兄のシャワー椅子が定位置になく、どこにも見当たらない。母が押し入れかどこかにしまったのだろう。兄のために改装で取り付けられた手すりには、いつからかタオルがかけられている。
日常が少しずつ、兄の不在に慣れていく。
水泳の部活で疲れた身体に、湯船の熱が染み渡る。
昨日、兄がアウェイクの世界に旅立った。今頃はあのサポートAI、ミアと楽しく冒険しているのだろう。あの見た目のまま人間になったのだとしたら、アイドル並に可愛い子になっているはず……、もし兄が、あの世界に満足してしまったら、もう帰って来ないのではないだろうか。そんな不安が、ずっと拭えない。
それでも、脳の活力は維持される。
目覚めのチャンスを、維持することができる——
この三日間のことが頭の中を駆け巡る——
病院の地下応接室でWHOの人から話を聞いたあと、家族は一晩だけ考える時間をとった。
翌日の昼、自宅のリビングで父母とお互いの決断を伝え合った。
『最初に言っておく。俺たち家族は、人類史上、誰も経験したことのない未知のストレスと向き合うんだ。家族全員で承諾できないなら、この話は断るからな』
大学で歴史講師を勤める父の言葉が重かった。
『ご家族ノ、身辺調査もさせてただきましタ』
選ばれたのは兄だけではなく、やはり私たち家族だった。被験者の家族には、学術的な話に対応できる教養が求められる。だから父母の職業も考慮されたらしい。
『アウェイクの世界にいるお兄ちゃんの様子とかは見れないのですか? 映像とかで……』
『見れまス。しかし、時間をイタダキマス。シュレディンガーの猫の話をご存知ですカ? 量子ビットの世界ハ、0でもあり1でもある世界。観測するまで、わからないのデス。人間はその宇宙のような世界から必要なデータを取り出して、加工しまス。テキストのログデータとして読み取れるようにするだけでも、一日は必要なのでス。映像化となるト、もっとかかってしまいまス』
スティーブさんの日本語はカタコトだけど、中学生の自分にもわかるように例えを混ぜて、丁寧に説明してくれた。
『私ども研究者の仕事は、量子データの解析方式を確立することにあるといってもいいんです。ユウトさんの状態は、映像化と並行しながら解析を進めます。ご家族とも共有しますので、ご安心ください』
渚さんの声とか話し方がすごく優しくて、あんな人が学校の先生だったら、授業がもっと楽しくなりそう。
「……間違っていないよね」
遥花は湯気霞む浴室の天井に向かって、誰ともなしに呟いた。
* * *
開かれた門の左右には見張りの門兵がいた。上半身にプレート、下半身には革製の鎧。槍を地面に突き立てて周囲に目を光らせている。その間を、馬車を引く人や冒険者っぽい人が絶えず行き来している。
門の先は石でつくられたトンネルだ。馬車が二台すれ違えるほどの広い通路。その先、数十メートル向こう側の出口に、市場のような雑踏が見える。
俺たちは草原のあちこちにあるでかい岩の影から頭だけを出して、その光景を見ていた。
「かなり文化レベルの高い国ですね」
「だな。あんな立派な防御壁、意識高い国じゃないと作らないだろう」
「それにあの門の先のトンネルです。街の中を天候から守るだけではなく、敵の襲撃にも戦略的に対応できます。都市計画力の高さがうかがえます」
「なるほど、つまりあの門兵は、ただ突っ立てるだけじゃなさそうだな」
「はい」
見た感じ、許可証などがなくても入れそうではあるのだが——、
自分たちの格好を見下ろす。
ミアは世界観に合っているが、学生服の俺は呼び止められそうである。
「さてどうするか。俺のこの格好……、言葉も通じないだろうな」
