私、ハンバーグになります
ハンバーグ、それはこの国で年齢関係なく愛される食べ物である。
ひき肉に玉ねぎ、パン粉、卵などを混ぜ、俵型に形成し、こんがりと焼く。
文字に起こすと一見簡単に見えるが焼き加減などで美味しさが変わってしまう繊細な食べ物である。
私にとっては幼い頃から大人になった現在まで好きな食べ物ランキング1位の食べ物だ。
だから、私が25歳を迎える今日もハンバーグを食べている。
私はこれまでどんな人にも笑顔で、自らの感情を表に出すことなく周りに合わせて生きてきた。他の人間に好きになってもらいたくて、愛される人間になりたくて。私がこれまで生きてきた二十五年間、それだけのために全てを注いだと言っても過言ではない。おかげで周囲の人間とは仲良くやっているし、友人も多い方だと自負している。
しかし、世の中には私よりも遥かに人気があり、大勢の人間に愛される者達がいる。
それは容姿であったり、人間性であったり、頭脳であったりとそれぞれ理由は違うが、多くの人間から認知されて、テレビや雑誌など表面上しか映ることのないメディアでの姿だけで多くの人間から愛を受けていた。
私はそれが許せなかった。他人より少し優れた部分を持って生まれただけの人間が努力もせずに大勢から愛されている事が。
私はこんなに頑張っているのに、こんなに努力しているのにそれを評価しない周囲の人間にも腹が立って仕方なかった。
私は考える。
何故私は彼等の様に大勢から好かれる人気者になれないのか。
私と彼等の差は世間に認知されているかどうかだ。私だって他人から認知されればきっと好きになってもらえる。
もっと多くの人から愛してもらえる。
私は考える。
どうすれば世間に認知されるか。世間で彼等より認知されており、多くの人間から愛されているものになる。そうすれば私はこの国で最も愛される人間になれるはずだ。
私は考えた。
そして私はハンバーグになることにした。
私は二十五歳の誕生日を迎えた翌日、ちょうど仕事も休みであったため、どのようにしたら多くの人間に周知することができるのかを調べていた。ただ一人でハンバーグになるだけでは何の意味もない。この国で多くの人間に好かれるためにやっているのだから少しでも多くの人間に知ってもらわなければならないから。
しかし、テレビやラジオといった電波に乗せて発信しようにも不可解であり危険な思想とも捉えられる私の目標にわざわざ協力しようと思うものはいないだろう。新聞や雑誌、広告など紙媒体での周知についても同様だ。そもそも調べるだけで簡単に人気者になれるのであればこの国は有名人だらけになる。考えれば分かることであったが、周りへの嫉妬や焦りが私をから冷静さを奪ったのだろう。最初から躓いてしまった気分になったがとりあえず、何もせずに考えるよりはマシだとSNSに投稿してみる。
「一年後の誕生日に私はハンバーグになります。」
自分で投稿しておいてなんだが、誰がどうみても意味のわからない文章であり、これを見た人間達の反応が容易に想像できた。まぁ、そもそも私のSNSをチェックしている人間もいるはずも無く、これを見たからといって反応してくる可能性の方が低いのだが。とにかく、私がハンバーグになるための第一歩を踏み出したのである。
さて、目標を立てたはいいがこんな馬鹿げた考えに前例があるはずも無くどこにも道がない状態からのスタートである。私は部屋で1人座りながら。なんとなくスマホを使って検索してみた。
「人間 ハンバーグ 作り方」
もちろん、そんなものを調べてもまともな答えが出るはずも無く、動画サイトに上がっているよく分からない投稿が数件出る程度であった。
その後、いつもと変わらないダラダラとした休日を過ごしながらふとした時に少し調べてみたりと、無意味な時間を過ごしていたため、大した進展はなく、SNSに訳の分からない投稿を行っただけの1日になった。だが、私の頭の中ではどんどん話は進んでおり人気者になるまでの道が出来上がっていた。これは私の悪癖であるのだが、まだ一歩目を踏み出したに過ぎないのに自らの行動を頭の中で過大評価し、それを自分以外の他人にも求めてしまう。SNSでの投稿が誰かしらの目に留まり、そこから世間に広がり大きな盛り上がりを見せ、私に注目が集まる。そして、世間が私を認知さえすれば人気者になることは間違いないため、この国で最も人気のある人間になることができるはずだ。そんな想像が私以外の支配者がいない頭の中の世界では容易に完成してしまうため、この計画が順調に進むと確信を持ってしまう。まぁ、一晩寝て全く盛り上がっていない現実を見れば浅はかな想像であったと自覚することが出来るのでまだマシかもしれないが。しかし、今の私はまだ眠りについていない。つまり、私の想像を止めることが出来る現実はまだ生まれていないのだ。人気者にさえなれれば、お金も容易に手に入るだろうし、これまで私の事を見下したことのある人間はその時の行動を後悔するだろうし、私の望むものを簡単に手に入れることができるはずだ。止めるもののいない世界で私は人気者になるルートを何度も往復しながら、期待に胸を躍らせる。早くその現実が来てほしくて、でも少し離れて見ている別の私はそんな事あり得ないと言っていて、別の私の意見を無視しながら私は想像を膨らませて、交わることの無い色を私の心がぐちゃぐちゃに混ぜようとしていて、しばらく眠れなかったが、突然やってきた眠気に現実を真っ黒に染められた。
休日だというのに珍しく早く起きた私はすぐさまスマホを手に取った。寝起きだというのに頭はすこぶる好調らしい。別の私が平日もそのぐらい寝起きが良ければいいのにとぼやいてるのはもちろん無視した。自分でも何故か分からない程に期待が膨らんでいる。子どもの頃、枕元に置いてあったクリスマスのプレゼントを開けるような気持ちでスマホを開く。ここからは皆さんの想像通りの展開だ。
私が期待していたような事は起きていないという現実をスマホの画面が教えてくれる。そこには私の好きな画像とともに的確な日時を教えるためにその他一切を排除している働きぶりが見てとれた。そんなスマホの働きぶりに落胆しながらもSNSを開いてみる。誰からの反応もまだ来ていないようで、私の想像は妄想だったという現実をしっかりと確信できた。そんな現実を見た私は自分を宥めるために初めから期待していなかったような素振りを見せつけるためスマホを閉じた。
まずはカーテンを開け、周囲の建物に阻まれながらも射し込む朝日を受け止める。スマホとは違う暖かみのある眩しさを噛み締めながら、キッチンへ向かいやかんでお湯を沸かす。その音をBGMにしながらそのままキッチンで顔を洗い、ティッシュで水を拭き取り、コーヒーを飲む準備を始める。
ちなみに私はコーヒーが苦手であるが、かっこいいという安直な思考で休日の朝は必ず飲むようにしていた。まぁ、この家にいるのは私一人であるためこの事を知っているのは私のみなのだが。他人は口を揃えてこう言うだろう。誰に向けてかっこうつけているのかと。そう聞かれれば即答できる。私は私自身にかっこうつけているのだ。やかんがもう限界だと私を呼んでいるため話を戻そう。やかんを火から助け出し、マグカップにお湯を注ぐとインスタントコーヒーの匂いが強く主張し始める。その匂いに少し負けそうになりながらもコーヒーに立ち向かうのだ。それから20分程コーヒーと戦い、ようやく倒すことができた。ここまで終えた私は寝起きよりも幾許か気持ちに余裕ができた。
さて、またここから考えなければならない。
昨日は1日かかったがようやく人気者へのエスカレーターに乗れたと思っていた。だが、私はエスカレーターではなく先の見えない階段の1段目に足をかけたにすぎなかったようだ。それなら二歩目はどうする。私は人気者になる方法を知らないし、調べてもその方法は分からなかった。それならば私は人気者を徹底的に調べ上げ、その秘密を知るのが一番の近道では無いだろうか。つまり私は今からハンバーグについて徹底的に調べるべきである。
ということで私は近所のハンバーグ専門店に行く事にした。そこは私の行きつけであり、先日の誕生日もここで食事したばかりだ。ここのハンバーグは私の人生にとって至上の味である。鉄板の上で心地いいサウンドを奏でながら運ばれてくるハンバーグ。目の前に置かれたそれを一口サイズに箸で切り取り、溢れる肉汁とともに口に運ぶ。その熱さを堪えながら、肉を噛み締めると口に広がるのは幸せだ。そこにすかさず米を運ぶ事によって更なる幸せへの階段を登ることが出来る。その時の事を思い出すだけでも頬が緩みそうだ。
しかし、今回は純粋に味わうだけでなく、この味を研究し再現出来るようにしなければならない。思い出に緩んでしまいそうな頬を引き締め直し、店の入り口へと向かった。店内に入るといつものように迎え入れてくれるアルバイトの学生さんたちの笑顔。私はここの常連であるため顔を覚えられているため、こちらも笑顔でそれに応える。いつものように窓際のせいに座ると直ぐに店員さんがやってきた。
「こんにちは、本日は何をお召し上がりになりますか?」
今回、私の元にやってきたのは二年前ぐらいからここで働いている近所の高校生であった。
「こんにちは、今日もこれをお願いします」
私がすかさずそう答えると、最初からその回答を分かっていたかのように返事が返ってくる。
「はい、かしこまりました!少々お待ちください!」
元気の良い返事に心が染められる。
まだ笑顔の余韻が残る私は、その顔をゆっくり戻しながら彼が厨房に帰って行くのを見送った後、いつものルーティンに入る。この店に来た時には注文してから出来上がるまで、ゆっくりとメニューを見る。そして、メニューの中から自分が食べてみたいランキングをつけていく。これが私のルーティンだ。まぁ、私は一度美味しいと思ったものを何度も食べてしまうタイプのため、そのメニューを頼むことはないのだが。そんな事をしていると、ジューっと鉄板で肉が焼けている心地いい音が耳に届いた。ついにやけてしまいそうになる頬を引き締め、私はハンバーグに真摯に向き合うため、ゆっくりと心を整える。ふーっと体から空気を出来るだけ取り除く。
「お待たせしました、こちらハンバーグとライスになります。」
その声とともに私の目の前に置かれるハンバーグ。
「ありがとう」
運んでくれた彼にお礼を言い、私は思いっきり息を吸い込む。全身を駆け巡る肉の匂い。それだけで私の胃をハンバーグが満たしていく気がした。
「いただきます。」
両手を合わせ、口から唾液が溢れそうになるのを堪えながら冷静に割り箸を割る。これも小さな私のこだわりなのだが、ハンバーグは箸で食べると決めているため、ともに運ばれてきたナイフとフォークには手をつけない。私は箸を右手で持ち、ゆっくりとハンバーグの真ん中に箸を入れ半分にする。そうすれば必然と溢れてくる肉汁。それが熱せられた鉄板に落ちれば一瞬で蒸発して行くのを尻目に次々と箸を入れて行き、八等分に切り分ける。
そして、その一つを出来るだけ肉汁を溢さぬようにライスの上に運び、数回バウンドさせてから口に運ぶ。口の中に広がる圧倒的な旨味、吹きこぼれるかと思うほどの肉汁。その味をゆっくりと堪能する。
(これだ。これこそ私が目指すべきハンバーグだ!)
