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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

メトロポリタン・サアカス

作者: 伊木

 人が集まる場所は厭わしい。物質が複雑に絡み合って、その間に得体の知れないものが潜んでいる。気付かぬ鈍さが存外に恐ろしいとは露知らず、すぐ隣を通り抜ける。元凶は多様さだ。それは異様である。相反して類似し、共鳴して反発する。誰か、気付いているのだろうか?


「あの、八条さんですか?」


 名前を呼ばれて、八条般利(はんり)は顔を上げた。

 丁度政治学の講義が終わったところで、幾つも段を重ねる席の中腹左端にいた。問いに肯定して、赤の他人に向ける怪訝な微笑を作る。染めていない黒髪の、白いジャケットの女と短い茶髪の女であった。視界の隅で黒板が白紙に戻り、煩く人間が流れる。次の授業がある二人の友人にかすかに手を振って見送り、般利は、活発そうな彼女らを見上げた。


「あ、急にすみません、八条さんって、有名な占い師の子孫って聞いて。どうしても、聞いてみたいことがあって……」


 黒髪の女は、縮れた髪に触れながらそんなことを言った。


「わたしは、占い師ではないですよ」

「それでももし、なにか分かるのでしたら、あの」


 お願いしますぜひと繰り返し、隣の女が胡散臭げに様子を見ていた。こちらとも目が合う。見つめられ、般利はそっと自分の右目を撫でる。まず滅多に例をみない、片方だけがバイオレットの虹彩異色症。


「なんですか」


 煩わしい。短く聞くと、黒髪の女は、知り合いの具合が悪くなったその原因が知りたいとまくし立てた。般利はただその知り合いの名前を聞く。


「なかのじゅん」


 漢字を当てさせると、中野淳。般利はもうバッグを肩にかけて立ち上がりながら、何か良くないものを食べたのだと答えた。早めに祈祷師に見てもらったほうがいいだろうとも。


「それってあの」

「もう行って下さい」


 軽い苛立ちに付け加え、余計なことには関心がなかった。般利の喉から短い拒絶が流れ出ると、二人の女は何かに急き立てられたように、声もなく講義室を出て行く。追う形でゆっくり通路へ出ると、数人のグループが市内で起きた変死事件について大声で話していた。笑い声が響く。



 帰り際スーパーで買い物をしている途中、近所で数件傷害事件があり加害者が奇声を上げて逃げていったと、主婦が甲高い声で世間話をしていた。般利は夕食を何にしようか悩み、結局安い値札の商品ばかりに手を伸ばす。重い買い物袋を提げて自動ドアを出ると、男の声がかかった。


「八条さんですか?」


 般利は人影を通り過ぎ、自分の自転車の籠に荷物を積む。ロックしていた鍵をはずしてスタンドを上げ、サドルに足をかけた。


「あ、あ、ちょっと、すみません……」


 夕暮れがだいぶ濃くなっていた。気がついて、手動の自転車のライトを点灯し、


「危ない!」「おい!」


 そう遠くない場所で悲鳴が上がった。

 続いたのは耳障りな衝撃音と、重なるタイヤの軋み。

 振り返った般利の視界に、倒れこむ人影と街路樹に衝突した黒いワゴン車が映った。続く車も避けきれずに追突し、車体をへこませる。静けさは一瞬で、すぐに目撃者が声を張り上げた。人が何かに酔った虫のように近づき、遠巻く。風に乗り、ひそひそと声が届いた。


