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アストロフォーミュラ

作者: 屋代ましろ

四万字ないくらいで、序章から一章の終わりくらいまでといったところだと思います。

よろしくお願いいたします。

 影がある。薄白い雲と澄んだ空気を引き割く影だ。

 影は衝撃を纏い、硝子片のような波涛を広げ、縦横無尽に空を駆け抜けている。

 生じる波涛も一つではなく複数あり、互いが互いを置き去りにせんと挑み続けていた。


 高度一万メートル。人が営むにはおよそ適してはいない領域、その一つ。

 しかし高速で飛翔する影――巨大な鋼鉄の塊。その姿形は確かにヒトであった。

 空をゆく巨人が成す群れは数にして三十二にも及び、それぞれのビジュアルに差異はない。


 にもかかわらず明らかに群れから突出する機体が一機、確かに存在していた。

 他の追随を許さず、600キロオーバーという時速(スピード)で、誰よりも高く速く駆ける紅一点は、この場にいる誰よりも気高く美しかった。


 遥か下方。非公式の()レース会場が沸き上がり、アマチュアの実況者達もホロヴィジョンを通して目にしたままの事実とその衝撃を嬉々として雄弁に語っている。


『と、匿名希望選手。速い、速すぎるっ! これは土レースで許されるレベルかぁっ!?』

『このままのペースで行くと今日、三度目の大会レコード更新となりそうです。最終ラップでさらに動きが洗練されているようですし、いやあ本当に見事ですよ』

『もはや凄まじいという他、言葉を持ちません! 正直に言って私、このレギュレーションで7周遅れ……いえ、ここまでハイレベルな走りが見られるとは思いませんでした!』


『えぇ、わたしもです。アストロマシンのスペックは全機、同じなわけですからね。まさしくドライバーと搭載されたナビゲーションAIの実力が為せることでしょう』

『ですね――さぁ、先頭に続いてコーナーを抜けたマシンが一斉にストレートへ突入ぅっ!』


 声の先。中空に浮かぶ無数のソリッド・オグジュアリにより、円筒形を描くように示された道を走り続けるアストロマシン達が次々に加速していく。


 機体背部にいくつも備わる推進機構(スラスター)が、液体水素と液体酸素の反応が生み出すエネルギーを速度へと変えており、与えられる速さに対してひどく静かな加速だった。


 それでもドライバーを襲う荷重は、適性のない者が耐えられる加速度ではない。

 先頭からやや離れた位置。ゼッケン21と04の機体が第二集団を率いて続く。


「……流石にやってられないな。ここまで圧倒的な差を見せつけられると」

「あのグラサン女、思考過敏薬(ブーストドラッグ)でもキメてんじゃねぇか? ……クソッ!」


 ただ一人を除いて、このレース展開はあまりに面白くない。そう感じるのは当然だろう。

 やがてしばらく続いた直線が終わりに差し掛かる。迫り来る連続コーナーを目前にし、速度表示は600キロ超。このままでは確実に曲がり切れない――筈。だが、


「は、離されていくッ!? 減速しない気か!?」

「今度こそ無理だろッ、曲がり切れるわけがないッ!」


 第二集団が一斉に減速を掛ける中。先頭を誰よりも速く駆ける一機だけが、彼女だけが殆どノーブレーキでコーナーに突っ込んでいく。傍から見れば自殺に等しい速度だ。


 1周目で瞬く間に置き去りにされた彼らがその光景を目にし、逃避を言葉にする。

 対して今日、幾度も目の当たりにしてきた観客達はドッと声を上げた。


「うぉおおっ、来た来た来た――――っ!」

「こんな土レースでアレが見られるなんて儲けもんだろうよ!」

「お前のせいで全財産スッたのが、段々どうでもよく思えてきたぜ。チクショウ!」


 土は草に近い意味合いを持ち、つまるところ重力下で行われる非公式レースを指す言葉だ。

 もっとも霞ヶ浦オロシフェスティバル――通称オロフェスは、国際大会にも度々使用される霞ヶ浦サーキットで行われており、やや正確性に欠ける部分もあった。


「――行くよ〈シンシア〉。ターボファン・アクティブ、機体を風で流して(ラインフロー)!」

『分かりました』


 ドライバー正面。ディスプレイの傍に取り付けられたナビゲーションAIが応じた。

 機体の肩部や脚部装甲の一部が解放され、内蔵されたターボファンが唸りを上げる。

 殴りつけるような冷風がファンを押さえ付け、隙間だらけの全身を通り抜けていく。

 直後。機体はその凄まじい速度を保ったままコーナーへ突入した。


「――――っ」


 ゼッケン29を付けた機体――《ゲイルネイヴル》が空を横滑りにドリフトする。

 同時に渦を巻く無数のファン。常に微調整を繰り返す羽根の一枚一枚が高速で駆動し、全身から大量の白煙が尾を引いた。蒸気のような装甲を幾重も纏い、蒼灰狼(そうはいろう)が晴天に咆える。


『また出た――っ、SVターン(スクリューヴェイパー)!』

『1周目以外、使えるコーナーは全てですからね。もうペナルティ累積によるタイムの加算、もしくは接触事故(クラッシュ)を期待する以外に他の選手が勝つ手段はないと言い切れます』


 語る間に《ゲイルネイヴル》は二つ目のコーナーを通過し、既に三つ目に入っていた。


『いやあしかし圧倒的! まるでコーナーで加速しているかのようです!』

『通常通り曲がる機体と並走する際になら、そう見えてもおかしくはないでしょう。とはいえ実際のところは加速ではなく、減速していないのですが』


 ――SVターン。

 AIの緻密な演算処理能力とほぼ身動きが取れない遠心力の中で、吹っ飛んでいこうとする機体を繊細にコントロール出来るドライバーが揃って初めて可能な超絶コーナリング。


 それでもAF(アストロフォーミュラ)最速のレース規格〝F0(フォーミュラゼロ)〟においては、強者(つわもの)共の基礎でしかない。

 逆に言えば、持たざる者は決して表彰台に立てない――〝勝利の絶対条件〟なのだ。


「こ、こんなのもう二位だろうがリタイアだろうが……同じだろッ!」

「たった今、曲がって見せたんだ……曲がれない道理ない! ないんだよッ!!」


 ドライバーとしての絶望的な差を見せつけられ、第二集団を率いる二人が焦りを生む。

 当然、同じく神経を焼かれるような思いを胸に抱いたのは彼らだけではなかった。

 速さに魅せられた者達が、続々と吸い寄せられるようにコーナーへ向けて再加速していく。


『おぉっと、これはどうした! 各選手一斉に速度を――……いや本当に大丈夫かっ!?』

『あまり良くない判断ですね……もちろん、気持ちとしては理解できますが』


 実況席では苦言を呈される一方、既に勝ち負けに対する関心自体を失っていた観客席からは今日一番の大歓声が大空に響き渡った。


「ぉおおっ、いいぞ行け行けぇえっ!」

「ド派手にブチかませぇええッ!」

「死んでこい、ヤロウ共――ッッ!」


 好き放題に言ってはいるが、無論。結果は誰しも最初から予感した通りである。

 身に余る速度を纏い、ターボファンを駆動させ、ラインフロー状態となった蒼灰狼の群れはやはり等しく不格好にスピンを始め、次々にコースアウト及びクラッシュしていった。


「き、機体が制御できないッ、クソッ! チクショウがああッ!」

「な、なんで曲がり切れない……なんで俺にはっ! う、ぅああああああっ!?」

「そうだっ、ナビだ! あいつが曲がれるのは全部、AIが高性能だかっ――……」


 激しい衝突の火花が舞い散り、破砕の衝撃が空に鳴り渡る。

 制御不能に陥った機体達は、中空を漂うソリッド・オグジュアリが形成するコースラインの薄膜を通り抜け、青空を真っ逆様に自由落下していく。


 同時に各機体にコースへの復帰を促す音声及び文面が送信され、カウントがスタート。


 時間内に復帰出来なければ、ソリッド・オグジュアリが飛翔基を射出し、吐き出したバブルによって機体とドライバーを保護。レースはリタイアとなる。

 勿論、受信さえ不可能ならば即時射出し、カウントも高度や地形に応じて変化するものだ。


「うぉっ、大丈夫か……生きてんのか?」

「毎度のことながら心配になるわよね……」


 生物としての本能が観客席全体を一瞬、どよめかせる。しかし、


『ああっと、レース終盤に来てリタイアが続出する結果となってしまいました!』

『えぇ。勝利に対する執念と自尊(プライド)に対する無謀は、履き違えないで欲しいところですね』


 呆れを含む声の先。細かく砕けた破片の一つも落とさない精密さで、射出された無数の小型飛翔基が次々と《ゲイルネイヴル》を確実に保護していた。


 安全の象徴であるバブルが見えた途端、観客席が再び活気を取り戻す。

 この二十一世紀から格段に進歩したAIテクノロジーが、人々の営みの頭上を荒々しく疾走するアストロフォーミュラという競技の根幹を支えているのだ。


『彼らは自身の技量も理解せずレースに臨んでいるのでしょうか。何だかよく分かりません』

「こらこら」


 遥か後方の惨状をディスプレイの端に映し、〈シンシア〉が辛辣に一刀両断する。

 独走状態の《ゲイルネイヴル》は六連続ヘアピンカーブを難なく越え、険しいアップダウンを繰り返した後。大きく弧を描くロングカーブで荷重に押し潰される只中だった。


「ね、カーブってさ! 男のひとにっ、無理矢理っ、押さえっ、られてる感じっ、しない?」

『今、話すことですかそれは。いつもながらあなたには呆れます』

「むっつりの癖にさぁーあ」

『普段から言っていますが、そういった話題は私以外とよろしくお願いします』

『いーやーですーよぉー。あははーっ!』


 600キロ超という速度の中、彼女にこれほどの余裕がある理由は至ってシンプルである。

 この程度のスピードはまだ、気持ちが昂るには遅すぎるからだ。


 熱い抱擁を捨て去った蒼灰狼は、さらにいくつかのコーナーを曲がり、四連続の後方宙返りゾーンを突破。残すはスタート地点でもある、メイン観客席へ続く一本道のみであった。


