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海岸のある風景 星と月の物語

作者: 佐藤教科

 その日、水に濡れた烏の羽のような夜空から、星と月とが浜辺に落ちてきた。

 海岸近くの岬では、高さ二十メートルほどの茶色と白のストライプの灯台が窓から光線を放射している。灯台の一番下は茶色で、次に白、また茶色、と続き、そして最後は白で終わっている。灯台から放出された光線は一定の間隔で左右に往復し、真っ黒な海を照らす。灯台の光は小さな粒子ひとつひとつに照射され、光の帯を作っている。

 潮気を含んだ濃い霧にはばまれた夜空には、黒い霧の他になにも確認することができない。だから、空に無数に存在する星はともかく、月が欠けたからといって、気にかけたり騒いだりする者は誰もいない。それに、明日になれば新しい月が東の空から生まれるのだ。

 大海を往く船が、汽笛を短い間隔で鳴らして濃霧を警戒している。海の遠くで津波を防ぐためのテトラポットの塊が山を作っている。一面に広がる海から、白く波が打ち寄せている。打ち寄せた波は、浜辺に落ちた星と月とを飲み込む前に、海へと戻っていく。

 星と月は、兄弟だった。

「兄ちゃん」と、月が言う。「おいらたち、これからどうなるんだろう?」

「さあ、わからない」と、星が言う。

 浜辺に落ちた星は夜の闇の中でぼんやりと黄金色に発光しており、月はその輝きに呼応して、青白く光っていた。星のサイズは人間の大人の手のひら大といったところで、ヒトデのような五芒星の形をしている。弟の月は、それよりも一回り大きい。こちらはちょうど、三日月の形をしている。どちらも紙のように薄く、鉄より堅い。彼らの体は、地球には存在しない素材や機構で形成されているのだ。

「とりあえず」と星が言う。「大事なのは、僕たちがこれから何をすべきかということだと思う」

「でも兄ちゃん、おいらここじゃ思うように動けない。夜の空にいる時はふわふわ浮かんで楽だったけれど、今はまるで、体が石か鉛かになったみたいだ」

 人が陸でしか生きられないように、魚が水の中でしか生きられないように、夜空に浮かぶ月や星は、空でしか生きることができない。兄の星はそのことを知っていた。幼い月は、まだそれを知らない。しかし、いつ自分たちに死が訪れるのかということは、兄にもわからない。

「それでも、僕たちは自分たちが存在する意味を見つけなきゃならないんだ」と星は言った。

「存在する意味って?」と月が尋ねる。

 しばらく考えた後、兄の星が言った。「誰かに必要とされることじゃないかな」

「なるほど」

 波が引き、波の音が小さくなるにつれて、夜が明ける。海を正面にして、左手の方角から、新しく生まれた太陽が顔を見せる。灯台の光が消えて、あたりが明るく照らされるにつれて、徐々に海岸の風景も明らかになる。

 星と月の兄弟が落ちた砂浜には、朽ち果てた流木や、誰かが捨てたティッシュペーパーやポリエチレンの袋、花火のあとといったゴミが点々と散らばっている。夜の間に波が到達していた位置に、砂浜に流れ着いた海藻が帯を作っている。しかし、全体的に見れば、浜辺は手入れされており、比較的清潔な状態と言える。

「兄ちゃん、あれ」

 浜辺の月が周囲を見渡して、兄を呼んだ。

「鳥居だ」

 木でできた鳥居が、星と月の落ちた場所から少し離れたところに倒れていた。裸の木を組んで作られており、色はなにも塗られていない。高さ、幅、ともに一メートル程度。小さな鳥居だ。長い間潮風に当てられていたせいで風化し、ところどころひび割れて、白く変色している。きっと海の向こうから流れてきたんだ、と星と月の兄弟は思った。

 しばらくすると、遠くから子どもの声が聞こえてきた。

 砂浜の、海と反対側の方向には、コンクリートでできた大きな階段が並んでおり、その割れ目や継ぎ目からはタンポポやその他の雑草が顔を覗かせている。その向こうには、見渡す限りの白い綿毛をつけたタンポポ畑が広がっている。そちらの方から、少年と少女が叫び声を上げながら海岸向かって走ってきた。少年も少女もどちらも同じくらいの年齢だが、少女の方が少しだけ背が高い。少年はTシャツにジーンズの坊主頭で、手に持った細い木の枝をふりまわしている。少女は肩よりも少し長いストレートの髪を風になびかせて、品のいい白いワンピースを着て、土や砂で汚れたスニーカーを履いている。タンポポ畑を通り越すと、ふたりはコンクリートでできた大きな階段を降りて、砂浜へと向かった。そして、星と月の兄弟のいる場所とは少し離れたところで駆け回ったり、海に入ったりして遊び始めた。