「笑っていたよ」「笑っているよ」


 またか。まただ。またやねえ。

 集まり始めた野次馬に反し、般利は家路を辿った。途中広い本屋の駐車場に、移動屋台の明かりだけがぽつんと輝いていた。


 ※


 世の中にはあまり目に入らないものも多い。人よりも目がよいと、大抵鬱陶しい。不条理を知っていると、確実に不自由だ。


「八条般利さん」


 人は般利のことを有名な占い師の子孫だという。誰もその名を知らず、称号だけが浮遊する。


「ええっと、俺、三善忠行っていいます。しがない大学生なんですけどー」


 夕暮れの大学構内だった。耳に入ったのが、たしか先日スーパーの辺りで聞き流した声だと気付き、般利は声のほうを向いた。

 自販機の前でなんとも力の入らない笑みを浮かべていたのは、茶髪の男子学生だった。ショルダーバッグを斜めにかけ、特別高くも低くもない身長に軽そうな顔立ちで、細身に流行を外れない厚めのワークシャツとベルト、ジーンズを身に付けていた。般利は外見・人柄に関係なく、しつこい人間には諦めることにしていた。目の前の人間もその類に違いなく、なんですかと言おうとして──ふと思い直す。

 男、三善の足元に二匹の猫がまとわりついていた。


「あ、かわいくないすか?」


 見ていると気付いて、のんきに三善は尋ねかけてくる。一匹は珍しい虎縞の猫、一匹は見事な黒猫だった。

 般利は眉を顰めた。


「偽物は、嫌い」

「!」


 そう口にした途端。嫌な生暖かい風と不吉な黒煙が噴出した。魔術か小さな災害のように二匹の猫が膨張してグロテスクに裂け、二つの人影に変化する。現れたのは、褐色の奇抜な作務衣にセンスのよいストールを巻いた美青年と、漆黒の着物の美女だった。二人の顔や黒髪の質はそっくりで、一目に双子ではないかと思わせた。

 時代錯誤な衣装の二人は顔を見合わせ──美青年が肩をすくめ、美女は非難がましく口元に袖を当てる。


「旦那、いい加減にだれかれ構わずちょっかいをだすのは止めたらどうだい?」

「その内うらみつらみでアノ世行き」

「なんだ、人をまるで猿のように」


 言われた三善は驚きもせず、存分にやつれた表情を双子に向ける。

 だが双子はまたも顔を見合わせた。


「なんとまア猿に失礼な」「彼らは立派で可愛らしいさ」

「……。あ、そう」


 もはや顔をしかめるのも諦めて、棒読みに呟いた。般利が訝しげにすると、三善は再び力の入らない笑みを浮かべ、説明した。


「美男がキュウキ、美女がカシャといいます。要は異形。二人とも俺の守護霊をやってくれてて。家の家系は代々拝み屋でして、実はこれでも跡継ぎだったりして。それで、かの有名な般利さんにぜひ会っておきたいなーなんて」


 美青年、キュウキが重ねるように言った。


「要約しますよ。僕たち旦那の保護者で、旦那は拝み屋と称する実質酒屋です。たまにまともな客が来ると依頼を処理できなくて、誰彼構わず泣きつく巻き込み呪術師と人はいいます」

「旦那ノ見ぬ世は平穏に」


 美女、カシャが歌うように付け加え、嫣然と笑った。般利は人ならぬ双子に微笑を返す。

 なんであれ、正直な話しぶりは嫌いではなかった。



「最近、ちょっと多いでしょう。気の狂った人達。先日の交通事故もそうだけど、あのせいで俺の所に相談に来る人がまあ多くなって、困る困る」

「怪事を解決できない腐れ拝み屋なので」「困った上は人頼み」


 何を相談に来たのかようよう本題に入った三善に、半笑いの妖異達が口をはさむ。般利が黙って先を促すと、三善は苦い顔をしながらも話を続けた。


「それで、とりあえず人に危害を加えたり迷惑な行為をしたりして、怪死した人達に共通点はないかなーって」


 三善は次々と死亡者の名前を並べた。湯浅佐織、大石勤、杉浦藍、野上正明、曽根義弘、山井清二。般利は、彼が意外に達者な字体で名を綴る様子を眺め、頭の中に流れ込む情報を拾い集める。


「完全に狂気に取りつかれてた」

「うんうん、それから?」

「何か良くないものを食べたと」

「食べ物?」


 当然の疑問を口にし、さらに拝み屋は尋ねかけるが、般利はそれ以上分からないとあしらった。そして最近同じ事を告げたと思い出し、脈絡なく呟く。


「中野淳」

「え、え? 誰? 次の犠牲者?」

「かもしれないね」


 自分が言うと確定しているようで、多少気分が悪かった。

 少なくとも、「膳は急げだ」と緊張感のない声で言った三善に、思わず意味を聞き返してしまうくらいには。

 


