異世界と化すこの地球
「知らない天井だ……」
文字通り青天井だ。というか天井じゃなくて空なんだけど。
「夢……だよな。さすがに」
景色だけはリアルだった。あの日のままの屋上が映っていた。
ともすれば、僕の現状から察するに、酔いつぶれて外で寝てしまったのだろう。
推測するに容易い事だった。嫁のミトと娘のユイを捨てた日から、僕はそんな腐りきった生活しているのだから。何もおかしくない。
「……制服?」
知らない場所で寝ているなんて経験はままある。でも、ありえもしない夢とリンクするように、制服を身に着ける自分が見覚えもない場所に存在しているとなれば、困惑するというものだ。
とにかく、起き上がらなければ、慎重に……。慎重に……。
僕はいつも通り、事故で負傷して不自由になった背中に気を遣って、いつものようにゆっくり起き上がる。今日は背中の調子がすこぶるよかった。
まるで爆弾を抱えていないかのように。
「どこだよ、ここ」
とりあえず、財布はあるだろうか。それからいざという時のためのスマートフォンも。ポケットをまさぐってみたら、右手に重みを感じた。それがスマートフォンであると確信して、ポケットから取り出す。
間違いなくそれは高校時代の僕が使っていた端末だ。電源が落ちているようなので電源ボタンに触れる。
──次の瞬間、スマートフォンが消えた。
誰かが今の瞬間に奪い去ったとか、地面に落としたとかそういう類じゃなくて、鉛筆画に消しゴムをかけたかのように、画面上部の方からスッとフェードアウトしていったのだ。
「残念ですが、その科学は認められませんので」
後方から声が降りかかる。
「──誰?」
「天使ですっ」
情報量が多すぎた。制服姿の自分。奇妙な夢。消えるスマートフォン。きゃぴっとした声で天使と名乗る女。
どうだろう。例えば、多重夢というものがある。そして明晰夢というものもある。
多重夢というのは、夢の中でみる夢の事。明晰夢というのは夢だと分かる夢の事である。
つまりそいつらが同時に来たという可能性が高い。
屋上が崩れ落ちて、燃え盛る世界が映ったあの奇妙な夢から覚めたと思ったら、今度は明晰夢の中に迷い込んでいる。そういうことだろう。
そろそろ、アラームがこの僕の耳と脳みそに嫌というほど響き渡って、救いのない現実が始まる。きっとそうだ。
「お一つだけ伺ってもいいですかー?」
アラームよりも先に、鼓膜をゆらすのはあざとい天使と名乗る女の声。
「はぁ、そろそろ目が覚めるから、それまでならお話聞きますよ」
「目が覚める、ですかー?起きてますよねー?」
間延びした声が一々癇に障る。
天使というよりも、どこか小悪魔っぽい。
でも、さすがは天使を名乗るだけあって、僕の意識を確かめるように僕の眼前で手をフリフリとするその少女の見た目は、完璧なまでに僕のイメージする天使とリンクした。
「あー!自己紹介がまだでしたね。わたしは天使ペネムです。天使と言っても下位の方のあんまり凄くない天使なんですけどー、一応子供たちの守護とか、あとは……この世界にたどり着いてしまった方のガイド役とかやってるんです」
ポンと手を叩いてから聞いてもいない自己紹介を始めたペネムとやら。
適当に聞き流してあしらうつもりだったけど。
「この世界にたどり着いた人間のガイド?」
どうしても、そのフレーズが引っ掛かった。
いくら僕が制服を着ているからとはいえ、子供に分類されるかは怪しい。
「別に人間に限るわけじゃないですよっ。エルフだとか獣人族、それこそわたしと同じ天使とかのガイドも私の仕事になるんですよねぇ」
ペネムという天使は言葉遣いの幼さに反して、ピンクゴールドのような神々しさを放つ繊細な髪の毛の先端を惜しげもなくグルグルといじくりまわして少しだけ面倒くさそうに語った。
「聞き捨てならないことだらけだけど……この世界にたどり着いたってどういうことだ?」
「言われないと分かりませんかー?だったら簡潔に言いますね?」
──異世界転生の事ですよ。
幾何学模様がグルグルと回る頭上の天使の環。それがさっき見た時よりもいっそう幻想的に見える。どことなくその言葉に力強さを感じた。
「なんでもありだなぁ」
きっと今、眠っている僕は相当うなされているのではないだろうか。
