レイニースウィート
平日のいつもの時間。放課後の時間帯によくいらっしゃるお嬢さんの話。
「来たわよ! さあ、早く教えなさい!」
居丈高な物言いと共に、大雑把に開かれる玄関の扉。
鍵は掛けてないから、別に入ってくるのはいいんだけれども。
苦笑して、手元の雑誌をテーブルの上に投げる。
準備は既に整っている。
もう二月に入って数日経つから、いい加減上達した欲しいのだけど。
勝ち気な目を更に釣り上がらせて、校則に引っかからないぎりぎりの長さの髪にストレートパーマを当てた今時のお嬢さんは、落ち着きなくずんずんと足音を立ててこちらにやってくる。
「やあ、芽衣ちゃん」
「やあ、じゃない! 早く今日も教えなさい!」
「えー……、まだ授業終わってから十分くらいでしょ? そんな急いでこなくても私は逃げないよ?」
「しょうがないじゃない! だって、全然上手くいかないんだもの! あたしだって、焦る!」
「分量さえ間違わなければ失敗しないんだけどなあ……
ぽりぽりと頬をかく。
芽衣ちゃんがどこで引っかかってるのか、私には皆目見当もつかないのだ。
手順も見せたし、レシピにして渡してあるのだけれど……。
「だって、上手く行かないんだもの!」
「そーですか、そーですか。それじゃあしょうがないね。今日も特訓だ!」
「勿論、そのつもりよ! ちゃんと材料は持ってきたわ!」
制服姿の芽衣ちゃんの背中に隠されていた買い物袋。
おかしい……芽衣ちゃんの通う学校の放課になるのは、今から十分程度前。
そこから、私の家まで急いで十分くらい。
ううむ……。
「失敗前提で一杯買い込んだなあ?」
もうっと、私と比べて残念な胸張る芽衣ちゃんの髪をわしゃわしゃと乱す。
「やーめーてー。ごめんってー!」
「食材を冒涜する子は許さないからねー!」
うひゃあなんて乙女の欠片もない悲鳴をあげた芽衣ちゃんに満足した私は、そのまま台所に向かう。
そもそも、今日もくるだろうなって分かっていたから事前にセットは用意して置いたのだ。
割と作るのに苦労はしない、クッキー。それにチョコチップを混ぜ込んだオーソドックスなチョコチップクッキーを作ってるつもりなんだけど……。
芽衣ちゃん元気がいいのが取り柄だし、私もそっち方面で見てるのが楽しいんだけどなあ。
最近無理して、私の部屋に入り浸ってファッション誌とか読み始めちゃってるし。高校デビューって恐い。まだ勝ち気なお嬢様然としてた中学生の芽衣ちゃんを返して! いやいや、今の芽衣ちゃんも中々に可愛いけどね。
「早く準備してよね! 莉緒さん!」
それに極めつけはこれだ。莉緒さん。
悲しい。昔みたいに、莉緒お姉ちゃんって呼んでくれてもいいのに。
「えー」
だから、ちょっぴり意地悪。駄々こねてみせる。
そうすると、子供っぽくぷくーっと頬を膨らませた芽衣ちゃんが見られるのだ。とても可愛い。膨らんだ頬を両手で挟んでぶふぅって何回かやってたら本気で怒られたから、もうやらないけれど。
ちょっとやりたくなる。
「莉緒お姉ちゃんって呼んでくれたら頑張るよー」
「むむぅ……わかったわ! 莉緒……お姉ちゃん……」
「うへへ……」
ああ、いいなあ、こうやって、恥ずかしがって言ってくれるのめちゃくちゃいいなあ!
もうこれだけで、お姉ちゃんご飯三杯くらいいけちゃう。やっぱり芽衣ちゃん可愛い……!
「きも! 気持ち悪いわ! 折角の美人なのに勿体ないだらしない顔!」
「だってねえ? 久しぶりに、芽衣ちゃんが私のことお姉ちゃんって呼んでくれたんだもん、嬉しいに決まってる!」
「引くわー……」
「さ、さて! はじめよう!」
それから、いつものように芽衣ちゃんにクッキーの作り方を教える。
粉を振るって、無塩バターをなめらかに溶かして、混ぜて。
卵や砂糖なんかの順番もちゃんとレシピ通りに混ぜて混ぜて。
チョコチップを最後に入れて、適当な大きさに千切ってこねて、平べったく伸ばして。
クッキングシートを敷いたトレイの上に載せていって、予熱したオーブンにトレイを入れて焼き上がるのを待つだけ。
焼き時間なんかもちゃんと教えてるはずなんだけど……?
