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巣喰い  作者: サクラギ
2/10

願い

 あれから10年が経った。

 体の中から消えてしまった子供の行方はわからない。医師の判断は、自然流産だということだ。でも、紗枝にその自覚はない。流産した後に来るはずの兆しも何もなかったのだ。医師はこれ以上考えたくないようで、「深く考えても仕方のないこと……」と、取り合ってもくれない。確かに……生まれるはずの子供が体内から消えた。それが事実で……。


 恭一郎もまた、紗枝が嘘をついているのか、妊娠自体が嘘であったのではないかと疑ったようで、紗枝とは違う機会を設け、個人的に医師と連絡を取っていたようだった。

 結果、子供は生まれること無く消え去り、紗枝と恭一郎の間に蟠りを残したまま、時ばかりが過ぎて行った。


 でも名残はある。

 子供が消えるような不可思議な現象に見舞われたため、紗枝はそういう行為が怖くなり、ふたりきりになるのを嫌がった。そんな紗枝を口説いてまで行為に及ぶことを恭一郎は面倒に思ったのかもしれない。寝室を二部屋に分け、すれ違うばかりの生活をしていた。

 なにより、まだ若かった紗枝には友達も多く、独身の友達と遊び歩く毎日。それでも恭一郎は小言ひとつ言うこともなく、全てを受け入れている。そんな寛容な態度を見せていた。

 ……それがいけなかったのだろう。


 夫婦生活10年目にして気づく、恭一郎との間にない絆。

 友達も徐々に結婚し、地元から離れて行く子も増えていた。子どもを授かり、忙しくなって会えなくなった子もいる。そして長年ハウスキーパーをしてくれていた紀和きわが辞めてしまったことで、紗枝はさらに重い一人きりという不安と寂しさを味わった。


 もう恭一郎は40歳になる。紗枝も29歳となり、子どもが欲しいのなら、そろそろ決めなければならない時期なのではないかということも頭の隅に引っ掛かり続けていた。


 子どもを願うのなら、恭一郎と話さなくてはならない。

 そう思い、久しぶりに向き合った恭一郎は、前髪に白いものが混ざり、皺も増え、肌のキメも荒くなっていて、紗枝の中にあった恭一郎の像が崩れてしまったことを知った。

 そうして思う。きっと恭一郎も紗枝のことを同じように思っているのだろうと。

 それなのに、こんな理不尽なお願いをしても良いのだろうかと迷う。どんな理由があるにしろ、拒み続けて来たのは紗枝の方だ。

 それでも……と思う。

 この機会を逃してしまったら、口に出すことさえできなくなりそうだった。

「お願いがあるの……」

 それはとても恥ずかしいことにも直結する。それでも神聖なことなのだからと覚悟を決めた。

「お願い、もう二度とあんなことは起こらないと思うの。だからもう一度……お願い」

 仕事から帰って来たばかりで、ネクタイを外している恭一郎の前に立ち、恭一郎の袖を指先でつまみながら、懇願する気持ちで恭一郎を見上げた。

「……紗枝」

 吐息のように名前を呼ばれた。

 期待をしながら見上げれば、手を避けるように、恭一郎は背を向けた。それは外したネクタイを置く為だったかもしれない。けれど紗枝には拒まれたように思え、心の中がズキリと痛んだ。

「……ごめんなさい、こんなこと……」

 居た堪れない気持ちで恭一郎の前から逃げ、キッチンのシンクの前に立った。泣いたら良いのか、わめいたら良いのか……自分の感情も良くわからないまま、ただ小刻みに震えている体だけは感じていた。

「風呂に入る」

 廊下のドアから紗枝を見て、声を掛けて来た恭一郎の声に変わりはない。

 恭一郎にとって紗枝は、家の中にいるだけの同居人に等しいのかもしれない。

 もしかして浮気……そう考えることも多々あったけど、そういう場面に出くわしたこともなければ、噂話ひとつ聞いたこともない。

 うまくだまされているのかと思うこともあった。

 でも紗枝が拒んだ結果なのだ。紗枝の方から裏切りを探そうとは思わなかった。

 どうしようもない不安が足元から這い上がって来る。

 このまま別れてしまうのかと、唇を噛んで涙をこらえていると、恭一郎がまだ廊下にいる気配を感じた。

 思わず恭一郎の方へ振り返る。

「……ごめんなさい、何でもないのよ? お風呂に入ってゆっくり休んで」

 堪えた涙を啜りながら、笑って見せた。

「……山に登ってみるか」

 それは恭一郎のほんの思いつきのような言葉だった。

「山?」

 紗枝はキョトンとして恭一郎を見る。

「ああ、そうだ、確か紗枝のお母さんの実家の近くに、子宝を願う泉があると言っていただろう。どうだ? 行ってみるか?」

 紗枝は驚いて言葉を失い、それから頷きながら泣き笑いをした。

「ええ、行きたい、行きたいです。良く覚えていたわね、嬉しい」

 近寄って来た恭一郎は、紗枝の髪をグリグリッと撫で、そのまま背を向けてバスルームへと向かって行った。

 久しぶりに撫でられた感触はすでに懐かしいほど遠い思い出の中にしかない。

 ほんの少しだけ昔に戻れたようで、こみあげて来る嬉しさが、涙に変わって頬を伝った。

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