遭難2
少年は自分のことをイチだと名乗ると、興味深げに恭一郎を見る。
「おじさんは、どうしてあんなところに一人でいたの? 本当に迷子なの?」
イチが入れてくれたお茶を飲みながら、体の中が温まって行くのを感じ、今までの凝り固まった気分が少しだけほぐれている。
「……今は一人だが、妻と共に来たんだ。妻とは途中で喧嘩になってね、怒りに任せて山深くへ入って行く妻の後を追いかけて来たつもりだったのだが……、妻を見失うばかりか、穴に落ち身動きが取れなくなってしまった……」
「へえ? そっかぁ」
イチは、恭一郎が話す姿をじっと興味深げに見ていたが、話が進むにつれ、頬を引き上げ、仕舞には申し訳ない気持ちもあるのか、手首で口元を押さえながら、くぐもった笑い声を上げている。
恭一郎は、子どものことだからと、イチから視線を逸らし、眉間に寄った皺を何とかしようと努めた。
「……笑うことかな?」
あまりに笑い声が続くので、どこがおかしかったのかと、感情を抑えようとした努力も無駄になって来る。
「あ、ごめんなさい。……でもね、あの穴、動物が掘った穴なんだよ」
「動物があんなに大きな穴を?」
「うん、そう。山道になっている場所から少しでも離れるとね、地面がとっても緩いんだって。だからこの辺りは崖崩れも多いし、遭難する人も多いんだって。おじさんも、ぼくに会わなければ危なかったかもね。だって雨がたくさん降った後が危ないんだよ。あ、でもここは大丈夫。周りよりも少し高くなっているし、この上の森の地面は根が張って強いんだって。だからたくさん雨が降った時は、ちゃんと家にいなさいって、おじいちゃんが言ってた」
「……そうか。そうすると、雨が止んでも、しばらくは危険なのだろうか……」
雨の音が強く響いて来ている。
火に当たっている体の前面は温かいが、背後がひんやりと冷え、夏であるのに夏とは思えない寒さが身を凍えさせた。
「大丈夫だよ。ずっと雨、降らなかったからね、これくらいの雨なら平気。……でも、心配だね」
明るく笑いながら話していたイチの表情が陰る。俯いた顔に当たる火の明かりが、輪郭の明暗を際立たせていた。
「どうした?」
そう問うと、イチは恭一郎へと視線を上げ、辛そうな笑みを見せた。
「うん、だってね、妻っていう人は、ちゃんと山を下りられたかな? おじさん、妻って人を追って来たんでしょ? おじさんみたいに、こっちの山に迷い込んでいなければ良いけど……」
恭一郎は、イチの視線を振り払うように俯き、火を見つめながら重い息を吐き出した。
「あのね、こっちの山は、たくさん猟をしているから、流れ弾に当たらないようにって、山の入口に危険ですよって書いてあるんだよ。おじさんはどこへ行きたかったの? 山に登って来る人は、向こうの山にある滝とか、泉を見に来るんでしょ? 向こうの山からこっちの山へ入るには、道から外れて、森の中を歩かなきゃダメなんだよ?」
「……よく、わからないな……」
恭一郎は、山に入り、妻と喧嘩をした地点から、どうやってここまでたどり着いたのかを思い出してみるが、途中から意識が途切れたように、記憶をたどることができなくなっていた。
「良くわからないが、途中で先に行ってしまった妻が、思い直して待っていてくれるのだと思っていたんだ。……途中で出会えるものだと思っていてね、それなのに、あの穴だ。身動きが取れなくなってしまって、自暴自棄になって、もうどうでも良くなってしまった。……しかしね、妻は危険な場所に自分から行くよう性格ではないから、きっと今頃、麓の警察にでも駆け込んで、私の心配をしてくれていると思うよ」
それとも、と思う。
この山に登ったのは、子宝を授けてくれるという泉へ向かう為だった。
この麓に妻の祖母が住んでいたと聞いた事があり、妻も幼い頃に母親と訪れた事があると聞いていた。初めて山に登った恭一郎よりも、妻の方が山に詳しいのではないかと思えば、すでに泉にも行った事があり、恭一郎のようにルートを外れ、迷う事などないのではないだろうか。
