下山
木々の向こうに、街の明かりが見えて来た。
どこをどう歩いたのか。ただ下へ、下へと思い、暗い道のない崖を下っていた。
眼下に民家の明かりが見えてやっと息を付く事が出来た。
空の厚い雲も去り、月が白光を落とし始めると、キラキラ輝く星々が空一面を彩り出す。
まるで別世界から逃げて来たような気分だった。幽霊や怪談を信じるタイプの人間ではない。それなのにあの時の状況は、恭一郎をほの暗い深淵へと落していた。
もう忘れようと、大きく深呼吸をし、眼下の明かりを目指して歩みを進めた。
登山を始めた場所とは、まるっきり違う場所へとついた。
登山口となる道の左右の木にロープが張られ、ロープの中央に「私有地立ち入り禁止」と書いたプレートがある。道の脇には看板が立てられており、そこには「狩場につき、流れ弾注意」と書かれていた。
イチの言葉を思い出した。ここはイチの言った通り、関係者以外は立ち入る事の出来ない山なのだとわかる。
恭一郎が紗枝と共に入った登山口は、この場所よりもかなり北へ進んだ場所にあるのだと、連なる山を仰ぎ見ながら考えていた。
となると、恭一郎が乗って来た車も、ここより北へ向かった場所に停めてあることになる。周りを見渡しても、人ひとり見当たらず、車が通る気配もない。周りにあるのは、広い土地の中にポツンとある民家くらいで、確かに明かりは灯されているが、ひっそりと静まりかえっており、声を掛けに行くことを躊躇わせた。
とにかく車の通る道を探しながら登山口を離れ、舗装された道路を下って行く。そのうち泊まれる宿を見つけられたらと思う部分もあった。
さすがにこの田舎に、夜間に走るバスなどないだろうし、タクシーもまた、こちらから呼ばなければ来ることもないのだろう。
持っていた携帯は、充電が切れている。都会ならばコンビニで充電し直すことも可能だが、こんな田舎ではそれも望めない。携帯が繋がらない不便さが身に染みた。
30分ほど歩いただろうか。木々の隙間に温泉宿の案内が見えた。
電柱に印された小さな看板を頼りに歩いて行くと、木戸が4枚連なる玄関があり、すりガラス越しに明かりがついていることがわかった。
携帯が使えないことで時間すらわからない。まだ営業しているのか、駆け込みで泊まらせてもらえるのか、料金はいくらなのか。問題は山積みだったが、とにかくそこへ駆け込み、せめて電話を借りられたらと思っていた。
「夜分遅くにすみません、部屋は空いていますか?」
薄汚れ、ぼろぼろになった姿に驚いた宿の男性は、カウンターの中で唖然としている。
「……あの?」
「いえ、すみませんねえ、まさか客があるとは思ってませんでしたからねえ」
困ったように呟いた主人は、まあ上がってくださいと、カウンターの奥から出て来て、恭一郎の前にスリッパを用意した。
考えてみれば、靴下のまま、途中まで歩いていた。汚れた足でスリッパを使って良いものかと考えていれば、主人は「どうぞ」と言ってくれた。
「すみません、登山中に穴にはまってしまって……雨にも降られたうえ、道がぬかるんでいたので、何度も転んでしまったんです。ご迷惑をお掛けします」
何度も頭を下げ、申し訳なく思いながら靴を脱ぎ、ついでに靴下も脱いで、裸足でスリッパに足を通した。
「山の天候は変わりやすいですからね……しかし、こちらの山はまだ山開き前で、しかも私有地ですからね、あまり登山客が来る事はねえんですよ。お客さん、もしかして道に迷われたかね?」
差し出された宿泊名簿に記入しながら、主人の言葉に苦笑いをする。
「ええ、どうやらそうらしいです」
「お一人で来なさったんですか?」
「いえ、妻と一緒だったんですが、お恥ずかしい話、途中で喧嘩をしてしまいまして。妻は先に山を下りたんだと思います。……携帯の充電が切れていて、連絡も取れない状況で、すぐにでも連絡したいのですが……」
「それはお困りですねえ。まずは一風呂浴びて、食事は大したものも用意できませんが、とにかくゆっくり休んで行ってくださいませ」