自身が目指す目標を再認識出来た、それだけでもこの店に来た意味があったと満足しながらハンバーグを食べ進める。
(あぁ、最後の一口だ。)
いつもの事ながらあっという間に最後の一口を迎えてしまい、大きな喪失感に苛まれる。早く味わいたい気持ちと終わってしまう悲しみを抱えながらもハンバーグを口に運び、深くまで味わってから胃に落とし込んだ。
「ご馳走様でした。」
至福。それ以上の言葉を持ち合わせていない自分が情け無いが、とにかく至福の時間であった。
(あぁ、来て良かった。私も一年後、このぐらい美味しいハンバーグになろう。)
ハンバーグを食べてこんな事を考えているのは私ぐらいであろう。目標の味は再確認できた。では次やることは何か。
(美味しいハンバーグになるためにやる事か。
うーん、そんなの考えた事ある人がいるんだろうか)
自分で目標を立てたのだが、それが相当に頭のおかしい事だというのは自覚している。そもそもハンバーグになろうとした人間は存在しないのだから何から手をつけるかは自らで考え実行していくしかない。私は自宅に帰り、テレビを見ながらダラダラと考える。しかし、いい案は全く浮かばないまま今日も私は夢の世界へと旅立ってしまうのだった。
「ヴー、ヴー」
いつも静かな私のスマホが珍しく存在を主張している音で目が覚める。
今は夏真っ只中であるため、外の暗さが現在の時間を教えてくれた。
(こんな時間に誰だ?)
こんな時間に電話をかけてくるような人物に全く心当たりはない。
不思議に思いながらも寝ぼけたまま携帯を確認すると、そこには夥しい数の通知が映し出されていた。
「は!?」
眠気なんて一瞬でいなくなった。
全身に熱が奔り、真っ赤に染め上げる。
(これ、現実か!?)
思考はもうぐちゃぐちゃにされており、冷静になんてなれるはずもなかった。
これは夢か現実か、それすらも曖昧にしてしまう非現実的な現実に私の身体は震えていた。そんな私の様子は知ったことではないと私のスマホはこの現実を受け止めろとうるさくなり続けていた。私は一度冷静になろうとスマホを置き水を飲みに行く。冷蔵庫までのほんの数メートル、普段なら何も思わないが、今はそこにたどり着く数秒が惜しくてつい小走りになる。そして冷蔵庫から取り出した冷えた水を思いっきり飲み、熱くなった頭と身体を冷ました私は少し冷静になることが出来た。
(落ち着け、もしかしたらスマホが壊れただけかもしれない、タチの悪い嫌がらせかもしれない、これが私が望んでた現実かどうかまだ分からないじゃないか。)
そう自分に言い聞かせたが、私の身体の震えは止まらない。それはそうだ。だって、ずっとこうなることを望んでた。人気者になりたかった。そうならない現実が、世間が私を認めていないこの世界がおかしいと思っていた、理不尽だと思っていた。それがようやく変わる。私の望んだ通りの世界になる。そう考えるだけで今にも奇声をあげて走り出しそうな身体を常に冷静な方がかっこいいと言う小さな自尊心が私を何とか繋ぎ止めているだけなのだから。とりあえず、確認するため私は一度大きく息を吸い込みスマホを手に取り画面を開く。そこには私があの投稿を行ったSNSからの通知がしっかりと映し出されていた。それを見た瞬間、私の小さな自尊心はあっという間に行方不明になり、何と抑えられていた声が腹の底から漏れ出した。
「あああああ!」
何の意味もないただの叫び声。しかし、その声には私の全てが込められていた。
気が付くと、朝だった。あれからしばらく叫んだ後、隣人に怒鳴られ少し冷静になった私は画面を見て悶えたり、ニヤニヤしたり、最後には何故か涙が出てしばらく泣いていた所までは覚えているのだが、どうやらそこで力尽き寝てしまったようだ。私はとりあえずスマホを手に取った。これで夢だったら本当に笑えないなと思いながらその画面を確認すると、昨夜の出来事が夢ではなく現実であることを証明してくれていた。つい上がってしまう口角を抑えながらスマホを眺めていると、会社に行く時間が迫っているのに気付いた。私は急いで準備を終わらせ車に乗り込んだ。だが、そこで私の悪癖が顔を出す。もう人気者になってしまった私はこれからきっとテレビやラジオ、雑誌など引っ張りだこになるだろう。それならばもう会社に行き、仕事をする必要などないのではないか。そこまで考えた時、心の中にいる冷静な私が私の暴走を止めようと必死に何か叫んでいるがそんなものでは止まらなかった。私はすぐさま会社に電話し、やりたいことが出来たから仕事を辞めると伝えた。すると、自分でも驚くほど上司に止められてしまった。何故止めるのか、君は必要な人間だ、一度会社に来て話そうと繰り返し言われたため、私はとりあえず会社に行くことにした。ここまで愛されているとは正直思っていなかったため、やはり自分がしてきたことは間違いなかったと気分良く会社に向かう。
「おはようございます」
会社に着き、いつものように挨拶した私にすぐ部長が声をかけてきた。
「おはよう。ちょっとこちらで話そうか。」
そう言いながら個室へ向かう私達の様子に周囲が騒ついているのが分かる。それを横目に歩く私の心は浮かれ切っていた。きっとこれから会社を辞めないでくれと説得される。部長はもちろん、他の社員も私の事を止めるだろう。それを想像するだけで口角が上がりそうになるが、流石にこの場でそんな表情を見せるわけにもいかないので必死に堪えていた。
「電話でも聞いたがもう一度確認させてくれ。本当に辞めたいのかな?」
真剣な眼差しでそう聞く部長に私も真剣な眼差しで返す。
「はい、申し訳ありませんがやりたいことが出来たので。」
私の言葉に部長の口から溜息が漏れ出した。
「そうか、先程電話をもらった時は焦って止めてしまったが、君の人生を私たちが邪魔するわけにはいかないな。だが、流石に今日や明日辞めると言うのは出来ない。君の業務を他の社員にやってもらう事になるからね。引き継ぎ期間を含めて、二週間後でどうだろうか?」
そんな部長に正直拍子抜けしてしまった。先程の電話のように必死に引き留めてくれると思っていたから。もちろん、スムーズに辞めれるに越したことはないし、二週間という引き継ぎ期間も本来よりかなり短くしてくれてたことはありがたい。だが、もっと引き留めてくれてもいいのにと拗ねている自分もいた。そんな内心を見せられるはずもなく、私は感謝の言葉を返す。
「私のわがままを受け入れていただきありがとうございます。いつか必ずお礼をしますので楽しみにしていてください。」
その言葉に部長も笑顔を見せてくれた。
「君は約束を必ず守ると社内でも有名だったね。分かった、楽しみにしてるよ。皆には今から報告させてもらうが構わないかな?」
「はい、もちろんです。私も一言挨拶してもよろしいでしょうか?」
それに頷きながら個室を出た部長の後を私も追った。
「皆、仕事中にすまない。余裕がある者だけでいいから少し時間をくれ。」
その場にいたほとんどの人間が部長と私の方を見る。
「君の口から伝えてくれ。その方がいいだろう。」
そう促された私は一歩前に出た。
「皆さん、突然ですが私は二週間後に会社を辞めます。」
私の言葉に皆がざわつき、驚きを隠せない様子であった。
(ふふ、これだよ。私が求めていたのは。)
まさに予想通りの反応が返ってきたことに嬉しくなる。しかし、それに一人の男が水を差した。
「僕は応援します。さっき少し聞こえてきたんですけど、他にやりたいことが出来たんですよね?僕たちのことは気にせず、頑張ってください!」
この男は私の直属の部下である。非常に私になついており、私が会社を辞めると言ったらこの男が一番引き止めるだろうと思っていた。その男が私の真逆の行動をとったことに私が驚いていると周囲の人間が同調し始めた。
「俺も応援してるぞ!」
「頑張れよ!」
次々と送られてくる激励の言葉、非常にありがたいことではあるが、望んでいる言葉ではない。私はつい苦虫を噛み潰したような表情になってしまった。
(しまった、見られたか?)
