-> "story": return "episord 2: Whole New World" (3/4)
トンネルの出口が近づくにつれて、通路いっぱいに市場の喧騒が膨らんでいく。その活気に当てられた俺は、無意識に駆け出していた。
あっ、ユウトさん待って——
通路に響いたはずミアの声は、すぐに喧騒の圧に紛れた。
まず、目に飛び込んできたのは、デカい噴水とその中央にそびえ建つ石造りの時計塔。ざっと見渡すと、ここは円形の広場で、外周に沿って露店がぎっしりと並ぶ賑やかな市場だった。露店には見たことのない食べ物や雑貨が並んでいる。ピエロ姿のパフォーマーは、小さなアコーディオンを奏でながら陽気なダンスを踊り、通りを行き交う買い物客の視線を集めている。
俺とミアはしばし、この活気に満ち溢れた空気に心を奪われた。
夕焼け空の下、等間隔に建ち並ぶ街灯の火が、市場と街の中央を横断する道を幻想的に照らしている。
これが観光旅行なら、きっと胸が弾んでいただろう。
車椅子なしで、自分の足で歩いて、好きなように探索できるんだ。楽しくないわけがない。
でも今の俺に、そんな体力は残っていなかった。
「はぁー……、ちょっと座ろうぜ」
噴水をぐるりと囲む段差には、人々が座ったり寝そべったりして、思い思いにくつろいでいた。俺も適当なところに腰を下ろし、疲れ切った足をぐいぃっと伸ばす。ミアも俺の隣で三角座りをすると、膝の上にころんと横顔をのせた。
「お疲れさまです。ここまで本当に長かったですね」
落ち着いたミアの声が、俺の耳を優しく撫でる。
「……ミアも疲れてるだろぉ〜」
生気を欠いた俺の声を、雑踏の喧騒がかき消す。
藍色の空の奥に、数えきれないほどの星が瞬いている。
騒々しさに不慣れな体が、宇宙へ吸い込まれそうになる。
「まぁ、それなりには」
「俺のことばかり、心配しないでくれ……」
疲れすぎて、伝えたいことがまとまらない。
「……ミアがいなかったらたぶん、俺はここに来る前にくたばっていたと思う。心より礼を言うよ」
「お礼なんていいんですよ。私はユウトさんのサポートAIですから」
左手の甲が、柔かくてあたたかいものに包まれた。それがミアの小さな手のひらで、自分がずっと見つめられていたことに気づく。
ミアの瞳から視線が逸せない。
顔面が熱い。
元の世界では一度だって体験したことのない感覚が胸を縛る。こういうのを《《照れる》》っていうんだろうか。
カーン カーン——
時計台の鐘が鳴り、俺の縛りが解けた。
盤の文字は読めないが、短針が真下、長針が真上を指している。十八時、でいいだろう。
「これが鐘の音……」
ミアが両耳の裏に手を添えて、広場に響き渡る金属音に耳を澄ましていた。
その呟きに、俺はハッと気づく。
「そっか。聴いたことないんだ」
「はい。理論的なデータとしては知っていますが」
これでもプロンプトエンジニアの端くれだ。
好奇心がくすぐられる。
だらっと伸ばしていた姿勢をあぐらにする。
「初めて聴く鐘の音は、どんな感じなんだ?」
そうですね——、と呟いてから、ミアがゆっくりと時計台を見上げた。
そして瞼を閉ざし、ピンク色の唇を開いた。
「……聴いていると、身体が少し震えるような感覚があります——」
うんうん。
「音波が空気を伝わると、金属の振動が時間差で耳に届いて、」
うん?
「その間隔の規則性が、脳内の聴覚処理に同期して、心地よく、胸が高鳴るリズムとして認識されます」
うーん、これじゃただの分析だ。いかにもAIっぽい。
違和感を捕まえようとする気持ちが腕を組ませる。
ダメじゃないけど、なんだかなぁ。
「つまり……、えっと、これはたぶん…………」
閉じていた瞼がゆっくりと持ち上がり、瑠璃のような瞳が俺を見る。
「『綺麗』、なんだと思います」
おっ——、
「そうそれ! 合ってるよ」
「本当ですか? やった!」
ミアが小さく握った拳をあげた。
「どうやら俺にも、教えられることがあるようだな」
「肉体や感覚のフィードバックに関しては、まだ自然な反応ができません。ユウトさん、頼りにしています」
そう言ってミアがまた俺に抱きつこうとする。
慎ましい膨らみが、左腕に触れかけた瞬間に、俺は体を右に避けた。
「……ミアその……、たまに近すぎる。困るんだ。俺も男だから」
俺の心臓の高鳴りをよそに、またきょとん顔を見せる。
「ただのハグですよ?」
ハグ——。そうか、謎が解けた。
ミアのAIシステムを開発したのは、アメリカの会社だった。
「そういう国はあるよね。ただ俺は、日本人だからさ」
「でも私、もっと——」
ヒヒェーン!