 少し経って、少女は浜辺に倒れている鳥居に目をつけた。少女は少年に鳥居を背負ってくれと頼んだが、少年は拒んだ。大きさはそれほどでもないし、風化してボロボロに崩れている分だけ軽くなっているので、少年が背負えないほどではない。しかし、この鳥居は長い間湿った砂浜に倒れているせいで、地面と接する部分など特に汚れている。そうした理由から、少年は少女の望みを拒んだのだ。衣服を汚して帰ると家の人に叱られてしまうことを、少年は知っている。

 だが、何度か少女がお願いすると、少年はしぶしぶ鳥居を担ぐことを了承した。少女は喜んで、砂浜に落ちている木の枝を拾い、鞭に見立てて少年の背中を打った。少年は最初不機嫌だったが、時間の経過とともに、口元に笑みがこぼれるようになっていった。

「疲れた。休ませてくれ」担いでいた鳥居を背中から下ろして、今にも泣き出してしまいそうな情けない表情で少年は言った。

「駄目だ。歩け」少女は再び、鞭に見立てた木の枝で、砂だらけの少年の背中を打つ。

 少年は力なく、しかし鋭い目つきで下から少女をにらみつけ、再び鳥居を担ぐ。少年は少女の命令によって、よろよろと再び歩みを進める。少女はそれを見て、幼い虚栄心が満たされたようににやりと笑う。こういった遊びなのだ。

「よし、そこで止まれ」しばらく少年を歩かせたあとで、少女が言う。

 そして少女は鳥居を担いでいる少年の前にまわって、ワンピースのポケットからおもちゃの黒いサブマシンガンを取り出し、その銃口を彼に向けた。彼女は無表情でおもちゃのサブマシンガンのトリガーを引いた。何らかの動力が作動し、サブマシンガンからカラカラと音がした。少年は架空の弾丸により、右肺から腹にかけて架空の裂傷を受ける。彼は大げさにリアクションを取り、担いでいた砂まみれの鳥居を放り投げ、ばったりと砂浜に倒れてそのまま動かなくなった。押し寄せてきた波が、少年の足の部分を濡らした。

 少女はサブマシンガンのおもちゃをその場に捨てて、近くに落ちていた星と月の兄弟へと興味を向けた。

 ところで人は少なからず誰でも魔術や奇術といったものに興味を引かれる時期があるものだが、これは少女も例外ではなかった。

 つい最近のことだった。両親との一家団欒の場で、ジャグリングの特集のテレビ番組を少女は見た。それからというもの、ジャグリングのことが少女の頭から離れなくなった。今の少女は、ジャグリングにしか興味がない。サブマシンガンを撃ちたかったわけではないのだ。

 少女は意気揚々としながら砂浜に突き刺さっていた星と月の兄弟を手に取り、簡単なジャグリングをはじめた。星と月の兄弟は、少女の左手から右手へ渡り、そして右手から空中へと舞い上げられ、そうしてまた左手へと戻る。少女はお手玉の要領で、それを何度も器用に繰り返した。星と月が舞うのにあわせて、少女の首も移動する。見る者に心から楽しんでいることを想像させる、にこやかな表情をしている。

 少女の興奮が高まるにつれて、月と星とを操る速度はどんどん増していく。少女はいつからか、自分の限界に挑戦するようになっていた。星と月の動きは、どんどんどんどん加速する。五分ほど経って、彼女の手に負えない速度に達したとき、少女の小さな右手が跳ね上げた月は、鋭いナイフのような銀のきらめきとなって、彼女の左手の小指の下の部分を深く傷つけた。

 少女はなにが最初なにが起こったのかわからなかった。少し間を置いて、傷つけられた左手からは血液がしたたりはじめた時、自分の置かれている立場をようやく理解した。小さな手のひらから落ちた血液は、地面の砂を黒く汚している。少女はしばらく呆然としながら自分の傷口を見つめていた。彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれた。