「さすが、般利さん。一緒に拝み屋やりませんか? 三善堂って小さいとこなんですけどー」

「結構。それよりどうして名前で呼ぶわけ?」

「え、あ、それはきっと、苗字より名前の方が親しみが。ほら、名前には特別な力が宿るって、ねえ?」

「知ってるの」

「言霊自体はわからないけど。般利さんが言霊師っていうのは知ってますよー」

「占い師でも言霊師でもないよ」


 その名の通り拝み屋に拝み倒され、しつこい相手には諦めることにしている般利は、中野淳のいそうな場所まで道案内をしていた。占い師ではないが、その名に集中すれば居場所の見当がつかなくもない。般利は「特別な言葉」を知る。


「旦那、あの道を左に曲がったところで騒ぎが」「アレはどうやら尋ね人」


 先に周辺を探っていたキュウキとカシャが戻ってきたらしい。面妖な気配と共に、風と黒煙が声を伝える。三善はビンゴか、と手を打ち、


「おっけー、ありがと。嫌だけど、見に行こう」


 三善と般利が急ぎ足で大通りの角を曲がると、確かに一点で人の乱れがあった。手狭な薬局の前、商品を路上にばら撒きながら幸せそうに笑っている若い男がいた。笑いながら商品を口に入れ、吐き出し、蹴り、お手玉にする。次々予期しない奇行をする男に、野次馬が群がり、真っ青な顔の店員がつばを飛ばしながら罵声を浴びせていた。


「あ」


 すると男は突然店員の顔を殴った。殴り倒すと口の中に無理矢理栄養ドリンクを突っ込み、嬉しそうに顔面を踏みつけた。ぐちゃりと鼻がつぶれ、体液が飛び散る。何度も足を振り下ろす内耳が半分陥没して、中身と皮膚が垂れ下がった。


「う、あれじゃ話どころじゃないような……」

「なんなら首から上だけ取ってきましょうかね?」「聞く耳持たずヤ?」


 血の匂いでどこか楽しげな守護霊たちに嫌そうな顔をして、三善はとりあえず近くまで行く。般利も続き、三善の妙な呼びかけに首をひねる。


「あのー、中野さんではないでしょうかー、ちょっとお聞きしたいんですけ、どっ?」

「さおdfへjbhf?vd?」


 中野と思われる男は、声をかけた三善を笑顔で振り返り、わけの分からない言葉と共に、いきなり血まみれの店員を投げつけていた。


「旦那!」「笑止」


 尋常な力ではない。ものすごい勢いで迫っていた人体が、直前で三善と般利の居る場所から進路を変更し、野次馬の中に突っ込む。本性だろう、翼を持った虎の姿のキュウキが食いちぎるように受け止めて主人を守っていた。そして、中野の周りを化け猫の姿をしたカシャが通り過ぎると、余計な凶器が炎と黒煙に包まれた。

 双子の姿自体は常人には見えぬだろうが、拝み屋は頭を抱える。


「あ、ありがたい、けど、うう。なんて派手なんだ……」

「三善、わたしが聞いてみようか」

「は、はい?」


 どうやらまったく埒が明きそうにない。無駄足も避けたい。軽い疲れと共にそう判断した般利は、炎を見てげらげら笑う中野に近づき率直に尋ねかけた。


「何を食べたんですか」

「3え8ghbvf、jはsbー」


 わからない。それなら、わかるようにさせる。

 次に、力を込め、丁寧に命令した。


「──わたしの言葉で“答えろ”」


 瞬間。男の笑いが止まり、醜い表情がぴくぴくと引きつった。不自然に震える。中野は血のついた手を顔にやって、頬を練るようにしながら、あごを大きく動かして、奇妙な発音をした。

 お ・ か ・  し 。 ?


