遭難
見上げて来る視線の純粋さに、その肌の無垢さに、存在自体が幻ではないかと思った。
「大丈夫ですか? もうすぐ雨が降って来ますよ? もしかして迷子ですか?」
少年は、木の幹にもたれて座る、西崎恭一郎の前にしゃがんで、不思議そうに瞳を揺らした。
「いや、ただ少し疲れただけだ」
少年相手に態度を取り繕うのも不自然だと思いながら、恭一郎は浮いて来る額の汗を袖でぬぐった。
「疲れたの? じゃあ、ぼくの家に来る?」
小首を傾げた素直な笑み。何も考えていないだろう迂闊さが見える。
「ぼくの家はあっちです。行きましょう」
少年は笑顔で恭一郎を見やり、立ちあがるまでの時間を待っている。その姿も従順に見え、恭一郎の中にある暗いものを呼び起こす。
疲れ切った体を億劫に動かしながら立ち上がり、自分のはまり込んでいた穴を振り返った。
ちょうど大人ひとりが頭まですっぽりと埋まってしまうほどの穴が、恭一郎の休んでいた木の根の脇に空いている。
あの穴に落ちたのは、今から3時間も前になるだろうか。
穴に落ちた時は、穴に落ちた衝撃と、どうしてこんな状態になっているのかという軽い動揺とが怒りに代わり、訳もなくわめきちらし、土壁を殴りつけていたのだが、結局、殴った土壁から土が剥がれ、身の上に積もって行くばかりか、穴が塞がってしまう危機に面するだけだった。
わめいても人の来ない山道から外れた深い木々の中。うっかり生き埋めになりそうな状態から抜け出すのにも、余計な体力と時間を要してしまった。
恭一郎は空を見上げた。
葉屋根の隙間から見える暗雲に稲光が走る。
少年の言うように、雨が降る前兆なのかと、もうかなり先に進んでいる少年の姿を視線で追った。
背負っていたザックは薄汚れ、土が乾いてこびり付いてしまっている。それを持ち上げ、すでに重い気分が圧し掛かっている背中に負った。
登山用の靴にも土がこびりついており、敗れたズボンの中には、分厚いソックスの柄が覗いていた。足を踏み出し、腕を見れば、やはり袖も所々が破れ、中の衣服が覗いている。一応は防水加工のされた上着とズボンであるが、この状態では雨が来たらひとたまりもなく濡れそぼる。そればかりか、山の変わりやすい天気のせいか、高度が高いせいなのか、辺りの空気に冷気が混じり始めていた。
「おじさーん、早くー」
雨になる前に帰りたいのだろう、先に進んでいた少年が立ち止まって焦ったように、手を振っている。
どうにもならない現実が背後から迫っている。
追いつかれようが構わないのだが、それよりもまず避難場所の確保かと、呼ばれた方へ手を振り返し、重い足取りに叱咤を加えた。
「ほら、早く、降って来た!」
少年は恭一郎を振り返りながら、ゆったりとした斜面の上に見えて来た民家へと走って行く。
恭一郎は、少年の焦る姿を見上げながらも、ゆっくりと土を踏みしめながら斜面を上って行った。
視線の先には、民家というよりも、避難小屋と言った方がいいような簡易な建物が2棟、並んでいる。双方とも朽ちかけた板を並べて組み上げた造りの建物で、屋根にはトタンが張ってあり、その上に干し草のようなものが覆っていた。
玄関のドアは擦りガラスの入った木製のもので、壁と同様、砂が固まってこびりついてしまっていて、何の手入れもされていないことがわかる。
少年は、体重を掛けながら横開きのドアを開け、一歩中へ入った所で恭一郎を待っている。
恭一郎は、少年を待たせていてもゆっくりと歩みを踏みしめながら歩き、少年が開けていてくれるドアの10センチほど高いドアレールをまたいで入った。
思わず手で鼻を覆った。
「なんだ、この匂いは」
鼻を突く異臭の中に、血生臭い匂いが混じっている。
「あ、ごめん、慣れていないとキツイよね」
恭一郎が顔を顰めている姿を見上げた少年は、ドアを閉めながら可愛く笑い、部屋の中へ入って行った。