「どうしてこんなに悲しいんだろう」と少女はつぶやいた。「毎日、お母さんの言うことを聞いてるのに。寝る前に、歯磨きだってしてるのに」

 少女はまだ右手に持っていた星を、受け取り損ねて地面の砂に落ちた月にぶつけた。星の突き出た一角が、少しだけ欠けた。

 少女は傷つけられた手を抑えながら、その場を後にした。彼女が歩んだ後には、点々と血の染みが残った。倒れていた少年は上半身の力だけでむくりと起きて、砂に手をついて立ち上がり、その傍らに捨ててあったサブマシンガンを拾って少女の背中に向かって駆けた。

 子どもたちが去ったあとの海には、波の音以外には、音らしき音が存在しなくなった。そのせいで、星と月の兄弟は、打ち寄せる波の音が強調されているような錯覚を覚えた。

「ひどい目にあった」星は、自らの欠けた一角を気にして言った。

「大丈夫?」と月は兄を心配する。

「大丈夫。それにしても、少女にとって僕たちは必要なかったみたいだ」

 星は、残念そうにそう言った。


 少女の残した血液の染みが時の流れによって風化するかしないかという頃、黄色い車体のハマーが低いエンジン音を響かせてやってきた。ハマーはタンポポ畑を突っ切り、白い綿毛をそこら中に撒き散らしている。それが海の近くで停車したかと思うと、中から背が高くてスラリとした若者が登場した。

 若者は、ドルチェ&ガッバーナの光沢のあるスーツを上品に着くずしている。彼の肩ほどまである金髪は、専門的な技術を持つ専属の美容師によって整えられたものだ。

 彼は一見しっかりとした身なりをしている。しかし、顔色に優れず、表情も暗い。もし仮に彼が健康診断を受けて、医師からなにも異常がないとの判断を下されれば、きっと誰もが驚くに違いない。彼は非常に疲れていた。

 若者は足取りのおぼつかない様子でコンクリートの階段を降りて、そのまま砂浜へと向かう。そして、うつろな目をしながら、うっとうしそうに前髪をかきあげて海岸沿いを歩く。少し歩くと、彼は浜辺の砂に埋まっている月と星の兄弟を見つけた。なんとなく、彼は星と月の兄弟を手に取ってみた。星と月は、砂で汚れている。彼は手で砂を払って、それを持ってコンクリートの階段の一番下の段に腰掛けた。少しして、彼は言いようのないめまいと吐き気を覚えた。慌てて立ち上がり、そのまま吐瀉物を砂浜に撒き散らす。彼は星と月の兄弟を拾い上げ、それを見て、自分が子どもの頃、夜空に浮かぶ星を見るのが好きだったことを思い出したのだ。彼は子どものように声をあげて泣いた。


 ここで少し彼の話をしなければならない。

 彼は田舎町の一般的な家庭に生まれた。彼の父親は板金工をしており、若い頃はかなり稼いだ。その稼ぎで、小さいながらも一軒家を建てることができた。近年は不況の影響もあり、稼ぎも落ちたが、だからといって暮らしに困るほどではない。父親は、たびたび遠くに出張に出かけることがあり、そのたびに数ヶ月間自宅を留守にした。母親は彼が小さな頃から近所のスーパーでパートをしながら家計を支えた。最初は一日数時間の労働をするのみだったが、父親の稼ぎが少なくなるにつれて、母親の勤務時間も増えていった。夫婦ともに仕事に出る家庭は珍しいものではない。ただ、だからといって、彼が寂しさを感じていないということにはならなかった。特に、家族で食事をともにすることができない夜には寂しさを感じた。彼は長男だった。弟や妹は、自分が守らなければならない。自分は年長者なのだから、少しくらいの寂しさは我慢しなければならない。そう信じていた。

 そうして自然に磨かれていったのが、他人の同情を引くための才能だった。両親からの愛情に飢えながら、それでも乾き、ひび割れた心を健全に保つために、仕方なく身についた能力だった。

 物心ついた頃には、彼はすでにどうすれば他人が自分の思いどおりに動いてくれるのかを熟知していた。この能力のおかげで、中学校時代は多くの友人に恵まれることができたし、教師から可愛がられることもできた。

 彼は学校の勉強があまり得意ではなかったし、第一、好きではなかった。それでもかろうじて地元の高校に入学することができた。しかし、高校時代の彼は何の夢もなく、目標もなく、ただ毎日を遊んで過ごすのみだった。最初は学校を無断で欠席することにためらいを感じたが、少しも経たないうちに、それも気にならなくなった。そのうち彼が勝手に学校を休んでも、学校から両親に連絡が通達されることもなくなった。

