沼の底
恭一郎と紗枝は、泉まで続く登山口から山に入り、ひたすら登り続け、半日を費やした。
子宝を願う泉まであと少しというところで、持って来たおにぎりを、山道の脇の岩に腰を下ろして食べた。
紗枝は始終嬉しそうで、日頃、運動などしていないから辛いと思うのだが、不満を言う事も無く、ただ、一生懸命、子どもが欲しいと願いながら、一歩一歩、進んでいるようだった。
泉は、山道から木々の繁る崖を下り、ごつごつとした岩場を越えた下に見えた。
紗枝の手を取り、補助をしながら崖を下り、泉を前にすると、どこか神聖な気持ちが湧きあがっていた。
ぬかるんだ土の向こうに、緑色の水を湛え、木々の根を沈めた泉がある。
「さあ、あと少しだよ、頑張れ」
恐る恐る足を進める紗枝を応援しながら、転げ落ちないように足を踏ん張っている。
泉に近づくと、ブーツの底部分が泥の中に沈んだ。
「ほら、見てごらん、泉の向こう側にある木の根の下に祠があるよ」
紗枝の手を引き、泉の前に二人で佇む。
「……本当ね。本当に来られたわ、恭一郎さんのおかげよ、ありがとう」
潤んだ瞳で恭一郎を見上げた紗枝の顔には、喜びを通り越し、陶酔したような表情がある。
「それから、どうするんだ? 手を合わせて祈れば良いのか?」
そう紗枝に問いかけると、紗枝は唇を引き上げ、笑顔を見せた。
そのまま泉に近づいて行く紗枝の腰を取り、落ちてしまわないように支えていると、数歩、泉に近づいた紗枝の足は、足首辺りまで泥に埋まってしまっている。
さほど深く見えない泉だが、泥の深さを見ると、まるで底なし沼のように見えて来て、背筋に冷たいものが辿る。
「紗枝、気を付けろよ。これからまた戻らなければならないんだ。これから夜に近づけば、空気が冷えて来る。濡れると風邪をひくから……」
恭一郎の声など耳に入っていないのだろう。紗枝は、泥の中に膝を付き、泉の中に両手を差し入れると、水を掬い上げ、ためらいもなく口に含んだ。
「……大丈夫なのか? とても綺麗だとは思えないが……」
水を飲み下した紗枝は、口元を濡らしたまま、恭一郎を見上げた。その目からは涙が滴っている。それほどまでに望んでいたのかと、紗枝の執着を怖いとさえ思った。
「大丈夫よ。だって、私のお母さんも、おばあちゃんも、みんなこの泉の水を飲んで子どもを宿したんだもの。そうよ、前の子は突然授かってしまったから、ここに来られなかったでしょう? だから神様が怒って、私から子どもを取り上げてしまったのよ」
紗枝は興奮したように立ち上がると、恭一郎の腕に手を寄せた。
本当はその手を避けたいと思った恭一郎だったが、寸でのところでその衝動に耐え、紗枝の手を取って、手をつないだ。
そうすると紗枝は嬉しそうに微笑み、俯いてお腹を手で押さえる。
紗枝は、この泉を飲めば子を授かると、本気で信じ込んでいるようだった。
「ああ、恭一郎さん、見て、お腹の中に、あの子が戻って来たわ。神様が許して下さったのよ。あの子を返して下さったのだわ」
紗枝はそう言うと、恭一郎を見上げた。
その瞳に狂気の輝きを見た恭一郎は、思わず後ろに下がっていた。
「……何を言っているんだ? いい加減にしてくれよ。そんなことがあるはずないだろ?」
「いいえ、本当よ。私にはわかるの。ほら、触って? 私とは違う、命の鼓動が伝わらない? とても早いわ、生きているのよ。生きているんだわ」
恭一郎に詰め寄り、寄り添う形で手を取った紗枝は、自分の腹に恭一郎の手をあてがった。
紗枝のぬくもりを感じ、そのぬくもりの向こうに、本当に鼓動を感じた気がして、すぐに手を離していた。
「……馬鹿なことを言うんじゃない。おまえの戯言にいつまでも付き合っていられると思うな。いい加減にしてくれ。ここに付き合って来たのも、お前の望みを叶えれば、少しはマシになるかと思っただけだ。離婚するって言ってるだろ? いい加減にまともになってくれよ」
「ねえ、恭一郎さん、この子の名前、何が良いかなぁ? 私、いくつか考えてあるのよ? 家に戻ったら教えてあげる」
「いい加減にしろよ、おまえはまともじゃない」
紗枝は何かに浮かされたように、お腹を大事そうに抱えたまま、崖を上ろうとしていた。
このまま紗枝は変わらない。離婚など本気で忘れたふりを続けるのだと、怒りが静かに溜まり続け、ついに限界に達し、はち切れる。
「恭一郎さん?」
後ろから紗枝の手を取り、崖から引き戻すと、紗枝の細い首を両手で締め上げていた。
それでも紗枝の表情は少しも苦しげではなく、陶酔しきったように呆けている。
「……この子の、名前、な……ん、に、する……」
恐ろしくて手を放した。放した手を紗枝の肩に下ろし、そのまま泉の方へ投げ捨てるように押した。
気づけば膝まで泥に埋まっている。
その先には、泉の中にしりもちをついた紗枝の姿がある。
「……きょう、いち、ろう……さん……」
ごぼごぼと泉が沸き、紗枝の体が沈んで行く。
下半身が沈み、腹、胸、肩……。紗枝は腹の子を気にするように、俯き、それから泉の中から手を出し、恭一郎の方へ差し向けた。
頭が沈んで行く。
口が沈むと、空気の泡が出る。もう声が聞こえない。
恭一郎は、何もなかったように踵を返し、紗枝を見ることなく崖を上って行った。