——超びっくりした!
俺のすぐ右後ろを闊歩していた馬車が突然鳴いたのだ。心臓に悪い。
通過する馬車のケツを見送りながら、俺はミアに聞いた。
「いま何か言いかけた?」
その途端、左耳に甘い吐息がかかった。
ミアがずいっと顔を近づけていた。
そして、耳元で囁くように言った。
「でも私、この体でもっと触れてみたいんです」
触れてみたいんです——
触れてみたいんです——
……れてみたいんです——
今度こそ反対側の耳の穴から血が噴き出したかと思ったぜ!
しかし、このくらくらとした気持ちは本物だ!
体の内側からすごい鼓動が!
心臓が勃っちゃう!
も う 限 界 だ !
「よーし、わかった! 好きなだけ俺に触れてく——」
「わぁ! ユウトさんあれ美味しそうです! いってみましょう」
——残された俺の頬に冷たい風が掠った。
ミアのハグを全身で受け止めるために、天高く上げた両腕から力が抜けていく。
このくしゃみが出そうで出なかったよーな感覚——、名前を知ってる奴がいたら、誰か教えてくれ……。
* * *
ミアが向かったのは、荷車をキッチンカーのように改造した露店だった。その荷台の上には、小さな生き物が集まっているかのように、割り箸に突き刺さった飴細工っぽい食べ物が鈴なりに並んでいる。
可愛くディフォルメされた犬と猫の形、その隣はドラゴンの顔か? 一目で愛玩動物とわかるものから、モンスターっぽい見た目のものまで様々なかたちが揃っている。
地面に垂れ落ちそうな、どろどろの練り飴の絡みついた二本の割り箸を巧みに操るのは、白髪白髭の男、この店の店主だろう。虹色だった飴はやがて真っ白に変化し、四角い型に素早く収められた。
その蓋が開くと、ピンクのハートの形が現れた。
「わぁ、すごい! すごい! ユウトさんあれ見てください!」
目を輝かせながらパチパチと拍手するミア。
そういえばミアのカスタマイズをしていた時、『職人技術はAIの天敵』という記事をネットで読んだことがある。人の感覚がものをいう匠の技は、AIから見ても語彙力を失うものらしい。
さっきのパフォーマンスも素人がやれば、きっと練り込みがうまくいかず、地面に落としたりしてしまうのだろう。
飴の味は気になるが、俺たちは無一文。適当なところでこの場を離れたい。
腹も減ったし、寝床も決まっていない。考えることは山積みだ。
そう思っていると、店主がこちらを見やった。
「パニア プアエラ ウンム ピラネム ウエルヌス」
「アー ミスエレ エスト プーペラ ハベオ」
「イタ エスト イルラ アデクア アドヴェンチュラレス エス タメン ギルディア ペル」
なんて言ってるんだ?
「ユウトさん、ギルドでお金が稼げるそうですよ」
「ギルド……、そうか! うっかりしていた。異世界あるあるの冒険者ギルドがこの世界にもあるんだ」
その後、ミアが店主からギルドの場所を聞き出した。
この円形広場から続くメインストリートを進んだところにあるらしい。
「オジ・グラティア、グラーティア!」
「エクスペクタ プエッラ ホク ポスト メルケデム サティス エスト メリトゥム アクウィスィトゥム プエッラ レデ メルカトゥム」
立ち去ろうとした俺たちに、店主は二本の飴細工を差し出した。犬と猫っぽい形をした赤色の、一番小さなやつだ。
「え? タダ?」
「出世払いでいいと言っています。ありがたく受け取りましょう」
「グラーティア マクシマ!」
「ぐ、ぐらぅうぃあ あぅしま!」
涙が出そうになるほど嬉しかった。
俺は思い切り頭を下げた。顔を上げると、店主の優しい顔が俺を見て頷いていた。
社交辞令じゃない——、心の底からのお礼を言うなんて、人生で初めてのことだった。