「!」


 手が伸びた。言い終えた中野が般利にものすごい力で掴みかかっていた。


「離れてっ! 蛇比礼蜂比礼品々物比礼」


 素早く、誰よりも早く反応した者達もほぼ同時だった。大猫のカシャが業火の爪を立てて中野に襲い掛かり、般利は知らない誰かに引き剥がされ、その呪法によって飛び散る炎から守られる。

 目の前で火達磨が、マネキンのように燃え上がり、踊りながら溶けた。


 ※

 

 三善堂。

 その古い木の看板を掲げる小さな店先で、般利は茶と和菓子を目の前に座っていた。中野が炎上した後、三善と双子の妖異、そして三善忠行の弟と共に般利はここまで逃げた。成り行きである。

 あのとき直前で助けてくれたのは、三善忠行の弟だった。彼も怪死調査を手伝わされており、奇行騒ぎを聞いて駆けつけたのだ。


「ほんっとに! すみません! この役立たずの他力本願野郎がいつもいつも人を巻き込みやがるから!」

「弟の隆文だよー、高校二年生で、才能のある優秀な祈祷師なんだー」


 三善が誹謗中傷を一切無視して隆文を紹介する。隆文は兄を口汚く罵りながら般利に土下座していた。高校生らしい清潔な黒髪で、片耳に小さな石のピアスをつけ、礼儀を失わない程度にブレザーを着崩していた。般利は二匹の猫の背を触りながら、首を振って止めさせた。実際、苛ついた自分も不注意だったといえる。


「大丈夫。助けてくれてありがとうね」

「う、うん……すんませんでした」


 隆文は一瞬般利の虹彩異色に目を奪われ、すぐに気まずそうに顔を逸らした。

 その利発そうな横顔の向こう側には商品が並ぶが、いつかのキュウキの言葉通りほとんど酒ばかりだった。


「あ、般利さん何かお酒飲む? 厄除けの酒屋だから一石二鳥で」

「黙れ酒屋じゃねえ! 怪死の調査の話をしろって」


 隆文はどこまでも逸れる話を無理矢理軌道修正する。三善堂は、屑だろうが外道だろうが、二体の守護者と共に長男が世襲するのかもしれなかった。


「良くない食べ物を食べて気がおかしくなった……それが、中野によるとおかし。パティシエ?」


 閑話休題。般利が危険を冒して得た情報を繋ぎ合わせると、そういう話に行き着く。三善がのんきに茶をすすり、隆文はしきりに頭を悩ませる。お菓子、から何か分からないか般利は尋ねられたが、残念ながら無理だった。


「せめて具体的な名前が分からないと、わたしの理解できる範囲に入らないから……ごめんね」

「そっか……ううん、でも助かったよ。うわさを調べれば何とかなりそうだし」


 怪異は見抜けずとも関わる噂は必ず広がるものである。

 そのとき般利の手元からどろどろと猫が溶け、キュウキが人型になって、和菓子を一つ手にした。


「そういえば昔、饅頭食わせというのがいたよ。夕暮れ時子どもに毒饅頭を食わせて歩いてたね」

「うわあ」

「甘いものには気をつけられ?」


 いつの間にか美女に転じていたカシャが、三善の口の脇に残っていた菓子のカケラを舐め取り、真っ赤な唇を吊り上げた。

 

 ※


 夕闇落ちる頃に、移動屋台が菓子・甘味を売るという。それがこの世のものとは思われぬほど美味しいと、まことしやかな噂があった。それだと踏んだ三善堂は、人々から関係しそうな話をかき集め、般利の元へ持ってきた。


「どうやら“くれづつみ”というらしいよ。ぜひ! 案内してくれると」


 しつこい相手には諦めることにしている般利は、三善に頼みこまれ、一日の講義が終了した後に夕刻の街へと繰り出した。

 「暮れ鼓」だろうか、昼間は曖昧であった気配が、少しずつ般利に理解できるものへ変わっている。二匹の猫が本性となって煩雑な都市を探る頃、不意に息を切らした制服姿の隆文が駆けつけてきた。