川で拾ったチラシは異世界文字だった。日本語が通じるとは思えない。
「言語の壁は、私の多言語応答処理でなんとかできます。ユウトさんの格好は、一時しのぎですが、これでどうでしょうか」
ミアがコーディングを始めた。ハートの中に浮遊する光の糸がカラフルに色を変化させながら明滅している。糸の内側に浮かび上がる文字を目で追いかけてみる。やはりプログラムのコードだ。しかし早すぎて言語まではわからない。
ミアが俺の胸に手を添えて言った。
「……できました。ファンクション クリエイト ホームページ」
「ホームページ? ……うわっ」
足元が急に光ったと思ったら、俺の足のつま先から白い輝きが、音もなく体を包み込みながら昇ってくる。痛みや熱はなく、なにも感じない。
「なんだこれ!」
体が、指が、顔が、白く発光していく。
その現象が頭の天辺にたどり着いた時、輝きが消え——、見下ろすと、俺は革と鎖でできた鎧を着ていた。腰には鞘に入った剣まで。
「すっげー!」
「エイチティーエムエルで武器と防具を作ってみました。元の服はヒドゥンで見えなくしています。見た目だけですが、これで格好の問題は大丈夫でしょう」
「はは、ホームページの装備品か……」
「そうです。ただ、質感も再現していますが、耐久力はほとんどないので気をつけてください。その剣にも攻撃力はありません」
そう言いつつミアが自分の胸に手をのせた。
「では、私も……」
するとミアの体がふわっと浮き上がり、意識を失ったような表情に変わった。力の抜けた手足が光の粒子に持ち上げられる。足元からだった俺の時と違い、もう全身が淡く光っている。素肌は見えないが、体のラインがはっきりと浮かび、言い訳無用のエロさが輝きと共に迫り来る。
ポワンという柔らかいSEと共に、純白のブーツとニーソが、そしてスカートがふわりと舞うように現れた。その次に細い指先から肩にかけて、水色のアームガードが少しずつ表示されていく。
アームの次はウェストからだ。体のラインを見せつけるように純白のコルセットが昇っていく。フードのついたローブタイプで、鎖骨の辺りが大きく開いたデザインだ。
腰まであるうつくしい髪も浮き上がり、シュルシュルと生き物のように動きながら、一本の大きな三つ編みにその姿を変えた。ローブの方には、全体に金色のラインが描かれていく。
そして、唇に薄いピンクの口紅が走り——、なにもないところからスタッフを取り出すと、クルクルと回して地面に突き立て、ウインクしながら決めポーズ。最後に、スタッフの先端にある赤い宝石のような球とリングの装飾がキュピンと反射した。
ブラボー!
手が勝手に拍手する!
本物の変身バンクに、俺の心は打ち震えていた!
「えへっ、先ほど通りすぎた、女性神官さんの格好を真似てみました。どうです?」
「コスプレし放題じゃん!」
魔法使いみたいで、すごく似合ってるよ!
「コスプレ? そういえばユウトさん、スマホのアルバムにコスプレ写真が大量に保存されてましたよね」
「あぁっ! あまりの感動に心の声がーっ! ……って、なんで知ってるの?」
「だってユウトさん、アルバムにフルアクセス許可してましたから」
昔の俺の御馬鹿ぁ!
そんなニコニコ顔で俺を見ないで!
——って、なんか口紅のせいか、ミアの声と顔が妙に艶っぽく見え——、
「……ユウトさん、コスプレがお好きでしたら……、もっといろんなこすちゅぅむをお見せましょうか……?」
ぐあぁ……っ! 今日まで心臓に負担をかけまいと、低エロリーで満たしてきた俺の煩悩が心臓をイラつかせる!
耳と鼻から、血が吹き出しそうになる!