「あーぁ。最後は気持ち良く加速機構(ブースト)、使いたかったなー」

『そういうレギュレーションです。子供ですか、子供でしたね……精神と顔つきが』

「私に対する諦め早くないっ!?」


 そして二時間ほど続いたレースに、終止符が打たれる瞬間は訪れる。


『ホームストレートに駆け下り今ッ、一着で堂々のフィニィイイイッシュッ! 第八十三回・霞ヶ浦オロシフェスティバル優勝はぁっ、匿名希望選手だぁあああっ!』


 大歓声を浴びるAM(アストロマシン)完走の合図(チェッカーフラッグ)を受け、ホロヴィジョンに周回(ラップ)タイムが刻まれる。


 ――4分06秒721。これは、他と2分以上の差をつけるタイムだった。

 表示された驚異的な数字を目にした瞬間。場内はさらにボルテージを上げる。


『うぉおっ、これは凄い! 自身で叩き出したタイムをさらに1秒縮めているぅッ!』

『お、恐ろしいですね。霞ヶ浦サーキットの1周が45.4キロなわけですから……えー、と単純計算で――うわっ、約時速664キロで走り続けていることになります!』

『おぉッ! ……ってあれ? でも確か《ゲイルネイヴル》の最高速度は659キロじゃ?』

『今日は風が強いですから。追い風も彼女の味方をしたのでしょう』


 なるほど、と。実況者の一人が頷き、ふと思い出したように言葉を続けた。


『それにしても個人的に匿名希望選手だあああっ、なんて実況はマヌケな気がします』

『本音を言うと最初、ふざけているなぁと思ったんですけどね。走りに理解(わか)らせられました』

『全くおっしゃる通りで! それで彼女、勝てますかね? 〝F0〟でっ!』


 それ以外のレース規格が〝F0〟に劣るというわけではないが、観ている側としてはやはり一番速い規格こそ、もっとも優れている印象を受けるのは無理もないことだ。


『いやあ、見てみたい気持ちはありますがどうでしょう。基礎的なドライビングテクニックの最低ラインは確かに超えています。それは間違いないでしょう。ただ――』

『ただ?』

『やはり平均速度がさらに300キロ近く異なる〝F0〟で同じことができるか、ですね』

『あぁーっ!』


 世界的に見てもSVターンが出来るというだけならば、それなりの絶対数はいる。

 ただしそれは、300キロ以下という現代ではもはや鈍行に等しい領域(レベル)での話だ。

 会場全体がまるでもう、レースは終わったような雰囲気に包まれていく。


 今も走り続ける者達に対し、あまりに配慮の欠けた仕打ち。他の誰かへ向けられた声の中、ホームストレートをひっそりと通過していくその背中は物寂しい限りだった。

 しかし、人間が非情である以上に。勝負の世界がいかに残酷であるかは、常に誰が速い誰が遅いと比べられる渦中でもがく彼ら自身が一番理解していることである。


「お疲れさま〈シンシア〉」

『お疲れ様でした』


 ただ一人の勝者がヘルメットを取り、色素の薄い抹茶色の髪を揺らす。

 ナビゲーションAI専用のデバイスが青く明滅し、パートナーの声が淡々と響く。


「あ、そうだ。さっきみたいな時ってやっぱり『了解』とかじゃない? カッコよくない?」

『否定します。私はそうは思いません』


 赤い即答だった。それは機械だからではなく、彼女がそういう性格だからだ。


「えー。ま、いいけどー。じゃあ応援ありがとーしてっ、サーキット内整備施設(ハンガー)、戻ろっか」

『了解』

「いじわるだなぁー」


 唇をわずかに尖らせ、持ち込んでいたサングラスを取り出してかけ直す。

 それから操縦を〈シンシア〉に任せて操縦席(コクピット)を開放。ひょいと身を乗り出し、鳴り止まない観客の匿名コールに彼女は精一杯の陽気な笑顔で応えていく。

 こうして霞ヶ浦オロシフェスティバルは、ふたりの圧倒的な大勝利で幕を閉じたのだった。


 *


「いやーぁ、すっっっっんごい白けたぶっかけ合いだったね」

『いえ、むしろ当然ではないでしょうか』


 〈シンシア〉の素っ気ない返答に、彼女は「むーぅ」とあざとく頬を膨らませる。

『むーぅ、ではありませんよ二〇歳』


 レースが終わり、表彰台の上で伝統のシャンパンファイトを楽しもうとした彼女だったが、誰一人としてそんな雰囲気ではなく義務的にかけられたので拗ねていた。


『いつ見てもシャンパンが勿体ない行為だと思います。飲まないなら私にください』

「好きだよねー、お酒」


 言って彼女は腰掛けていたコンテナから、ひょいっと飛び降りる。

 そのまま傍で作業中のチーフメカニックのところへ向かい、気安く後ろから肩を組んだ。


「へい、親父ぃ! どうバラしと乗せ換えは? 順調かよー?」

「ええい、順調だからベタベタとくっつくな! 年頃の娘がっ!」

「えー? なになに照れてんのー? ジジイなのにー?」


 あはは、と笑われて恥ずかしがるチーフを若いメカニック達は羨ましそうに盗み見ていた。

 視線に気づいたチーフが誤魔化すように一喝し、笑い声が一層大きくなる。


 彼らは現在、チーム別の格納庫(ハンガー)で《ゲイルネイヴル》を分解(バラ)している最中だった。

 組み立て状態での運搬が道路交通法で禁止されていることが一番の理由だが、大会運営から借りたマシンは出来得る限りの整備をして返却するのが義務(マナー)である。


 それでも一からマシンを用意するよりは格段に安上がりなのと、オロフェスの主催が銀河的大企業の茅沼(かやぬま)重工なことも相まって、土レースにしては高い人気を誇っていた。


『恋人のように丁寧な扱いを希望します』

「わーってるよ。ったく揃いも揃って似たもん同士、注文の多いヤツらだなぁ!」

『心外です。撤回を要求します』

「ねぇ私、傷ついちゃうよっ!?」


 コックピットから外された、両手に収まる程度の統括制御モジュール――〈シンシア〉が、今度は宇城(うしろ)自動車製でエメラルドグリーンの四輪――レゾナンスに乗せ換えられていく。

 チーフが取り付け作業に入り、しばらく。彼は頭の中で言葉を選ぶように口を開いた。


「……なぁ、ところで嬢ちゃんよ」

「んー? なぁにー?」


 他所で若いメカニックの肩へ、だらしなくもたれ掛かっていた彼女が振り返る。


「オメー、このままウチでやってく気はねぇか」

「えーっ。ないよ、ないない! いやホント! これっぽちもっ! だって弱いもん」

「た、確かにウチは超弱小だがオメー、少しはおれ達のメンタルに気を遣ってだなぁ」


 あまりに率直な物言いとその笑顔に、チーフは思わず呆気に取られる。

 他のメカニック達も耳を傾けていたのか、がっくりと肩を落としていた。

 彼女はあくまで臨時の助っ人で、酒の席で意気投合した結果が現状であるに過ぎない。


「ん? あぁ、違う違う。弱いっていうのは――……」


 彼女が自身の告げた意味を訂正しようとした、その時だった。


「ちょっといいかしら?」


 凛としたよく通る声が格納庫に響く。皆が声の先を見やれば、ウエストがきゅっと締まったパンツスーツ姿で、赤茶けた髪色をした女性が堂々と立っていた。


「誰だ、アンタ? 関係者以外立ち入り禁止なの、常識だろ」


 女性は返事をせずただ一瞥だけし、ドライバーの元へ真っ直ぐ向かっていく。


「ごめんってチーフ。お客さんでしょ。もちろん、私の」

「話が早くて助かるわ」


 その言動と立ち振る舞いは、男達の中で戦ってきた女を感じさせるものだった。

 女性が名刺を取り出し、それを受け取ると他のメカニック達もぞろぞろと集まってくる。

 名刺には出雲(いずも)リンケージ代表取締役社長の他にもう一つ、重要な肩書が記されていた。


「【IZUMO(いずも)ミーティアス】オーナー、出雲真弓(まゆみ)……」

「悪いが、聞いたことねぇチームだな」


 傍で覗き込んでいたチーフは明らかに不満そうな口調だ。


「当然でしょうね。ろくな成績を出していませんから、まだ。で、率直に言うと貴女(あなた)をウチのチームに引き抜きたいと思ったからお邪魔させて貰ったの」

「だろうな。ちなみにレースが終わって、アンタで二〇〇飛んで五人目だよ……ったく」

「いやあ、ごめんなさいねぇ。山田(やまだ)花子(はなこ)さんってば人気者でーっ!」


 自称――山田花子の呑気な笑いに、チーフが深いため息をこぼす。

 とはいえあれだけの実力を見せつければ、人々が殺到するのも当然と言えば当然だった。

 それでも誘いを全て断っており、メカニックは皆、まぁ断るんだろうという顔をしている。


「でしょうね。それで恐らくフリーのドライバーと見たのだけれど。違ったかしら」

「大正解だよ。じゃあ話を聞く前にこっちから一つ、質問していい?」

「えぇ。どうぞ」

「あなたのチームが目指してるのは――どこ?」

「? 自チーム主体で全銀河アストロ(G)フォーミュラ(G)グランプリ(P)チャンピオン以外に何が?」


 品定めするような視線を受けながらも、さも当然の如く真弓は即答する。


「いいね」


 にぃ、と。口の端を吊り上げたあどけない笑顔は子供のそれであった。


「あぁ。一応言っておくけれど私、別にレースを見て誘おうと決めたわけじゃないのよ?」


 などと得意げにポケットから取り出し、見せびらかしたのは一枚の機券(きけん)だった。


「うぉ、すげぇなこれっ! 29からの組み合わせ全部、網羅してんじゃねぇかっ!?」

「マジかよ!? じゃあこれ、一枚で総額いくらになんだ……」


 うん千万円分の機券を前にし、メカニック達が互いを見やりながら声を上げる。


「今日だけで随分と儲けさせて貰いました」

「ふぅん。見る目はあるってわけ」


 じろり、と。重ねて真弓を真っ直ぐに見つめた後、花子は途端に微笑んで続けた。


「うん、いいよ。スカウトされちゃう、私。いいよねー?」

『問題ありません。私はあなたの選択を支持します』

「え。けどオメー、さっき弱小は嫌だって……」


 〈シンシア〉もあっさり承諾すれば、勧誘を断られたばかりのチーフが堪らず口を挟む。


「私が助っ人に入る前、さっきみたいに聞いたでしょ? どこを目指してるのって」

「あ、あぁ。聞いてたな。それが……あっ」


 己と彼女の返答。そこにある明確な差を思えば、彼に返す言葉などありはしない。


「そ。弱いんだよね、心がさ。頑張ってワールドグランプリ(WGP)に挑戦できたらいいな~、なんて志はちょっと低過ぎるから。私とは合わないんだよ、これっぽちもね」

「だ、だがオメー。似たようなこと言って誘ってきたのもいただろ?」

「うん、いたね。だから最後は私の人を見る目と直感だよ」

「どうもありがとう。けれどそこまで言うからには、期待――してもいいのよね?」


 真弓の問いが意味することはただ一つだった。貴女は今よりも速い領域でSVターンが可能なのか、と。それを理解する花子は、胸を張ってきっぱりと答える。


「うん、大いに期待してくれて構わないかな」

「そう。でもウチも今は、全日本から先に進めない弱小チームに変わりはないわよ?」

「ちょうどいいよ。どうせ私もハイパーライセンスは取り直さないといけないから」


 あっけらかんとした態度で、些細なことのように花子が笑う。

 ハイパーライセンスとは〝F0〟のWGP予選に参加可能なドライバー資格のことであり、いずれかの〝A1(オーサムワン)〟規格の国内選手権で上位三位以内に入ると取得できるものだ。


(取り直す……?)


 真弓が怪訝な表情を浮かべると、花子は指を二本立てる。それからある要求をした。


「でも二つ、条件がある」

「条件?」

「そ。一つ、全日本()アストロ()フォーミュラ()選手権(F)が終わるまでは匿名希望」

「……もう一つは?」


 あまりに不可解な提案とは思いつつも、真弓はひとまず先を促す。

 すると花子がレゾナンスの方へ歩き出し、ボディに優しく触れながら力強く言い切った。


ナビゲーションAI(パートナー)は、彼女を――〈シンシア〉を載せる。以上、その二つ」

「後者はともかく、前者の理由を訊いても? 正直、ウチも資金に余裕はないのよね」

「あっ、だと思った。えーと、真弓さん? ちょっと人差し指、出してよ」


 花子の指が上になるように指先を重ね合わせると、情報の波が真弓の神経を駆け抜ける。

 直後。振動した腕輪型の携帯端末を見れば、匿名口座から多額の振り込みがあった。


「貴女、これ……」


 インタラクト。それは指先にナノマシンを埋め込むことで可能となった、複合型の身分証明端末――その第三世代の試作型であり、真弓の第二世代よりも優れた性能を有していた。


「足りるでしょう? ちなみにそれ、私の全財産」

「これだけあれば足りる……けれど使ったらもう殆ど残らないわよ? そもそも匿名希望制度なんてもの、金持ちの道楽にも満たない何かでしかないと本当に理解していて?」

「しているよ。でも私、目立ちたがり屋なんだよね」

「め、目立ちたいって貴女ねぇ……はっきり言ってあんなものに価値なんてな――……」

至福(しあわせ)はそれぞれに違うものだよ。世界観って、価値観ってそういうものでしょ。だからね、価値はある。私にとってそれは。だって私の命は――その為に残ってるんだから」


 発せられた言葉から、その両の眼から。確かに感じられる、己すら焼き尽くす程の灼熱。

 決して冗談などではない純粋な感情の塊――本気。

 自身もよく知る譲れない想いを前に、真弓もまた同じ熱意で視線を返す。


(まぁ、彼女の言う通り。人それぞれ、か……)


