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蝉の合奏が窓ガラスを越えて、教室に響くようになったのは先週からだ。時々イラつくことがある。それでも、この『統合知能学』の授業はいつも集中できる。
兄の運命を握っている技術なのだから、身が入るのも当然だ。
「——であるからして、AIの思考回路は確率演算型であるという点において、人間の思考回路との根本的な違いがあるといえます。これはテストに出るので覚えておくように」
統合知能学の授業はAIの一般化に伴い、十年ほど前から中学や高校の必須科目に追加された。人間の脳の仕組みとAIの思考回路の違いについて、脳神経学とプログラミングの分野から科学的知見に基づく知識を学ぶ。
分野が専門的すぎることもあり、正規の学校教員ではなく、大学の講師が派遣されて授業を受け持つことが多い。遥花の通う高校にも、五十代で白髪混じりの機械工学の講師が派遣されている。
「せんせーい」
離れた席の男子が手を上げた。
「人間の脳は何型なんですかー?」
遥花も同感する。確率演算型というワードを聞いたのだから、人間の脳は何型に分類されるのか。知りたくなるのは当然の好奇心だ。
「それは次回の授業でやる。と言いたいところだが、予習も兼ねて少し話しておこう」
先生が黒板をさっと消す。「教科書の五十九ページを開いて」の声に合わせ、生徒たちがタブレットを操作する。
『人間の思考』の章だ。
——人間の脳の思考は、言語化が難しいです。教科書で学ぶ内容も、必ずしも最適解ではありません。それでも、健全な社会活動に活かすことを目標に、科学的知見に基づいた知識を備えていきましょう。
序文は嫌いじゃない。遥花は講師の言葉に合わせて画面の端をタッチした。次のページには、脳の思考の基本概念が記されている。
「—— 人間の思考は、脳の神経回路の活動パターンによって形成されます。……同じ行動や思考を繰り返すと、その処理経路は強化されていきます。一方で、長期間使われない回路は弱まり、最終的には刈り込まれて消失します。したがって、人によって回路のパターンは全く異なり、これを個性と呼びます。……対して、AIの思考回路には『刈り込み』という概念はありません。AIは確率的演算を正確に行うことを目的として設計されているため、使われない処理が自然に消えることはないのです。この点が、人間とAIの思考回路との大きな違いです」
講師が読み上げるのを聞きながら、遥花は地下応接室で聞いたスティーブの説明を思い出す。自分だけ他の生徒より一歩先を歩いている悦びが湧き、胸の奥に小さな波紋が広がった。
遥花は先回りして文章を追いかけた。
次ページには、男子生徒の期待した答えが明記されていた。
『AIの思考を〝確立演算型〟とするなら、人間の思考は〝剪定強化型〟だと分類できます』
遥花は小学生三年生の頃に、母から聞いた言葉を思い出した。
「——死ね、という言葉を聞き続けるとね、そのうち死にたくなるの。人間の脳はそうできている。それが自分に向けられた言葉じゃなくてもね。心の中で繰り返しても同じ。……汚い言葉を使う子からは離れなさい」
ある日曜日、クラスメイトの女子友達を五人ほど家に招いてゲームで遊んだ。その日の夜のことだった。夕食の後に畳の客間に呼ばれて、正座をしながら聞かされた。遥花は誰のことを言っているのかすぐにわかった。リビングでテレビゲームをしている時に、相手に何度も「死ね!」と言う子がいた。遥花はその子のことはあまり好きではなかった。以来、自分からは話しかけないようにした。
「……というわけだ。君たちが勉強すればするほど、その回路は強化されるし、怠れば勉強の不得意な脳になっていく。それはテストの点に表れる。このことを肝に命じて、勉強に励むように」
思わず苦笑いを浮かべる生徒たち。
その教室に授業の終了を告げるチャイムが鳴り響く。
起立……礼——。遥花は上の空のまま礼をした。
人の感情について、考えを巡らせていた。
(じゃあ、人間の感情ってなんなの? ……どこかにあるの?)