 十八歳の時、彼は高校を退学した。二度目の留年が決定したためだった。学校に両親が呼ばれた時、彼は胸を張って、余裕の気持ちで構えていた。どうとでもなると思っていた。

 彼は、学校を辞めてからも遊んで暮らした。遊ぶ金がなくなれば、日雇いのアルバイトで金を稼いだ。このような生活を続けることに不安を感じないでもなかったが、彼には若さがあった。他になにもなくてもそれさえあればどうとでもなると思っていたし、実際にそうだった。高校へ通っている時は到底得ることのできない金を、彼は得た。彼は同年代の人間の誰よりも一足先に大人になった気がして、自分を誇らしく感じてすらいた。

 ある日、彼はひとりの男性に声をかけられた。暇を持て余しており、繁華街を歩いている女性を引っ掛けようと画策している時だった。いつもなら一時間もかからずに女を得ることができるのだが、その日に限っては、何度試しても失敗が続いた。今日は日が悪いと諦めかけた時、彼の肩を叩いたのは、派手で、華やかな、彼がもっとも嫌う種類の男性だった。

「うちで働いてみないか」

 話を聞くと、男性は夜の店で働いているということがわかった。年齢は三十歳。どんな仕事を紹介してくれるのかと尋ねると、女と話をして酒を飲む仕事だ、と男性は説明した。

 次に若者は、どうして自分に声をかけてきたのかと尋ねた。すると男性は、君が何度女性に冷たくあしらわれてもちっとも心が折れる様子を見せないから、と答えた。男性は、気づかれないように若者の様子をうかがっていたのだ。彼はその男性の誘いを受けることにした。他にやりたいことがなかったし、断る理由もなかった。

 仕事を始めて一週間経った頃、彼は男性に言われた。

「お前はきっと、この店で一番になる。俺の目に狂いはなかった」

 その言葉を受けて、彼はようやく自分の居場所を見つけた気がした。まるで、生まれてはじめて人から褒められたかのような錯覚を覚えた。仕事は、男性の言うとおり、店に来る女性を相手にして、酒を飲むだけだった。女から好かれれば好かれるほど、酒を飲めば飲むほど、大きな金が彼の懐に転がり込んだ。彼は、女も酒も嫌いだった。女の匂いを嗅ぐだけでうんざりしたし、酒の匂いを嗅ぐだけで吐き気がした。だからこそ、うまくやることができたのだ。

 仕事に生きがいを感じ、精を出すようになってからというもの、彼の勢いは目に見えて増した。幼い頃に身につけた才能を駆使し、どんどん金を得ていった。彼が一所懸命になればなるほど、彼の働く店は順調に売り上げを伸ばした。彼は周囲の人間から尊敬と憧れのまなざしを集めた。中には彼に対して妬みやひがみといった負の感情を持つ者もあったが、いつの間にか、周りには、彼に逆らえる人間は誰もいなくなっていた。

 しかし、盛者必衰、どんな栄光にも必ず終焉は訪れる。

 いっときは右から入ってくる金を左に流すかのごとく、金を湯水のように使うことのできた彼だったが、ある時を境に、まともに働くこともできなくなっていた。長年に及ぶアルコールの過剰摂取と不規則な生活のせいで体を壊したのだ。仕事も休みがちになった。体調がいいと感じる日でも、いざ仕事を始めると、気分が悪くなり、早めに切り上げることも珍しいことではなくなっていた。

 そしてその末路は、読者もご存知のとおり、うつろな目をして、いかれた目をして、なにをするでもなく海岸沿いをぼんやりと歩いていた彼の姿に他ならない。


 彼は子どものように声をあげて泣いた。

 彼は、こみ上げた胃液が喉を焼く痛みを、仕事柄、数え切れないほど経験してきた。しかし、最後に酒を飲まないしらふの状態で嘔吐したのは、思い出すのも難しいくらい昔のことだった。

 それがきっかけになり、彼は子どもの頃のことを思い出した。小学生の頃、彼は朝、学校に行く前に、自宅で気分が悪くなったことがあった。その時彼は、朝食で食べたものをすべて便器に吐きだした。その時彼の背中をさすってくれたのは、母親の優しい手だった。しかし今は、苦しんでいる彼の背中をさすってくれる者は誰もいない。