「……どこへ行くつもりだったの?」
イチが静かな声で聞いて来た。
「子宝を授けてくれるという泉だよ。長いこと子どもに恵まれていなくてね、私ももう40になる」
子どもを願うのなら、もう遅いくらいだと思っている。
「おじさん、40歳なの? ふうん、若く見えるね」
しげしげと恭一郎を見たイチは、明らかにお世辞だとわかる笑みを見せた。
「そういう君は幾つなんだい?」
それはずっと思っていた事だった。
見た目は10歳くらいだ。しかし、話す内容は、子ども染みた部分もあるが、説明に至ってははっきりと明確に伝えて来る。それを思えば、もう少し上なのかと思えた。
「15歳だよ」
「え? 15?」
「うん、そう」
今度は恥ずかしそうに笑う。
「15というと中学生か?」
幼く笑うイチを驚きの表情で見つめながら、心の中では、それくらいでなければ、こんな受け答えはできないだろうと思っていた。しかし、見た目が裏切っている。
「中学生? 知らないよ。だってぼく、学校に行ってないし、ずっとここにいるから」
「……ずっとこの山に? 夏休みの間だけではなく?」
「うん、そう」
笑って頷いたイチは、次に沈んだ顔を見せた。
「……だって、ほかに行く所がないもん」
ぼそぼそと呟き、イチはそれから顔を上げなくなっていた。
恭一郎は、意識を外へと向け、雨がまだ降り続けている事に苛立ちを覚えた。
イチとは、ここを離れ、麓に戻れば、もう二度と会う事はないだろう。イチがこの山に引きこもっている理由をあえて聞く必要もないと、恭一郎もまた、口を閉ざしていた。
「泉には行かない方が良いよ」
雨の音だけが響く空間に、イチの暗い声が落ちる。
俯いているイチの表情は、暗く硬い。
聞き間違いかと思うほどの小さな声を聞き、本当に聞こえたのかと疑いながら、恭一郎はイチをじっと見つめた。
「行かない方が良いよ。妻って人も、辿りついていないと良いね」
イチは恭一郎の視線を捉え、頬を引き上げて笑った。
「どうして? この山の観光名所なんだろ?」
イチの真意を量るために、イチの視線を捉え続けたが、イチはそれ以上、言う気はないのか、また俯いて炎を見つめた。
「……あまり、心配になるような事を言わないでくれないか」
あきらめて俯いた恭一郎に、イチの小さな笑い声が届く。鼻に掛けたような、馬鹿にしたような笑い方に、聞き間違いではないかと思い、イチを見れば、イチは炎を見つめたまま、暗い笑みを浮かべていた。
「……本当に心配? 本当かなぁ」
今までとは違う、暗い、沈んだ声が、イチの口から漏れ聞こえて来た。
「何を言っているんだ」
背筋を通る冷たいものを無視するように、声を荒げていた。
雨の音がピタリと止む。
次いで聞こえて来たのは、フクロウだろうか、鳥の微かな鳴き声と虫の音、ガタガタと小屋を揺らす風の音。
火が消える。
小屋の中を照らしていた明かりが一瞬で消え、部屋の回りにぼんやりとした緑の小さな光の玉が無数に浮かんで行く。
どこに逃げれば良いのか。良くわからないまま立ち上がった恭一郎は、振り向かないイチを見つめながら、数歩後ろに下がり、脱いだ靴をかろうじて持ち、小屋の戸を開け、外に飛び出していた。
「おじさん、雨が止んでも、月も出ていない暗い夜に、外を歩くと危ないよ?」
ぬかるんだ道に足を取られ、躓いて地面に転がっていた。
開け放った戸口に立ったイチは、きっと変わりのない、普段のイチだったのだろう。しかし、恐怖に身を包んだ恭一郎には、イチが化け物のように映っていた。
転がるように地面を蹴りならが、視界のままならない道を駆け下りて行く。
靴下のまま、泥だらけになりながら、ひたすら麓をめざして行く。
恐怖だけがしぶとく喉の奥に張り付いていた。