でも、話を聞いている芽衣ちゃんは私を真剣にみているし、話も聞いてくれている。芽衣ちゃんってそんなに物覚えが悪いわけじゃないから、なんでだろう?
焼き上がりまでの待ち時間の口寂しさを紛らわすために、ミルクを鍋に掛けて弱火でじっくりと煮込む。
その間に冷蔵庫に入ってた板チョコを取り出して細々と刻む。
「何してるの?」
「ホットチョコレート、芽衣ちゃんも飲むよね」
「飲む!」
元気の良いことは良い事です。
それだけで、私も優しく笑顔になってしまう。
チョコレートの甘い香りと、ミルクの香り。溶けて混ざり合って、優しくて甘い香りが部屋中を満たしていく。
味を調えて、芽衣ちゃんが小さい時に買ったお揃いのマグカップに注いでいく。
「そういえば、急にクッキーとかって、芽衣ちゃんもついに好きな人できたのー?」
「……うん」
思い起こせば、もうすぐバレンタインなのである。
急に作り方教えてなんて言ってくるからほいほい教えてたけれど、そういえばバレンタインだった!
最近渡す相手もいなかったから頭の中のブラックホールに放り込んでいた。
「ほほう! 恋愛事とか興味なさそうな芽衣ちゃんが!」
「あるし! めっちゃ興味あるし!!」
なんというか、やっとお姉ちゃん離れかあなんていう思いと共に一抹の寂しさが胸にやってくる。
芽衣ちゃんが小学校からの付き合いだけれど、大きくなるのって早いなあ。
いや、大丈夫。私、まだ二十四だし。婚期はまだ大丈夫……!
オーブンレンジの残り時間が減っていくほどに部屋に甘い香りがしてくる。
今回も良い感じのできばえだろう。いつも通りに作っているのだから、美味しくできるに決まっている。
後は、芽衣ちゃんがちゃんとしあげてくれればそれでいい。
大丈夫かなあ……?
□●□●□
そして、日はあっという間に過ぎ去ってバレンタイン当日。
空模様はあいにくの曇り空。
ここのところ冬にしては暖かったから、雪が降るということはないでしょう。
降っても雨かな……。できれば降らなければいいねえ。
なんてことを考えながら私は買い物に出かける。
流石に雨に見舞われたくないしね。
「今日は何を作ろうかなー」
念のために傘を持って、部屋の扉に鍵を掛ける。
芽衣ちゃん、上手く行けばいいね。
結局どんな人が好きか教えてくれなかったけれど、それだけが不満だけど!
「あ、やば……」
ショッピングモールに到着する直前に、ぽつりぽつりと冷たい雨が降り出した。
帰りはタクシーかなあ、なんてことを考えながら、ぶらりとお店を見て回る。
買わないといけないのは食材だけれど、それは最後。
まずは服とか本とか、アクセサリーとか。
友達と一緒に来ても良かったんだけど、私の仕事の都合上基本的には時間が合わないし……。
まあ、そもそも学生の時ならいざ知らず、社会人になってから友達と一緒に遊ぶことなんて稀だけれども。今はこれはこれで気楽なのです。
適当に買い物を済ませて、時刻を見たら午後三時。
いつもなら後一時間もすれば芽衣ちゃんが私の所にやってくるけれど、今日はきっと来ない。だって、あれだけ頑張ったんだから、上手く行くに決まっている。
芽衣ちゃん可愛いしね。
雨は降り止まず、少しずつ勢いを増してきていた。
ひんやりとした空気の中、流石に荷物を持って帰るのはいやだったから、タクシーの使用を決意。泥跳ねとかで服汚したくないし。
流石に徒歩で来た人たちでタクシー乗り場がごった返す。
住宅街にあるショッピングモールのせいで、立地は良いけれど、悪天候の時にこんなんなっちゃうのが難点だなあ。
引っ越しも何度か考えたけれど、芽衣ちゃんが遊びに来るからってことでやめたんだっけ。懐かしいなあ。
自宅に戻って来ると、扉の前に座り込む女の子が一人いた。
見慣れた制服、見慣れた髪型。
いつもと違うのはずぶ濡れで、覇気が全然ないところ。
慌てて掛けよった。
何でいないのよって悪態が聞こえた。
涙声だし、どうしたのかな……。
「芽衣ちゃん?」
「……ッ!!」
がばっと顔を上げた芽衣ちゃんの顔は酷くて。
目は充血してるし、化粧もしてない。
最近は特に気合いを入れてたみたいだけど、今は見る影もない。
「どうしたの?」
「しっぱいしたぁ……」
うるうると目尻に涙を溜めて、芽衣ちゃんが泣き出した。