 女らしい至福を捨て、アストロフォーミュラ・チームのオーナーとして今ここに立っている自分がまさに言葉通りではないかと。そう思えば、ふと自嘲にも似た苦笑が漏れた。


「オーケー。とりあえず今の条件は呑みましょう。他にはあんまり要求しない人かしら」

「しいて言うならご飯と寝床かな。なくなっちゃうし、お金。あとは――」

『私からは可能な限りのアルコール仮相(かそう)飲料水を要求したいと思います』


 人間味の溢れた発言に真弓が重ねて笑みをこぼし、交渉は晴れて合意となった。

 西暦2196年――O.(オーバー)C.(センチュリー)106年9月26日。地球。茨城県南東部、霞ヶ浦。

 彼女達はめぐり逢い、そして。この日、AF史に残る伝説は始まったのである。


 *


「――というわけで、こちら辰巳(たつみ)恭平(きょうへい)君。ウチのチーフメカニックよ」


 茨城県鉾田(ほこた)市の片隅にある開発工場(ファクトリー)――とは名ばかりな格納庫に真弓の声が響く。

 花子と〈シンシア〉はそこで、仄暗いアッシュグレーの髪と女好きのする顔立ちが目を惹く美形――恭平に新しい搭乗者とAI(カップリング)として紹介されていた。


「同い歳くらいかな? 私、山田花子! 世を忍ぶ仮の名だけどお世話になりまーす」

『〈シンシア〉、本名です。不束者ですが、よろしくお願い致します』

「…………」


 無言だった。しかも花子には緊張より驚きが(まさ)っているようにも見え――つまり、


「うわっ、私の美しさにやられて言葉を失っているっ!?」

『はぁ、のぼせないでください。美声です、私の』

「彼、レース中やマシンについては普通に喋るから。普段はあまり気にしないであげて」


 AI(ナビ)がドライバーに似るのは本当ね、と。呆れる真弓がそう補足する。


「そ? ならいいや」

「ぉへぇ。無駄に自己評価高いのヤだなぁ……あっ」


 分解されたAMの傍ら。思わずぼやいた中学生くらい女の子が、両手で口を押さえていた。


「あっ、何あの子! かぁあいいっ!」

「げ。わ、わたしっ? ――うぎゃっ!?」


 ショートボブの少女に気付いた花子は、目を爛々(らんらん)に輝かせてすっ飛んでいく。


「その子が私以外で唯一の女性スタッフ、辰巳伊織(いおり)ちゃん。恭平君の妹ね」

「妹! いいねぇ! 私、妹大好き! よろしくねぇ~、伊織ちゃん」


 嬉々として伊織を撫で回しながら抱き締める光景は、やられる当人を除けば微笑ましい。


「しょ、初対面なんだから〝さん〟を付けろ……です! この@*$%!&#=(とても汚い言葉)――っ!」

「うへへっ。可愛いよぉ~、可愛いねぇ~! 伊織ちゃ~ん」

「真弓さん、わたしこの女嫌いです!」


 伊織は花子が自分の苦手な強引さを持つとすぐに悟り、助けを求める。だが、


「でも腕は確かよ。伊織ちゃん」

「すりすりすりすり」

「う、うう、うぅう……っ! あ、(あに)……た、助けて」


 頬ずりを止めて貰えず、涙目で兄を呼んだ。伊織は攻撃力こそ高いが、防御力は低かった。

 それでも恭平は変わらず無言である。花子もふと周りを見れば、久しぶりの女性加入だからなのか、無駄なポージングを決める胸板の厚い男共が熱を帯びていると気が付いた。


「で、右から――……左端までその他十数名のむさ苦しいハンガークルー達よ」

「「「扱いの差があまりにもひでぇ――――ッ!?」」」

「あははっ、はうぎゃぅっ!」


 笑いで拘束が緩み、隙が生まれる。当然、伊織は花子を投げ飛ばして抜け出し、短い呻きの横を通り過ぎた真弓も皆の側へ寄っていく。それからくるりと身を翻し――


「まぁ、何はともあれ歓迎するわ。ふたりとも」

 だらしなく四つん這いになった花子に手を差し出すと、真弓は不敵に微笑んで続けた。


「――ようこそ、【IZUMOミーティアス】へ」


 *


 かつて人類未踏と呼ばれた深海一万一〇〇〇メートルを越えた先で発見された特殊合金は、新時代のエネルギー源として世界中に革新をもたらした。


 ――ヒトイロガネ。またの名を反戦石(はんせんせき)


 その由来は至極単純。この特殊合金はヒトの創造に用いられる場合にのみ、人類が発見したどんな金属よりも優れ、どこからともなく莫大なエネルギーを生み出すからである。


 これにより「非現実的だ」「説得力がない」「ダサい」「戦車や戦闘機の方がマシ」などと好き勝手に言われていた〝人型ロボット〟が覇権を握る時代が到来したのだ。


 当時も茅沼重工を始め、各研究機関がこぞって調べ上げたが、結果はどれも不明の二文字。

 原理は何一つ分からず、また解き明かす目処の一切も立たなかった程である。


 だというのに――そう、だというのにもかかわらず。ヒトイロガネの孕む底知れない魔力に魅せられた人類は、こぞって未知の力を使い、遥かな宇宙へ飛び出してしまった。

 言うなれば人間は今、自らの足で立たず、不安定な土台で胡坐をかいているに等しい。


 また当然、この未知――感応流体(かんおうりゅうたい)を軍事利用しようとする動きもあった。

 しかし推測される特性の一つとして〝闘争の否定〟が存在し、何らかの手段を用いて感情を読み取り、使用者に傷付ける意思があれば感応流体の生成を止めてしまう為、不可。


 であればエネルギーだけを別の何かに転用することも考えられたが、まるで感応流体自身が意思を持つかのように自滅してしまい、これも不可。


 発見から一〇〇年以上が過ぎた現在も、兵器への応用はただの一つも為されていない。

 故にAFという速さを追い求める人機一体(じんきいったい)の競技は、まだスポーツのままでいられるのだ。


 *


「ん~♪ ん~っ♪ ん、んん~♪」


 ひどく音程の取れていない鼻歌だった。

 射し込む午前の陽光を浴び、普段通りにサングラスをかけた花子が退屈を過ごしている。


 現在、彼女達の姿は【IZUMOミーティアス】を始め、近隣チームのホームコースである霞ヶ浦サーキットにあった。その格納庫でメカニック達が、仰向けに各部を固定された機体の上部や周囲で予選前の調整を急ぎ行う最中である。


 参加するのはウィークエンドと呼ばれるもので、文字通り週末に催されるイベントだ。

 ファクトリー内に自前のサーキットを持たないチームにとってこれは、コース上でマシンの走りを確認できる数少ない機会の一つであり、敵を知る場でもある。


 花子も普段ならば意見の一つも出すが、眼前の機体にはまだ一度も乗っていない。

 その為、現時点では何もなかった。しかし誰の邪魔もせず、一人でうろつくことにも飽きてしまい、何となく恭平の傍に立って反応を見てみることにする。そして、


「あはっ」


 アストロマシンと有線接続された制御端末(コンソール)。それを適確に操作する立ち姿の横顔を見つめること十数秒。彼の真剣な仏頂面が何だかおかしくてつい、笑ってしまった。


「なんだ」


 視線は向けず、淡々とした声音で恭平が訊く。


「ううん、別にー。ただイケメンの横顔を眺めてて、なんか面白かっただけー」

「そうか」

「あ、否定しないんだ?」


 思っていたものと異なる返答だからか、その疑問符には関心の色があった。


「興味はない。だが、よく言われるからそうなんだろう」

「あはは。恭平は面白いねぇ」

「意味が分からない」


 誰に対しても距離の近い花子が、笑顔で恭平の背中を何度も軽く叩く。他のメカニック達もそれをこの数日で理解した筈なのだが、やはり羨ましくて作業に支障が出ていた。


『全員、手が止まっていますから。それ以上はやめるのが無難かと』

「えー。でもこうやって恭平にベタベタするとー、伊織ちゃんが面白いんだよね~」


 一足先に同期を終えた〈シンシア〉の忠告に、花子がけらけらと周囲に目を向ける。

 途端。男共は視線を逸らし、そそくさと作業に戻っていった。そんな中で唯一、伊織だけが〝兄から離れろビ~ム〟を全身から放っており、それがまた可愛くて花子は笑みを重ねる。


「しっかし、いつも思うけど。これが飛んで動くんだから凄いよねぇ~、なんでだろー」


 横たわる全長二十数メートルの巨人を見上げ、わざとらしい声を漏らす。その瞬間だった。


「――ちょっとっ、そんなことも知らないんですかっ!」


 今こそ反撃の時とばかりに、隙を見逃さなかった妹が駆け寄って来る。


『見事な全力疾走ですね、伊織』

「わたしはまだ全力、出してない! ……って、そうじゃなくてですっ!」


 ビシっと。伊織は花子を指さし、豊かな胸を偉そうに張って続けた。


「いいですか! アストロマシンはですね、わずか2.1ナノグラムのヒトイロガネを含んだだけの流核(りゅうかく)一基で人型なんていう荒唐無稽な代物を成り立たせていてっ、それで――」

「へ~、そうなんだ~。いやぁ、さすが将来有望な整備士の卵だね~。よ、伊織せんせっ」

「え。ま、まぁ? そ、それはそうなんですけどっ……えへへ」


 露骨な褒め言葉には屈しないつもりでも、根が素直なので照れてしまうから伊織だ。


「調子に乗るから常識で煽てないでくれ」

「むぅ」

「イヤですよ~。なんたって私は褒めて伸ばすタイプですから~」


 などとフォローしつつ、不満げに頬を膨らませる伊織をぎゅっと抱き締める。


「ぅぎゃあっ、しまっ! だからくっつくなぁですよ! この・*?+@=~(とても下品な言葉)っ!」

『楽しそうですね』


 皮肉とも取れる感想だった。それから花子はたっぷりと中学生を堪能し、ふと訊ねる。


「あ。そういえばこの機体、名前は? 聞いてなかったよね」

「《クロスブリードARX》だ。色はお前の頭に合わせた」

「う、ぅ。お花畑なんだから絶対ピンクにするべきだったよ、兄……っ!」

交差(クロス)出血(ブリード)で――……(ARX)、ね」


 白基調に描かれた薄緑の細線。シャープな印象を抱かせる装甲に触れ、呟いた。

 恭平がどこか寂しさを感じ取る一方で、肩で息をする伊織が一つ付け加える。


「それに地球()重力()規格で大気圏突入できるくらい凄いんだからっ! 兄の設計したAMは!」

「ホント? なら設計の規定(レギュ)が変わるか、次世代機の基準になりそうだけど」


 現状の規定では宇宙から地上へ降りる場合。再突入外套(リエントリードレス)が必須であり、事実ならば革新だ。


「実際に試したわけじゃない」

「あ、なんだ。でもなんで試さないの?」

「失敗すればレースに出す機体がなくなる」

「悪かったわね、資金カツカツで。それで、どう?」


 切実な諦めに花子が「あぁー」と息を漏らせば、苦笑混じりの真弓が格納庫に戻って来た。

 ドライバーの実名非開示という要望を満たすべく、運営と話をつけに行っていたのである。


「あとは背部拡張推進基(バックパック)の取り付けだけです。指示通り全体の操作感度(レスポンス)は引き上げましたが、これ以上は腕次第では無謀かと。それと伊織、仕事しないなら全寮制の高校を受験しろ」

「あ。う……ご、ごめんなさい兄」


 兄妹だからこそ声色以上に怒りを感じるのだろう。明らかに落ち込んでいた。


「ふふ、それもそうね。じゃあそろそろ見せてもらいましょうか、貴女の本当の腕前を」

「へへん。まぁ見てなさいって! ね、〈シンシア〉」

『えぇ、やってやりましょう』


 応じる笑みはそのまま、ふたりが培ってきた溢れんばかりの自信の表れであった。


 *


 抜けるような青さが冴え渡る空の下。観客席では次々に過ぎ去ってゆくマシンの風切り音を堪能するAF好きが、自由な議論を白熱させる光景がよく窺えた。


 このウィークエンドというイベントはレースこそすれ、競い合いが目的ではない。

 その為、普段とは少し異なった楽しみ方をしている者達が数多く見られるのだ。


 とはいえ予選や決勝当日のチケットを取れなかったAFファンも、マシンやドライバー達を一目見ようと駆けつけており、盛り上がりはレース本番にも引けを取らないものだった。


「おっ、またどっかのAMが格納庫エリア内(ハンガー)の飛行路(レーン)から出てくるぞ。どこの機体だ?」

「カラーリングは変えてるが……ありゃあ、【IZUMOミーティアス】のじゃねぇか」

「IZUMO? あっ、あー。あの、レースクイーンがちっこくて可愛いとこか」

「そうそう。ま、ドライバーが死ぬほど性格悪くておれはちっとも好きじゃねぇがな」


 然程の関心を持っておらず、玄人おじさん二人組が「ちげぇねぇ」と笑い合う。

 視線の先では、徐行浮遊を続けていた《クロスブリード》が本コースへ合流するところだ。


 そして次の瞬間。明らかな速度(オーバー)超過(スピード)で次々とコーナーを鮮やかに連続でクリアし、視界から消え去っていくのを目にした玄人おじさん達は、思わず缶ビールを握り潰して叫んだ。


「「な、な、な――なんなんだっ、アイツはぁああああっ!?」」


 サーキットに新たな烈風が吹き荒れたのをその時、誰もが肌で実感した。

 ソリッド・オグジュアリのカメラがマシンをホロヴィジョンに映し出す。背部スラスターの噴き出す推進の煌めきは鱗粉のようで、さながら白翠蝶(はくすいちょう)とでも言うべき装いだ。


 驚愕と羨望。二つを混ぜ合わせた大きな期待が舞い上がり、一斉に《クロスブリード》へと向けられる。無論それは、【IZUMOミーティアス】のハンガーにおいても同様だった。