* * *
—— 高鳴家 ——
兄が事故に遭ったあの日から、夕食は母と二人だけでテーブルを囲むことが多くなった。父は出張を減らし、オンライン講義をメインにしたそうだが、空いた時間を論文の執筆に当てており、結局、帰宅はいつも遅くなる。
「……ねぇ、お母さん」
「なに?」
「人間の感情って、なんなの?」
遥花は向かいで夕食を続ける母に聞いた。視線はナポリタンが盛られていた皿を向いたままだった。
プログラミングに夢中になった悠翔と違い、遥花は人間の心に興味を持った。こういうところだけは自分似だと、理実は少し悦に入る。
「事実的に言えば、感情っていうのは、同じ種類で起きる共通の反応に、名前をつけたもの、と考えられるわね」
「つまり?」
「名前のついていない感情なんていくらでもあるってこと。時代や文化によって感情の種類も変わるわ。お母さんがあなたくらいの頃には、『萌え』っていう言葉があったのよ」
「もえ? もえってなに?」
理実はナポリタンの最後の一口を、フォークでくるくると巻き取りながら答えた。
「萌えっていうのは、可愛いやトキメキに分類される感情の一つなんだけど、同じ可愛いでも、子猫やぬいぐるみとかに抱く可愛いと、性行為ができる対象に抱く可愛いは別物でしょ? 萌えは後者の方よ」
「それ、なんとなくわかる」
遥花は強くうなづいた。通学途中によく挨拶をする野良猫がいて、〝可愛い〟と思うが、好きなアイドルの写真集を見て時々思う〝可愛い〟は別物だと実感する。
「……でもなーんか、ちょっと聞きたかったことじゃない感じ」
「あらそう」
理実はサラダの残りを口に運んだ。こういう時、母は相手を突き放す。『答えを知る為の道は自分の力で作りなさい』と、遥花も教育を受けている。
遥花は食器をまとめてキッチンへ運んだ。温水で洗いながら、母から答えを引き出せる質問を考える。
——私が聞きたかったのは……、なんだったんだろう。
感情のことが聞きたかった。正体のことだ。その答えがわかれば、自分の頭の奥にある、いちばん大きな疑問も解けると思った。その根源の部分が、まだきちんと言語化できていなかった。
* * *
「馬だよな?」
「鹿かもしれません」
「でも、胴体は馬だぞ?」
「体が馬に似た鹿類かもしれません。馬の体から鹿のツノが生えるより、鹿の体から鹿のツノが生える方が自然です」
「たしかに……、鹿だけになっ(ニヤッ」
「どういう意味ですか?」
ぐふっ
「……気にしないで、行こう」
「あ、待ってくださいっ」
俺は落とした肩を置き去りにしたまま、家畜を囲う柵の向こうに見える煉瓦作りの一軒家を目指した。煙突から一筋の煙が昇っている。窓からランプ色の明かりも漏れている。ドーンさんは在宅中と見て間違いないだろう。
——しかし、この柵の中でモシャモシャと草を頬張るあの生き物。体はどう見ても馬だが、頭部の天辺からは立派な鹿の角が生えている。否応なしに、あの二文字の言葉が頭を駆け巡る。いやそれ以外ないだろ、この生き物の名前は。
ドーン牧場は市場街を抜けたあと、月明かりだけが頼りの何もない林道をひたすら歩いた先にあった。王都だからどこまでも建物がひしめき合っているイメージだったが、ぜんぜんそんなことはなかった。
恐らくこの世界にはまだ電気が存在しないのか、それともインフラ化する技術がないのか……。街灯は火をつかっていたし、ここまで電柱らしきものも見ていない。まさか地中配線ではないだろう。
ギルドのセシリアさんはミアの字を見て、「まるで機械のよう」と言っていたから、何かしらの工学技術はあると思うが。
道中に立ち寄った公園の公衆トイレも、機械式の水洗ではなかったが、土中に敷かれた石造りの水路を利用して、排泄物が流れる仕組みになっていた。
知らないことが多すぎる——、もっとこの世界のことを詳しく知るべきだ。その時間を、どこかでとった方が良さそうだ。
俺はそんなことを頭の片隅でぼんやり整理しながら、ドアノッカーを軽く二回叩いた。というか、もういろいろありすぎて頭が働かなくなりつつある。
「どちらさま?」
女性の声だった。老いは感じないが、若くもない。
「夜遅くにすみません。ギルドでドーンさんの依頼を受けた冒険者です」
ドアがキィと音を立てながらゆっくりと手前に開く。その隙間から、草刈り鎌を持った太い腕が現れた。俺とミアは一歩たじろいで様子を見る。
姿を現したのは、ずんぐりとした体に、茶色い口髭を蓄えたじいさんだった。猛獣のように血走った鋭い眼が、俺たちを交互に睨む。
背後には、不安げにこちらを見る中年の女性が。
「どうやら、本物の人間のようだな——」
弱々しく呟いたじいさんは、膝からガクンとなって尻を着いた。
「あんたっ、大丈夫かいっ!?」
「ちょ、じいさんっ!」
駆け寄った勢いで二の腕に手を添えた。俺の二倍はある太さだ。
「すまんな坊主……、ここんところくに寝てなくてな。さぁ、上がってくれ」
俺とおばさんの肩をつかって、じいさんはなんとか立ち上がった。そのまま玄関の中へと進み、奥のリビングにじいさんを寝かせた。仰向けになってからも深い呼吸が収まらず、体力的なしんどさがうかがえる。
その時、視線に気づいて振り返ると、テーブル席に座る子供が体をひねって俺たちの様子をじっと見ていた。年齢は七、八歳……。小学校低学年ってところか。
ぼんやりとした眼差しで、俺とミアの姿を観察している。その隣には、テーブルの縁にその身を預けるようにして、二本の古ぼけた松葉杖が立てかけられていた。