「八条さん! 無事っ?」

「うん。平気」


 どうやら、巻き込み呪術師の被害者を保護する役目は彼らしい。般利は同情の余地があると見て、思ったことを呟く。


「般利でいいから」

「え、え?」

「三善に名前で呼ばれるのに、どうも納得いかない」


 理由を述べると、兄が心外そうにして、弟は軽く頬を掻いた。そして車の通り過ぎる音と排気ガスに紛れるくらいの音量で、


「えと、じゃあ……俺も、隆文でいいんで」

「それじゃ、ぜひ忠行と呼んでくれると」


 三善がゆるい笑顔で相乗したのを、般利は丁重に断って先へと進んだ。

 疲労と開放感の混じる帰宅時刻は、灯火に照らされ意識が薄くなる。化粧を貼り付けた露出の多い女やシャツに皴を作った中年、煙草を燻らす男が姿を増やす。渋滞した車の運転手たちが苛々とハンドルを握り、暗い顔をした主婦が、古びた自転車で通行人を押しのける。

 空が闇に包まれるのを感じながら、一向に青に変わる気配を見せない信号機を待っていた三人は、ふと風と煙が戻ってきたのに気付いた。


「おや、若も、ご苦労様です。どうもそれらしいのがいましたよ。この辻を右に行ったところにね」

「気ノ許せぬ事」


 沈むような喧騒に紛れる声が伝える。姿こそ見えぬが、双子はあまり愉快そうではなかった。気付いた三善が気の抜けた顔で肩をすくめる。


「気の合わない物の怪でもいたのかい」

「確かめたほうが早い。行こう。般利さん、もし危なくなったら俺や双子を盾にして。兄貴は身代わりにしても安全は保障できない」


 真面目な口調。三善は隆文の言いように、流石にげっそりとした文句を垂れる。


「なんだ、人をまるで穴の開いたエアバッグのように」

「ああ。わかってるんなら、いいんだ」

「……。そうっすか」


 棒読みの返事を連れて、般利は辻を右に曲がった。

 そこには公園があり、周辺に広めの駐車スペースがある。路傍に一台の移動屋台が止まっていた。

下がる暖簾に古めかしく「くれつゝみ」と書かれていた。一つだけ下がる電球が、即席で作られた台とガラスケースの商品を煌々と照らす。妖しげに浮かぶのは、えもいわれぬ菓子の数々だった。触ればとろけそうな飴細工と宝石のような砂糖菓子、嗅いだことのないよい香りが饅頭から立ち上り、濃厚な餡のつまった大福がふわりと並んでいた。そして店主らしき小太りの老人がケースの前に立ち、まさに中年客に品物を渡そうとしている。


「待って! そこのおじさん」

「ハハハ?」


 鋭く隆文が声をかけたが、すでに遅かった。振り向いた白いシャツの客は、だらりと口から食べかけを零してまだらに襟を汚したからだ。目が大きく見開き、片方ずつで違う方向を向いていた。屋台の電燈に寄ってきた大きな蛾を異様な素早さで掴み取ったかと思うと、丹念に握りつぶして口に入れる。くちゃくちゃと咀嚼しながら、残ったりんぷんと体液を顔に塗りつけた。


「ああ、もう。これだから嫌なんだー」


 三善が情けないことをぼやき、その足を隆文が急かすように蹴りつける。


「まだ助かるかもしれねえだろうが、その外道をたまには生かせって!」


 急かされ、外道拝み屋は鞄から酒瓶を取り出した。中身はともかくビンはその辺で売っているものである。般利が呆れてみていると、三善はぶつぶつ呟きながら躊躇なく中年客の身体を蹴り倒して地面に押さえつけ、その口に無理矢理酒を流し込んだ。


「荒稲を持清まはり和稲を持斎はりて造る御酒、うにの平賀に八盛りてぞ、天の栄や国の昌や称辞竟奉る大御酒」

「ぐごっ」


 客の顔が一瞬真っ青になり、奇妙なうめきがもれる。三善が素早く身を離した直後ごぼごぼと器官が音をたて、中年は壮絶に嘔吐していた。びちゃりと道路を汚すそれを脇目に、三善はようやく屋台の店主に目を向けた。見た目は人間に見えたが、気配は間違いなく妖気を放っていた。