「ス、スクリューヴェイパーなしの走りであれかよ。とんでもねぇな」

「おれ達の《クロスブリード》ってホントは、あんな速かったのか……」

「金がねぇーから公表された機体性能(カタログスペック)は他より劣ってるって現実、忘れそうになるぞ?」

「今までのドライバー全員、足で操縦してただろこんなんっ!? ねぇ、オーナッ!」

「え、えぇ……」


 メカニックが歓喜に震え、真弓は無意識に頬を緩ませながら言葉を詰まらせる。

 伊織も初めてサンタにプレゼントを貰ったような眼差しを空へと向けており、しかしそんな歓喜の渦中に在ってただひとり――恭平だけは違っていた。


 表情が一目で分かる程に変化していると気が付いたのは、隣にいた妹だけだ。


「どしたの、兄?」

「……いや、まさか。だが、そんな……こと」


 翡翠の軌跡を青に描く《クロスブリード》が――自らの手で造り上げたマシンが、いつしか思い描いた幼い夢と共に大空を飛び翔る。

 誰よりも高く速く。先へ、遠くへ。ただひたすらに。過去が、現在を追い越していく。


≪「――このまま次行くけど、SVありでちゃんと走るから計測よろしくね~」≫


 両の耳から響いた通信が脳を震わせ、そこでようやく恭平は現実へと帰還した。

 直後。ホームストレートに戻って来た白翠蝶が眼前を疾走。タイムが記録される。

 すぐさまホロヴィジョンへ示された数列に、サーキット全体が悲鳴にも似た声を上げた。


「よ、4分59秒47……こ、この時点で敏煥(としあき)より30秒以上も速ぇっ!」

「「「うぉ、おぉっ、ぉおおおお――――っ!!」」」

「霞ヶ浦で軽く流して5分切るとか。お、おっかねぇ……」

「しかも花子ちゃんと違って敏煥のヤロー、ホームストレートで装甲切り離し(パージ)もしていれば、そこら中で気軽にブースト吹かして計測してたよな!?」

「何なら決勝だと鏡環追加速機構(ミラーリングブースター)だってあるんだから、まだ縮むんだろっ!」

(いくら性能が上とはいえ、SVターンなしでここまでのタイムだなんて……)


 男達が手を取り合い、歓喜する。真弓も己の夢が近づいたと理解し、潤んだ目元を拭う。

 だが、訪れた2周目。その第一コーナーを抜けた途端、サーキットは異様なまでの静けさに包まれることとなった。


 他チームのクルーがホロヴィジョンに釘付けとなり、覆しようもない理不尽なまでの差に心を砕かれたドライバー達も、本能で進路を譲ってしまう始末だ。


 歪としか言いようのない光景だった。しかし、無理からぬことではある。

 何故ならばその時。彼女達が叩き出したラップタイムは、〝F0〟チャンピオンが保有する霞ヶ浦サーキットの〝A1〟コースレコードを射程圏内に捉え得るものだったのだから。


 そこには、ただ――3分58秒215という鮮烈に刻まれた結果(タイム)だけがある。


「……正直、私もここまでとは思わなかったわ」

「うぉおおっ、マジですげぇよ花子ちゃん!」

「敏煥とかいう大外れとは比べるまでもねぇって!」

「ついでにサングラス取って本名教えてくれぇっ!」


 調整を促すつもりで一度ハンガーに戻ってきた花子を、真弓とクルー達が笑顔で出迎えた。


「あはは、嫌。でも喜んで貰えてなにより。ところで恭平、操縦桿のレス――」

「23パーセント、上げればいいんだろ」

「いいね」


 一瞬だけ目を丸くさせ、花子は満足げな笑みを浮かべる。彼が口にしたのは彼女の要求値と等しかった。だが、二人のやり取りを聞いた他のクルー達が動揺を露わにする。


「に、23って……そいつは今、設定できる限界値じゃねぇか! 正気じゃねぇぞっ!」

「そうだぜ、あんなん触ったこっちが驚いて引くレベルの淫乱感度だぞっ!?」

「いいからやるぞ。他にも合わせて弄るところはある」


 恭平はマシン以上に機械であり、常と変わらない調子だった。彼の毅然とした態度に、他のメカニックらもそれ以上の否定はせず、すぐに次へ頭を切り替えている。つまり、


(ふーん。イケメン広告塔的な、お飾りじゃないんだ)


 彼は年齢が一回り近く離れている中、技術面以外でもきちんと〝チーフ〟なのだ。

 一方で見習いである伊織だけは、ひとり悔しそうに唸っていた。思うに〝そこそこ上手い〟程度を想像していて、完全な想定外だったのだろう。そういう表情である。


「あっ。伊織ちゃん、褒めて褒めて~」

「う。だ、誰にでも取り柄の一つはあるって言うから……け、けど! 《クロスブリード》と〈シアちゃん〉のおかげだってことも忘れたらわたし、許さないんだからねっ!」


 思春期をしているからか。やはり称賛半分、忠告半分という塩梅であった。


『ふふん。分かっているではありませんか、伊織。私にお酒を買う権利をあげましょう』

「伊織は未成年だ」

「ああもう! 素直じゃない! しゅき! ぎゅーぅっ!」

「ぎゃぁああああっ!? あ、兄。助けてへるぷ、へるぷみー」


 問答無用で抱きつかれ、胸の中にすっぽりと収まってもがく伊織。それを誰も止めようとはせず、妹がめいっぱい愛でられること数秒。花子は先程から気になっていたことを訊いた。


「ね、そういえば走ってる時も聞こえてたけど。としあきって誰?」

「前のドライバー、(ユン)敏煥(ミンファン)のことよ」


 話題することさえあまり気乗りしないような表情を浮かべ、真弓が答える。

 韓国人だとすれば、敏煥呼びも愛称ではないのだと花子もすぐに理解できた。


「勝ったら自分の実力、負けたらマシンのせい。典型的な他責思考をする男だったな」

「あー。ま、そういうタイプが多いのも分からなくはないけどねー。なんたってクソな自分を誤魔化すこの世で一番楽な方法だし~」

『同意します。では今後、勝利は全員で。敗北はドライバーで分かち合いましょう』

「私の孤独も分かち合ってっ!?」


 余程、敏煥が嫌いだったのだろう。腕の中で伊織が「うー」と小犬のように唸る。

 彼女は真弓を多湿な視線でジッと見つめ、少し含みを持たせながら唇を尖らせた。


「あいつ嫌い。距離近くてしつこいし、ロリコンだし……真弓さん、ほんと見る目ない」

「う、腕優先で選んだのだから性格はある程度、仕方がないでしょう」


 そんな言い訳には「程があるだろー」「そうだそうだー」という批判や文句が続いた。


「と、とにかく! 来月からもうJNAFの初戦なのだから早く作業に掛かりなさい!」


 真弓の下手な誤魔化し加減に皆が笑い、各々の持ち場へ散っていく。

 当然、その日のウィークエンドレースは【IZUMOミーティアス】の完勝に終わった。


 *


 十月三日。全日本AF選手権、第一戦の予選当日。

 開催地である北海道の十勝(とかち)ハイスピードフライングウェイでは、既に予選開始から1時間と55分が経過しようとしていた。

 目の前に広がる凄惨な光景へ、実況席のアナウンサーがどうにか言葉を絞り出す。


『――か、かつてこのような事が一度でもあったでしょうかっ、いえ! 生き字引を自称する私が断言します! ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!』


 戸惑い混じりの大音声(だいおんじょう)が響き渡る場内の反応は、大きく二つに分けられていた。

 喜悦と驚倒。その差は〝彼女〟を知っていたかどうか。ただ、それだけである。


『開いた口が塞がりません! 御子柴(みこしば)さん、一体どうなってしまうのでしょうかっ!?』

『えぇ。AFの予選で適用されるこの110%ルールは、トップと比較して10%遅い機体を足切りするための規則ですが、それは遅すぎる機体は誰にとっても危険だからなんです。逆に言うと突出して速すぎるのも危険ですから、続行かどうかは運営の裁量次第でしょう』


 解説席に座る生活の垢が染み込んだような顔の元AFドライバー、御子柴道司(どうじ)が答える。

 タイムが表示されたホロヴィジョンの一番上では〝NO.NAME〟という文字列が堂々とあり、予選通過ラインを示す白線が二位以下との間に力強く引かれていた。


『しかしこれほど各チーム血眼でタイムを削りに行く光景は、異様というか何というか……』

『無理もありませんよ。参加している大半の選手にとって、自己ベストから更に15秒以上の差があるわけですから。自分の身に置き換えて考えただけでもゾッとします』

『このままだと予選のタイムで順位が決定なんてことにも? それと先程から姿の見られない現時点でスタート位置が二番目(セカンドグリッド)の尹選手は、諦めてしまったのでしょうか?』

『どうでしょう。私は、彼はそういうタイプでなかったと記憶していましたが』


 御子柴も気にしていたのか、やや苦笑混じりに言葉を濁す。その時だった。

 アナウンサーのインカムに通信が入り、わざとらしさすら感じる驚きを見せた。


『――っと、えぇっ! んんっ、サーキット内の皆様にお知らせします。たった今、匿名希望選手からSVターン可の申告があった為、以後は通常通りの進行で決定となりました!』


 場内が一層どよめきを増し、他の選手の心情を汲み取った御子柴が堪らず腹をさする。


『ターンの有無でジェット機と三輪車程の差が生じますから……正直、心苦しい限りです』

『身も蓋もない言い方をすれば、今大会は二位争いが主な見どころになる、と?』

『えー、まー、そう……なり、ますね』


 ストレートな発言を受けて、御子柴も曖昧に頷きを返すしかない。


『そして今、予選終了ぉーっ! その名の通り流星の如く現れた【IZUMOミーティアス】の匿名希望選手、圧倒的決勝レースで(ポール)先頭スタート(ポジション)獲得です!』


 宣言と呼応して一際、大きな歓声が上がる。AFに惹かれる理由に差はあれども、レースに触れるうち少なからず速さに魅せられているのだ。強者が歓迎されるのは当然だった。


「――良かったの?」


 運営への申告を終え、ハンガーに戻る途中。心地良く響く音を聴く真弓が花子に訊ねた。

 隣を歩く花子はきょとんとした表情で、「え、何がー?」と軽薄に笑う。


「黙っていれば決勝をするまでもなかったじゃないの。せっかくのポールポジションもこれでハンガースタートよ? しかも3周遅れってオマケが付いた」

「んー。だって迷惑でしょ、色々。決勝のチケットを取った人だっているわけだしさ。それに後から使えるって分かったら、もっと面倒だってこと忘れてるよ」


 その指摘に数日ぶりの平静を取り戻した真弓がハッとし、罰するように目頭をつまんだ。


「浮かれてるなぁー。正直私も、もう少し抜いて走れば良かったかなって反省はしてる。でもこれはこれで目立てるからアリかなって? なんて、性格悪いかな」


 自虐気味に笑う花子がふと視線を感じ、何台も置かれたトレーラーの方を横目に見る。

 ハンガー裏に位置するサーキットの社交場(パドック)には関係者が多くおり、二人は注目の的だった。


 しかし誰も話しかけてはこず、憶測混じりの声を囁かれるだけで視線もすぐに逸らされる。

 それからチームのハンガーまで戻れば、今度は見知らぬ人影に気が付いた。


「――ん? なんか私らのとこ、お客さん来てない?」

「あ、あの後ろ姿……はぁ」


 ため息の先。能面のように形を整えられた顔の男が許可なくハンガーに立ち入る。彼は兄の作業を手伝う伊織に背後から近づくと、彼女の灰髪をそっとすくい上げるように触れた。


「相変わらず素敵だ。可憐だよ――伊織くん」

「~~……――ッッッ!?」

「あぁ、シャイなところもいい。まぁ、この僕を前にすれば恥じらいも当然なのだけどもね」


 耳にした不快感の塊で状況を悟り、すぐさま恭平の後ろに隠れた伊織だったが、星を乗せた瞬きの追撃に堪らず震え上がる。兄の服の裾を掴む手には確かな怯えが見えた。


「何の用だ?」

「やあ、兄上。キミも相変わらずこんなへぼマシンを弄っているとはご苦労なことだよ」

「『…………』」


 恭平と〈シンシア〉が返答の価値を見出せずにいれば、彼に気付いた皆も集まってくる。


「順位以上の差を目の当たりにして、よくそんなことが言えるな!」

「そうだぜ。お前がまるで使いこなせなかったマシンで、こっちは結果出してんだぞッ!」

「あぁ! しかもたった今、ドライバーとして負けたばっかじゃねぇか。それをっ!」

「負けた? この僕が? 誰に? ハハハ! キミたちはやっぱり笑いのセンスはある!」


 キラキラと輝きを失わないパッチリとした二重の両眼は、己の一切を疑っていない。

 ひとしきり高笑いした後。彼はブロンドの髪を涼しげにかき上げて続けた。


「それは大いなる勘違いさ。この僕の下位互換未満の彼女は、どうせ検査にも引っ掛からない新型のブーストドラッグでも服用しているんだろ? でなければ僕よりも速いなんてあり得るはずがない。何故なら僕は、今回のJNAFを優勝すると自伝に記す予定なのだから」