 それを皮切りに、これまで経験したさまざまな場面が彼の頭によみがえった。少年時代から、つい最近経験したことまで、次々と走馬灯のように当時の映像が彼の頭を駆け巡っていった。彼の栄光のすべてがそこにあった。手を伸ばせば掴めそうなほどすぐ近くに。それなのに、ああそれなのに、どうして俺は今こうなっているのか。

 落ち着くと、彼は、手の中にある星と月とを見つめて、砂で汚れるのも構わずスーツのポケットの中に入れた。憑き物が落ちた後のそのあどけない表情は、歳不相応に年齢を重ねすぎた少年のそれを思わせた。

 海に背を向けると、彼は大またでコンクリートの階段を昇り、先ほどタンポポ畑に停車したハマーに乗り込んだ。スーツのポケットに入っている星と月の兄弟を取り出し、丁寧に助手席に置くと、キーを回して、エンジンを作動させた。

 車はタンポポ畑を抜けて、海の近くの橋を渡る。道路わきには、タンポポのほかに、野イチゴやヨモギといった野草が潮風にあてられながら自生している。橋の下を通る川が、そのまま海へと流れ込んでいるのが、左手の窓から確認できる。河口は少しだけ広くなっており、一定の間隔で海からやってくる波が進入している。その近くでは、季節はずれの白鳥が何羽か水浴びをしている姿が見える。本来ならミルクのように白い翼を持つ白鳥だが、ここにいるものはすべて土や砂で汚れている。それどころか、自分たちの汚れた姿を恥じる様子もない。どうして冬の寒気と淡水を好む彼らが、タンポポが綿毛をつけるこの季節に、こんな場所にいるのだろうか? 彼らは、折れた翼のせいで、冬と寒気に取り残されたのだ。そして、それでも居場所を求めて、下流へ下流へと川を下り続けた結果、終着点である海に到達することになったのだ。

 若者の瞳は、運転席から翼の折れた白鳥の群れを見つめていた。


 一時間ほど車を走らせて、彼は自宅近くの駐車場に車を停めた。駐車場はアスファルトで舗装されているわけでもない、軽く整地がなされただけの粗末なものだった。

 駐車場からさらに十五分くらい歩くと、住宅街に突入する。このあたりの土地は、一昔前は誰も見向きもしないような荒れ果てた場所だったが、近所に小学校や中学校ができるのと同時にアパートやマンションが立ち並ぶようになり、それから数年後にはすっかり住宅街へと変貌を遂げることになったのだった。

 彼は自分のアパートに戻ると、靴を脱ぎ、蛍光灯のスイッチをつけて、部屋の隅に置いてある簡単なつくりのハンガーラックに上着をかけた。

 彼が住んでいる場所は、六畳の部屋にシンクが設置されている小さな部屋だった。

 小さな部屋だったが、フローリングに敷かれている飾り気のないグレーの絨毯、簡易式のベッド、紫外線をカットする効果を持つカーテン、ハンガーラック、小さな冷蔵庫、ガラスのテーブル……。部屋の中に目だつものといえばこれくらいしかない。彼にとってこの部屋は、十分な体積を持っていた。部屋は清潔そのもので、どこを見ても汚れひとつ存在しない。もし仮に彼が誰かにこの部屋を見せて「つい先週引っ越してきたんだ」と言っても、その相手には彼の言葉を信用しない理由はない。

 部屋の入り口から向かって左手にはシンクがあり、さらにその左には洗濯機とバスルームがある。

 彼はシンクに置いてあったガラスのコップに水道水を汲んで、喉を鳴らして一気にそれを飲んだ。カルキの強い匂いが鼻を抜けた。一杯では足らず、もう一杯飲んだ。合計二杯飲み干すと、ふうと息を吐いて窓際のベッドに腰掛ける。と、彼はなにかを思い出したようにハンガーラックの方へと向かい、かけてあったスーツの上着のポケットから星と月を取り出した。彼は、少年のような表情でそれらを見つめた。ベッドの下のもの入れから黒いビニールテープを取り出して、それを裏返しにして巻いて輪をつくり、即席の両面テープをつくった。そしてそれを星と月の片面にそれぞれ貼り付ける。その一連の作業が終わると、若者は次に、ベッドの上に立ってカーテンを引き、引き続き星と月とをカーテンに設置する作業へと移った。彼が砂浜から星と月を自宅へ持ち帰ったのは、黒いカーテンを夜空に見立てるためだったのだ。色々と思い悩み、小一時間程度試行錯誤した結果、最終的に、カーテンの上から三十センチメートル、左から四十センチメートルのところに月を貼り、カーテンの上から六十センチメートル、同じく左から六十センチメートルのところに星を貼ることにした。つまり、カーテンの左上に位置する月を、星がそのすぐ右下から見上げているといった構図になる。この位置関係が、彼にとって最適であるように思えた。