雨に打たれた体は凄く冷えていて、このままじゃ風邪まっしぐらだ。
流石に雨のなかここまで来てくれた手前、風邪引かせたら可哀想だ。
「話聞くから、先に暖まろう?」
「……うん」
素直な芽衣ちゃんを招き入れて、そのままお風呂場に押し込んで。
新品のパジャマを一セット持っていく。サイズ合わないのは仕方ないけれど、緊急事態だし、芽衣ちゃんも文句は言わないでしょう。
「芽衣ちゃん、一応これ着てね、制服とかは洗濯機に入れちゃって、乾燥までさせちゃうから」
「……うん」
もぞもぞと脱いだ服を芽衣ちゃんから受け取って、洗濯機に放り込む。
外に干すのが嫌だったから、乾燥機付き。こういうときには役に立つ。ちょっと奮発した甲斐があったなあ。
「シャンプーとか使っていいからね」
「ありがとう」
芽衣ちゃんの綺麗な背筋を押して浴室に押し込んで、洗濯機のスイッチを入れてパジャマの上に洗い立てのバスタオルを置いて、浴室をでた。
そして私はキッチンに立つ。
暖かくて甘い飲み物。
気持ちがほぐれるようなって考えると、この前作ったホットチョコレートが思い浮かんだ。
ちょっとお高い、有名なチョコレートを使おう。
さらば、一粒うん百円……!
それとは別に生乾きの制服から考えて結構な時間あそこにいただろうから、お腹も空いてるだろうからホットケーキでも焼こう。
お菓子を主食にしていて本当に良かった。材料だけはいくらでもあるんだから。
伊達に友達からお菓子の魔女なんて呼ばれていない。
ホットケーキミックスをミルクと卵を混ぜた物で溶いて、少しダマが残るくらいに。とろりとした種。いい塩梅だ。
熱したフライパンにバターを溶かして、香ばしい匂いにお腹が鳴りそうになる。
「つまみ食いは……だめだめ……!」
頑張って我慢。ホットケーキの焼ける匂いはお昼を食べたにもかかわらず、お腹にダイレクトアタックしてくる……。
つまみぐい……したい……。
「ぐぬぬ……」
「あの……莉緒……お姉ちゃん……」
キッチンの前で唸っていると、いつの間にか芽衣ちゃんがあがってきていた。
暖まったお陰か顔色はマシ。うん、目の下クマが浮き彫りになってる辺り、寝不足も含まれていたのね。
「暖まった?」
「うん」
「そんな暗い顔しないのー」
芽衣ちゃんの頬を優しく包んでむにむにとマッサージしてあげる。
いつも私が芽衣ちゃんをからかう時にやることだ。
くすぐったそうに身をよじりはすれども、振り払う迄はない。
「これは重傷だー」
「なによ……」
「こっちの話。芽衣ちゃん、お腹すいてる?」
「……少し」
「そっか。おやつでも食べながら、話聞かせてよ」
「うぅー……」
また肩を震わせる。そんなに悔しかったのかー。
はいはいっと、文句の一切を言わない芽衣ちゃんの肩を押して、いつもの位置……二つ並べて敷かれたレモン色と水色の座布団の右側の水色に座らせて、少しだけ冷めたホットケーキと蜂蜜とを並べて、その隣に私の分も置く。
冷めても美味しい。それが大事なのです。
それと一緒に、お高いチョコレートを溶かし込んで作ったホットチョコレートもお揃いのマグカップに注いであげて。
「さあ、やけ食いだよ! お腹いっぱいになったら胸いっぱいになってる気持ちを吐き出しちゃえ!」
「むぅ……」
ちまりちまりとぶすっとした顔で食べ始めた芽衣ちゃんがなんだかおかしくて、ニヤニヤの笑みが止まらない。
青春だなあとか、青いなあとか、若いなあとか。八つも離れてたらそりゃあそんな気持ちにもなっちゃうか。
「なによ、その顔……」
「えー、だって、芽衣ちゃんも女の子してるんだなーって」
「ひどいわ……」
「それで、どうして失敗したの?」
「うっ……」
押し黙る。落ち着いてバツが悪そうな、そんな感じがして。
私は芽衣ちゃんが口を開くのを待った。
横に座って、微かに体を触れ合わせながら、いじらしくも恋する乙女の言葉を待つ。恋する乙女かどうかなんて分からないけれど。
「莉緒……お姉ちゃんを驚かそうと思って……」
もそもそとホットケーキを一枚完食して、芽衣ちゃんはやっと口を開いた。
私を驚かそうとして、クッキー以上の難しいのを作ろうとしたらしい。
だけど失敗して、お小遣いも底を付いて。
にっちもさっちも行かずどうしようと思いつつもここに来たらしい。
恋する乙女でも何でも無かった!?