「「「は、はぁ……?」」」


 まるでそれが揺らがぬ事実であるかのように語られ、クルーの誰もが言葉を失う。


「こんなのだから嫌なんだよ。わたし、こいつ……」

「どう思おうと勝手だが、客観的に見てもお前が上だなんて会場の誰も思っちゃいない」

「ハハハ! そんなはずないさ! なんたって僕は最強無敵の〝主人公〟なのだから!」


 彼の自己愛の強さは、夢が必ず叶うと信じ切っている少年のそれであった。


「えっ、誰? あの面白整形坊っちゃん」

「その……ほら。彼が貴女の前にウチでドライバーをやっていた、ユン・ミンファンくんよ」

「あー、こいつが噂の! ――――としあきっ!」

「「「バ――――ッ!?」」」


 虚を衝かれたメカニック達が声を揃える。彼らが恐る恐るそちらを見れば、案の定な変貌に心の中で頭を抱えた。視線の先には、わなわなと小刻みに振動する能面の姿がある。


「とっ、とと、と……とし、あきだとォッ!? この僕がッ! この尹敏煥がッ!?」


 ミンファンは身体が捻じ切れんばかりの勢いで翻り、花子を鋭く睨みつけた。


「そこのブスァッ! 訂正しろ、この僕を猿と同じ読み方で呼ぶんじゃァないッ!」

「うわぁっ、まだいるんだこんな化石みたいな感性したヤツ……そもそも全人類が色違いの猿みたいなもんでしょ。豚でもいいけど、それくらい分かろうよ。ね、ユン・としあき」

「と、ととっ、ととっとぅとッ、とぉォオオオオオ――――ッッッ!」


 日頃から周囲を煽っているつもりなど毛頭ないミンファンからすれば、花子がいきなり挑発してきたようなものだった。故に己の怒りに正当性があると信じて疑わず、狂乱する。


 と同時に彼の持つ主人公観は、正当性のある暴虐を肯定するものでもあった。


(けが)す穢す穢す穢す穢す穢す穢す穢す穢す穢すゥウウウッ!!」

「はっ、仮にもレーサーならレースで勝負しろっての。どっちが猿よ」

「負けたら女ァ、首輪付き全裸のガニ股でサーキットを踊り歩けよキサマァアッ!」


 声を張り上げ、ミンファンは「不愉快だ!」とハンガーを去っていく。外へ出た瞬間、通りすがりに「どけよ、ババアッ!」と明らかに二十代そこそこな女性を突き飛ばした。


「色々とアレな感じなのねー。そんなに日本が嫌いなら国に帰ればいいのに」

『自国にも居場所がないのではありませんか? どこにいてもダメでしょう、アレは』


 そうかもー、と。緊張感のないやり取りで笑う姿を、男達は心配そうに見守るのだった。


 *


 翌日。北海道は例年と比較してもかなり早い初雪に見舞われ、霧のように立ち込める灰色の寒空が十勝ハイスピードフライングウェイを覆い隠すこととなった。

 雪のレースがAFでそれほど珍しい光景でもない以上、進行に滞りはない。


 現在は観客席(スタンド)裏のスポンサーステージにて、各チームに所属するレースクイーン・キング・キッズが露出の多い格好でインタビューを受けつつ、笑顔で応対する最中だった。


 内容としては基本的にスポンサーの紹介が主であり、【IZUMOミーティアス】のように来年の存続すら危ぶまれる弱小チームには縁のないものではある。


 しかしその代わり、スポンサー不在のチームには同イベント広場でファンとの交流の場――もとい、レースクイーン等を有料で撮影する機会が用意されていた。


 そしてIZUMOには、女性クルーが新顔の花子を除けば二人しかいない。つまり、


「次、こっち目線くださーい」

「「は、は~い」」


 カメラを構える男の声に、透け感のある白赤コスチュームを着た真弓と伊織が応じる。

 片や色々と限界一歩手前、片や露骨な営業スマイル。そんな二人が集める人間は少なからずマニアックな連中が多く、サングラス型カメラを光らせる花子も数に含まれていた。


「はぁ……眼福、至福。なんかー、えっちな巫女さんみたいだよね~」

「な、なんで混ざってるんですかっ。ドライバーはハンガーで大人しくしててくださいっ!」


 伊織がむすっとした仏頂面になった途端、起こる「おぉおっ」という謎のどよめき。

 普段のサーキットでは見ない表情だったのだろう。ファンはすかさず写真に収めた様子だ。


「まー、まー。私と伊織ちゃんの仲じゃない~」


 ニヤリと笑い、花子は境界線を越えてさり気なく二人の背後に回り込んでいく。

 射るような目つきをしたファンの前。彼女が取った行動は伊織を抱き締めることだった。


「ひゃんっ。ぁ、やっ……ん、んっ」

「「「――――ッ!?」」」

「うーむ。やっぱり私よりおっぱいあるよね、伊織ちゃん」

「へ、変態っ! んっ、うぅっ……じ、事故って負けちゃえっ!」


 割と遠慮なく揉んだり嗅いだり、摘まんだり絡んだりして見せれば、直前までは確かに存在した花子への敵意は露と消え、今日一番の真剣さを宿す音が連続した。

 浅く胸を上下させながらぐったりする姿に満足し、今度は真弓にも両手を向けて訊ねる。


「やる?」

「……やりません」

「「「えー」」」

「えー、じゃないのよっ!?」


 活きのいいノリツッコミで皆が笑顔になり、花子がけらけらと真実を言い放つ。


「まぁ、真弓さんの場合。無理してる感がたまらないひとが大半だろうからいっか」

「わ、私についての感想は言わなくて結構なのよ……」


 同情からか、まばらに響くシャッター音が何とも言えない哀愁を漂わせていた。

 微々たる利益を得る為、スポンサー不在のチームはどこも似たような状況である。


 他にも一般観客がホームストレートやハンガーレーンを歩けるグリッドパスがあり、購入の際に回答する〝目当てのチーム〟に選ばれた数で収入となるが、雀の涙も同然だった。


 とはいえ通称――グリッドウォークはレースクイーンやマシンだけでなく、運営が募集したグリッドガール・ボーイとも交流でき、AFファンならば一度は経験しておくべきだろう。


「うぅっ、なんでわたしがこんなこと……」

「これもチームの為だ」


 スターティンググリッドに片膝を着く《クロスブリード》の傍。伊織と恭平は揃って写真に収められていた。

 その優れた容姿から性別問わず多くのファンを獲得しており、【IZUMOミーティアス】が資金難で済んでいるのも二人の功績によるところが大きい。


「まだ言ってなかったけれど、花子ちゃんのおかけでスポンサーの話もかなり来てるのよね」

「ホントですかっ、メカニックに専念できるってことですよね? やったーっ!」

(まぁドライバーとは逆の性別を採用するのが、普通と言えばそうなのだけれど……)


 これで最後とばかりに輝いた笑みは、配信用ドローンを通じて世界中へ拡散されていく。

 しかし発言のタイミングを含め、全てはファンで退路を断とうと目論む真弓の策略だった。


 やがて時計の針も一周してグリッドウォークが終わる。スタート位置(グリッド)には競技役員を除いて既に、レース開始前(フォーメーション)の低速周回(ラップ)を待つドライバーとメカニック以外の姿はなかった。


 三十二機で作られた列の先頭。白翠蝶のコクピットで翅を休める花子の元へその時、一つの通信が届く。それは凄まじい剣幕をしたユン・ミンファンからの宣戦布告であった。


≪「おい女ァ、本名と素顔の前に裸体を晒してやるから覚悟をしろォッ!」≫

≪「んー。まぁ、やれるもんならやってみてよ。ちなみに負けたら改名だから」≫


 彼のディスプレイには〝SOUND ONLY〟とあり、秘匿は変わらず徹底されている。


≪『こちら〈エスプリ〉と申しますです。宜しくお願い致しますです』≫

≪『〈シンシア〉です。対戦よろしくお願いします』≫


 一方でドライバーと対称的に友好的な挨拶するナビは、互いの名刺を送信し合っていた。


≪「あ、一回勝負じゃ可哀想だから総合成績で競ってあげてもいいよ? としあき」≫

≪「JNAF(こんなところ)で〝主人公〟が負けるわけないだろぉがァ、僕の人生だぞッ!?」≫


 一方的に通信が切断。スタートまで2分を切り、程なくメカニックも退去を完了する。

 各機が浮遊を終えた数秒後。グリーンライトが点灯し、マシンは一斉に走り出した。


 *


 風を切り裂く轟音が、打ち上げ花火のような歓声を上げる人々の頭上に響き渡る。

 それは先頭から9秒遅れてホームストレート前を通過した最後尾への声援だ。


『――肌を刺すような雪模様の下。JNAF第一戦は早くも2周目を終了。現在、先頭で最も快調に飛ばすのは大の日本嫌いで有名なこの男! 予選二位の実力を遺憾なく発揮するユン・ミンファンと《ヴァルキリウスVTX》! そこから2秒遅れて石田健太の《ルタスLO》、パメラ・エイカフの《ポルテネカR7》が続き、すぐ後ろにはスタートから二つ順位を上げたダグ・ハルペニーの《ベーオギスD/J4》が四番手! さらに後方、激しく競り合う三機が追う! 前節JNAF覇者、ドミトリー・タタウロフはこの位置だ!』


 黄金騎(おうごんき)の派手さを備える機体が、さながら獣使いのように三〇の機獣を従えて疾走していく光景は圧巻の一言だった。対する観客席もまた負けず劣らずの興奮に包まれている。


 いやむしろ序盤の盛り上がりにしては少々、過剰と言っていい。

 その原因――ただ速過ぎたというだけで、3周のハンデを課せられた花子と〈シンシア〉。

 ふたりの搭乗する《クロスブリードARX》の姿は、未だハンガーレーンにあった。


『いやしかしすごい熱気です、御子柴さん! これはやはり、彼女が?』

『でしょうね。各選手、明らかにオーバーペース気味。心が(はや)っています』

『45周を逃げ切る為に、なるべく距離(マージン)を稼いでおく判断でしょうか』

『はい。スクリューヴェイパーがあれば3周差はないも同然です。既に一部は編隊を組んで、空気抵抗の軽減――スリップストリームを活用しています。つまり、そういうことでしょう』


 原則として他のマシンへの積極的な進路妨害などは当然、認められていない。

 だが、そうでもしなければレースとして成立しない場合。話は別だった。


『ハイパーライセンスを保持し、かつ高速域でSVターン可能なドライバーは〝F0〟以外の規格でレースの参加が認められないわけですが、彼女は全日本に収まる器ではないと?』

『えぇ、しかし操縦技術とAMの性能が勝敗を決めるわけではない――それが、レースです』


 御子柴もその人生の大半をAFと共に過ごしてきた身だ。実力通りの結果ではない勝負などいくらでも経験がある。そしてそれは、ふたりと同じ認識であった。


『――だそうですが』

「ま、そりゃあね。運悪く事故に巻き込まれたりしたら実力関係なく負けだし」

『では今日は、別に見たくもない裸踊りでしょうか』

「あははー、ないない。だってJNAF(ここ)で負けたら――私が、私でいられない」


 覚悟を宿す真剣な眼が燃えている、と。〈シンシア〉の(センサー)は鮮明に認識する。

 集中は切らさず、待機を続け――程なく。恭平の平坦な声だけがコクピットで響いた。


≪「――もうすぐ3周目のミンファンが戻ってくる。ふたりとも準備いいか?」≫

≪「『問題なーし(ありません)』」≫

≪「真弓よ。花子ちゃん、文字通り全員が敵だと思って走った方がいいわ」≫

≪「あはは。何言ってるの、真弓さん。ドライバーの敵はいつだって自分自身だよ」≫

≪『えぇ。それよりもトップとのタイム差はどの程度でしょうか?』≫


 ほぼ同時にミンファンの《ヴァルキリウス》がメインスタンド前を突き抜けていく。


≪「16分21秒。そこから最後尾が11秒近く遅れている」≫

≪「りょーかい。あ、伊織ちゃん。〝お姉ちゃん頑張れー〟って言ってよ」≫

≪「絶対にヤダ! でも負けないでよ!」≫


 花子は小さく笑い、心の底から残念がる。しかしそれも一瞬の揺らぎだった。

 機体を浮遊(フロート)状態へ移行させた途端、サーキットは一段と盛り上がりを見せる。


「それじゃ、行こっか。〈シンシア〉」

『はい。これが、私達の夢への一歩です』


 水素エンジンの鳴らす排気音(エキゾースト)に気分は高揚し、操縦桿(ハンドル)を握る指先に力が入る。

 スタートシグナルがカウントを始め――最後尾のAMが必死な速度で周回タイム(コントロール)計測空線(ライン)を駆け抜けてゆく。そして、白翠蝶が空へ羽ばたく時はついに訪れた。


『――《クロスブリードARX》が光の翅を開き今、コースへと躍り出たぁあっ!』

「「「わぁああああ――――ッッッ!!」」」

『公開されている予選の映像を見た方が大半なのか、流石の大歓声ですね』

『はい! それにここ十勝ハイスピードフライングウェイは、スタート直後の直線がそれほど長くありませんからすぐに――などと言っている間にっ、早速クロスブリードが先行する《イメニーアEWDF》を射程圏内に捉えているぅうっ!』