過去の光景。天使。それに異世界とかいうワードまで出てきた。
正直、三題噺にしてもごちゃごちゃしすぎている。
まぁ夢なんてそんなもんだろう。脳が記憶をランダムにつなげてストーリー化したものを見ているにすぎないのだから。
「それからですねー、一点だけ先に説明しておくとー、わたしは、ガイド役としての仕事はこれが初めてなんですよねぇ」
「夢なのに夢のない設定だな」
それこそ、異国の勇者を連れてきたとかそういうのの方がインパクトがある。
「いわゆる夢だというなら、わたしも頭カチンコチンな学者もどきじゃなくてロマンチストな方が良かったですよぉ」
「悪かったな学者もどきで」
初めて言われた悪口。しかも、こんなこてこてな天使から言われることになるなんて。
というか天使に罵倒される人類なんて……。
「……話を戻しますねー?先ほど言った通り、今はガイド役としての初めての仕事中なんですよねぇ。異世界から生命が来たことなんてありませんから」
「はいはい。つまり僕が異世界から来た初めての生命ということね」
なんともありがちな設定だ。僕は主人公になんかなりえないのに。
……だって僕は、持たざる者なんだから。
なのに、人間というのは極めて不思議なもので、それが分かっていながら、夢の中で、ないしは願望の中で、自分を主人公にしたがる。そうして、自分をオンリーワンでナンバーワンの存在にしてしまう。だからこそ、明晰夢の中で自分の愚かさを憎んだ。
「何言ってるんですか?ここは地球ですよぉ?見れば分かりませんかー?」
「は?」
だけど、短絡なはずの自分の意識の世界に少しだけ突飛な設定が加わる。
「そもそも異世界って何なんでしょうかね?別惑星?別宇宙?もしかしたら別世界線って考え方もあるんでしょうか。物語の中なら、死後の世界という見方もできるかもしれませんけどっ……」
ペネムという天使は、可愛らしく、やわらかそうなほっぺたに人差し指を添えて首を捻っては難しい顔を浮かべて物思いに更けていた。
でも数秒もしない内に、「今はそんなことどうでもいいですね」と思考の海を泳ぐのを辞めて言葉を続けた。
「──ここは間違いなくあなたが生きていたあの地球ですよっ」
もう無茶苦茶だった。この世界にたどり着いた生命のガイド設定はどこに行った。それ以前に異世界転生って先に言ったのはお前じゃないか単細胞め。
「あのぉ……さっきから、端整な顔している割に心の中が汚すぎませんかぁ?説明終わるまで、わたしのメンタルが持ちそうにないんですけどぉ」
この天使、心まで読める設定らしい。それはそれは最悪な印象を与えていることだろうと思うとゾッとする。
慌てて取り繕おうと、ペネムという天使の顔面に集中する。正直言って、見た目はドストライクだ。ピンクゴールドのような輝きを放つ綺麗な髪。声や言葉遣いはどことなく子供っぽいのに、大きな瞳とぷっくりした唇が印象的な彫りの深い顔は、比較的……というか絶対的に、かわいいというより綺麗系だ。メーターは綺麗に極ぶりだ。なのに声はかわいい。正直言ってめちゃくちゃタイプだ。
「どう?僕の想い届いてる?」
「気持ち悪いですっ!」
お怒りになって、まずは顔を手で覆って、その上から白い翼で二重に顔を隠す。どうやら本当に心が読めるらしい。というか翼を折りたたんだ天使ってどこかシュールで悪くない。
「……お話続けますよっ」
「はいはい、どうぞどうぞ」
いい歳してるのに、天使様から端整な顔と言われて少しだけ機嫌がよくなっている僕がいた。そりゃこんな直情的で短絡な夢も見るというものだ。
「今回、わたしが赴いているのは、あなたがここにいることがイレギュラーだからなんですっ」
「イレギュラー?」
「はい。異世界人ではないにせよ、あなたはそれに近い存在です。正直に言って異分子ですっ」
「そこまで?」
確かに僕は、すごい才能を持った妻と娘と共に核家族を構成し、その中で唯一才能を持たない異分子ではあったけど、地球単位で見て異分子と言われるのは流石に傷付く。
「……あなたが見ていたのは遠い未来なんですよねぇ。紫苑寺美翔、婚約後は風早美翔ですねー。それと娘さんの風早唯華の家族三人で暮らしていた記憶をお持ちかと思いますが、今、この世界には美翔も唯華もいませんっ」
「──そしてもちろん、あなた」