普段なら絶対に見せることのない素の表情、恐らく昨日からの興奮と寝不足で身体は思ったよりも鈍っているのだろう。
(くそ、最後の最後でミスった。)
そこまで大きなミスではない。だが、ここまで完璧な人間を演じてきたのにここでミスをしてしまったことは非常に悔やまれる。そんな私を救ったのは先程私の言葉に水を差した部下であった。
「先輩、そんな悲しそうな顔しないでください。僕達も先輩の事、止めたくなっちゃうじゃないですか。」
そういう彼は心の底から寂しいといった表情だった。そんな彼に再び周囲の人間が同調し暗い表情をしている。
(大逆転じゃん、良くやったぞ。)
まさか、自分のミスを部下に助けられる日が来るとは思いもよらぬ展開になったが、私のやってきた事は間違いないと改めて証明されたような気がした。
「そろそろ帰ろうか。」
定時になったため、引き継ぎしていた部下にそう伝え、私は帰る準備を始めた。
「はい、ありがとうございました!明日もよろしくお願いします!」
元気よく挨拶する彼に軽く手をあげながら会社を出た。
(さて、どうなってるかな)
会社を出た私は直ぐにスマホを開き、SNSを確認した。昨夜ほどでは無いものの、未だ届き続ける通知に頬が緩んだ。それに軽く目を通していると一つのメッセージが目に止まる。
「突然のご連絡失礼します。私、〇〇テレビの取材班です。上記の投稿に関してお話をお伺いしたくご連絡いたしました。大変お手数ではございますが、一度フォローしていただき、メッセージにて詳しくお話をお伺いできればと思います。何卒よろしくお願いいたします。」
テレビ局からの取材依頼と思われるメッセージ。歩いていた私の足は自然と止まる。跳ね上がる心臓を抑えながら、直ぐにそのアカウントが本物であるかを確認した。
(これ、本物だ。)
SNSアカウントの番組名を検索したところ、深夜帯で放送している実在する番組であることが分かった。その場でつい爆発しそうな喜びを必死に堪えながら、私はすぐさまフォローし、メッセージを開いた。
「お世話になっております。突然の連絡、申し訳ありません。この度は…」
そんな定型文から始まったメッセージ。その内容は番組の中でSNSで反響のあったものから面白そうなものをピックアップしその投稿をした人物を取材する企画があり、それに出演してもらえないかというものだった。
(これでもっと大勢に私の事を知ってもらえる。)
これからの未来を想像した私は先程まで堪えていた喜びが爆発してしまい、声が漏れてしまった。。
(やばい、ただの変人だ。早く車に乗らないと。)
道を歩く人達の目線が一斉にこちらに向けられたのが分かった。どうやら、今日は本当に身体が言う事を聞いてくれないようだ。その目線から逃げるように早足で駐車場まで向かい、車に乗り込む。そこでついにそれまで我慢していた喜びや興奮が溢れ出した。
「やった、やったぞ!これまで私のやってきたことが報われたんだ!ははっ。」
昨日から叫んでばかりだなと隣に座っていた冷静な私が声をかけるがそんなものは知ったことないと落ち着くまで叫び続けた。
(ふぅ、落ち着いたな)
ある程度叫んで落ち着いた私は真っ直ぐ帰宅する。その道中でも昨日からの出来事を思い出し、ハンドルを叩きながらニヤニヤが止まらない。いつもは長く感じる帰り道もあっという間だった。
「ただいま!」
家に着いた私は誰もいない部屋に向かって自らの帰りを告げる。返ってこないと分かっているのだが今日は何故か言いたい気分だった。それからも独り言を呟いたり、鼻歌を歌ったり、普段なら絶対に笑わないテレビ番組で大笑いしたりと自分でも引いてしまうほど浮かれていた。それはベッドに入ってからも変わらず、身体は疲れているはずなのに欠片も眠気がやってこない。ただ転がっているのも勿体無いためSNSに届いているメッセージやコメントなどをチェックすることにした。夕方はテレビ局からのメッセージに夢中になってしまったため気付かなかったが、応援や批判、面白がるなど人々の反応は様々で見ていると中々に面白かった。
(こんなに見てくれてる人がいるのか)
私の投稿をこんなに多くの人が見て、こんなに多くの反応をしてくれている。それがとても嬉しくて、これまでの人生が報われた気がして、もう一人じゃない気がして、気が付くと私の目からは涙が溢れていた。
(本当に今日の情緒は不安定すぎるな)
それからしばらく泣き続けて、涙が止まったと思ったら急激な眠気に襲われそのまま眠りについたのだった。
あれから一週間、私は先日連絡のあったテレビ局からの取材を受けるため、指定された場所へ向かっていた。まさに私の人生を賭けた大勝負、この日のために髪を整え、服を新調した。あとはありのままの自分を表現すれば私はもっと人気者になれる。何の根拠もない確信を持ちながら車を走らせた。
「おはようございます。」
集合場所に着いた私は部屋で待っていた男性に声をかける。彼は私に気付くとすぐに笑顔を作り、こちらに歩み寄ってきた。
「おはようございます。私、この番組の担当プロデューサーの〇〇です。」
定型文の挨拶を交わし、簡単な打ち合わせを行い、すぐにインタビューが始まった。
「早速ですがあなたは何故SNSにあのような投稿をしたのですか?」
とても簡単な質問、まさに最初の問いかけに相応しいものだ。しかし、私にとってはこれが最大の難問となる。もちろん、素直に有名になりたかったからと答えるわけにもいかない。それなりに筋の通った解答をする必要があるのだが、それが難しかった。少し考えた私は何とか答えを絞り出す。
「私、ハンバーグがこの世で一番好きなものなんです。皆さんも好きなものになりたいと一度は思ったことがあるのではないでしょうか?私もそれと同じです。」
これが正解だったのか、もっといい答えがあったのではないか、そんな問いかけに答える暇もなく次の質問が飛んでくる。
「なるほど。では、具体的にハンバーグになるというのはどういうことなのでしょうか?」
先程とは打って変わって、非常に答えやすい質問である。それに少し安堵しながら私は答えた。
「私の身体を挽肉にし、それを材料としてハンバーグを作ってもらうんです。もちろん、私はそれに向けて身体づくりをし、世界一美味しいハンバーグとして食べてもらうつもりです。」
私の答えに明らかにその場の人間が引いていくのが分かった。しかし、流石はプロ。それをすぐに笑顔で隠しながらインタビューを続けた。
「それは凄いですね。私は正直、恐ろしく感じてしまいました。ちなみに貴方を加工する方や料理する方、食べる方は決まっているのでしょうか?」
「いえ、それはまだ全く決まっていないです。ですので、この機会に募集させていただきたいのですが、よろしいですか?」
この質問は私が待ち望んでいたものだった。私が美味しいハンバーグになるためには質問の通り、様々な分野のプロに依頼しなければならないが、一般人である私に伝手などあるわけもなく、どのように探せばいいかと悩んでいた。そのタイミングで丁度テレビ局からの取材依頼があったため、それを上手く使い宣伝できないかと考えてはいたのだが、ここまで絶好の機会が来るとは思わなかった。インタビュアーの了承を得た私は番組視聴者に向けて宣伝する。
「この番組をご覧の皆様、私のことを加工、料理、食べてみたいという方は私のSNSにメッセージをお送りください。よろしくお願いいたします。」
こうして無事に宣伝を終えた私はその後更に三つほどの質問に答え、インタビューを終えた。
「では、本日はこれで終わりになります。ありがとうございました。」
軽く挨拶を交わし、見送られながら部屋を出た所で気が抜けた私は大きく息を吐いた。
(あれが放送されたらどうなるんだろ。)
普段の私なら、今回のインタビューが放送されれば必ず今以上に多くの人に認知してもらえ、私はこの国でもトップクラスの人気者になれるだろうと浅はかな妄想をしているのだが、今日はやけに頭が冷えていた。
(多分、面白半分で応援してくれる人もいるだろうけど、批判も相当来るはず。)
SNSと同じく、必ず私のやっている事を批判する人は出てくる。しかもSNSでの投稿と違い、より具体的にハンバーグになることについて話しているのだから尚更だ。
(でも、本当の人気者になるためにはその人達にも認めてもらう必要がある。)
私が目指すのはこの国で一番の人気者だ。そうなるためには私の事を否定する人達にも私の事を好きになってもらう必要がある。その方法を考えなければと必死に頭を回すがいい案など浮かぶはずもなかく、何も進まないまま夜は更けていく。
テレビ取材を終えてからの日々は非常に忙しいものだった。もう退職まで一週間と迫り引き継ぎと残務処理に追われ、心身共に疲弊していた。自分で望んだことではあったが流石に二週間は短すぎると誰かに文句の一つでも言いたい気分だ。そんな事を思いながらも何とか仕事を終わらせ、遂に退職の日を迎えた。
「先輩、今まで本当にありがとうございました。これからも頑張ってください。」
そう言いながら花束を渡す部下の目には薄っすら涙が浮かんでいた。
(そんなに私の事好きだったのか。可愛いやつめ。)
ここ数日で私の部下に対する評価はかなり上がった。やる気はあるが仕事はいまいちで正直そこまで好きではなかったが、私が辞めると伝えた時の悲しそうな表情やその後の私への態度で相当に私のことが好きだと分かつてから、何処か可愛く思えるようになった。(もうこいつと会うこともないだろうな。)そう思いながら花束を受け取り、私も言葉を返す。
「こちらこそ、一緒に仕事出来て良かったよ。ありがとうございました。」
私の言葉に大きな拍手が送られ、そのまま皆に見送られながら私は会社を後にするのだった。退社した私は真っ直ぐ家に帰り、テレビの前で待機していた。
(どう編集されているのかな。)
今日はあの番組の放送日。二十二時から放送される予定である。私は恥ずかしさと不安が入り混じった感情を抱えてながらただただ待っていた。そしてついに、目の前のテレビ画面に番組タイトルが映し出されたのだ。
(来たっ!)
タイトルコール後、私の投稿が映し出され、それにゲストがツッコミを入れている。そして一通りやり取りした後、私のインタビュー映像が流れる。番組は司会者とゲストが私のイタビュー映像を見ながらツッコミを入れたり、その内容について話したりと番組は大いに盛り上がりを見せていた。
(これはかなりいいんじゃないか?)
私の想像とは全く違い、面白おかしく明るい雰囲気のまま番組は終わった。これならば観ている人にはかなり良い印象を与えられたのではないだろうか。
(明日が楽しみになったな。)
この番組を観た人達の反応を想像してにやつきながら私は眠りにつくのだった。
「ヴー、ヴー」
すっかり聴き慣れた音で目を覚ました私はすぐにスマホを確認する。そこにはまた夥しい数の通知が映し出されていた。
(凄いな、ここまで反応があるなんて。)
私の想像を遥かに超える通知の数にテレビの影響力の大きさを改めて認識した。その通知を確認するためSNSを開くと、今回は以前と違いそのほとんどが私に向けたメッセージであった。そして、そのメッセージは今も届き続けていた。
(これ、どうしよう。)
宣伝したはいいが、正直ここまでまだ反応があるなんて思ってもみなかったため、少し困惑してしまう。
(この中から自力で選ぶのは難しいな。)
そう思いながらメッセージを確認しているとその中に私が全く想像していなかったものがあった。
「突然の連絡申し訳ありません。
私に食べる権利をいただけないでしょうか。
もしいただければ、百万円をお支払いします。」
石川というアカウントからのメッセージ。
明らかに怪しい内容である。
しかし、百万円という金額に、容易に切り捨てることのできない自分がいた。
もしこれが本当だったら、みすみす百万円を逃してしまうことになる。
お金があるに越したことはないし、私は倹約家なため自分の趣味などにあまりお金を使うことはなかった。少ない給与から生活費が差し引かれ、その残りを将来のために貯金する。そんな生活を送ってきた私は一度でいいから何も気にせずにお金を使ってみたいと思っていた。そんな私にはこの提案は非常に魅力的なものだ。
(どうしよう。でも、本当だったらこのチャンスを逃すわけにはいかない。)
一時間ほど悩み、とりあえずそのメッセージに返答してみることにした。
「石川様、ご連絡いただきありがとうございます。
一つお伺いしますが、私を食べる権利を百万で買いたいのいうことでよろしいでしょうか?」
できる限り丁寧に返信し、相手からの連絡を待つ。
ソワソワする気持ちを抑えながら、他のメッセージに目を通していると、いくつか否定的なものが目に留まる。
「嘘乙」
「信じる奴らバカすぎ」
「できるわけねーだろ」
「本当にやったら犯罪じゃん」
ただのアンチコメントだけならば問題無かったのだが、犯罪というワードが引っかかる。
(何が犯罪になるのだろうか。)
そんなことを考えていると、石川というアカウントからの返信が届いた。
すぐさまメッセージを開き、内容を確認する。
「返信いただきありがとうございます。
おっしゃる通り、あなたがハンバーグになった際、食べる権利を売っていただけないかと思いまして、ご連絡させていただいた次第です。いかがでしょうか?」
どうやら、私の勘違いではなく、本当に権利を買おうと考えていたらしい。
しかし、悩ましいところである。
正直、お金は欲しいがそんなに上手い話があるだろうか?
