別の顔
「ねえ、恭ちゃん、あの人といつ別れてくれるの? もうあの子、小学校に通っているんだよ? 約束した日から3年も経ってるってわかってる?」
香苗の用意してくれた、手の込んだ夕食を、ビールと共に楽しんだ後、テレビの前に座り、野球のナイター放送を見ている時だった。
香苗は、食後の片付けを終え、コーヒーを片手に、恭一郎の座っている場所の、背後にあるソファに座った。
「ああ、わかってるよ」
ほんのりと酔った状態で、香苗の言葉を聞き、何度も言わなくてもわかっていると、生返事をする。
「わかっているならさ、早くしてくれないと、悠馬が可哀そうでしょ? いつも父親がいないことをからかわれるって、悩んでいたんだから」
「……ああ」
「あ、悠ちゃん、お風呂ひとりで入れた?」
廊下からリビングに悠馬が入って来る。さっきまでの陰鬱な表情から、明るい笑顔になった香苗は、悠馬を受け入れるようにして、髪をタオルで拭いてやっている。
恭一郎は、悠馬に向かい、「えらいな」と声を掛け、得意げに笑う悠馬を見て同じように笑うと、興味をテレビへと移した。
「もう、ちゃんと可愛がってあげてよ。久しぶりに会ったんでしょ? 親子なんだからさぁ」
「……ああ、わかってるよ。おいで、悠馬」
テレビから顔を上げ、悠馬を見ると、悠馬は嬉しそうに近寄って来て、空けた胡坐の上に座って来た。洗い立てのシャンプーの香りが鼻をくすぐる。香苗と同じように、肩に掛けているタオルで髪を拭いてやりながら、ついでにくすぐってやると、嫌々をしながらも嬉しそうに笑っていた。
これが普通の家庭なんだろうなと思った恭一郎は、後ろのソファに座っている香苗に視線をやり、視線で香苗を呼んだ。
香苗も嬉しそうに立ち上がり、恭一郎の横に座り直すと、肩に寄り添って来た。
「本当にごめんな、あいつ、精神的におかしくなっているんだ」
「……その話は何度も聞いたよ?」
香苗は、そっと恭一郎の手を取ると、指を組む形でつないで来る。それを可愛いと思いながら、つないだ指先に力を込めた。
「香苗と悠馬と、ずっと一緒に暮らしたいと思っているよ」
首を傾げて、香苗の頭に頬を寄せ、小さくキスをしてやれば、香苗は小さな肩をすくめて微笑んでいる。
「前にさ、離婚届に判を押させたって言っただろ? 届出をしようと役所に行って、鞄を開けたら、離婚届がなくなっていたんだ。あいつに問い詰めたよ。俺の鞄から離婚届を抜き取ったのかってね。でもあいつ、知らないと言い張るし、そのうち離婚届を書いたことすら覚えてないって言い出す始末で、次の日になったら、離婚すること自体を忘れていたんだ。あいつ、精神的におかしいんだよ。ついに子どもが欲しいと言い出すし、どうしてそういう思考に繋がるのかって、こっちがおかしくなりそうだよ」
膝に悠馬を乗せているのに、つい愚痴が口をついた。
別れることを決意させ、離婚届けに判まで押させたのに、別れる事実さえ記憶にないように振る舞うあいつ、紗枝は、嘘をついているのか、本当におかしくなってしまったのか、恐ろしいほどに不自然だった。
「悠馬、そろそろ歯を磨いて寝なさい。明日はプールに行くんでしょ?」
「うん、わかった、おやすみなさい」
悠馬は、香苗の言葉を素直に聞き、恭一郎の膝から立ち上がり、廊下の方へ駆けて行った。
「ねえ、子どもの前で愚痴はやめて。ずっと一緒にいられないんだから、せめて良い父親だって示してあげてよ」
「……ああ、悪い。つい、な」
悠馬が行ってしまうと、香苗も腰をあげ、後ろのソファへと戻って行った。
「それに、そういう話は何度も聞いたし、あの人が精神的におかしいって話も何度も聞いたけど、あたしには、恭ちゃんが誤魔化しているようにしか聞こえないよ? いつまでも待っていられると思わないでね? そのうち見捨てちゃうんだから、覚悟して?」
香苗は頬にえくぼを作り、可愛く笑いながら、恭一郎を脅迫するような言葉を告げた。
「ああ、わかっているよ。あいつが子どもをと言いだしたからな、決着を付けなければと思っている。もう少し待ってくれよ、来週、山に登る予定なんだ。ついでにあいつの母親に会って話をして来るよ。あいつとは、第三者を交えないと話が進まないからな」
「……第三者って、母親? それってあの人の味方になるだけじゃないの?」
「いや、あいつは母親には逆らえない。俺との結婚だって母親の言いなりになっていたんだ。俺の金目当てでね」
恭一郎は、話しながら立ち上がると、キッチンの冷蔵庫へ行き、中からビールの缶を取り出し、プルタブを開けて一気に飲む。
「なに? 恭ちゃん、あの人が若いからって、それだけで結婚したの?」
香苗は、コーヒーを飲みながら、呆れた顔で恭一郎を見る。
恭一郎は、飲み干したビールの缶を手の中で潰しながら、苦い顔で笑った。
「まあな、10も年下の子と結婚って、それだけで男連中の間では英雄扱いなんだ。そういうのに惑わされたところはある。結婚は慎重にしなくてはダメだと学んだよ」
香苗はくすくすと笑った。
「男って若い子が好きだよね」
「香苗だって若いだろ」
香苗の傍に行き、ソファの隣に座って肩を抱くと、香苗はこてんと身を寄せて来た。
「早く一緒になりたいよ」
そう言うと、香苗は恭一郎の胸に、頬を摺り寄せて来る。
静かな時間を過ごしたいと、恭一郎は願い続けている。何も特殊なことを願っている訳ではない。静かで幸せな家庭を持ちたいと、ただそれだけを願っていた。