 現時点で三十一位に甘んじるブレナン・J・クラークは内心、酷い憤りを覚えていた。


「ファック! オレがぶち抜かれない未来をイメージしてるヤツは一人もいねーのかッ!?」

『マシンの性能だけはこっちが上なんだがねぇ、一応』

「るせぇッ! 終わったらケツ毛を数える矯正プログラムをぶち込んでやるからなあッ!」


 彼が三つ目のコーナーを攻める時。白翠蝶は既に後方、数メートルの位置にいた。

 カーブ外側の角度(バンク)がついたコーナーを除き、通常のコーナリングはコーナーのイン側に配置されたソリッドポールをマシンの指先(マニピュレーター)で掴みながら曲がることが想定されている。


 つまり基本的にコーナーにおいてアウト側からの追い越し(オーバーテイク)はない。

 だが白煙を纏う《クロスブリード》は、驚く程あっさりと外から抜き去っていった。


「ち、くしょおッ!」

『またしてもSVターンんんんッ! 内側(イン)外側(アウト)上部(ハイ)下部(ロー)もっ、最早関係ないッ!』

『えぇ。例えば四輪のレースで言うところのタイヤがマニピュレーターに当たるわけですが、路面を掴む力(グリップ)を一切消費しないのに通常よりも速い。そんなの無法ですよ、ただの』


 自機が静止したような錯覚の中、ブレナンは僅かでもフットペダルを踏み込む。

 速度が上がり、機体に掛かる横Gが強くなれば、マニピュレーターが火花を散らす。


「――――ッ!」


 視線の先。二〇〇メートル以上も離れた蝶の後ろ姿に、ブレナンは言葉を失った。

 たかが難易度〝低〟のコーナー一つ。それだけで己は、彼女に届かないと改めて理解する。

 自分を限界まで追い込んで頑張れば勝てる、なんて言葉が戯言だと分かってしまう。


(オレってヤツは、なんでまだ……アストロフォーミュラ、やってんのかねえ……)


 どれだけストレートで距離を詰めようとも意味はない。コーナーへの侵入速度と立ち上がり速度の差はマシンスペックの差を補って余りあり、この場(レース)において彼女は〝女王〟だった。


『匿名希望選手っ、あっという間に五機のマシンをオーバーテイクぅッ! ストレートでこそ食らい付いて見せますが、やはりと言うか……コーナーが厳しい状況です!』

『はい、各マシンは1秒でも長く《クロスブリード》の前を走ることを意識すべきでしょう』

『――あぁっと! 競り合う三機の中へ《クロスブリード》が突っ込んでいくぅッ!?』

『ま、まさかここで仕掛けに行くとはっ! ……怖いもの知らずですね』


 御子柴と同様。順位の変動を通信で聞いたドライバー達も迫り来る現実を疑った。

 今走っているのは、十勝の中でも屈指のコースアウト・クラッシュ率を誇る難所なのだ。


「ふざけるんじゃないよっ、ここのコース幅の無さと返りのキツさを分かってんのかい!?」

「この次は即、上角(じょうかく)37度だぞッ!? 一人で走ってるわけじゃねぇからチクショウ!」

「いくらSVだからって無謀でしょ、それはッ!」


 だが戸惑いなど気にも留めず、低く鋭く遠心力と乱風を帯びる白翠蝶は加速し続ける。

 マシンが下方へ沈み、やがてU字の白線が描かれた瞬間。《クロスブリード》は三機の前を駆けていた。抜かれた当人達からしても、最早驚く以外にすべきことがない。


「分かってないのはアタシとッ、そういうわけかいっ!?」

「……俺たちがやってんのは、本当に〝A1〟のレースなのか?」

「あ、あんなのにどうやって勝てって言うのよ……」

『うぉおっ!? ローへの凄まじい潜り込みから一気に駆け上がって見せたぁあっ!?』

『関節部に負担を掛ける走りですが、上手いですね……SVターンの最中にソリッドポールを一瞬だけ掴み、手首の回転で角度をつけたわけです。いや、恐ろしい……』


 それは花子の操る《クロスブリード》が他の機体とは違い、コーナーでマニピュレーターを酷使しないからこそ、こんなレース序盤でも気兼ねなく行える走りであった。


「――笑止! いくらコーナーが速かろうが、所詮マシンは機械よッ!」

「エンジンの空気冷却を止めればいずれッ!」

「塵も積もれば限界過熱(オーバーヒート)なんだろっ!」

「小賢しいとは言わせまいてッ!」


 視界360度(全天周囲)ディスプレイが映し出す前方。五機のアストロマシンが明らかに陣形を組んで飛行していた。上下左右を囲い、前に蓋をする走りは意図的な進路妨害だろう。

 加えてバンクのあるコーナーが続く為、速度で劣る白翠蝶は完全に抑え込まれた形だ。


『おぉおっ!? ここでなりふり構わない凸型ブロックが敢行されるぅううっ!』

『普段のレースなら即ペナルティものですが、今回に限りまず罰則は出ないでしょう』

「うわっ、せこい! ぶっ殺せぇー、お――お、おおぉお……う、ぅう」


 映し出された映像を目にした伊織が、ハンガーで声を上げる。

 しかし思わず口にしかけた単語を恥じて、すぐさま唸りながら縮こまっていった。


「あら。伊織ちゃん、別に慌てるような状況じゃないわよ」

「えぇ、あの程度の抑え込みが続いてオーバーヒートするような欠陥機なものか」


 悔しそうな少女を横目に置きつつも、冷静に分析する恭平と真弓の言葉は正しい。

 どれだけ前を塞ごうともスクリューヴェイパーがなければ、コーナーではソリッドポールを掴む必要がある。


 つまり、おのずと左右どちらかの機体が縦列にならざるを得ないのだ。

 拮抗していない実力の前では無意味であり、事実バンク区間を抜けた瞬間。

 鮮やかに五機を置き去りにし、続けて緩急のフェイントだけで更に前の二機を抜き去る。


「さてと、誰か待っててくれないかなー」


 コクピットから見る青は、ソリッド・オグジュアリが描く偽りの空でしかない。

 可視光線の偏光機能による光学迷彩の影響であり、前のマシンを肉眼で捉えるには追いつく他なく――高速コーナーを抜けたところで、十六機目の背中が一瞬だけ見える。そして、


『さぁ、やって参りました。十勝で最も長い直線! 通称〝気嵐(けあらし)ストレート〟っ!』

『純粋に速度が物を言うエリアですから《クロスブリードARX》には厳しいでしょうね』


 御子柴の言葉通り白翠蝶は前を行く機体の後方にピタリと着いたが、捕まえたというよりもどうにかしがみ付いていると表現する方が的確だった。


「あぁっ、前に出られない! 邪魔っ!」

「……伊織。お前も〝A1〟の固定観念に染まりすぎだ。いいか、《クロスブリード》自体は単純な最高速度なら一年前の型落ちとすらいい勝負をする。その意味が分かるか?」

「え」


 若干の呆れ混じりに問われ、伊織は僅かばかりの思考を巡らせる。


「あっ、そっか……遅い時間が一番長いのは今なんだ」

「そうね。けれどだからと言って毎回、あそこでブーストを吹かすとガス欠が早くなる」

「だったら他の機体の後ろにいた方が、スリップストリームでタイムが出るっ!」


 それを理解する、花子が直近に追い越した計七機のドライバー。その全てがマシンに備わる加速機構――加速円筒基(ブーストシリンダー)を作動させ、エンジン臨界点へのカウントをスタート。


 液体水素の燃焼効率に掛けられた制限を限定解除し、爆発的な加速を得る。

 しかしその目にも止まらない追い越しには、明確な怒りが見て取れた。


「ハッ、いいぞいいぞ。焦りたきゃ一生焦っていろ! 一位以外は負けだという考えは御立派ですが俺みたいな奴はね、表彰台に上がれる可能性を高める走りをするさッッ!」


 自身への嘲りの気配を感じ取った彼――ノエル・ドニは、あくまで冷静であった。

 勝つ為の強引な走りは、必ず精神と機体の無駄な消耗を招く。ならば真後ろの化物を有利にすることこそ、実力で劣る己が表彰台に立つ最短ルートだと判断しただけに過ぎない。


『こいつ、使えそうですね』

「だねー。毎周ここで会いたいよ、ゼッケン17」


 やがて長い直線の終着が見え、その途端。先行する《ヴィオラドレSpec3》が潔く前を譲り、白翠蝶はそのまま連続コーナーへ突入。瞬く間にノエルの視界から消え去った。


「スクリューヴェイパーか……あれくらい速く走れたら、気持ちいいだろうな」


 ノエルが羨む十数秒後。七機が稼ぎ出したマージンは、SVターンを用いたコーナー三つで跡形もなく吹き飛んだ。機体の挙動からもその苛立ちが目に見えて分かる。


「イラついてるし、来るかもなぁ。来たらスラスターはこっちでやるから」

『分かりました』


 〈シンシア〉が粛々と応じ、予感はそれから程なく的中することとなった。

 後方に張り付かれるのを嫌がったマシンが突如、故意の急制動を掛けたのだ。


『おあっとっ、痺れを切らした《G‐モルガン》が突然のフルブレーキだ――ッ!?』


 瞬間。ターボファンの一部を〈シンシア〉が駆動・調整し、機体が右回りに翻る。

 派手にスピンしたようなものだ。しかし花子の巧みなスラスター操作と操縦桿を通して風を感じ取る繊細さが、一見ミスにも見える動作を回避運動へ昇華させた。


『それを《クロスブリード》が躱してあぁっ、《G‐モルガン》はここで機能停止(リジェクトブロー)!』

『流核……というよりヒトイロガネの闘争を否定する特性上、まず廃機でしょうね』


 花子は生まれたスペースを活用して、コーナー手前で強引な割り込みを仕掛ける。

 立体棒を掴まれる直前、白翠蝶はブーストシリンダーを作動。瞬間的に周囲の気流が乱れ、結果的に六機のアストロマシンはコース外へ弾き飛ばされることとなった。


『匿名希望選手、凄い! 凄すぎる! 勢いそのまま会心のごぼう抜きだぁああああっ!』

『タイム上はそうなのですが、1周目で先頭を捉えるとは……称賛以外の言葉がありません』

「――来たか、無礼な女ぁ! だがキサマ如きは〝主人公〟であるこの僕! 城北洞(ソンブクトン)生まれのユン・ミンファンにとって乗り越えて当然のメスに過ぎないとその身体に理解(わか)らせ――……」


 などと勝手に盛り上がる彼の走行ラインの取り方は、これ以上ない程に隙だらけだった。


「へ?」


 あまりに呆気なくオーバーテイクされ、思わず(まばた)きを何度も繰り返す。


『? お目目パチパチさせている場合ではないと思いますです』

「う、うるさいッ! 騎士道精神の欠片もない小癪な女が、僕を油断させたんだ!」

『……っ! そうだったのですかです!?』


 〈エスプリ〉はアホの子だった。

 そうしてもたらされる結果はこれまでの誰もと同じであり、直線で追い付いたように見えるが、次のコーナーでは詰めた以上に引き離されていく。

 コーナーを二つも抜ければ、ミンファンの血管が破裂寸前となるのは必然だろう。


「あの女ァっ、性懲りもなくまたブーストドラッグを! 許さんッッ!」


 けれどもミンファンが彼女と再会を果たせるのは、決まって背中からであった。

 やがて――三度の邂逅(かいこう)をとうに終え、現在32周目。ミンファンも周回ごとに自己ベストを更新するペースを保っていたが、彼女の速さには足元にも及んでいない。


「あり得ないあり得ないあり得ない、あり得ない――――ッ! 〈エスプリ〉っ! この僕がスクリューヴェイパーを華麗に成功させる確率はいくつなんだッ!?」

『ゼロですです!』

「ふざけるなぁああッ!」

『ぴぃいいっ、本当のことを言ってごめんなさいですぅう!』


 真に〝主人公〟ならば土壇場で確率の壁など容易に越えて見せる。そう信じるミンファンの黄金騎はしかし、白翠蝶の翅が起こす風を受けるラインを自ら取って操縦の安定性を失った。


「こ、このォッ! シバルニョン(くそったれ女)がぁあああああああッッッ!!」


 叫びと共に《ヴァルキリウスVTX》がコースアウトしてゆく。制限時間内の復帰も出来ずソリッド・オグジュアリのバブルに回収され、尹敏煥のリタイアが確定。


 その後もクラッシュは続出し、JNAF第一戦は完走一桁の苛烈なレースとなった。

 表彰台で花子の隣に立っていたのも作戦勝ちのノエル・ドニと、最初に心を折られたが故にペースを守ったブレナン・J・クラークというのは何とも皮肉な絵面だろう。


「――そんなはずはない。これはげんじつじゃない。ぼくが、このゆんみんふぁんが……」


 レースが終わり、ハンガーで一人、呆然と放心してるミンファンに向かって花子は言う。


「家に帰って絵日記にちゃんと書いときなよ。〝へぼに負けました――としあき〟ってさ」


 彼女自身、初めから彼に口で言う程の関心を持っていなかった。

 けれど唯一、パートナー(シンシア)を蔑まれたことにだけは苛立ちがあり、ストレートな侮辱を受けたミンファンは今にも下唇を噛み切りそうな怒りを露わにする。


「はい、じゃあ改めましてぇーっ! このままの勢いで優勝、獲るぞーっ!」 

「「「うぉおおおおお――――ッッ!!」」」


 サーキットに響き渡るクルー達のむさ苦しい雄叫びは、歓声の中へと溶けていった。


 *


 真空の黒に浮かび、円環に囲われた青い楕円体。実に四万キロメートルにも及ぶ機軸を持つそれは、地上に建設された四基の軌道エレベーターと宇宙(そら)のサーキュラーリングだ。