そもそも、私自身が食べる相手など、そこまで深く考えていなかった。
それに対して、この石川という人物は百万円を支払うと言っているのだ。
詐欺か?
いや、そんな訳ない。
そんなことをする意味がない。
こんな私を詐欺にかける必要ないし、これが詐欺だとしたら馬鹿すぎる。
おそらく、石川は本気なのだろう。
「一度会ってお話ししませんか?」
私はとりあえず、このメッセージをくれた人物と会うことにした。
正直、仕事を辞めたはいいものの、今後の見通しは立っていない。
今後もっとテレビ等に出たいとは思っているが、先日のようにオファーも来ていない。
このままだと、世間の興味が私から離れてしまうなんてこともあり得る。
そうならないように、手を打っていく必要があると感じていたため、石川に会い、何故それほどの大金を用意したのかを直接聞いてみたかった。
それから何度かやりとりし、翌日の12時に会うことになったため、日課となっていたエゴサーチを早めに切り上げ、眠りについた。
石川に指定された店は、明らかに高級店ですといった門構えで、とても私のような庶民が気軽に入ることのできない雰囲気だった。
入り口で戸惑いつつも、意を決して入店する。
予約名を聞かれ、石川と答えると、店員さんが個室へ案内してくれた。
どうやら、石川はまだ来ていないらしい。
ソワソワしながら、店員さんに渡されたメニューに目を通すと、安酒の飲み会であれば2回ほど行ける金額のものばかりで、何とも言えない気持ちになる。
仕事も辞めており、先が見えていないこの状況で無駄な出費を避けたいと考えていたため、石川のことを少し恨む。
そんなことを考えていると、スーツを着たダンディな男性が入ってきた。
「お待たせして申し訳ありません。」
「とんでもございません。この度はご足労いただきありがとうございます。石川と申します。
よろしくお願いいたします。」
高級そうなスーツに身を纏い、清潔感漂うその風貌から、お金持ちであることは明白だ。
「突然のご連絡で申し訳ありませんでした。」
「いえ、それは大丈夫なんですけど、あの連絡いただいてたのって、本気なんですか?」
「はい、もちろん本気です。
色々と聞きたいこともあられると思いますので、もし良ければ食事しながら、お話ししませんか?
お好きなものをお頼みください。」
そう促され、メニューを渡される。
それに目を通しつつ、先程の石川さんの言葉の意味を分析する。
(お好きなものをお頼みくださいって言ったし、もしかして奢ってくれるのかな?
うーん、それなら頼めるものの選択肢はめちゃくちゃ増えるが、でも万が一自腹だった時のリスクを考えるとな。)
そんなことを考えながら、メニューと睨めっこしていると、
「ここは私が負担しますので、遠慮なく好きなものを頼んでいただければ大丈夫ですよ。」
私の浅はかな思考は見透かされていたらしい。
「ありがとうございます。」
そうお礼を言い、メニューを改めて確認する。
いくら奢りとは言っても、流石にこの値段のものを何でも頼むわけにはいかないため、少し控えめなものを選び、店員さんへ伝えた。
「では、先程の続きをお話ししましょうか。」
店員さんが部屋から出たのを確認し、石川さんが口を開いた。
「あ、あの、何故百万円なんて大金で権利を買いたいと思われたんでしょうか?」
私が戸惑いながらそう聞くと、石川さんは少し驚いたような表情で私の問いに答えた。
「あなたは自身の価値を分かってらっしゃらないようですね。」
「私の価値?」
「たまたまテレビでお見かけしたのですが、ハンバーグになるとおっしゃられていましたよね?
それを聞いて、正直すぐには理解できませんでした。
人間がハンバーグになるとはどう言うことなのか。
そんなことは不可能ではないかと思ったんです。」
まぁ、それが普通の反応であると私も思う。
「しかし、その番組内であなたが加工等をしたい人間を募集すると言われて、私は大変興奮しました。
先程まで頭を巡っていた疑問は消え、この方を食べる権利が欲しいと思ったのです。
その後、ご連絡させていただく際に少しでも目に留まればと思い、権利を買うこととその金額を提示させていただいた次第です。」
なるほど。
石川さんはどうやら本気らしい。
私としてはありがたいのだが、あまりにも高額で少し気が引けるのも事実だ。
「正直、その百万円という金額が適正であるのか、私には分からないのですが。
本当によろしいんですか?」
「もちろんです。むしろ、百万では少ないかと思っていましたが、納得いただけるのであれば、この場でお支払いいたします。」
この男は百万を今すぐに払えるということか。
不公平な世の中を嘆きつつも、大金が手に入るという喜びが頭の中を支配する。
「いかがでしょうか?」
「是非、お願いいたします。」
石川さんの問いかけに、現実に戻った私はそう答えた。
「ありがとうございます!」
今日一番の感情が込められたその一言。
つい、金額に釣られて深く考えずに回答してしまったが、心から喜びを感じている様子の石川さんに私は何だか嬉しさを覚えた。
「あの、ちなみにですが食べる部位は私の方で決めさせていただけるのでしょうか?」
「食べる部位ですか?」
どういうことだろう。
思わぬ問いかけに戸惑っていると、石川さんが言葉を続ける。
「できれば、右腕でお願いしたいのですが、可能でしょうか?」
私の中の疑問がさらに膨らむ。
右腕でお願いしたいということは、私の右腕に対して、百万円かけてくれたということか?
てっきり全身を食べる権利だとばかり思っていたが。
「私としてはどこでも大丈夫ですが、てっきり全身を食べる権利をという話だと思っていました。」
素直にそう伝えると
「いえ、とんでもない。
全身であれば、百万円では到底足りませんよ。」
笑いながらそう答える石川さん。
私としてはありがたい限りだが、こんな不器用な腕に百万円もの価値が付く日が来るとは。
「私以外からは同様の提案は来ていないのでしょうか?」
そう問いかけられ、まじまじと右腕を見つめていた私は、気持ちを切り替えてSNSに届いているメッセージを確認する。
「いえ、他には来ていません。」
現状は来ていないことを伝えると石川さんから、新たな提案があった。
「それであれば、オークションを開くのはいかがですか?」
「オークション?」
どういうことか理解できず、そのまま聞き返す。
「はい。あなたの価値はあなたが思っているよりも高いものですよ。私と同様にお金を払ってでもという方は大勢いると思います。」
自身のの価値が高いと言われるのは非常に気分がいいものだ。
「そこで、あなたを加工する権利、調理する権利、食べる権利をそれぞれオークションにかけるのです。」
なるほど。
私だけでは決して思いつくことのなかった考えだ。
しかし、何をどうしたら良いのか何一つ分からない。
「あの、それは凄く魅力的な提案だとは思うのですが、そう言った知識とツテが全くなくて。」
「そこは私にお任せください。
そういったことに精通している友人もおりますので、全面的にサポートさせていただきます。
もちろん、あなたがそれを望めばですが。」
渡りに船とはまさにこのことだ。
上手く進みすぎて少し怖いが、この話にならない手はない。
「是非、お願いします。」
そう言うと石川さんが手を差し伸べた。
私はそれを右手で強く握り返し、石川さんとの契約を結んだのだった。
百万円もの大金を持って歩くのは非常に緊張感がある。
普段であれば、すれ違う人間など気にすることないのだが、ついつい警戒してしまう。
さて、このお金の使い道は決まっていないが、どうするべきか。
元々はないお金であるため、思い切って使ってしまいたいところだが、もう1人の私が貯金するべきだと促している。
確かに、仕事を辞めた今、お金は大切にするべきである。
しかし、人生で一度ぐらい、お金を気にせず好きなとこをしてみたい。
その二つの気持ちがぶつかり合い、妥協点として、五十万円を貯金、残りの五十万円を使うことにした。
さて、今日はお金を使う日だ。
五十万円ものお金をを1日で使い切るつもりで家を出た私は、早速百貨店へ向かった。
これまでは入ることの出来なかったハイブランド店に入り、物色する。
しかし、いざ買うとなるとその金額に躊躇してしまう。
中には五十万円では手の届かないものもあり、自身が庶民であるということを理解させられた。
その後も結局、思い切ってお金を使うことができず、
普段より少し高級な回転寿司に行き、お腹いっぱい食べるという程度の贅沢しか出来なかった。
自身の小物っぷりに落胆しながら帰宅していると、石川さんからメッセージが届いた。
「明日、オークションの件についてお話出来ませんか?」
「ご確認したいことがいくつかありまして。」
会ってすぐにそう切り出してきた石川さん。
やはりオークションは無理だってのではと少し身構える。
「まず、日程についてですが、一ヶ月後でいかがでしょうか?」
「一ヶ月後ですか?」
まさかの提案。
想定よりかなり早いスケジュールについ聞き返してしまう。
「はい。先日のご様子から、少しでも早い方がよろしいかと思いまして。
早く行えば、その分早くお金が入ってきますので。」
なるほど。
先日、私が百万円というお金を受け取った際の浮かれ具合が伝わってしまったらしい。
「私としては早い分にはありがたいです。」
正直にそう伝えると、石川さんは笑顔で頷いてくれた。
「では、この日程で開催させていただきますので、会場等調整させていただきます。」
「ありがとうございます。」
こんなにあっさりと決まるとは思わなかった。
まさにとんとん拍子に進んでいる。
「もう一点お伺いしたいのですが、今回のオークションについて、テレビ中継するのはいかがでしょうか?」
「テレビですか!」
つい大声で反応してしまう。
再び出演したいとは思っていたものの、そのきっかけもなく、どうしたら良いかと悩んでいたところだ。
「是非お願いします!」
私にとっては何よりも嬉しい提案であったため、石川さんに心から感謝する。