「はい、ありがとうございます。お世話になります」
名簿に名前や住所を記入し終え、主人に差し出すと、奥の方から女の人が出て来て、こちらですと恭一郎を案内した。
木製の古い建物は、床がぎしぎしと軋み、空気の中にほんの少し、埃やカビの匂いが混じっている。それでも泊まる場所があっただけマシだと、恭一郎は女の後に続いた。
部屋の角に位置する襖を開け、恭一郎を先に通した女は、襖に囲まれた6畳ほどの狭い部屋の中央に、隅に寄せてあったテーブルを運び、施設の案内をすると、「後ほど食事をご用意します」と言って部屋を後にした。
部屋の隅に布団が2組、それぞれに積み上げられている。押し入れも、和室に良くある床の間もない。となると、左右にある4枚の襖は、隣の部屋に続いているのだと思われ、外せばだだっ広い部屋になるのだろう。登山客を目当てにした宿には、素泊まり、ごろ寝の安宿が多くある。ここも繁盛時には、そういった部屋に宛てられるのだろうと思った。
壁にあるコンセントに背負っていたザックから取り出した充電器を付け、携帯をつなぐ。充電をしている間に風呂に入ろうと、着替えを持って部屋を出た。
小さな温泉宿であるから、あまり期待していなかった風呂だが、小ぢんまりはしているが、趣のある居心地の良い風呂で、それだけで泊まった甲斐があったと満足して風呂から部屋に戻れば、すでに食事の用意がされており、部屋に案内をしてくれた女が恭一郎の帰りを待つように、食事の用意を続けているところだった。
「お風呂はいかがでしたか? 簡単なものしかご用意できませんが、ごゆっくりなさってください。おビールはお持ちしますか?」
「ええ、瓶ビールをお願いします」
「わかりました、すぐにご用意致します」
そういって部屋を後にした女は、すぐにビールを持って戻って来る。
簡単なものと言った料理は、謙遜だと思えた。山の幸が豊富で、色とりどりの、つまみになりそうな小料理が並んでいる。
「今日は新鮮な猪肉が手に入りましたから、軽く炙ったものをご用意しました。お口に合えばよろしいのですが……」
女の言葉を聞き、あの小屋の中の匂いを思い出した。胸の中に嫌な記憶が渦巻いたが、女に知られないように、笑顔を張り付かせている。
「お客さん、あの山から下りて来られたんですか?」
「ええ、あちら側の山道から登ったのですが、道に迷ってしまいまして、こちらに出てしまったんですよ。ここに宿泊させて頂けて、本当に安心しました」
そう言って笑えば、女は複雑そうな表情をした。
「あの……何か変わった事はありませんでしたか? ……いえね、山開き前にね、山の安全を願うお祭りがあるんですよ。それが明日から3日間なんですよね。その前に山に登る人はいないんです。登れば災いが降りかかるなんて……いえね、もちろん本当にそんなことがあるとは思っていませんけどね、私は別の土地から嫁いで来たので、あまりこちらの風習には詳しくないんですけど、でもね、この土地の者は信じているんですよ。神に願い、災いを避ける風習は根強いものだって、うちの主人も申していまして……」
ぽつりぽつりと、申し訳なさそうに話す女の顔には、始終苦いものが浮かんでいた。
「……災いですか。幸い、私には何も。運が良かったのかもしれませんね」
山で起こった出来事は、胸の中に収めた。あえて告げることで女を怯えさせてもいけないし、山で起こったことは、ごく普通のことで、ただ、恭一郎が必要以上に恐れてしまっただけだろう。
「そうですか? でしたら幸いでしたね。お帰りになる前に、山神様にご挨拶なさると良いかもしれませんね。この坂を登ったところに祠がありますから。きっと明日にはのぼりが立てられて、人通りも多くなると思いますよ」
「はい、ありがとうございます。そうさせて頂きます」
そう言って女を見ると、少しほっとしたような表情で頭を下げ、部屋を後にした。