side:Leta. "Promise"
薄紅の花びらが、まだ冷たい春風に舞い踊った。もっとも、今の季節が春かどうかも僕には分からないけれど、この桜の木がそう証明してくれていた。ここには、彼女の残り香が漂っている気がした。
「あれから、何度目の春を迎えたのだろう。君はまだあの日の約束を覚えているのだろうか」
心なしか細くなった木の幹を撫でながら、君を想って言葉を投げかける。
春風が、容赦なく生身の僕の身体を打ちつけた。ひんやりとした肌触りが気持よかったけれど、あまり外に長居するのも良くない。
「この木は、今も変わらずここに在り続けるのに……、空はあの日からこんなに変わってしまったよ」
最後に君と見た空は、あんなに素敵な青のグラデーションに、白い雲が艶やかなコントラストを魅せて拡がっていたのに。今は、薄い灰がかった空に、雲が無粋に馴染んで境界線も分からない。吹きすさぶ風は、優しさをどこかに忘れてきたように狂っていたし、木々から漏れる柔らかかった日の光は、荒々しく僕を刺している。
本当に、あれは君だったのだろうか。もしそうなら、どうしてあの場にあんなものに乗って現れたんだろう。やはり、火星政府の刺客として僕達を襲撃させるため……?それならば、何故戦闘には参加して来なかったんだろうか。考えは取りとめもなく巡り、終着地点すら見えない。
それでも、……君を信じたい――――――。
「地球に残るだと?何故だ?お前が、選考に漏れるはずがないだろ!」
激昂して、シンランは叫んだ。
「これは……僕の意志だよ。なんだか嫌な予感がするんだ。地球をこのまま忘れ去られてしまいそうな……そんな予感が」
視線を外して、遠くを見るようにして僕は言った。
「だからって、お前が犠牲になることはないだろう!?いつ火星に来れるようになるかも分からないし、いつまで地球が住めるような惑星であり続けるか、分からないんだぞ!?」
「そうだね……、でも僕はまだ地球に残っている人がいるのに見捨てる事は出来ないよ……。自惚れている訳じゃないけれど、僕が残ることで少しは残された人たちの役にも立てるとは思うんだ」
桜の花びらが風に舞って、螺旋のように僕らを取り巻いた。
そのせいで、まっすぐに見つめているはずのシンランの顔が、僕の瞳に映っては消えていく。
僕が割と頑固なのは、彼女も知っていたので、説得するのは無理だろうと悟ったようだった。
「それじゃ約束して。必ず、火星に来るって。」
「約束する」
シンランの真摯な言葉に、僕も応えた。あの言葉には嘘はない、勿論今も変わらず、生き続ける。
別れ際に、僕は彼女と最後の抱擁を交わして、手を握り合った。
何故だろう?鮮明だった、あの日の記憶が少しずつ色褪せているような気がする。酸にアルカリを混ぜて中和していくように、記憶に時間が溶け込んでいったのだろうか。
言葉に出来ない不安が、さざ波のように緩やかに押し寄せては、引いていく。
あの日から、幾ばくの月日をこの地球で重ねてきたのだろう。
「レータ兄ちゃん!」
「ん?あぁ、ユミちゃんじゃないか。外に出たら駄目だよ。どうしたんだい?」
声を聞き振り向くと、そこには同じ施設で生活を送っている少女の姿があった。まだ齢十四かそこらだというのに、彼女もまた身寄りを失くして、共に生活を送っている家族の一人なのだ。
「リンお姉ちゃんが、倒れたの!早く来て!」
「え……?」
絶対零度の戦慄が、僕の背に走った――――――。
「もう!レータ君達心配し過ぎよ。ユミちゃんも、わざわざありがとうね?」
熱で少し火照った顔で、笑いながらリンは言った。
彼女は部屋でベッドに横たわっていた。そばには、看病していたであろうおばさんが立っていた。彼女もまた、身寄りを失くして共に生活を送っている家族の一人である。
「本当に……大丈夫なの?明日、政府の診療所に行こう。僕が連れていくから」
「あそこは……嫌」
リンは、かぶりを振って僕の提案を拒絶した。
「そんなこと言っている場合じゃないだろう!もし疫病か何かだったら、どうするんだ?」
「嫌なの!」
駄々をこねる子供のようにそう言うと、ぷいとそっぽを向いてしまった。彼女のこういう態度を見るのは珍しいが、驚きはしなかった。何故なら、彼女も政府に恨みを持っているから。だから、僕もこれ以上強く言うのは辞めておいた。
「分かったよ。その代わり、良くなるまではおとなしくしているんだよ?」
「……うん」
こっちを向いて、納得していないようにほっぺを膨らませて言った。やっぱり、熱に少し浮かされているらしい。
あとは僕が見ているから休んで来てくださいとおばさんに伝えて、近くの木で出来た椅子に腰をおろした。彼女に目をやると、眠っているらしかった。
安らかな寝息を立てている彼女の、汗で額にはりついた髪をそっと撫でた。いつもは後ろで結んでいる髪を、今日はほどいていた。