「喜んでいただけたようで良かったです。
では、それも含めて調整いたします。
あとはこちらで進めさせていただきますが、何か質問等ございますか?」
「あの、何でここまでしていただけるんでしょうか?」
正直、石川さんが何故ここまで親切にしてもらえるかが疑問であった。
私としてはありがたい限りであるが、石川さんにとってのメリットは特段無いように感じる。
「そうですね。そう聞かれると難しいですが、強いていえばお礼をしたいからでしょうか?」
「お礼?」
考えても何一つ思い当たる節はない。
「正直に言いますと、平凡な毎日に退屈していたんです。」
こんなお金持ちで、皆に羨ましがられる立場にいるはずの人間にそう言われると、何ともいえない気持ちになる。
「そんな時、たまたまあなたが出演されていた番組を見て、あなたの発言を聞いて、久しぶりに心躍りました。
なんて自由な発想の方がいるのだろうと。
そして、勢いのまま連絡した私に右腕を食べる権利までくださった。
あの日から、私はあなたを食べるのが楽しみで、
退屈な日々から抜け出すことができました。
だから、あなたには感謝しているんです。」
涙が溢れてしまいそうになるのを必死に堪えながら、
石川さんのことをしっかりと見つめる。
私のやってきたことは無駄ではなかった。
そう言われている気がして、世界から肯定された気がして、人生で初めて、自分自身が主人公であることを自覚できた。
「ありがとうございます。
こちらこそ、石川さんには本当に感謝しています。
私一人の力では決してこんなこと思いつきませんでした。
色々とお手数をおかけしますが、何卒よろしくお願いいたします。」
出来るだけの丁寧さで、石川さんに深く頭を下げた。
「こちらこそ、頑張らせていただきますので何卒よろしくお願いいたします。」
そう言って、石川さんも私に頭を下げている。
こうして、オークションに向けた準備が開始されたのだ。
「あの、何でこんなところに連れてこられたのでしょうか?」
洗練されたスーツから煌びやかなドレス、カジュアルウェアまで様々なものが取り揃えられている部屋に案内された私は、隣に立つ石川さんにそう問いかけた。
「それはもちろん、あなたの衣装を決めるためです。」
「衣装?」
「はい、オークションで大勢の目に触れるわけですし、せっかくですので着飾っていただこうかと思いまして。
もちろん、ここに無いものでもご希望があれば用意いたしますので、ご遠慮なくお申し付けください。」
石川さんの意図は分かったが、あいにく私にファッションセンスというものはない。
これまでもSNS等で流行りのものを調べて、それっぽく着ていただけだ。
「あの、私、そんなにセンスがなくて。
もしよろしければ、どなたかに選んでいただきたいのですが、可能ですか?」
おどおどしながらそう伝えると、笑顔で肯定してくれる。
「では、こちらで手配させていただきますので少々お待ちください。」
そう言われ、近くに用意されたソファへ座るよう促される。
何だか王様にでもなった気分だ。
それから出されたコーヒーの美味しさに驚きながら、SNSをチェックする。
最近は何も思いつかず、特に更新していないため通知もほとんど来ない。
それにもどかしさを覚えつつも、オークションが開催されれば再び注目を浴びることができると気を持ち直し、エゴサーチを続けた。
「お待たせしました。こちらによろしいですか?」
声をかけられ、案内された先には煌びやかな数人の男女が立っていた。
「では、お願いします。」
石川さんがそう言うと、私はその男女に連行される。
「では、化粧からさせていただきますね!」
どうやら拒否権はないらしい。
早々に諦めた私はされるがまま、化粧を施してもらい、服を着替え、髪を整えてもらった。
そして流れるままに写真撮影まで行われた。
「お疲れ様でした。」
全ての工程を終え、疲れ切った私に石川さんが声をかけてきた。
「申し訳ありません。今回、衣装を選ぶだけと考えておりましたが、オークション宣伝用の写真も撮影させていただきました。」
何故こんな写真を撮るのかと思っていたが、オークション用だったらしい。
まぁ、変に意識せずに撮れたのは良かったのかもしれないと自分を納得させ、石川さんに挨拶して帰宅する。
色々と疲れる1日だったが、着々と進んでいる現状に手応えを感じていた。
あと半月先に迫ったオークション。
半月後にはテレビで大々的に私のオークションが放送されるのだ。
それを想像するだけでついつい心が躍ってしまう。
今日もオークション当日の盛り上がりをそうぞうしながら、眠りにつくのであった。
オークション当日の朝、いつもより早く目が覚めた私は、体を動かしたい衝動に駆られ、近所を散歩することにした。
普段の私では考えられない行動である。
外に出ると、朝とは思えない日差しの強さに引き返したい気持ちになるが、せっかくだから少しは歩こうと一歩を踏み出す。
歩いてみると、見慣れたはずの景色がいつもより少し鮮やかに見える。
普段であれば項垂れるような暑さであるのにも関わらず、僅かに爽やかさは感じるのだから不思議だ。
二十分ほど歩いてから帰宅し、シャワーを浴びて準備を始める。
期待に胸が膨らみ、気分が高揚しているのが分かる。
さながら、遠足の日の小学生のようだ。
準備を終え、指定されたテレビ局へと向かうと、入り口には既に石川さんが待機していた。
「今日はよろしくお願いいたします。」
いつも通りの爽やかさに身を包み、笑顔で挨拶する石川さん。
そのいつも通りに私も少し気持ちが落ち着いた。
案内されるがまま、メイクと着替えをし、番組の打ち合わせを行う。
と言っても、私は特に発言する機会はない。
ただただ、ステージの中心に座り、オークションの結果を見守るだけだ。
まぁ、内容が気になるため、打ち合わせには参加させてもらっていたが、案の定私の役割はなく、ただの置き物となっていた。
「さぁ、始まりました!ハンバーグオークション!
司会を務めるのは…」
何ともパッとしない名前のオークションはそんな定型文から始まった。
司会を務めるのは、よくテレビで見かけるお笑い芸人、その横に綺麗なアナウンサーが立っている。
「このオークションはハンバーグになりたいというSNSの投稿から始まりました。
本日はその加工から調理、そして食べる権利を皆様にオークション形式でご購入いただきます!
では、早速参りましょう。
まずは左腕の加工権利から!」
ついに始まったオークション。
心拍数が明らかに上がっている。
これでもし、購入者がいなければ赤っ恥もいいところだ。
私の夢は全て潰えると言っても過言ではない。
心の中でそうならないことを祈りながら、様子を見守る。
「最低落札価格五十万からです。では、入札を開始します!」
誰か一人でも買ってくれれば御の字だ。
誰一人購入者がいないことだけ何とか避けたい。
「今回、一つの部位で15分時間を確保しています。
スタジオとオンライン含め、15分後に最高額を付けた方が権利を手に入れることができます。」
しかし、なかなか金額が変わることはない。
(早く誰か買ってくれ)
そう願いながらじっと私を映す画面を見つめる。
すると、私の頭上の電光掲示板が動きだす。
数字が徐々に埋まっていき、百万円を表示して止まった。
先程まで静まり返っていた会場のボルテージが一気に上がる。
「早速百万が出ました!
さぁ、他にはいらっしゃいませんか!」
そう言って司会者が煽ると、頭上の数字が次々と変わり出した。
「出ました、百十万、百五十万、どんどん上がっていきます!」
興奮が抑えられないと言った様子で実況する司会者。
私も全く同じ気持ちであった。
目に見える形で自身の価値が証明される。
私はこの瞬間を待ち望んでいた。
私の価値が証明される瞬間を。
私の価値を世間が認める瞬間を。
そんな私の様子は気にすることなく、頭上の数字は上がり続けていた。
そして15分後。
「さぁ、時間となりました!最終落札金額は百五十三番の方が付けました、2,700万です!」
会場が歓声で湧き立つ中、私は呆然としていた。
二十五年付き添った左腕に2,700万円もの価値が付いたのだ。
そんな大金を手にする日が来るとは思わなかった。
どうリアクションするべきか迷っているうちに、次の部位がオークションにかけられる。
そして次々と金額が釣り上がられ、先程の倍の金額に差し掛かった所で司会者から時間が告げられる。
先程以上に盛り上がりを見せる会場。
その圧に先程までの興奮が少し冷め、もう一人の自分が顔を出す。
(よく考えて。この人達はお前をバラバラにして、調理して、食べる権利を手に入れるために大金を賭けてる。
もうお前は逃げられないところまで来てるんだよ。)
そんなこと分かってる。
しかし、これまで通り平凡に生き続けていても、何の意味もなかった。
そのリスクを負ったからこそ、今こうしてこれほどの人間が私を求めている。
そのリスクを負ったからこそ、こうして大金を手に入れることができた。
であれば、私の選択は間違っていなかったはずだ。
そう自分に言い聞かせ、こびりついた不安を拭い去る。
「さぁ、こちらで最後になります。最後は食べる権利です!こちらは5名の方に権利が与えられます。」
司会者の言葉にとてつもない盛り上がりを見せる会場。
「こちらは1,000万からスタートです!」
その掛け声と同時に一気に金額が跳ね上がる。
「さぁ、1億が出ました!他にいらっしゃいませんか?」
遂に大台の億超え。
それでも金額は変わり続け、最終的に1億8,000万という最高額を付けた。
その後も全てが1億円を超え、総落札額は12億4,500万円となった。
私はたった一夜にして人生3回分以上の大金を持つことになったのだった。
「お疲れ様でしたー!」
番組の打ち上げをと誘われて、勢いのままついてきたのだが、これまで経験したことのない煌びやかな飲み会に圧倒されていた。
雰囲気に流されて普段よりハイペースでお酒を飲んでしまい、かなり気分が高揚している。
「いやー、最高でしたね!まさかあんな金額になるとは!