 作業を終えると、彼はトイレに行き、熱いシャワーを浴びて、再びベッドに腰掛けた。ベッドの脇には、医者からもらった薬の袋が置かれている。中身は、精神安定剤のパキシル。そして、睡眠導入剤のマイスリー。彼は近頃、薬なしでは眠ることができなくなっていた。しかし、彼にはもうこれらは必要ないように感ぜられた。彼は処方箋を袋のままくずかごに捨てて、部屋の明かりを消すと、ベッドの中に入った。カーテンでできた夜空に貼り付けられた星は、ぼんやりと金色に輝き、月は星の光を受けて、青白く発光していた。目をつむってしばらくすると、若者は安らかな寝息を立てはじめた。


 若者の寝顔を、星と月は見ていた。

「ねえ」と月が言った。「おいらたちの存在する意味は、この人のところにあるのかな」

「わからない」と星が言う。「でも、もしも僕たちがこの人の役に立ったのなら、僕たちと出会ってよかったと感じてくれたなら、そう思ってもいいんじゃないかな」

「でも、よく考えると」と月が言う。「誰かに必要とされることが目的だとしたら、それは最初から達成されていたんじゃないかな」

「ん?」

「つまり、おいらは兄ちゃんのことを必要としているのだし、兄ちゃんもおいらのことを必要としてくれていると思う。ってことは、おいらたちが存在する意味を探す必要なんて最初からなかったんだ。だって、最初からお互いに相手のことを必要としていたんだもの。そんなふたりが、ずっと一緒にいたんだもの」

「なるほど」と、星は感心するように言った。「すると、僕たちの目的は達せられたってことだろうか」

「そうなると思う」と、月は言う。

「わかった。それじゃ、目的を達したところで、寝よう」

「おやすみ」

「おやすみ」


 翌朝。

 太陽が地平線から顔を見せ、頂点へと達し、そして夕陽となり沈みかける頃になっても、若者は目を覚まさなかった。疲れていたせいだろうか? いや、結論から言うと、彼は死亡していた。担当の医師の説明によれば、彼の死は衰弱によるものだった。

 彼の死は、合鍵を持つ彼の恋人が部屋を訪れたことがきっかけとなり発覚した。携帯電話に電話やメールを入れても連絡がつかなかったため、不審に思い、恋人がアパートを訪れたのだ。発見が早かったため、彼の肉体は新鮮なまま病院へと搬送されることになった。その後、彼の遺体は必要な処置をほどこされ、通夜が行われ、葬儀が行われ、最終的に灰となった彼の骨は、地元の納骨堂へと収められることとなった。

 ひと段落つくと、死亡した若者の両親が、生前彼の住んでいたアパートを訪れた。

 ふたりの話し合いの結果、彼が使っていた生活用品は、すべて処分されることが決定した。両親は、手分けして生前の彼の部屋の整理をはじめた。若者の父親がベッドやテーブルなどの重いものを運んでいる時、母親はカーテンのレールに手をかけていた。母親は星と月の兄弟がはりついたままのカーテンをとりはずし、乱暴にまるめて、粗大ゴミを処分するための業者を呼んだ。

 後日、一台のトラックが彼のアパートの前に停車した。トラックの運転席から現れた男は、あらかじめ若者の両親がアパートから運び出して外に置いてあった物品を、次々とトラックに詰め込んだ。テーブルを詰め込み、ベッドを詰め込み、カーテンラックを詰め込んだ。そして最後に荷造り用の紐で縛られたカーテンを持ち上げると、張り付いていた星が地面に落ちた。時間が経っていたため、彼とカーテンとを繋ぎとめていたビニールテープの粘着力が弱くなっていたのだ。しかし、弟の月は丸められたカーテンに張り付いたままだ。運転手は、地面に落ちた星の存在に気がつかない。

 男は仕事を終えて、トラックのエンジンをかけた。

 兄は、弟を乗せて去っていくトラックを目で追った。


<了>

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