下山2
食事を取りながら、そろそろ通話が可能なくらいに充電されたかと携帯を手に取る。電源を入れ、待っていると、待ち受け画面が浮かび上がった。
とりあえず、通話くらいはできるかと、すぐに香苗の携帯に掛けた。
コール3回で回線が繋がる。
「香苗? 俺だけど」
いつもなら、嬉しそうな声を聞かせる香苗だが、今はざわざわとした音しか聞こえて来なかった。
「香苗? 聞こえているか?」
「……ええ、聞こえるけど……」
歯切れの悪い香苗の声が聞こえて来た。
きっと紗枝と山に登っていたことを不満に思っているのだろうと、頭の中で面倒だと思いながらも、香苗の機嫌をこれ以上損ねないようにと言葉を選ぶ。
「悪いな、今日中に戻れなくなったんだ。明日には必ず行くから」
「え? ちょっと待って? 何を言っているの? っていうかさ、今まで何してたの? どこにいたのよ」
「どこにって、山に行くって言っただろ? あいつと一緒だったから、香苗が怒るのもわかるけどさ、一日くらい我慢してくれないか? 俺だって……」
「だから何を言っているのよ? 今更、会いに来られても困るよ。あなたの居場所なんてもうないの。待てるわけないでしょ?」
恭一郎の言葉尻を奪うように、香苗は興奮して言葉を継いだ。
香苗の言葉を、怒っているのだから仕方がないと聞いていた恭一郎だったが、さすがに香苗の言葉の内容に苛立ちを覚える。
「何を言っているって、お前の方が何を言っているのかわからない。何を怒っているんだ? そんなに怒らせるようなことではないだろう。俺だっておまえと一緒にいる為に、いろいろ動いていたんだろ? いい加減にしてくれよ」
思わず声を荒げると、携帯の向こう側で、何かが割れる音が響き、その後、微かに男の声が聞こえて来た。「どうした? 大丈夫か?」微かに聞こえただけなのに、言葉の内容まで耳に届く。
「おまえ、浮気してたのか? だから俺はもういらないって言うのか? 今更?」
こんなに香苗のことを思って、これからも一緒にいられるように尽くして来たのに。騙されていたのかと怒りが浸透した。
「浮気って、何を言っているの? あれから5年よ? 5年も音沙汰なしで、それであたしがあなたを待っているとでも思っていたの? ありえないでしょ? もう二度と連絡しないで」
一方的に通話を切られた。
何のことかと驚き、怒りも沸き、折り返してみたが、すぐに拒否されたのだろう、もう二度と繋がることはなかった。
「……いったいなんだって言うんだ? どうなっているんだ?」
大きくため息を吐き、どうなっているのかと考え、香苗の言葉を思い起こした。
5年と言った。あれから5年が経っていると。
そんなことがあるはずもないと、浮気のいい訳にしてはお粗末だと思いながら、携帯の日付を見た。
恭一郎が思っている年から五年後を表示していた。
携帯が間違っているのかと思い、脇にあったテレビのリモコンを取り上げ、電源を入れた。テレビの脇には時刻しか出ていない。リモコンで画面を操作し、日付の出る画面を探した。
……やはり携帯と同じ年、日付を表示している。
訳もわからない不安に襲われた。頭の中がズキズキと痛み、それが心臓の音にリンクしているのだとわかると、あの山の中の出来事が思い起こされた。
ふいに、女の言ったこの土地の風習の話を思い出す。そして、ありえないと打ち消すことを繰り返し、どうしようもない状況に追い込まれて行った。
もう食事が喉を通らない。代わりにビールを一気に煽り、大きく息を吐き出し、どういうことかと、また繰り返し考え続けた。
どうにもならない状況が続く。
どうにもできない環境でもある。寝るにも寝られず、早く戻りたいと思っても、田舎の山合いである。暗い道を探りながら歩いて行こうとは思えないほど、疲れ切ってもいた。
朝の日差しが窓から入り込んで来る頃、荷物をまとめ、宿を後にした。
日の日差しがあれば、車までの道を歩いて行くことも苦にならず、視界が晴れれば、さほど遠くでないことがわかった。
車まで1時間ほどの距離を歩き、最初に見た登山口を見ながら、駐車場へ入ると、そこには停めた時の状況のままの車があった。