今度、うちの番組に出演してもらいたいんですけど、連絡先教えてもらってもいいですか?」
「もちろん、いつでも大丈夫なんで連絡ください!」
番組ディレクターからそう声をかけられて、即答すると笑顔で握手を求められた。
負けじと私も笑顔で左手を差し出し、固い握手を交わしていると、石川さんが声をかけてきた。
「お話中申し訳ありません。
恐らく、今後こういったお話しが増えると思いますので、私の方でスケジュール管理等もさせていただきましょうか?」
まるで打ち合わせでもしていたかのようなタイミングで私にそう提案してくるあたり、石川さんがいかに優秀な人物であるかが伺える。
しかし、流石に石川さんに甘えすぎている気がして、お願いしてもいいものか非常に悩ましい。
「私の負担になると考えていらっしゃる様ですが、ご心配ありません。
明日中には本日の落札金をご用意いたしますので、そこから費用をいただければ。」
そうだ。飲み会の雰囲気とお酒に飲まれて忘れていたが、私は12億円もの大金を手にしたのだから、人一人雇うぐらい容易いものだ。
「じゃあ、お願いします!石川さんにも紹介料渡しますんで!」
何様だと思うが、私の冷静さはとうに失われていた。
こうして、今まで以上に忙しい日々が始まった。
「さて、本日は今話題のあの人がゲストに来てくれています!」
そんな紹介から、私の方にカメラが向く。
一気にスタジオ中から視線が私に向けられるこの感覚は何度味わってもいいものだ。
(あぁ、最高。これ以上の快感ってないんじゃないかなら、)
あのオークションから半年経つ。
この半年で私の人生は一変した。
全てが私を中心に回っていく気がして、私の人生は充実感で満ち満ちていた。
多忙ではあるが、程よく休みも取れており、そのあたりは石川さんが手配してくれた敏腕秘書のおかげだ。
既に十分すぎる貯金に加えて、これまででは考えられない額の収入もあり、これまでお金の問題で躊躇っていたことは片っ端からやろうと決めた。
ブランド品を買い漁り、思い付く限りの高級品を食べ、世界各国を飛び回る。
これまででは決してできなかった様な経験を積み、改めて自分がこれまでいかに狭い世界で生きていたかを思い知る。
私はあのまま生きていたら、何も知らずそこそこな人生に満足したまま死んでいただろう。
そんな吐き気のする自分を変えてくれた過去の自分にひたすら感謝する。
あの時、私自身が起こした行動が、私の努力が身を結び、それが今の私に繋がっているのだ。
だからこそ、私はこれからも私に従い行動し続ける。
それが最高の未来につながると信じて。
「一ヶ月ほど、バカンスに行きませんか?」
石川さんとの食事ももう何度目だろうか。
初めは慣れない高級店に萎縮していたが、身も心も慣れてきた。
食事を摂りながら雑談していると、石川さんからそう提案された。
「そうですね。仕事次第ですが、タイミングが合えば是非ご一緒したいです。」
私の中の石川さんへの好感度は上限を超えている。
そんな人物からバカンスに誘われたのだから、断るわけにはいかないと思いつつも仕事があるため、安易に回答できなかった。
「お仕事につきましては、私の方で調整できると思いますが、いかがでしょう?」
本当にこの人は何者なんだろう。
テレビ局にまで顔が利き、あれほどのお金持ちを集めることの出来る人物。
もしかすると、私はとんでもない人と食事をしているのかもしれないと、今更ながら少し緊張する。
「それであれば、是非お願いします。」
石川さんからの提案に甘えて調整をお願いし、一ヶ月のバカンスに行くことになった。
「こちらで食事等も全てご用意させていただきますので、もし何かご希望があればスタッフに申し付けください。」
案内された部屋の広さに驚く私に、石川さんがそう声をかけた。
一室というより、一棟という表現が正しいのではと思うほど広く、バスルームとトイレが備え付けられていた。
リビングには冷蔵庫も置かれており、中には余り目にしたことのない、見るからに高級そうな瓶に入った飲み物がいくつも並べられている。
海が一望できるソファに腰掛け、ウェルカムドリンクを片手にフルーツをつまむ。
私が思い描いていたとおりのバカンスが再現されており、否が応でもテンションが上がる。
それからの日々はまさに天国だった。
日中にはダイビングやパラセーリング等のアクティビティで程よく体を動かし、部屋に戻ってからは、様々なハーブが浮かべられた湯に浸かり、マッサージを受け、肉体の疲労をしっかりと癒してもらう。
毎日の食事は栄養バランスも考慮されている上、非常に美味しく、それに加えて、栄養が偏らないようにと補助的にサプリも用意されていた。
まさに至れり尽くせりで、いつもより早い時間にベッドに飛び込み一日の体験を振り返っているとあっという間に寝入ってしまう。
元来、寝付きは悪い方なのだが、ここに来てからはそういったこともなく、非常に健康的な生活を送ることができていた。
ここまでストレスがかからない生活をしていると、現実に戻れる気がしないが、この生活を続けようと思えばそれを実現できる程のお金はあるため、とりあえず気にしないことにしていた。
最高の日々はあっという間に過ぎ去り、最終日を迎えた今日、荷物をまとめていると、石川さんから声をかけられた。
「お疲れ様です。準備が終わりましたら、私にお声かけください。いつでも出発できるよう、車も準備させていただきましたので。」
そう言いながら、石川さんが指し示した方を見ると、リムジンが止まっていた。
あんな長い車、何のために存在しているのかと思っていたが、いざ自分が乗るとなると心躍る。
早急に準備を終わらせ、石川さんとともにリムジンへと乗り込んだ。
中に乗り込むと、お金持ちが自らの快適さをひたすらに追求した結果、生み出された乗り物であるということを理解できた。
車にここまでの快適さを求めるとは、人間の欲深さが伺えるなと考えていると、ついうとうとしてしまう。
その心地よさに身を任せ、私はそのまま眠りについた。
目が覚めた私は、はっきりしない意識の中、知らない天井をしばらく眺めた。
ここが一体どこなのか、何故こんなところにいるのか、一切理解できずにあたりを見回すと、少し離れた場所に石川さんが座っていた。
「お目覚めですか。おはようございます。」
いつもと変わらない爽やかさに少し安心しつつ、私が置かれている状況の説明を求める。
「あぁ、突然このようなところにお連れして申し訳ありません。
本日があなたがハンバーグなる丁度一ヶ月前ですので
こちらにお連れした次第です。」
その意味が理解できず、私がじっと石川さんを見つめていると、追加で説明が行われた。
「今後は肉質等に影響が出ないよう、食事、睡眠、排泄等あらゆることを私達が全て管理し、最も美味しいハンバーグとなるよう調整させていただきます。
ですので、今後は我々の指示通りに行動してください。」
何故このようなことになっているのか、何故石川さんがそのようなことを言い出したのか、私の理解は未だに追いつかないままなのにも関わらず、石川さんは部屋を後にしようとする。
「いや、あの、ちょっと待ってください。
え、どういうことですか?
何でこんなことするんですか?」
私には心の思うまま、ただただ疑問を投げかけることしかできない。
そんな私の様子を石川さんは不思議そうに見つめていた。
「何故、ですか。
まさかそんなことを聞かれるとは思いませんでした。
理由としましては、我々があなたを食べる権利を持っているからです。
それはあなたも承知していますよね?」
突然突きつけられた現実。
遠い昔、もう一人の自分が必死に訴えていた現実。
分かっていたはずなのに、ずっと気付かないふりをして、逃げ続けていた現実。
そんな現実を最も信頼していた人物に突きつけられた。
「いや、え、それは、でも」
私の頭は止まっている。
僅かに現実を否定する言葉が搾り出されるが、そんなものが罷り通る訳もない。
「大変申し訳ありませんが、あなたが我々の要望を拒否することは出来ません。
その権利すら持ち合わせていない、それが現実です。
では、また明日伺いますので。」
これまでに無い表情で淡々とそう伝え、部屋を立ち去っていく。
その姿に私はようやく恐怖を覚えた。
(あの人は私に優しくしてくれていた訳じゃ無いんだ。
あの人は私を食べるためだけにここまでしてくれていたんだ。)
彼にとって、それ以上でもそれ以下でも無い。
彼にとっての私はただの家畜。
それ以上の価値は決して持ち合わせていなかったのだ。
(逃げないと、ここから逃げないと殺される)
私はただただ恐怖した。
このままでは、彼らに殺されてしまう。
ようやくその事実に気付いた。
これまでの快楽の代償として、私はこれからハンバーグにされてしまうのだ。
石川が部屋から遠ざかっていくのを確認し、私は自身の持ち物を持って、部屋の外へ飛び出した。
外にさえ出れれば、どこにでも逃げられる。
お金は腐るほどあるし、海外へ逃げてしまえば流石に追っては来れないだろう。
きっと大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせ、震える手を押さえながら必死に出口を探す。
今すぐ走り出し、すぐさま出口へ向かいたいところだ、誰かに見つかればそこで終わりだ。
見つかってしまえば、次は決して逃げ出すことは出来ないだろう。
今回は石川さんが私の恐怖から逃げ出すことを想定していなかったからこそ、病室から抜け出すことができただけだ。
(本当にこのまま逃げられると思ってるの?)
出来るだけ慎重に、出来るだけ速やかに、決して誰にもバレないように。
焦る気持ちを抑え込み、必死に出口を探す。
(どうせ逃げても捕まるよ。)
静かな建物内に自分の鼓動が響いている気がして、何とか鳴り止むよう胸を押さえつける。
(誰も助けてくれないよ。)
途方もない時間が経ったような感覚に囚われながらも探し続ける私の目の前に、遂に出口が現れた。
走り出したい気持ちを堪え、慎重に出口まで向かった。
そして、ようやく出口まで辿り着いた私は無事に建物から逃げ出すことに成功したのだ。
外は闇に包まれており、ここが何処なのか全く分からない。
とりあえず少しでも離れなければならないと、無我夢中で走っていると、大きな幹線道路に突き当たった。
しかし、車の気配はなく、結局走る以外の逃走方法は無かった。
(タクシーは走ってないのか!)