一人内心盛り上がってたのがバカみたいで、頬が熱くなる。
「どうしたの?」
「な、なんでもないよー! ちょっと勝手に早とちりしただけだから!!」
「そう……?」
ふー……。
セーフ。超セーフ。動揺は悟られてない。きっと大丈夫。あーゆーおーけー。
念のために落ち着くために、ホットチョコレートを一口。
「あたしね、多分莉緒お姉ちゃんのことが好きなの」
「ぶはっ!?」
投下された核爆弾。咽せた。
「ちょ、汚い!!」
「けほっ……けほっ……、ご、ごめんね?」
ちょっとまって、この子今なんていったの……?
えっと、私のことが好き? きっとライクよね。ラブじゃないよね。
「えっと、芽衣ちゃん、それはライク? ラブ?」
「……ラブ……のほうだとおもう」
「ま、まって、落ち着こう。ね?」
「莉緒お姉ちゃんにあげるための物が失敗してショックだったんだもん……」
顔が熱い。心臓がばくばくと早鐘を打っている。
ああ、そうか、と。話を聞いてるときの芽衣ちゃんの視線。
あれは紛うことなく私を見ていたのかと。
「うひゃあ……」
潤んだ瞳、熱っぽい吐息。お風呂上がりなのも加味してもなお赤い頬。
預けられる体重に、私の右手の上に置かれた芽衣ちゃんの左手はしっとりと熱を持っていて。
今、室内には雨の音と、私の小さな驚嘆の声が響いていて。
芽衣ちゃんの近い顔が、唇が言葉を紡ぐ。
「やっぱり、いや……?」
いつもは強気に釣り上がっている綺麗に整えられた眉が不安げに下がっていて、ああ、気持ちってどうしようもなく止められないんだって、思ってしまった。
ただ、その芽衣ちゃんの気持ちはとても嬉しい。
「私ね、芽衣ちゃんがお姉ちゃん離れしていくんだなーって思うと寂しかったんだ」
その嬉しさを貰って、私も感じていた寂しさを口にする。
芽衣ちゃんの手を握り返して、大人として、ちゃんと返事をする。してあげなきゃいけないと思った。
「ね、女同士ってよくわからないけど、どうすればいいのかな?」
「あ、あたしもわかんない……」
「そっかー。じゃあ、一緒に勉強していく?」
「えっと、それって……」
芽衣ちゃんが困ったように視線を彷徨わせる。
わかってると思うのに、意地悪な態度を取ってしまったかな?
私も芽衣ちゃんのことは好き。でもこれは芽衣ちゃんの思ってるラブな好きとは違うけれど、こうやって自分の部屋に呼んで、隣に座らせて、手を重ね合わせて、体をぴったりと寄り添わせても不快に思わないくらいには好きだし。
「うん、私でよければお付き合いします?」
その一言を聞いて、芽衣ちゃんの顔がぱあっと晴れる。
可愛いなあ。
「い、いいの……?」
「うん、いいよ」
「わっ……やった……莉緒お姉ちゃん、大好き……」
「ちょ、ちょっと、うひゃあっ!?」
飛びついてきた芽衣ちゃんを抱き留めてあげて、押し倒された形になってしまった。それは別にいいのだけれども、なんというか大人として、攻められっぱなしは癪なのです。
「芽衣ちゃん」
「なあに?」
芽衣ちゃんの頬に手をあてて、むにむにと揉みしだきながら、唇を重ねた。
「ッッッ!!!?」
ガバッと身を起こして、慌てて距離を取る芽衣ちゃんがなんだかおかしくて、自然と笑い声が上がった。
「も、もう! お姉ちゃんのバカ!」
「急に押し倒す芽衣ちゃんが悪いと思いますー」
柔らかく重ねたキスは、とろけるようなチョコレートの味がしたのだった。