5年の経過など思えない状況に、やはり香苗が嘘を言っているのだと思い、ザックの中から鍵を取り出し、車に乗り込んでエンジンをかけた。
3時間を掛け、車を走らせ、香苗の家に戻った。
しかし、アパートは引き払われており、管理人に話を聞いても、香苗の引っ越し先を知ることはできなかった。そして香苗と同じようなことを言われる。
「久しぶりですね。ずいぶんお顔を見ませんでしたから、離婚されたのかと思いましたよ」と。
本当に5年が経っているのかと、信じ始めた頃には、山の中の出来事が、やはり普通ではなかったのかと思い始めていた。
もしかすると、あの穴に落ちた時にはすでに奇妙な時間に陥っていて、あの時、5年を費やしてしまったのか。
イチとの出会いなどなく、幻の世界に迷い込んでいたのだろうか。
どれも想像にすぎず、やはり5年の経過を現実には思えない。
仕方なく、車に乗り込み、紗枝と暮らした家に戻ることにした。
願うような気持ちで、玄関のドアを開けた。
中に入り、後ろ手でドアを閉めると、辺りを伺った。
しかし、変わりはないように思え、5年の経過など、やはり嘘だと思った。
靴を脱ぎ、廊下を歩く。
リビングに通じるドアを開け、中を伺ったが、出ていった時と同じだと思えた。
当たり前だと思う。
大きくため息を吐き出し、ソファに腰を下ろした。
額を手で押さえ、どうしてこんなことになったのかと、香苗を思い出した。
たった1日で、何がどうなってしまったのかと考え抜いた。
しかし、香苗が嘘をついていたとしか思えない。
イチの顔とあの小屋を思い出した。思い出すと、同じ記憶媒体にある、あの血生臭い匂いが胸に広がる。
ウッと口元を抑え、部屋の中に満ちている訳でもないのに、窓へ駆け寄り、鍵を外して窓を開け放った。
風が入り込み、薄いレースのカーテンを翻した。
恭一郎は、苛立ちを吐き出すように、「クソッ!」と声を上げて窓枠を拳で殴りつける。ガタンと揺れた窓。手が痛むだけで、状況は何一つ変わらない。
どうしたものかとソファに戻り、また同じ体勢で額を押さえた。
ふいに見上げたテレビ棚の中に、見たこともない物が入っていることに気が付いた。あんな物があったかと、ソファから腰を上げようとして、違和感を覚えて周りを見回した。
ソファの左側にある棚の上に、白い花の活けられた花瓶が目に入った。その隣に置いてあった、結婚披露宴で撮った写真を入れていた、写真立てがなくなっている。
どういうことかと思った瞬間、なぜか鳥肌が立っていることに気づき、どういうことなのかと混乱した。
その時だった。
トン、トン、トン、と、階段を降りる音が聞こえて来る。
額を押さえ、俯いたままの恭一郎の背が、ビクリと揺れる。喉がヒュッと鳴る。顔を上げる事が出来なくなり、俯いたまま、階段を降りる音を聞いていた。
誰もいる筈はない。
軋む音を上げながら、ゆっくりと開いて行くドアに視線を奪われた。
鼓動が脳に響くほど、強く打ちつけている。背中には冷たい汗が流れ落ち、呼吸がままならず、動こうとしても固まった体は、命令に反するように、訳もわからず震え、ガクガクと骨が鳴った。
紗枝だろうと思った。紗枝が先に戻り、二階にいたのだと思おうとした。
しかし、そうでないことを、恭一郎は知っている。
裏側に隠した記憶が、恭一郎にそうでないことを教え始めていた。
黒髪が見える。それはドアの半分辺りにあり、白い服と、紺の格子柄のズボンが見える。それからスッと入り込む足が見え……。
恭一郎は、言葉にならない叫び声をあげ、ソファの向こう側に転がるように落ちた。しかし、視線を外すことが出来ない。
この奇妙な状況を、どう理解すれば良いのか。
本当は夢を見ているのではないかと思った。
「おかえりなさい」
頬の肉が持ち上がり、唇の端が上がる。
「……イ、チ、……な、なんだよ、どういう……」
イチの顔に愛らしい表情が浮かんだ。屈託のない純粋な笑顔が、この時ばかりは恐ろしいものに見えた。
イチの声が聞こえる。
遠退いて行く意識の向こうで、歪んで行くのは、イチの笑顔だった。
遠退く意識の先に、閉じ込めていた記憶が、鮮明に浮かび上がっていた。