僕は、どれだけ君に救われたのだろう。僕は、一生かかっても返しきれない恩を君から受け取っている。それでも、君は自分のことを何も言わない。僕は、君の幸せを祈ってやることしか出来ないのだろうか。彼女との出会いがふっと脳裏をよぎり、その奇妙さに笑みが零れた。いや、今だからこそ、そう感じる事が出来るのだ。あの時は、お互いに必死だった。そんな過去の僕らのことを笑うべきではないのかもしれない。
一触即発で殺し合いになってもおかしくなかった、そんな出会いだった――――――。
シンランや、他の同僚が火星に向かってから、しばらくの月日が過ぎた。
僕は研究室に籠り、自分のするべき事を悶々と考えていた。息巻いて地球に残ったのに、これといった当てもなかったのである。非常に情けないと思うが、これが僕の当時の姿だった。
そんな折だった。僕は久しぶりに地上に出て、外を散歩していた。
荒れ果てていた大地を一人歩く僕は、途方もない運命に惑わされている人類の象徴のようだった。そこに道という道はないのに、歩き続けなければいけない。
何故、綺麗な道を選ぶことが出来ないのだろうか。これは、今の自分にも言えることだった。何故、己に越えるべき壁を課すのだろう。
答えのない答えを探そうと、空を見上げていた。真昼の月のように、そこにはあるのに、それを認められない。
そんな漠然とした思想にふけっている時だった。僕の前に、薄桃色がかかった髪を後ろで結んでいる、黄土色のコートに身を包んだ彼女が現れた。
「その制服は……!!国連軍の……!」
彼女は僕を見るなり、眼を見開き、そう言って獣の様な殺気を放った。僕にはこの時、この殺気の意味が分からなかった。恥ずかしい話ではあるが、僕はどうしようもなく鈍かったのだ。確かに僕は、国連軍の軍服を身に纏っていた。国連軍それそのものは、地球に存在していないようなものだったのだけれど、丈夫であったし、地上を歩くにはもってこいのつくりだったので、良く考えずにそれを着用していた。
「うらあああああああああ」
「なっ!?」
彼女の拳が、弧を描き僕めがけて振りぬかれるのを、左手でなんとか防いだ。
「いきなり、何をするんだ?」
茫然として、僕は叫んだ。
「しらばっくれないで!今更のこのこと、何をしに現れたのよ!?また、私達の暮らしを壊そうというの!もうたくさんよ……、もうたくさん……」
彼女は、瞳に涙を浮かべながら、そう言葉を吐き捨てた。その瞳には、涙と共に憎悪の色が混じっていた。
そして、彼女が放ち続けていた殺気が、加速度的に増幅した。彼女は腰に下げていた銃を抜いていた。
この刹那、僕は初めて命のやり取りというものをしたのだと思う。
僕も研究所配属とはいえ、多少の訓練は受けていたので、咄嗟に腰に納めてあった銃を抜いてしまったのだ。
無慈悲な銃声が鳴り響き、彼女は人形のように、力なくばたりと倒れた。
はっと我にかえると、僕は彼女のもとへと駆けだしていた。幸い、弾はかすっただけのようだが、彼女は気を失っていた。迷っている暇はなかった、こんなところに女性一人放っておくなんて、命の保証も何もない。
僕は彼女を背負って研究所へと運び込んだ――――――。
その時初めて、現実を視た。
僕は守られていた存在なのだと、初めて気付いた。
そして、そんな自分がどうしようもなく愚かだと痛感した。
僕は、眼を覚まして落ち着いた彼女から、国連軍の行いを聞いた。そして最後に、ベッドに横たわった彼女は蔑む様な目で僕を見て、こう結んだ。
「君は国連軍の一員なのに、本当に何も知らないのね……」
「情けない話だけどね。僕はひたすら研究に没頭していたから、外で何があったかなんてまるで知らなかったよ」
エンジニアで研究室に籠って仕事をすることの多かった僕には、とても受け入れる事の出来ない現実だった。もっとも、彼女の言葉を、そのまま鵜呑みにした訳ではなかったのだけれど、もし話していることが嘘であるならば、ただ歩いている僕に喧嘩を売る理由はないし、その言葉には、不思議な真実味があったのだ。その後、リン以外の人々からも詳しい話を聞いた。
実行隊のシンランはこれに気付いていたのだろうか。これは、僕が地球で時々、一人議論する当てのない題目である。
「僕は、自分が生み出す兵器が、何の為に使われていたかも知らないなかったんだな……」
自分達が、世の為、人のために働いているという自負があった。
全て崩れていった。お笑い草だった。
信じると言うことは、疑うという前提条件のもとで浮かび上がる思想である。
この時に、シンランを信じると思った僕は、多少の疑いの念を抱いていたのだろうか。
同時に、非難の声を浴びても、自分の信念を曲げずに行動した彼女を想った。それは、即ち彼女を信じることだった。
僕の中で、信じることと疑うことが信号機のように点滅を繰り返した。ただ、それは全くのイコールではなかった。疑うことは簡単だった。一つでも綻びが見つかれば、そこからは泥沼のように沈んでいくだけなのだから。信じることは難しかった。その全てを、完膚なきまでに信じ続けなければいけないのだから。