そう心の中で叫びつつ、必死になって走り続ける。
しばらく走ったところで、体力の限界を迎えて、膝に手をつき、一度行きを整える。
(早く逃げないと捕まるよ)
(どうせ逃げれないから諦めろ)
(誰も助けてくれないよ)
頭の中で鳴り響く雑音を振り落とし、冷静に考える。
(そうだ、スマホ)
部屋に残っていた荷物の中にあった自身のスマホを開こうとカバンから取り出す。
しかし、スマホの充電はなく、ただの鉄の板と化していた。
(どうしよう)
ここが何処かも分からない、何処に向かうべきかも分からない、ただただ静寂に包まれた暗闇の中を走り続けるしか選択肢が無いという事実に恐怖する。
(嫌だ、捕まりたくない)
(死にたくない)
(殺されたくない)
とにかく逃げ続けなければ。
そう思い、道路から逸れて脇道に入る。
少しでも人気のないところの方へと、必死になって走り続ける。
走って、休んで、走って、そうしてるうちに体力が底をつき、地面に倒れ込んでしまった。
(怖い、怖いよ)
両目から涙が溢れ出す。
こんなことになるなんて、全く想像していなかった。
「私はちゃんと教えたよ」
これまでは頭の奥で鳴っていた声が、嫌にはっきりと聞こえ始める。
こんなことになるなら、最初からハンバーグになりたいなんて言わなかった。
「でも、自分で選んだんだよ」
こんなこと、望んでいなかった。
「だから私は教えたんだよ」
何でこんな目に遭わないといけないのか。
ひたすら疑問を暗闇に投げかけながら、震え続ける私の中でひたすら声が響く。
「震えてるだけじゃ捕まるよ」
「早く起きて逃げないと」
「捕まったら殺されるよ」
そうだ、逃げなければ殺される。
震える身体に力を入れて、両目を拭い、必死に足を動かす。
少しでも遠くへ、少しでも見つからない場所に、私に出来ることはそれしかない。
「頑張れ頑張れ」
「うるさい!黙れ!」
叫ばずにはいられなかった。
それが例え自分自身だったとしても、私の怒りはそれにぶつけることしか出来ないから。
決して足を止めることなく、少しでも遠くへ、それだけを考え続ける。
そして遂に夜が明けた。
ここまで頑張った自分を褒めつつも、確保された視界に頼り、車の通りそうな場所へと向かう。
石川は明日の朝、様子を見に来ると言っていたが、今は真夏であるため、まだ数時間は猶予があるだろう。
それまでに何とか移動手段を確保できれば、逃げ切ることは不可能ではない。
僅かに見えた希望に縋り、移動を開始しようと足を動かした瞬間、鐘の音が鳴り響いた。
「キーンコーンカーンコーン」
学生時代に嫌というほど聞いた鐘の音。
何事かと足を止めて周囲を見渡す。
「皆様、おはようございます。
あと20分後、ゲームを開始いたしますので、ご準備ください。」
謎の放送が終わり、先程までの静かさが戻る。
(ゲームって何だろう)
「分かってるくせに」
(分からない)
「あんなに簡単に逃げれた時点で気付くべきだった」
(あれは運が良かったんだ)
「獲物はお前だよ」
「そんなのが許されるわけないだろ!」
「許されるよ
お前の命はとっくに他人のものになってるんだから」
「そうだ、警察!警察なら守ってくれる!」
「ここが何処だかも分からない。スマホも使えない。
どうやって警察に頼るつもりなの?」
「どっかにあるはずだ!
きっと近くに!探せばきっと見つかる!」
「よく考えて。あれほどの金持ち達がゲームをやろうって言ってるんだよ。」
「もう黙れよ!頼むから黙ってくれ!」
「私がいないと一人っきり。きっとまた私を呼ぶよ。」
そう言いながら消えていく。
ようやく声が消え、逃げることに意識を向けようとしている私の耳に再び鐘の音が届いた。
「キーンコーンカーンコーン」
「皆様、ゲーム開始5分前となりました。所定の位置までお越しください。」
ゲーム開始が近づいているという放送に、もうとっくに限界を超えている心拍が更に早くなる。
周囲の静けさに引き立てられ、耳に直接心臓が付いているのではと錯覚してしまう。
「おはようございます。聞こえていますでしょうか?」
直接頭に鳴り響く音に驚きのあまり身体をのけ反ってしまう。
「驚かせてしまいましたね。
先日、病院にお連れした際に耳元にスピーカーを埋めたのですが、無事に繋がって安心しました。」
私はすぐさま耳元を確認すると、肉体ではない硬さを感じた。
「先程から放送していますが、今からゲームが開始されます。
まず、先にお伝えさせていただきますが、このゲームで死ぬなどといったことはありませんので、ご安心ください。」
この状況でどう安心しろというのか。
とは言いつつも、死なないと言われて先程までの恐怖で埋め尽くされていた心に僅かに余裕ができ、石川への苛立ちを感じていた。
(そもそも、この男が私のことを追い詰めたのではないか。)
ただの責任転嫁であることは重々承知しているものの、この男が現れなければ、そもそもここまで大事になっていないのも事実である。
程よくテレビに出て、ハンバーグになると宣言した期日に近づいた頃に自然にフェードアウトすることも可能であったはずだ。
「お前のせいでこうなったんだ。」
思わず漏れたその言葉。
当然、石川には聞こえるはずもないが、それを口から出したことで、私の心は怒りに支配された。
「このゲームでは、あなたを捕まえた方の勝ちです。
決して殺してはならず、傷付けてもいけない。
味が落ちてしまいますからね。」
笑いながらそう言う石川。
私の怒りは殺意に変わる。
全ては石川のせいだ。
あの男さえいなければ、こんなことにはならなかったんだ。
「あいつを殺す。」
人生で初めての殺意を込めたその言葉。
周囲の静けさが私の言葉を際立たせた。
「では、ご武運をお祈りいたします。」
「死ね」
そう吐き捨てて、私は行動を開始する。
(多分、私を捕まえにくるのは私を加工する権利を持つ人間だ。
であれば、そんなに人数は多くないはず。
ゲームであるため互いに協力し合う可能性は低い。
しかも、私を傷付けてはいけないルールがある。
なら、勝てる可能性はある!)
何時になく調子の良い自分の脳みそを褒めつつ、勝つための算段を立てる。
(まずは見つかりづらい場所に身を潜めよう。敵が近づいてきてくれれば、それを襲って武器を奪う。)
生捕りというあたり、私の家畜としての価値が伺える。
傷つけることさえ許されないのであれば、確実に私の方が有利である。
「どこですかー」
遠くから響く声に私の心拍が上がる。
私を探している参加者のものだ。
身を潜めつつ周囲を見渡すと、小柄な女性が私を探しているのを見つけた。
(勝てる!)
明らかに私よりも小さい。
しかも、武器等は持っていないようだ。
武器を持っていないことは残念だが、拘束して人質にすれば、石川と交渉することも可能かもしれない。
私の加工する権利を持っているのであれば、とてつもないお金持ちであることは明白だ。
私は息を殺し、女性が近付いて来るのを待つ。
「どこですかー」
気の抜けるような呼びかけをしながら、少しずつこちらへ近付いて来る。
飛び跳ねるような音を奏でている心臓を押さえ、必死に息を殺して待つ。
(あと少し、あと少しで行ける!)
覚悟を決めた私は、両手に拳大の石を持ち、その片方を女性の背後に向けて投げた。
「そこか!」
ニコニコしながら、音のなる方へと振り向く女性。
私はすぐさま茂みから飛び出し、女性へと襲い掛かった。
「いや、あっさり捕まって良かったですね。」
「早く連れて行きましょう。」
私の目に映ったのは先日と全く同じ景色。
曖昧だった私の意識は瞬時に覚醒する。
「おはようございます。ゆっくり眠れましたか?」
そう声をかけてきたのは私が襲った女性。
その周りには銃を持った男性二人と女性が一人立っていた。
咄嗟に身構えると、笑顔で落ち着くように促される。
「安心してください。私は石川の仲間じゃないですよ!
あなたのこと、助けに来たんです。」
明らかに嘘と分かるその言葉。
そもそも、嘘を隠すつもりもないのだろう。
「何で助けてくれたんですか?」
私は出来るだけ馬鹿を装い、疑問を投げかける。
「実は私達は警察官でして、この島で人間を殺すゲームをしているという通報があり、調査していたんです。
あ、私は水木と言います。」
良くあるドラマのような設定に思わず悪態をついてしまいそうになるが、それを押し殺し、感謝の意を述べた。
「水木さん、ありがとうございます。
本当にもうダメかと思って、殺されるところだったんです。」
顔を伏せながら、声を震わせてそう伝えると、優しく言葉をかけてきた。
「もう安心してください。
とりあえず、我々と一緒にここから出ましょう。」
共に来るように促された私は、とりあえずベッドから降り、従順に従うふりをしながら、水木と名乗る女性にに再度疑問を投げた。
「ここってどこなんでしょう?」
それが分かるだけでも私が逃げられる可能性は上がる。
「ここは個人が所有している無人島です。」
先程の話からも想像はついたが、やはりここは島らしい。
しかも無人島ということは、容易に助けを求めることはできない。
考え得る限り、最悪の場所である。
「どうやってここから逃げるのでしょうか?」
この集団も決して信用できないが、私が助かるためには彼女らを頼る以外の選択肢がなかった。
「ここから少し行った場所に我々の船があります。
奴らに気付かれないよう慎重に行きましょう。」
先導する男性を追いながら、周囲を見渡す。
少しでも生き残る可能性を上げるため、些細なことも見逃さぬように必死に目を凝らす。
「伏せて!」
頭を押さえつけられるのと同時に銃声が響く。
「あいつら、撃ってきやがった!」
「全員、死んでも商品は守れよ!」
銃弾が飛び交う中、私は水木に引き摺られて近くの木に身を隠していた。
「くそ、数が多い!」
そう言った男性の頭が銃弾により吹き飛んだ。
「ひっ!」
日本で生きていれば、決して味わうことのない銃という恐怖。
石川への怒りと私を守る人間がいることで落ち着いていた心が再び恐怖に染められる。
「走ります!」
恐怖で震える私の手を取り、走り出す水木。
(死にたくない!)
死から逃れるため、私も必死に足を動かす。
そこからしばらくして、水木が足を止めた。
「大丈夫ですか?あと少しですので、頑張ってください。」
いつのまにか銃声も聞こえなくなった。
聞こえなくなる程に遠くまで走ったのか、それともどちらか全滅したのか、いずれにしても音が聞こえなくなったことと、水木の言葉で少し心に余裕ができる。
(今なら二人きりだ。)
あと少しで船に着く。
その時に水木を何とか抑え、一人で船に乗り込む。
それが私の生き残る唯一の道だ。
「見えてきましたよ!」
跳ねる心臓を抑えつけ、水木の気の緩む瞬間を狙う。
彼女は明らかに訓練された兵士だ。
前回襲った際も何をされたか分からないまま気を失ってしまったため、慎重に機会を伺う必要がある。
水木も船を見つけ、気が緩んでいることは確かだ。
しかし、今襲い掛かっても抵抗されてしまえば勝ち目はない。
(海に落とす、それしかない)
「では、行きましょうか!」
その言葉と同時に全身に走る衝撃。
(何だこれ)
「手荒ですみません。」
私の意識は再び途絶えた。
「あなた達は何者なんですか?」
意識を取り戻した私は水木にそう問いかける。
「あら、騒がないんですね。
やっぱり私達が警察っていうのは無理がありましたか?」
ニコニコと笑顔でそう答える彼女のことを睨みつける。
「そんな怖い顔しないでくださいよー。
ちゃんとあの島から助けたじゃないですか。
感謝して欲しいぐらいなんですが!」
そう言って頬を膨らませ、こちらを睨み返す水木。
「あなた達は何者なんですか?」
再び同じ疑問を投げかける。
「んー、簡単に言うと捕獲業者でしょうか?」
意味の分からない回答。
こちらの質問にはまともに答える気が無いようだ。
「私はこれからどこに連れて行かれるんですか?」
「私達の雇い主のとこですよ!」
「雇い主?」
「そうです!