 リングは各方面への発着港としての役割も担い、航宙艇の行き交う光が軌道エレベーターも含めた全体像を彼岸花のように見せることから〝オービタルブルーム〟とも呼ばれている。


 そんな天蓋の茎に当たる地点。カーボンナノチューブとヒトイロガネが織り成すケーブルを高速で駆け上がっていくヒト型――リニアフレームの機内に花子達の姿はあった。


 円を描くような配置の座席が四つとその中心にある干渉投影機(ホロヴィジョン)

 それといくつかの窓や浴室、洗面所があるだけの少し手狭なエコノミークラスの一室。

 小気味よい音楽が流れ、干渉投影機に映し出された女性アナウンサーが話し始める。


『――協定地球時(ETC)、19時丁度をお知らせ致します。はい、ではまずお馴染みAFについての話題から。先日の沖縄第六戦を終え、列島縦断を果たした全日本AF選手権は、次戦よりその舞台を宇宙(そら)へ移すわけですが、匿名希望選手の総合優勝が現時点で確定。ハイパーライセンス取得に伴って所属する【IZUMOミーティアス】も、第三戦からWGPへの参加を既に表明しており、世界中が彼女の走りに! 何より隠されたその素顔に注目が集まって――……』


 いちAFファンとして弾む声と映像は、しかし呆気なくボタン一つで途切れた。


「あぁっ、なんで消しちゃうの~。伊織ちゃ~ん」

「だって四六時中、すごいすごい聞かされるのもなんかヤになってきたし……」

『同意します、伊織。優れていると報道されるのはドライバーばかりですから』

「だよねっ!?」


 シマエナガに似た白い小鳥のボディを手に入れた〈シンシア〉が不満を口にすれば、どこかゲーミングチェアを思わせる多機能椅子から伊織が勢い良く上体を起こす。


「伊織先輩は、恭平さんも褒めて欲しいんですよね。分かります、そういう気持ち」

「あー、なんだー。ただのお兄ちゃん大好きっ子か~」

「うぐっ。り、里穂(りほ)ちゃんまで……」


 心にゆとりがある声色の不意討ちを受け、思わず伊織がたじろいだ。


「もーぅ、可愛いな~。伊織せんぱいは~」

『流石です、伊織センパイ』

「ばかにされてるっ」


 里穂と呼ばれた十六歳の少女が、一つに結われたミルクティー色の髪を揺らして笑う。

 淡嶋(あわしま)の性を持つ彼女は、【IZUMOミーティアス】に新しく所属することとなったレースクイーンであり、JNAF第三戦から伊織の後輩として一員に加わっていた。


「里穂ちゃんはいいよね……いっぱい注目されてるし」

「新人だからですよ。けど確かに私みたいなAFの知識を持っていないレースクイーンより、メカニックの皆さんの方がもっと評価されるべきですよね。そこは申し訳なく思います」

「知識なんて勝手についてくるから関係ないって。クイーンに必要なのは顔とおっぱい!」

『真弓はこのまま、里穂を〝伊織の歳上の妹〟という方向性で推していくようですね』


 実際に性別関係なくファンの受けは良かった。遊び慣れていない雰囲気も後押ししているのだろうが、何より恋愛結婚をしない淡嶋家のお嬢さんであることが効いている。


「お姉ちゃんじゃなくてわたし先輩だしっ! でも里穂ちゃんは良かったの?」

「いいと思います。だって〝歳上の妹〟なんていかにも物語の途中で死んでしまいそうな属性じゃないですか。私、好きなんですよ。悲劇のヒロインみたいなのって」


 うっとりとした仄かな微笑みは、内に秘めた特殊性癖を感じさせるものであった。


「あっ。今更ですけど、花子さんはどうしてリニアフレームで宇宙に?」

「ホントだよ。絶対、皆とシャトルの方が良かった……せっかくスポンサー付いたのに」


 初戦以降。チームには多くのスポンサーが付いており、伊織の言い分はもっともだ。


「大した理由じゃないよ、なるべくリニアフレームってだけ。好きなんだよね、昔から」

「あぁ、なら仕方がありませんね」

「でしょ? いやぁ、里穂りん分かってる~」


 水素よりも軽い調子に、伊織がこれ見よがしな諦めを含んだ息をつく。


「そういう里穂りんはどうしてついてくる気になったの?」

「私、リニアフレームって物心ついてから一度も乗ったことがないんですよね。普段は自家用シャトルを使っていますから。乗る機会がなくて。だからです」

「さっすがA‐WAZ(エイワス)! 淡嶋のお嬢様だなぁ」


 エイワスグループは茅沼重工に並ぶ巨大企業の一つだ。元々は運送業から始まり、現在では航宙艇事業、生活・不動産、医療、資源・科学、エネルギーなど様々な分野に関わっている。

 里穂はそんなグループの代表を務める淡嶋家の五女であり、十二人兄妹の末っ子だった。


「ちなみに伊織ちゃんは――……」

「先輩として! 後輩が! ヘンな影響を受けないよう見張る為ですっ!」

「ふふ。ありがとうございます、伊織先輩」


 先輩の二文字がスーッと心に染み渡っていき、伊織は溶けるように「えへへ」とニヤけた。


「やっぱりこの辺りの性格を考慮して選んだよね、真弓さん」

『でしょうね。辞める選択肢がすっかり消えていますから』


 自身の頭頂部に止まる〈シンシア〉と(ささや)き合う。ふたりの推測は正しかった。

 ややあって〝頭〟繋がりで、里穂が一つの話題を投げる。


「そういえばリニアフレームも一応、ヒト型という扱いなのが個人的に面白いです」

「軌道エレベーターとサーキュラーリングも、手を繋ぐみたいな設計なんだよね?」

「はい。私は資料でしか全景を見たことがないですけど、すごいですよね。解釈が強引で」

「でも〝こんなの進歩でも何でもない。ただの退化だ〟って兄がいつも言ってる」

『ヒトイロガネで過程を飛ばし、結果を得ていますから。恭平の言い分も一理あります』


 例えば、AMに搭載された水素エンジンの性能が旧世紀のものと比べて格段に上かと言うと決してそうではない。流核(ヒトイロガネ)の影響を受け、知らず性能が上がっているだけだ。

 事実は小説より奇なりとも言うが、リアリティを明らかに欠いた社会こそ現代である。


「うちの系列企業が昔に出した翻訳アプリも精度が高すぎて、今ではむしろ外国語をきちんと理解して話している人の方が珍しくなってしまった程ですからね。耳が痛い話です」

「使わなければなくなるのも当然よねー。そういう機能が、人間の中からさー」


 かつてのスマートフォン普及に伴い、書けていた漢字を忘れることなどまさにだろう。

 そうして会話を続けるうち、時間も流れ――彼女らの頭上で機内アナウンスが響いた。


『次は終点――遙遠海(ヤオユエンハイ)、遙遠海。どなた様もお忘れ物ございませんよう、ご注意ください』

「んーっ、あっという間の24時間でしたーっ!」

「お金ケチらないで超速に乗ってれば、30分も経たないで着いたのに……」

『伊織、何事も早ければ良いというものではありません』


 ここまで来てまだ微妙に不貞腐れる伊織を〈シンシア〉が諭す。すると、


「はい、私もそう思います。〈シンシア〉さんはこう言いたいんですよ。セックスだってそうじゃないですか、早すぎると何だか物足りないの……って。ですよね?」

「『――――っ!?』」

『え。ぁ……違い、ますが』

「あら? 適度に下ネタを交えた方が好まれると以前、姉が……間違っていましたか?」

「『間違っています!』」


 ふたりの食い気味な否定に「あははー」と花子が笑う。


『当機は30分後に静止軌道宇宙ステーション(ファウンデーション)の疑似重力圏へ突入を致します。機内の皆様におかれましては荷物を固定し、ご着席の上、シートベルトの装着をよろしくお願い致します』

「アークス行きの便まで時間あるし、着いたらちょっと皆で買い物しない?」

「いいですね。私、好きなんですよ。お買い物」

『いきなりドッと疲れました。お酒いっぱい買ってください』

「うーん……じゃあわたしも兄にお土産、買おうかな」


 小さな窓の外。暗闇の中に咲く彼岸花へ、リニアフレームが軽快に上昇していく。

 後日。【IZUMOミーティアス】は月面都市アークス第七戦を完勝し、続くダーガスタ、パムハゾーナも圧勝。二月の最終戦――エムラト・人工小惑星帯(アーティストベルト)戦を残すのみとなった。


 *


『――さて、五ヵ月に渡って続いたJNAFの最終戦もついに折り返し。15周を終えたわけですが、ここまでの展開を振り返ってみて如何でしょう? 御子柴さん』

『そうですね。ノーネームのN2選手……彼女は変わらずミスらしいミスも見られず、熾烈な二位争いが繰り広げられている。というのが、恐らく多数派なんじゃないでしょうか』

『あぁっ、ついに中立から物を言うのを辞められたんですねっ!?』


 御子柴が呆れる程の清々しさで「はい」と頷けば、地球‐月の引力が(ラグランジュ)釣り合う宙点(・ポイント)の一つ、L2――月の裏側の人型航宙都市艦(コロニー)。エムラト周辺を漂う観戦艇(スペクトシップ)内で笑いが起こった。


『流石に諦めましたよ。誰かは知りませんが早く〝F0〟に行ってしまえっ!』


 レースの模様は地球全土へ配信されており、現在はトップをひた走る《クロスブリード》に貼られたスポンサー企業のロゴが大きく映し出されているところだった。


 〝UNIAC(ユニアック)〟を始め〝BLUE(ブルー)BELL(ベル)〟〝DEEP(ディープ)(シー)〟〝HYDE(ハイド)RANGEA(レンジア)〟〝CENTRAL(セントラル)OLOKUN(オロクン)〟〝NUR@(ヌロ)K.K.(ケーケー)〟など十五社以上の名前がある。


 それを管制艇(セーヴシップ)の無重力ハンガーで見た伊織が、唸りながら何とも微妙な心情を口にする。


「う~ん。なんか逆に目立ってる気がする〝KAYANUMA〟のロゴ」

「可愛いですよね、小さくて」

「払っているスポンサー料は可愛くはないのだけれどね。まぁ実際は、企業としての知名度が尋常じゃないから視界に入っただけで認識できてしまうだけよ」


 真弓のもっともな意見に伊織は「あ、そっか。なるほど」と納得をした。

 通常、機体側面に貼られるロゴはスポンサー料に応じてサイズが変動する。


 しかし茅沼重工が【IZUMOミーティアス】に出資した金額はおよそ六〇〇億円であり、他の企業が一億~二〇億の範囲で収まることを考えると明らかに異常だ。


 契約期間は一年限り。加えて出資の主目的である筈のマーケティング権利を放棄しており、冠帯出資企業(タイトルスポンサー)は統合型リゾート運営会社のユニアック・エンタープライズとなっている。


「茅沼と言えばよ、あそこの企業(ワークス)チームの謹慎ってそろそろ明けるんだよな?」

「あー、【宇城レーシング】のドライバーがブーストドラッグ使ってたやつか」

「確か次のWGPからだろ。今年は関係ねぇって」


 クルー達の言葉通り、茅沼のワークスチームは現在。AF界から三年程、追放されていた。

 買収も禁止され、わざわざ他チームへ出資するメリットはないと言っていい。


(だからっていきなり、ウチに六〇〇億も出すなんておかしいじゃない……そんなの〝F0〟タイトルスポンサークラスの額よ? 有り難いけれど理由が分からないわ)

「――全員、集中が切れすぎだ。真弓さんも。仮にも全日本、その最終戦ですよ」


 恭平の平坦な指摘に皆がハッと我に返る。しかし浮かれるのは無理もないことだろう。

 既に優勝が決まり、このレースの勝敗は何かを左右しない。当然と言えば当然だった。


 ホロヴィジョンが映す情景では今も、レース用にある程度配置が調整された小惑星の数々を白翠蝶が躱し、彩られた鱗翅(りんし)の瞬きと共に(くら)い夜の中を疾駆している。


『いやぁ、しかしまたしても随分と差が開く展開となりました!』

『そうですね。ご存知の通り宇宙で行われるレースでは、ミスをしないことが全てと言っても過言ではありません。差がつく原因の大半は機体性能よりもドライバーの腕なんです。なにせ宇宙用にエンジンを換装した結果、時速31800キロ(マッハ26)を超えるわけですから』


