大陸史1
それは、北西の小国と。
海の底に潜む国の――記憶。
■ヴィリヴァルディット歴 508年■
国最西端に位置する灯台からは、ラウラ海が一望できる。
その、切り立った崖の上。
「夜の海って、なんだか怖ろしい……。
でも、これしかないものね」
夜風に長い髪を遊ばせながら、高貴なドレスの上からそれを隠すように大きな布を羽織った女性が囁いた。
「私は、今まで沢山のものを怖れてきた。
それでも……不思議だね。
貴女と一緒なら、怖くはないよ」
女性がその身を預けている、彼女と同様に高貴な身なりを布で隠した男性が囁いた。
彼は海を指差し応え、もう一方の腕で彼女を抱き寄せる。
二人の間に暖かな空気が満ちようとしたその時である。
「人とは、愚かだね」
静かな声音が、風に乗って届けられた。
二人が振り返ると、背後にはひとりの青年が立っていた。
闇の中でもその漆黒が見分けられるかのような、青に近い黒髪の青年の肌は白い。
深くフードを被っている為、その表情をうかがい知ることは出来ないが、海の底の色を讃えた瞳だけは悲しげに揺れていた。
「貴方は……?
追っ手のようには見えないけれど」
女性が問うと、青年は首肯し再び口を開いた。
「僕は追っ手ではないよ。
カルベリア帝国皇太子、並びにファンシラー王国第一王女。
君達を追って来た人達は、僕が眠らせておいた」
「眠らせて……?
貴方はいったい……」
女性の問いに、青年は緩やかに笑みを浮かべた。
「知らなくて良いことまで知りたがるのは人の子の悪い癖だね。
君達は僕の何を知ろうと、理解は出来ないだろうに……。
それに、君達はここでその命を断つ気でいる……違う?」
「何故、それを?」
「そんな事はどうでもいいことさ。
今、君達に大事なのは……今、ここで死んだところで、再生の女神が滅んだこの世で、君達が再び出会うことはないってことだよ」
青年と真っ直ぐ向き合っていた男性はきつく眉を寄せていたが、ふっと諦めたかのように小さく息をもらすと女性を強く抱き寄せる。
「それでも、この世で結ばれぬなら……」
「死んで結ばれたいって?
人の子の考えることは、やっぱり僕にはよくわからないなぁ。
でも……君達の、命を懸けた結び付きの先に何があるのか、僕も見てみたくなったよ。
だから、手を貸してあげよう」
青年は瞳に優しさを宿すと、細く白い腕を二人に向かってゆっくりと差し出した。
「君達の国は、互いが天に定められたかのような宿敵……。
しかしそれは、人の子の愚かさと愛おしさであり、天意ではないよ。
忘れないで……幸せになってはならないと、天に定められた人の子など、この世にはいないんだ」
そうして、決して結ばれるはずのない家に生まれたカルベリア帝国皇太子とファンシラー王国第一王女は、夜のラウラ海にその姿を消したのだった。