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巣喰い  作者: サクラギ
7/10

下山2

 食事を取りながら、そろそろ通話が可能なくらいに充電されたかと携帯を手に取る。電源を入れ、待っていると、待ち受け画面が浮かび上がった。

 とりあえず、通話くらいはできるかと、すぐに香苗の携帯に掛けた。

 コール3回で回線が繋がる。

「香苗? 俺だけど」

 いつもなら、嬉しそうな声を聞かせる香苗だが、今はざわざわとした音しか聞こえて来なかった。

「香苗? 聞こえているか?」

「……ええ、聞こえるけど……」

 歯切れの悪い香苗の声が聞こえて来た。

 きっと紗枝と山に登っていたことを不満に思っているのだろうと、頭の中で面倒だと思いながらも、香苗の機嫌をこれ以上損ねないようにと言葉を選ぶ。

「悪いな、今日中に戻れなくなったんだ。明日には必ず行くから」

「え? ちょっと待って? 何を言っているの? っていうかさ、今まで何してたの? どこにいたのよ」

「どこにって、山に行くって言っただろ? あいつと一緒だったから、香苗が怒るのもわかるけどさ、一日くらい我慢してくれないか? 俺だって……」

「だから何を言っているのよ? 今更、会いに来られても困るよ。あなたの居場所なんてもうないの。待てるわけないでしょ?」

 恭一郎の言葉尻を奪うように、香苗は興奮して言葉を継いだ。

 香苗の言葉を、怒っているのだから仕方がないと聞いていた恭一郎だったが、さすがに香苗の言葉の内容に苛立ちを覚える。

「何を言っているって、お前の方が何を言っているのかわからない。何を怒っているんだ? そんなに怒らせるようなことではないだろう。俺だっておまえと一緒にいる為に、いろいろ動いていたんだろ? いい加減にしてくれよ」

 思わず声を荒げると、携帯の向こう側で、何かが割れる音が響き、その後、微かに男の声が聞こえて来た。「どうした? 大丈夫か?」微かに聞こえただけなのに、言葉の内容まで耳に届く。

「おまえ、浮気してたのか? だから俺はもういらないって言うのか? 今更?」

 こんなに香苗のことを思って、これからも一緒にいられるように尽くして来たのに。騙されていたのかと怒りが浸透した。

「浮気って、何を言っているの? あれから5年よ? 5年も音沙汰なしで、それであたしがあなたを待っているとでも思っていたの? ありえないでしょ? もう二度と連絡しないで」

 一方的に通話を切られた。

 何のことかと驚き、怒りも沸き、折り返してみたが、すぐに拒否されたのだろう、もう二度と繋がることはなかった。

「……いったいなんだって言うんだ? どうなっているんだ?」

 大きくため息を吐き、どうなっているのかと考え、香苗の言葉を思い起こした。

 5年と言った。あれから5年が経っていると。

 そんなことがあるはずもないと、浮気のいい訳にしてはお粗末だと思いながら、携帯の日付を見た。

 恭一郎が思っている年から五年後を表示していた。

 携帯が間違っているのかと思い、脇にあったテレビのリモコンを取り上げ、電源を入れた。テレビの脇には時刻しか出ていない。リモコンで画面を操作し、日付の出る画面を探した。