恭一郎は、少年が閉めたドアを後ろ手で開け、少しでも悪臭から逃れようとした。恭一郎の背中の向こうでは、雨が激しく降る音が聞こえている。トタンの上の草を伝って地面に落ち、びちゃびちゃと滴を跳ね上げ、部屋の一歩内側にいる恭一郎のふくらはぎを濡らした。
ドアを閉めると悪臭にやられ、開けると雨にやられる。恭一郎はどうしようもない重い気分を抱えながら、少年の行動を見守っていた。
少年が向かったのは部屋の片隅で、そこには、両手で包める大きさの、丸い形をした香炉がある。その中に入っているものにマッチで火をつけた少年は、部屋の中央にある囲炉裏の傍へ持って行き、そのまま囲炉裏端にある籐で編んだ円座に座った。円座の数はふたつ。少年が座ったものと、もうひとつ。それを見た恭一郎は、少年の他に住んでいる者がいることを知る。
「これね、この山で採れるユリモドキ草の根を干して煎じたものなんだよ。ぼくはもう匂いに慣れているから大丈夫なんだけどね。お客さんが来る日は先に焚いておくんだよ。ねえ、そろそろマシになって来た?」
少年は香炉の中身を説明しながら、ほんわりと立ち上った煙を部屋に行き渡らせようと手で仰いでいる。
香炉から立ち上る煙の香りは、イ草の香りに甘さを足したようなものだった。初めは煙の粉臭さと血生臭い匂いが合わさり、何とも言えない嫌なものに思えていたが、数分が経つ頃には血生臭さが消え、甘い香りと少々の粉臭さだけが残っていた。
「マシになって来たでしょ? ドアを閉めて上がって来てよ。この雨じゃ、止むまで下山できないし、下山しているじいちゃんも、今日は戻って来れなさそう。だからね、ゆっくりして行ってくれて良いよ」
少年の前には囲炉裏がある。壁と同じような黒い板を張り巡らせた床と、床を四角く切り取ったような囲炉裏。梁がむき出しになっている天井からつり降ろされた鉄棒が囲炉裏へと下りていて、そこに引っ掛けるようにしてヤカンが吊り下げられていた。
炭になった木がヤカンの下にある。方々から重ね、積み上げられた木の下に、火種が残してあったのだろう、少年が棒で木を突くと、炭が赤く彩られて行き、それがゆっくりと炎になった。
恭一郎は、靴を脱いで上がる気分にはなれず、土間と床とを分ける上がり框に腰を下ろし、少年を斜に見やった。
「ここはどういう場所なんだ? それにさっきの匂いはなんだ」
鼻の奥にはまだ生臭い匂いがこびりついており、思い出せば胸の中が嫌なもので満ちる。
少年は恭一郎を見ると小さく笑い、少年の後ろにある隣の部屋とを繋ぐ戸へと視線を移し、恭一郎の視線を誘導した。
「じいちゃんがね、猟師会のリーダーでね、夜中に狩った動物を向こうの部屋でお肉にするの。お肉にして山の麓のお店に持って行くんだよ。今日はイノシシとウサギだったかな、まだ頭と毛皮が残っていると思うよ。見てみる?」
少年は屈託のない笑顔を見せる。これが彼の日常であることはわかるのだが、まだ10歳くらいだろうか、幼い子には酷に思えることを、何でもないように告げる姿に、背中にゾクリと冷気が上る。いや、実際に冷えて来ているからかもしれない。穴に落ち、木の根元に座り込み、その間に水分が衣服に染み込み、それが皮膚まで浸透している。
「おじさん、寒いの? 火の傍においでよ。服が濡れてるの? じいちゃんの服を貸そうか?」
「……いや、いい。大丈夫だ」
隣に狩った獣の残骸が残されている。生きた獣が人に捌かれる様を想像し、よりいっそう凍えて震えた。
「そう? でもきっと明日の朝まで下りられないと思うよ? せめて火の傍にいてよ。本当は服を着替えた方が良いって思うんだけど」
少年は立ち上がり、恭一郎の方へ歩み寄り、恭一郎の腕を引いて誘った。
「……そうだな」
雨足が強くなっている。木々が揺れ、木の葉がざわざわと音を立て、何かが軋む音と、吹き抜ける風の音が聞こえている。
これは観念するしかないなと、恭一郎は諦め、靴の紐をほどきに掛かった。