 地上では環境と常識に配慮して水素エンジンを採用しているが、人の身に余る広大さを持つ宇宙においてアストロマシンは、核分裂炉という非常識を平然と搭載していた。


 地球外へ進出した人類に放射線が身近なものとなり過ぎたこともあるが、ヒトイロガネ製の原子炉ならば核爆発さえ無傷で耐えることと、放射性物質も最後は太陽に向けて捨てればいいという手段を選べるようになってしまったことが一番の原因だろう。


『実際。追い抜きのシチュエーションは、余程のことがない限り見かけませんよね』

『はい。だからこそサイズに応じた障害物――デブリ等との接触で、タイムペナルティを加算する形式が採用されています。走行順がそのまま順位とは限らない、というわけですね』


 管制艇や観戦艇で浮かぶ順位表には、選手名の他に累積ペナルティの表記があった。

 ノーネームの花子は+18.022秒だが、二位以下は既に1分以上のドライバーが大半を占めており、最下位ともなれば3分という逆転は不可能に近い差がついている。


「――どう思う?」

『万全を期すならば頃合いかと』


 自身と同じ考えの返答を受け、花子が頷いた。それから通信を開いて続ける。


≪「恭平、聞こえる?」≫

≪「外装(ドレス)か?」≫

≪「おっ、せいかーい。さっすが理解あるメカニックくんだね~。よろしくー」≫


 そうして16周目が終わり、経路指示灯で照らされた滑走路を思わせるホームストレートに戻って来た白翠蝶は、管制艇に続くハンガーレーンへと進入していった。


『おっとこのタイミングでトップの《クロスブリード》がハンガーインするようです!』

『累積にも余裕がありますし、ここまでのドレス換装回数も現状。他に比べて一回少ないわけですから。ここで換装すれば、きっちり最後まで走り切れるという判断なのでしょう』


 ヒトイロガネを含んだ流核の性質上。マシンは人型でなければならない前提を踏まえると、ドレスとは機体の追加装甲――即ち、言葉通りの衣服に当たる部分を指す。


 また前提(そこ)には姿形の他にも人間らしさが求められ、アストロマシンに使われる流核にとってヒトらしさとは〝衣服を身に付けていること〟に決まったと推定されていた。

 しかし当然ながら生命活動の維持と衣服の着用は相補的な関係ではない。


 つまりドレスはアストロマシンに必須ではあるが、ヒトイロガネが与える性能上昇の恩恵を一切受けられず、結果として強度の不足から接触の回数次第でいずれは壊れてしまう。


 だからこそレース中に定期的な換装を求められるのだが、無理やり脱がそうとすれば一種の拒否反応も見られ、心身ともにメカニックの繊細さが試される作業と言えた。

 やがて三重の安全隔壁が順に開閉し、花子は素早くチームの格納庫に機体を後退させる。


「17秒で終わらせるぞ」

「「「おおぉっ!」」」


 応答の後、整備施設(システムベース)に《クロスブリード》が固定。皆が一斉に作業へ取り掛かっていった。

 大型アームなどをいくつも展開させて、ドレスだけでなくマニピュレーターの交換や各部のシステムチェック、重力下であれば機体の給水なども迅速に行っていく。


「花子さん、どうぞ」


 操縦席を開いた途端。床を蹴って浮かび上がって来たのは里穂だった。柔肌が透けた衣装と弾けそうな胸元に一瞬、視線を奪われつつも花子はボトルを受け取って水を呷る。


「一回くらい、サングラスの掛け忘れを期待していたんですけどね」

『私がいますから』

「ふふ。ひとりではないというのは、良いことだと思います」

「そーいうこと! これありがとね、里穂りん」


 ボトルを返すと同時に作業が終わる。ドレス交換の平均タイムはおよそ15~30秒だが、搭載された流核の体調――のような何かの影響もあり、17秒は調子が良い方だ。


≪「外すぞ」≫

≪「はいはーい」≫


 応じながら里穂に目線を向ければ、彼女は慣れたようにコクピットを押して距離を取る。


「勝つのも大事ですけど、怪我なく戻って来てくださいね」

「うぅ、里穂りん……感激のあまり泣いちゃいそうだよ、私」


 全身の固定具が外され、ハンガー内の気密性を保持しながら安全隔壁が再び開いてゆく。

 そしてスラスターの燐光を閃かせ、白翠蝶が勢い良く飛び立っていった。


『――《クロスブリードARX》が今、コースへと復帰していきますッ!』

換装時間(ハンガーストップ)も16.531秒と悪くないタイムです。【IZUMOミーティアス】はこれまで尹選手が悪い意味で目立つチームでしたが、クルーも十分〝F0〟で戦えるレベルでしょう』

『はい。私個人としても来月のWGP・アークス第三戦が今から楽しみです! など話す間にさぁ、換装の隙で差を縮めた後続が次々と《クロスブリード》に迫っていくぅうッ!』


 煽るような声の先。《ポルテネカR7》を駆るパメラ・エイカフが、自らの全神経を指先に集中させながらナビゲーションAIに向けて一つの命令を言い放つ。


「〈レニ〉! あいつの走行ラインをディスプレイに投影(スタンドアウト)させて! 今度こそッ!」

承知しました(Noted.)


 次の瞬間。小惑星を鮮やかに躱していく白翠蝶の軌跡が、パメラの眼前に浮かび上がった。


(勝てないのは嫌ってくらい分かったわよっ! でもそれなら一つでも盗んでみせる!)


 SVターンで圧倒的な差が生まれていることは確かに事実であるが、しかしその一点だけが劣っているのだと信じられるほど彼女達は現実を見ていないわけではなかった。


 宇宙を舞台とする中でもとりわけコーナー数が少ない小惑星宙域において、より感じられる単純な操縦技術の差が言い訳の余地を完全に潰しているからである。


 実際。パメラにも花子の走行ラインをただ闇雲になぞるだけならば、ある程度は可能だ。

 しかし無論、その可能は同等のタイムを叩き出す走りの実現を意味してはいない。


≪「もうよせパメラ! 累積で一気に二桁まで落ちてる! 接触回数(コンタクト)が四倍以上は違う!」≫

≪「――――ッ、そんなにっ!? ぐ、ぅうう――――ッ! な、なんで……くそぉ」≫


 涙を噛み締めながら、自分のラインに戻っていく《ポルテネカR7》の後方。

 黄金騎の《ヴァルキリウスVTX》が、その一連の流れを惨めと鼻で一蹴する。


「ふっ、プライドの欠片もない。やるぞ〈エスプリ〉。ミラーリングブースト、オン!」

『はいですです!』

『――後方、としあきにMR(ミラーリング)ブースター展開の動きがあります』

「え、嘘。面倒くさいなぁ……意図しない追突なんて流石にリタイア濃厚だよ」


 花子がうんざりする理由は一つ。初戦における〝コーナーでの弾き飛ばし〟のような事態が起こり得るからだ。それを避けるべく白翠蝶も翅を超過駆動(オーバーロード)させ、星影を瞬かせる。


『おおっと、二機が同時にミラーリングブースターを展か――えぇっ、ここでッ!?』

『……このコースで意図があるとすれば、それはもう単に相手を負けさせる為でしょうね』


 呆れと怒りの混じった声が示す通り、ミンファンの選択は各艇内を一斉にどよめかせた。

 当然ながらそれは、彼の前を行くパメラや他の選手達にとっても同様である。


「ふ、ふざ……違うでしょう、そんな自分以外が勝つ走りッ!? この恥知らずッ!」


 かく言う鏡環追加速機構とは、加速円筒を作動させた上で更に速さを得る為のものだ。

 二段ブースターの二段目に当たる推進器であり、これは全ての機体に標準搭載されている。


 生じる速度も通常走行時と比較にならず、人工小惑星帯においてタイムペナルティの累積を気に掛ける余裕は花子や既存の〝F0〟ドライバーにもない程だった。つまり、


『あぁっ、《クロスブリード》が一気に順位を落としてゆくッ! ハンディキャップがあった地上でのレースを除けば、順位を落とすのはこれが今大会初になるのでしょうかっ!?』

『避けるべきものを避けられないわけですからね。が、そう長くは続かないでしょう』


 音速越えで発生する衝撃波のような輪郭――砕かれ続けるガラス片の円環に似たものを纏う両機は、人工小惑星帯を破壊し尽くす勢いで宇宙(そら)を駆けていく。


 だがミンファンの自尊心を考慮した御子柴の予想通り、白翠と黄金の不毛なデッドヒートはMRブーストの稼働時間の限界を見誤った彼の自滅というあっけない幕引きとなった。


『さ、さすが(あるじ)様! ブースターが間もなく爆発するますですです!』

「う、ぐうぅうあ、あ、うっっ!! またしてもっ、またしてもっ! このぼッ――……」

『おぉあとっ《ヴァルキリウス》、ここで無念の外装全損(ドレスブレイク)! 羞恥不全(エンバラスブロー)! リタイアです!』


 外装を全て失ったアストロマシンは当然、恥ずかしさのあまり一瞬で完全停止していた。


「……ふぅ、やれやれね」

『全くです』


 揃ってため息をつくと、艇内はブーイングの嵐から一転。大歓声へと塗り替わっていく。


 結局。その後はこれといった波乱もなく《クロスブリードARX》が首位を奪還。そのままチェッカーライトを浴び、JNAFは【IZUMOミーティアス】の全勝で決着となった。


 これにより花子はハイパーライセンスを正式に取得。チーム共々、念願だった〝F0〟への挑戦権を手にし、観戦艇と管制艇は喜びと期待の感情で満ち溢れていった。


 また同様に取得となった【スレイルブルZMG】のノエル・ドニが総合二位で、花子に絡み続けてリタイア続出だった【ラドバウト】のユン・ミンファンは総合三位という結果だ。


 それから管制艇と観戦艇の一体化(ドッキング)後。表彰台で栄光のフラッシュを浴びるノエルが、現実を疑って放心する敏煥を他所に、花子へ手を差し出して心からの感謝を言葉にする。


「俺程度の実力でここに立てたのは、全てあんたのおかげだ。ありがとう」

「いやいや、全てってことはないでしょ。戦い方を決めたのはあなた自身なんだから」

「そう言って貰えると助かる。けど俺も何度SVが出来たらと思ったことか……」

「あはは。じゃあ、ここに連絡してみればいいと思うよ――私の名前を添えてね」


 愛想よく笑い、彼女は事前に用意していたメモをノエルに手渡した。


電話番号(フォンナンバー)? あんたの、名前……?」


 疑問符を浮かべた瞬間。彼女はこれまで片時も離さずに掛けていたサングラスを取っ払い、空高く放り投げる。当然、明らかとなるその素顔に誰しもが釘付けだった。


『あ、ああ、あああッ! な、なっ、何という……何ということでしょうッ!』

『い、いや驚きました。確かに一部では噂されていましたが、まさか本当に〝彼女〟とは』


 名乗る必要などない。AF好きであればその顔を、あの輝きを。忘れる道理がないのだ。


「あ、兄! あ、あの人って……っ!」

「……やっぱり、そうなのか。いや、だが。どこか、何か……」

「? あら、真弓さん。もしかして花子さん、元々AFでは有名な方だったのですか?」

「ぇ、えぇ。少なくともAFをやっていてあの顔を忘れられる人間も早々いないわ」


 競技に疎い里穂や若者を除いた過半数以上の観客が、かつての夢の続きに胸を躍らせる。


 アストロフォーミュラ史上最も苛烈な大会と(うた)われる〝十二宮戦役(ゾディアックアーツ)〟を繰り広げ、悲運にも儚く散って過去となった筈の〝彼女〟に向ける大人達の眼差しはまるで子供のようだ。


 やがて生き字引を自称するアナウンサーが涙を溜め込み、高らかにその名を呼ぶ。


()()()()()()()()()()()()()! 〝背中に瞳を宿す紳士トップ・オブ・レガシー〟――ナシール・マクギャヴィンをかつて不動の玉座から引きずり下ろしかけた最年少〝F0〟ドライバーッ! 羽佐間(はざま)ひよりが今ここにッ、アストロフォーミュラの世界へと舞い戻ったぁああああああッッ!!』


 そして、運命は走り出す。止まっていた時計の針を前へと進める為に――――。

ここまで読んで下さり、ありがとうございました。

いつか最後まで書き上がったらいいなぁ、と他人事のように思います。

ちなみにこの時代の人類の大半は〝時速1000キロを目で追えている〟ので、ほぼ人外です笑


正直、この作品が将来的に一番『昔から何でも話してくれた幼馴染にある日突然「昨日、彼氏ができたんだよね」と言われ、クラスの女子に泣く泣く相談したら幼馴染の彼氏の幼馴染と付き合うことになった。』と関係あるかもしれないです。


まぁ、現時点だとそんな要素は一ミリも出せてないんですが……。

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