 ……やはり携帯と同じ年、日付を表示している。

 訳もわからない不安に襲われた。頭の中がズキズキと痛み、それが心臓の音にリンクしているのだとわかると、あの山の中の出来事が思い起こされた。

 ふいに、女の言ったこの土地の風習の話を思い出す。そして、ありえないと打ち消すことを繰り返し、どうしようもない状況に追い込まれて行った。

 もう食事が喉を通らない。代わりにビールを一気に煽り、大きく息を吐き出し、どういうことかと、また繰り返し考え続けた。

 どうにもならない状況が続く。

 どうにもできない環境でもある。寝るにも寝られず、早く戻りたいと思っても、田舎の山合いである。暗い道を探りながら歩いて行こうとは思えないほど、疲れ切ってもいた。



 朝の日差しが窓から入り込んで来る頃、荷物をまとめ、宿を後にした。

 日の日差しがあれば、車までの道を歩いて行くことも苦にならず、視界が晴れれば、さほど遠くでないことがわかった。

 車まで1時間ほどの距離を歩き、最初に見た登山口を見ながら、駐車場へ入ると、そこには停めた時の状況のままの車があった。

 5年の経過など思えない状況に、やはり香苗が嘘を言っているのだと思い、ザックの中から鍵を取り出し、車に乗り込んでエンジンをかけた。

 3時間を掛け、車を走らせ、香苗の家に戻った。

 しかし、アパートは引き払われており、管理人に話を聞いても、香苗の引っ越し先を知ることはできなかった。そして香苗と同じようなことを言われる。

「久しぶりですね。ずいぶんお顔を見ませんでしたから、離婚されたのかと思いましたよ」と。

 本当に5年が経っているのかと、信じ始めた頃には、山の中の出来事が、やはり普通ではなかったのかと思い始めていた。

 もしかすると、あの穴に落ちた時にはすでに奇妙な時間に陥っていて、あの時、5年を費やしてしまったのか。

 イチとの出会いなどなく、幻の世界に迷い込んでいたのだろうか。

 どれも想像にすぎず、やはり5年の経過を現実には思えない。

 仕方なく、車に乗り込み、紗枝と暮らした家に戻ることにした。


 願うような気持ちで、玄関のドアを開けた。

 中に入り、後ろ手でドアを閉めると、辺りを伺った。

 しかし、変わりはないように思え、5年の経過など、やはり嘘だと思った。


 靴を脱ぎ、廊下を歩く。

 リビングに通じるドアを開け、中を伺ったが、出ていった時と同じだと思えた。

 当たり前だと思う。

 大きくため息を吐き出し、ソファに腰を下ろした。

 額を手で押さえ、どうしてこんなことになったのかと、香苗を思い出した。

 たった1日で、何がどうなってしまったのかと考え抜いた。

 しかし、香苗が嘘をついていたとしか思えない。

 イチの顔とあの小屋を思い出した。思い出すと、同じ記憶媒体にある、あの血生臭い匂いが胸に広がる。

 ウッと口元を抑え、部屋の中に満ちている訳でもないのに、窓へ駆け寄り、鍵を外して窓を開け放った。

 風が入り込み、薄いレースのカーテンを翻した。

 恭一郎は、苛立ちを吐き出すように、「クソッ!」と声を上げて窓枠を拳で殴りつける。ガタンと揺れた窓。手が痛むだけで、状況は何一つ変わらない。

 どうしたものかとソファに戻り、また同じ体勢で額を押さえた。


 ふいに見上げたテレビ棚の中に、見たこともない物が入っていることに気が付いた。あんな物があったかと、ソファから腰を上げようとして、違和感を覚えて周りを見回した。

 ソファの左側にある棚の上に、白い花の活けられた花瓶が目に入った。その隣に置いてあった、結婚披露宴で撮った写真を入れていた、写真立てがなくなっている。

 どういうことかと思った瞬間、なぜか鳥肌が立っていることに気づき、どういうことなのかと混乱した。


 その時だった。


 トン、トン、トン、と、階段を降りる音が聞こえて来る。

 額を押さえ、俯いたままの恭一郎の背が、ビクリと揺れる。喉がヒュッと鳴る。顔を上げる事が出来なくなり、俯いたまま、階段を降りる音を聞いていた。

 誰もいる筈はない。

 軋む音を上げながら、ゆっくりと開いて行くドアに視線を奪われた。

 鼓動が脳に響くほど、強く打ちつけている。背中には冷たい汗が流れ落ち、呼吸がままならず、動こうとしても固まった体は、命令に反するように、訳もわからず震え、ガクガクと骨が鳴った。

 紗枝だろうと思った。紗枝が先に戻り、二階にいたのだと思おうとした。

 しかし、そうでないことを、恭一郎は知っている。

 裏側に隠した記憶が、恭一郎にそうでないことを教え始めていた。


 黒髪が見える。それはドアの半分辺りにあり、白い服と、紺の格子柄のズボンが見える。それからスッと入り込む足が見え……。

 恭一郎は、言葉にならない叫び声をあげ、ソファの向こう側に転がるように落ちた。しかし、視線を外すことが出来ない。

 この奇妙な状況を、どう理解すれば良いのか。

 本当は夢を見ているのではないかと思った。

「おかえりなさい」

 頬の肉が持ち上がり、唇の端が上がる。

「……イ、チ、……な、なんだよ、どういう……」

 イチの顔に愛らしい表情が浮かんだ。屈託のない純粋な笑顔が、この時ばかりは恐ろしいものに見えた。

 イチの声が聞こえる。

 遠退いて行く意識の向こうで、歪んで行くのは、イチの笑顔だった。


 遠退く意識の先に、閉じ込めていた記憶が、鮮明に浮かび上がっていた。

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