あなたの事、一人でゆっくり食べたいらしくて、あの島から捕まえて来いとの命令でしたので。
あなたは今から美味しく食べられるんですよ!
良かったですね!」
予想はしていた。
しかし、それを改めて聞かされると、自然と身体が震え出す。
そんな私の様子を見て、水木は眉を顰めた。
「んー、やっぱり家畜にも感情があるんですね。
何か申し訳なくなっちゃいます。」
心配する様子を見せているが、同じ人間のことを家畜呼ばわりしている時点でイかれた人間ということが伺える。
「でも、私にはどうしようもありませんし、着くまで大人しくしててくださいね。」
そう言って彼女は部屋を出ていった。
「あぁ、捕まっちゃった。」
ここぞとばかりに出てくるのは、もう一人の自分だ。
「うるさい」
「せっかく逃げたのに、何の意味もなかったね。」
「どうするつもりなの?」
どうするも何ももう私に出来ることは残されていない。
「もう、私は死ぬんだ。」
遂に自ら言葉にしてしまった。
これまで頑張ってきたが、もう無理だった。
怖くて、悔しくて、ただただ涙が溢れてくる。
「泣くなよ。泣いても何も変わらないよ?」
どうせ泣かなくたって何も変わらないのだから、泣いてもいいだろう。
私は響く声を無視し、静かに泣き続けた。
「着きましたよ。」
そう言われて、目を開けると目の前には水木ともう一人、よく見慣れた男が立っていた。
「おはようございます。無事で何よりです。」
先程まで私を使ってゲームをしようとしていた人間が一体何を言っているのだろう。
「何で?」
私は殺意を込めながら、石川に疑問を投げた。
それに答えるべく、石川は口を開く。
「あぁ、先程までは私も監視されていたんです。
誰かが抜け駆けしないよう、互いに監視をしていましたので。
ですから、一度あなたをここに連れてきた上で逃げられてしまったという事実が必要でした。
回りくどいことをしてしまい申し訳ありません。」
確かにそれも疑問ではあったが、その本質にはまだ辿り着いていない。
何故そこまでして、私をここに拘束しているのか、それは一切分からないままだ。
「あなたは素晴らしく人間らしい人間でした。
欲深く、自信家で、自分は特別だと信じていた。」
説明を終えた方思うと、そう語り出す石川。
その言葉は室内に嫌に響く。
何故この男は私にこんな話をするのだろうか。
さっさと殺せばいいものを。
一体何がしたいのか、全く分からない。
「だから、あなたの力になりたかった。
何故あなたのSNSが多くの人の目に留まったのか、考えたことがありましたか?」
その質問に私の体温は一気に下がる。
「何故あなたがテレビに取り上げられたと思いますか?
何故あなたが人気になれたと思いますか?」
(違う、全ては私の努力が身を結んだ!その結果だ!)
そう叫ぼうとしたが、うまく声が出せない。
呼吸が速くなり、心拍数も上がってあるのが分かった。
「全て私のおかげなんです。」
全てを言い終え、いつものように屈託のない笑顔を見せる。
「何で?」
理解しがたい事実を投げつけられ、混乱し続ける私の脳が何とか絞り出したのは、最初と同じ疑問だった。
「あなたを愛しているから。」
「は?」
愛が故に、この男は愛が故に私を助けたと嘯いた。
予想外の回答に思考が止まっている私をよそに、石川は語り続ける。
「あなたが家畜であることは理解していました。
だから、いずれ誰かに食べられることも承知して見守っていた。
しかし、見ず知らずの人間に食べられることが我慢ならなくなった。
だから私はあなたを助け、あなたを襲い、他の人間の目を欺くことにしたんです。」
「私が家畜?」
この男の話は理解できなかった。
しかし、その言葉だけは聞き流すことができなかった。
「あぁ、申し訳ありません。
まずはそこからお話しするべきでしたね。」
少し長くなりますがと前置きをして、私の目の前に座る石川。
私は目を逸らすことができなくなっていた。
「まず、初めにお伺いしますが、ご自身のことをきちんと認識されていますか?」
質問の意味が理解できない。
自身を認識しているか、何故そんな事を聞かれているのだろう。
困惑する私の様子を見て、石川は再び口を開いた。
「あなたは自分の名前を言えますか?」
(当たり前だ!)
心でそう叫ぶ。
しかし、いくら探しても私の中に私の名前は見つからない。
「言えるはずもないんです。あなたには名前がありませんので。」
そんなはずはない。
私はこれまで二十五年間、当たり前に生きてきた。
一人の人間として、他の人間達と共に生きてきた。
両親との記憶も、友人との記憶も、会社での記憶も
私の頭にはしっかり刻まれているのに、私の名前は見つからない。
「あなたは人間じゃない。ただの家畜なんです。」
家畜って何だ。
「あなたは偶然人の言葉を理解できた。
というより、自身を人間だと誤認していた。
本来であれば早々に処分される予定でしたが、私はあなたを人間と同じように生活をさせてみたんです。」
「私は人間じゃない?」
「はい、あなたは人間ではありません。」
いつの間にか口から漏れ出していた疑問に、石川は静かに答えた。
「あぁ、遂にバラしちゃった。最後まで内緒にしとくって言ってたのに。」
どこか聞いたことあるような声に私は意識を奪われる。
「こんにちは。あなたと直接会うのは初めてかな?」
その女性を見るのは初めてであったが、どうやら私のことを知っているらしい。
「さて、私は誰でしょう?」
この場の冷え切った空気など一切気にすることなく、ニヤつきながらそう問いかけてきた。
その問いに私が沈黙で答えると、肩をすくめながら石川を見た。
「めちゃくちゃ空気が悪いな。君のせいだぞ。」
石川もそれに反応することなく、女性は再び肩をすくめた。
「あなたは誰ですか?」
「せっかくクイズにしたのに、釣れないな。」
もし動けたなら、確実に飛びかかっていた。
「お前は誰だ!」
船内に響く私の声に一切怯まず、ゆっくりと口を開く。
「私はね、あなただよ。」
その眼差しは何故か慈しみを含んでいた。
「私はあなたとずっと一緒だった。ほら、私の声、聞き覚えがあるでしょ?」
女性の言う通り、その声には聞き覚えがあった。
しかし、どうしても思い出すことができない。
「あなたは人間じゃないから、理解はできても話すことはできなかったんだよね。」
「私の声?」
そこまで聞き、彼女の声が自身と全く同じであることに気が付いた。
「正解!
良かった、ようやく気付いてくれて。
まぁ、私は声を貸してただけなんだけど。
あ、たまには私も話してたよ?
気付いてくれてた?」
(そうか、この人がもう一人の私だったんだ。)
不思議に思っていた、自分とは別の自分。
その正体が全くの他人ということなら、私の思考に反した発言をしていたことも頷ける。
「私は何?」
私はもう私自身が何者であるのか、その答えを持ち合わせていなかった。
私は人間じゃないのか。
人間ではないのなら、私は一体何なのか。
そんな疑問に答えたのは石川だった。
「あなたは家畜。偶然人の言葉を知ってしまった、ただの牛。
自身を人間だと誤認して、人間に混じって生活していた、ただの牛なんですよ。」
お前は牛だ。
そう言われて、すぐに理解できる者が存在しているのだろうか?
私は牛ではなく、人間だ。
人間として生きてきたんだ。
そんなこと、ある訳がない。
「残念ながらそれが現実です。
あなたにとっては受け入れ難いことでしょうが、あなた以外の者にはあなたはただの牛なんです。」
(違う!)
そう叫ぼうとしたが、私の喉はその言葉を発することができない。
「ごめんね、もうあなたに声を貸す理由も無いから。あと、目ももう戻すね。」
声は出るのに、それが言葉にはなってくれない。
そんなはずない。
私は人間として生きてきたし、牛だって見たことある。
そんな家畜と自分が同じ存在であるはずがない。
私はただ食べられるだけの家畜なんかじゃない。
そう否定し続ける私に、遂に現実が突きつけられた。
「ほら、これがあなたの姿だよ。」
差し出された小さな手鏡に映るのは、紛れもない牛の姿。
私は呆然と鏡を眺めることしかできなくなった。
そんな私を見て、石川が少し暗い表情を浮かべていた。
「もうあなたとお話しできないかと思うと非常に残念です。
あなたのおかげで久しぶりに楽しい日々を過ごすことができました。
ありがとう。」
そう言う石川の目には涙が浮かんでいた。
(そっか。この男は私を本当に愛していたんだ。)
私は勘違いしていた。
あの時の私は人間だったから、この男が私を愛してなどいないと感じていた。
しかし、この男は私を家畜として愛していたのだ。
手塩にかけてここまで育て上げた家畜を他人に取られることが我慢ならなかったのだ。
私はようやくそれに気付けた。
私は愛されるために、最も愛される人間となるために、ただそれだけのためにここまで必死に生きてきた。
その願いは叶うことは無かった。
でも、私のことを最も愛してくれる人間には出会うことができたのだ。
例え、その人間が私を食べるとしても。
例え、私が人間として愛されていないと分かっていても。
例え、私がただの家畜であったとしても。
そんな私を愛してくれる人間に出会えたのだ。
私の目の前たまに涙を流し続ける石川。
それに釣られるように、私の両目からも涙が溢れ出す。
「では、これでお別れです。
またいつの日かお会いしましょう。」
大きな衝撃と共に、私の人生は終わった。
香ばしい匂いが漂う店内。
そこにいるのは料理人と一人の男性客のみであった。
その料理人の手元には俵形に成形された挽肉がいくつか置かれている。
それが熱された鉄板の上で焼かれていく姿を石川はじっくりと見つめていた。
そうして、焼き上がったハンバーグが石川の前に提供される。
石川は涙を流しながら、胸の前で手を合わせると、そのハンバーグに向け、最後の言葉をかけた。
「いただきます」