「──風早のあも存在しないはずなんですっ!」
なるほど。ここは異世界ではない。
過去の地球。だからこそいわゆる未来人であるところの僕はイレギュラーというわけだ。
「……ふはっ」
笑い声が漏れた。もちろん僕の口から。反射的に。
「何かおかしなところがありましたか?」
そう、反射的に。つまりは考えるよりも先に笑ってしまったものだから、心を読めるはずの天使も、すこし不思議そうだ。翼と手で二重に覆われた中で、その顔はふくれっ面をしているのではないかと思うと、強引にでもそのご尊顔を拝みたいところではあったが、さすがに無理そうだ。
「いや、ここって地球だろ?僕が生まれる何年か前の」
「……そうですけどぉ?」
「だったらイレギュラーなのは人間である僕よりも天使なんてやってる君の方じゃないのかペネムちゃん?」
完・全・論・破。
天使なんて、空想上の生き物だ。それがこうして存在していることの方がどう考えてもおかしいのである。つまり、この議論には価値がない。
この夢はやはり矛盾だらけということだ。
僕は夢の中で、自分自身の短絡な思考に勝利した。
長々と続いた、独り相撲~明晰夢場所~の優勝決定戦に勝利した。つまるところ、唯一の敗北者でもある。なにそれ、つまんない。
「あぁ……それは世界が改竄されてるからですよ」
「そんなのありかよ!?」
土俵際でバトルは続いていたらしい。というか改竄とか言われたらもう太刀打ちできる気がしない。独り相撲にて逆転負けしそうだ。……つまるところ僕が勝者になる。負けを知りたい。
「歴史教育というのがありますよねー?」
「あぁ、あるな」
「あなた達、人間が大昔の歴史を知る方法ってそれしかないじゃないですかぁ?」
「まぁ……それしかないっていう言い方はどうかと思うが、伝承とか出土品とか遺跡調査とか科学的観点ぐらいしか大昔のことは知れないかな」
ペネムちゃんが提示したのは「歴史」という話題だった。まぁ僕が未来人だからこそ「歴史」というテーマは密接に関わってくるだろうけど、さすがは僕の夢、ストーリー展開が単純だ。
「問題は、その歴史教育の正誤なんですよねー。長寿である我々、天使や同じく長命なエルフなどが伝える歴史であるならば、信憑性は高いですけど、短命な人間様の残した伝承や推測、仮説の類ってどうも鴻鵠を得ないんですよー」
「そのエルフも天使も地球の歴史上には存在し得ないんだからしょうがなくないか?」
確かに、歴史なんて脆いものだ。百パーセントの歴史なんて分かりようがない。それこそ何千年単位で歴史の目撃者になりうる天使やエルフがいるなら話は別だけど。
「だーかーらぁ! 存在するんですよぉ、天使もエルフもっ!」
「冗談はよしてくれ。僕だって地球で三十年以上生きていたんだぞ?」
「それは、あなたが生まれたころにはいなくなっていたからです。獣人もエルフも天使も……神さえも」
「は?」
さすがに突飛が過ぎる。そんな話あるはずがないじゃないか。神さえも消されるなんて。
「ガリレオという男をご存知ですかぁ?」
「あぁ、知ってるさ」
「コペルニクス」
「もちろん知ってる」
「ジョルダーノ・ブルーノ」
「……名前くらいなら」
地動説の事かと推測した。コペルニクスが死ぬ少し前に提唱した説。ジョルダーノ・ブルーノは確か、地動説関係のことで殺害された男で、ガリレオもまた宗教裁判にかけられたはずだ。
「その通り、地動説とかいうやつですよー」
天使の立場から地動説なんて言葉が出るのが新鮮だった。そもそも神様方面の立場の存在が地動説というと少しぞくっとする。
「ガリレオを筆頭に、地動説を唱えた人間は罰せられてきました。ジョルダーノ・ブルーノという人間に関しては殺されてすらいます。にもかかわらず、罰した側は、三百年もあとに地動説を否定したことを謝罪しているんです。不思議じゃありませんか?」
「ふむ……」
それは科学の発展という奴じゃないのか?神を偉大なものに留めておかんとする天動説に限界が来て、三百年の時を経て認めざるを得ない状況になった。それだけの話じゃないのだろうか。なんら不思議ではない気もする。