それでも僕には、彼女を信じ続けた。不思議なことに、これには彼女を恨むべき立場であるはずのリンの言葉が記憶に残っている。
僕達が出会って、シンランのことを彼女に初めて話した夜だった。
いつものように、夜に浮かぶ青白い月を見上げていた僕に、彼女は言った。風が心地良い夜だった。
「シンランさんのこと、信じているんでしょ?いや……違うか、信じたいんでしょ?」
「うん……君がどう言おうと信じているつもりだよ」
「ならば、信じてあげなさいよ」
「え……?」
「信じているつもりじゃなくて信じてあげて。例え私に何を言われても、それを突き放して彼女を信じなさいよ。そして、あなた達の信念と誇りを私に見せつけて。それが私にとっても希望になるから」
そう言って彼女は、僕と初めて出会った時のように、鋭い視線を地平線に向けてから、こっちを見て微笑んだ。苦笑いのような、そんなことを口に出した自分に戸惑っているようなそんな笑顔だった。
その時、僕がここに残った意味を一つ見つけたような気がした。地球に残っている全ての人の為になるなんて果てのない思いじゃなくて、……そんなことじゃなくて、せめて自分の周りにいる人達――――だけは何が何でも守り通して、そして火星に連れて行こうと。
それは、贖罪なんて言葉で終わらせたくなかった。
僕のただの我儘だとも思う。ただ、絶対に叶えると決めた最強の我儘だ。
僕にその力があるのかも分からないし、今の道筋が本当に理想なのかも分からないけれど。
良く考えると、殺し合いになってもおかしくなかったじゃなくて、殺し合いそのものだよなぁとか思ったりして、追憶の旅はおかしな終幕を迎えてしまった。
ふと、リンを見ると目を覚ましていたようで、視線を宙に泳がせていた。
「起きたんだね、気分はどう?」
「大分、落ち着いたかな。ところで……レータ君……、今何考えてたの?」
「初めて君と出会った日のことをね。あの時はびっくりしたなぁ、いきなり殴りかかってくるんだから」
「くすっ、そんなこと言ったら、レータ君も私を撃ったじゃない、もっとも、あの時先に銃を抜いたのは私だけどね」
リンは、片目でウインクすると悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「あの時のことは本当に済まないと思っているよ」
「……一つ、聞かせて」
少し、言い淀んでいるような気配を漂わせてから、彼女は尋ねた。
「君らしくないね、何?」
「今、レータ君が私達と暮らしているのは、いや私達を助けてくれているのは、あの時の償いのつもり?」
意外な言葉に少し驚いた。
僕は無言で首を振った。そして、こう言葉を続けた。
「そんなんじゃない。それに、助けてもらっているのは僕の方だよ。僕が君達に感謝してる。急にどうしたんだい?」
「確かめないと、……不安だったの。レータ君が急に消えてしまったりしないかなって。レータ君には、ここに残る理由も何もないもの」
泣きそうな顔で、リンは言った。
「本気でそう言ってるんなら、哀しいな。ここに残る理由がないなんて……そんな訳ないじゃないか」
何も分からなかったあの頃とは違う。今は、心からこう言える。
『君を必ず、幸せにする』
複雑な、背景とか事情とか理論とか言葉とか立場とか、そんなものはどうでもいい。
彼女が幸せになれない世界なんて、あっていいはずがないから。
いずれ、僕達には別れが来るのかもしれない。でも、その時に彼女に映える顔は笑顔じゃないといけないから。
だから、そんな遠い明日が、果てない明日が来るまで、僕はここにいるよ。
リンは思っていた。
レータ君には、シンランさんがいる。レータ君は彼女を絶対に忘れない。それを少し悔しいと思う時もあったけれど、今はそんなことどうでも良かった。いつか、私達から、私から離れる時が来ても、それを私は受け入れよう。だって、それが当然なんだから。
私が一番欲しかったのは、一緒にいてくれる家族だから。だから、レータ君を含めて今の生活がとても楽しいの。これ以上は何もいらない。私は、もう幸せです――――――。
レータはリンの幸せを、リンはレータの幸せを祈っていた。
壊れていく地球で、それは粉雪のような儚さと優しさを持って光り続けた。容赦なく灼熱を与える太陽に、負けるなくことなく降り注いでいた。
明日は来ないかもしれない、待ち望み、焦がれた未来は、残酷な結末を見せるのかもしれない。
ただし、彼らは、そんなことで打ちのめされたりはしない。
誰かの幸せを祈るというのは、砂糖菓子のように甘くないことを既に知っているから。
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次回、『第十六話:The pain of desire』
それは、代償。望んだが故の代償。
兄妹が再会を果たす。