「……そ、それはまた今度にしような。今は王都に入るのが先決だろ!」
そう言いながら、俺はミアの肩を背中から押しつつ、門へ向かった。
楽しげに揺れる三つ編みがくるりとまわって、無邪気な横顔がちらりと覗く。
「はーい! いつでも言ってくださいネ」
スマホの画面でよく聞いたこの応答も、人間の女子の姿——、しかもこんな聖女神官コスプレ姿では、理性が粉々に吹き飛ぶ危険物以外の何者でもない。このド天然っぷりは早くなんとかしないと、俺の心臓が別の意味で限界を迎えてしまうだろう。
* * *
門の前まで進んだ俺たちは、他の通行人に紛れながら、何食わぬ顔で門を通り抜けようとした。
しかし——、
「オー イルリ ドゥオ スターテ!」
「ノーン ハベティス シグヌム トランジトゥス!」
左右の門兵から、聞いたことのない言葉と槍の鋒を向けられ、後退りした俺は思わず、ミアを盾にしてしまった。
険しい表情、身体中に見える切創、岩のような筋肉——、本物の兵士だ。
「やはりラテン語に似た言語です。任せてください。あのチラシを」
俺は動揺を胸の奥に押さえ込みながら、ポケットからチラシを取り出して渡す。
向き直ったミアが、広げたチラシを門兵に見せながら言った。
「ノース スムス ペレグリーナトーレス イン ディスクーリス ヴィーディムス スクエドゥラム フイス レグニー ペレグリナトーレス レクルターレス プルーヴィーデンタス エト アドホク ロクム 」
やべぇ、なに言ってるか全然わからん!
英語ならまだしも、こんなの絶対習得できそうにないぞ……。
ミアがいなきゃ俺、ゲームオーバーじゃん…………。
その後もミアと門兵が中世のラテン語で会話をした。槍は収められ、鋭かった二人の目も落ち着いた。攻撃される心配はなさそうだ。
すると、ミアがスタッフを空に向かって掲げた。
次の瞬間、スタッフの先端の上にバスケットボールくらいの火球が現れる。
それは大きくなりながら上昇し——、直径三メートルくらいにまで成長した。
「……プルス マーニフィカ モネストゥム オス モストラーレム ヴォルト?」
太陽のような火球を見上げて口をあんぐりと開ける門兵たち。
周囲の冒険者や通行人も驚きを隠せず、腰を抜かしている奴もいる。
「インテレクトゥム サステネ プレガート!」
門兵の一人が怯えながら、片手をミアに向けて何かを言った。たぶんやめてくれって言ったんだろう。
ミアがスタッフを地面に突き立てると、火球は音もなく消えた。
もう一人の門兵が、腰の布袋から取り出した何かをミアに手渡している。
最後は笑顔で会話を終えた。
振り返ったミアが俺に、手のひらの中のものを手渡した。革紐のネックレスだ。トップに赤い宝石のような石がついている。
「これを首からかけてください。通行証だそうです。王都にいる間は常に身につけて見えるようにしろと言っています」
なるほど、気づけなかったわけだ。ここを通っていた他の人たちも、これを首から下げていたのだろう。
門兵たちの熱い眼差しと敬礼を背に受けながら、俺とミアは門を抜けた。
トンネルはブロック状に切り出した石をアーチ状に固定したもので、建築技術の高さがうかがえる。所々に刺さる松明の灯りが、通路をぼんやりオレンジ色に照らしている。
「門兵とどんな話したんだ?」
「最初に、通行証を持ってないだろって言われて、あのチラシを見てこの国にきた冒険者だと言ったんです。そしたら、ここで実力を見せろと言われたので、派手にやってやりました」
「なるほど。もしかしてあの火球もホームページ?」
「はい、ハッタリです。私に火を出す力はありません」
「ははははっ、ミアよくやった!」
「お安いごようでーす!」
そう言いながら、スタッフを掲げたミアの笑顔が、松明の灯りよりも眩しくて。
俺はこの世界に来てから、ずっとミアに頼りっぱなしで、自分を情けないと思っていた。さっきだってラテン語を聞いていただけで、俺には覚えられそうになくて、不安に押しつぶされそうになった。
でも……、たとえばミアがドラえもんで、俺がのび太くん——なんて、そんな甘い関係も悪くないんじゃないかと思っている。
そんな気持ちが少しずつ、膨らんでいる。