「その通りですが、違うんですよぉ。認めざるを得ない状況になったのは、科学の発展のせいではありませんっ。言っておきますが、力学なんて間違いだらけですよ。あんなのはあなた達人間が歴史を改竄したあとの辻褄合わせで成立してるようなものです」
「は?」
「地動説が認められたのは神がいなくなったからですよぉ、そしてあなた達の都合に合わせるように地球は太陽を中心に回るようになったんですっ」
「ちょっと待ってくれ、てことはガリレオが死んでから、ローマ教皇が謝罪するまでの間に世界が改竄されたということか?」
「そういうことですっ。そしてあなたは世界が改竄された後の世界から改竄される前の世界へと来た。だからあなたがイレギュラーだと言っているんですっ」
「なるほど?」
僕の明晰夢は、とんでもない境地へ到達した。
科学という武器を否定された今、僕に手出しは出来ない。つまりこれから何が起ころうと「魔法」だとか「超能力」だと言われてしまえばクソみたいなご都合主義により否定が出来なくなってしまう。
さすがに早く現実に戻りたいです。物理とか嫌いだったけど今ならニュートンやらアインシュタインやらの肖像画やお写真を無限に拝んでいられる気がする。ビバ・サイエンス。ビバ・ニュートン力学。
「というか神様はどこに行ったんだよ、人間に滅ぼされたのか?」
「正確には滅ぼされたのは、人間の方ですっ。地動説を提唱する大バカ者のせいで、神様のお怒りを買って人間族は我々とは別の結界の外側に閉じ込められたんですよぉ。つまりこの地球でも魔法が存在するエリアと科学だけで成り立っているエリアがあるということです」
つまり、ここは人間が隔離される前の地球ということか。
中々に大胆な設定だ。
「あぁ、もっと早く言うべきでしたねぇ……あなたが先ほどから語っている“夢”とかいう奴ですけど、わたしにはその概念はよく分かりませんけど、わたしの知識の中にある『眠っている間に見る、現実にない事象の感覚や経験を起こすこと』を言っているのであれば、違いますよぉ。これはしっかり現実ですっ」
「……なにをいってるんだ?こんなありえない事……信じろというのか?」
「自分の痛覚に聞いてみればどうですかー?人間は夢か現実かを確かめる時、頬をつねるらしいじゃないですかぁ?よろしければお手伝いしましょうか?」
……ようやく隠していたご尊顔を僕に向けて訪ねてきた。
これだけ訳の分からないことになっていて、痛かったら現実って言うのもなんだかなぁである。
仕方なく僕は、右腕を前にあげる。
「じゃあペネムちゃん、僕の手の甲にキスをしてくれ。その感覚で確かめるよ」
目をつぶって、全神経を手の甲に集中させる。
「では遠慮なく、──天流乱星っ!」
「……っ! 痛い痛い痛いってぇ!!」
瞬間僕の腕が切り刻まれる。吐き気を催すほどの痛みに目を見開く。鋭利な形に変形した腕を振り回し、僕を完膚なきまで刻み付ける天使の姿がそこにはあった。
……天使って優しいんじゃないの……?
「信じましたぁ?」
そう言いながらなおも右腕を集中して攻撃してくるペネムちゃん。
「信じるっ! 信じるからっ! もうやめてぇええええええ!」
むしろ、ペネムちゃんが本当に天使なのかどうかの方が疑い深い。
「はぁ、しかたありませんねぇ。──治癒!」
すぐに痛みが引く。回復魔法をかけてくれたみたいだ。因みに吐き気は残る。
僕、天使のおもちゃにされてるじゃん。
……本当に、興奮する。
「どうしようもない方ですねぇ……」
はぁと綺麗なため息を吐いて、諦念すらもが読み取れるほどに僕に悪態をつく。
「まぁいいです……。この世界が夢じゃないと分かっていただけたならそれでいいですよ、もぅ……」
それはそれは可愛い、ふくれっ面をして僕を睨む。
残念だが、美女のふくれっ面なんて僕の大好物だ。ニッチな趣味なように思えるかもしれないが、これが心に刺さらない男はいない。断言する。
「……本題は次です」
「あぁ」
ペネムちゃんがコホンと咳ばらいをして、話を続ける。
正直、ここまで来たら僕も知りたかった。
というか知らなければならないと思う。
「あなたがこの世界にたどり着いた理由なのですが──」
わざわざ重苦しい。ペネムちゃんの声
……実のところ苦笑いしか浮かばない。この世界は無茶苦茶だ。
だけど少しだけ、あまりにも無茶苦茶なこの世界のことを。
──面白いと思っている僕がいた。