「どーも。夕暮れに狂気を振り撒くのはお宅でしょうか?」

「これは、いらっしゃいませ。旦那、あらぬ噂をお聞きですねエ。あたしはただ菓子を売っているだけでございますよ」


 雨でもないのに黒い雨合羽を着たその老人は、しぼんだ目を三日月に細め、馬鹿丁寧に答えた。


「ふうん。じゃあこの商品、なにから出来てるの?」


 三善は珍しく獣めいた笑みを浮かべて問いただす。店主は手を広げて親切に返答する。


「さてなんだったでしょうかねエ? あの世の死肉やら罪人の魂やら薄汚い猫共の屑やら、そんな素敵なもの達ですかねえ」


 普通の人間が口にして、まともでいられるはずがない。

 風と煙が不機嫌にざわりとうごめき、隆文がいつでも動けるように身構える。

 次の瞬間、図ったように三善が酒ビンをガラスケースに叩きつけていた。


「それは──吐き気もするさ!」

「笑止!」


 固い破砕音と共にガラスが粉々に砕け散り、飛び散った神酒が商品を醜く暴いた。見るに耐えぬ異物の塊へ変貌する。雨合羽を翻して素早く酒を避けた店主は、それを掴んで三善に向けて投げつけた。


「舐めてるね」


 キュウキが風を渦巻かせて三善をかばい、業火を纏う化け猫カシャが店主の身体を頭蓋骨から引き裂く。だが甘んじて受けただけあって、店主はあざ笑うように肉を泡立たせながら、ぶくぶくと復元してみせた。


「どうですか、気が狂うほど美味い菓子。あんたがたも材料にしてさしあげますよ」


 醜い容貌のまま店主が言うと、屋台からガラスの破片がひとりでに浮き上がり、切っ先を一斉にこちらへ向ける。

 隆文が咄嗟に般利の前に出て、辺りに香を振り撒きながら真言を唱えた。


「断る。オン、ベイシラ、マンダヤ、ソワカ──」


 ほぼガラスが襲い来るのと同時だった。完成した呪術と妙なる香が妖力を打ち消し、隆文と般利を守る。そしてこれが天才と凡才の差か、そこからの一秒を無駄にせず、隆文は念珠を取り出して腕に巻きつけ、唱えた。


「諸諸の禍事、罪穢有らむをば、祓へ給ひ清め給へと白す事を聞こし食せと恐み恐みも白す」


 一時的にものすごい形相をしたものの、店主は浄化の呪を受けた片腕を引き千切って逃れ、屋台の影に紛れる。


「ひ、ひ、おしいオシイ、ひひひ」


 隆文は頭を掻きむしって悪態をついた。


「腹立つ! いかにも馬鹿そうな癖してっ、正体さえわかればこっちのもんなのに」

「なるほど。わたしが聞いてあげる」

「うん。うん?」


 ぽかんとした隆文は無視し、般利はさっさと三善と双子の妖異に協力を頼んだ。先ほどから、手持ち無沙汰なことに気が引けていた。

 淡々とした足取りで屋台に近づく。三善が酒を撒いて牽制し、キュウキが襲いかかる凶器を払い、カシャが店主の動きを止める。そうして傷跡やケロイド蠢く異形の前に辿り着き、般利は尋ねた。


「あなたの正体は?」


 答えの代わりに、防ぎきれなかったガラスの破片が般利の頬を浅く切り裂く。

 割れたその傷跡をそっとなぞり、血の付着した右手で、般利は店主の醜い頬に触れた。

 般利の言葉は「神の言葉」であった。古き人々はそれを、“言霊”と名づけた。


「──正体を“現せ”」


 瞬間。壊れた人形のように、店主の身体が跳ねた。たちまち人間だった顔が固く長い毛に覆われ、ぼろきれの隙間から獣の尾が覗いた。それを見て正体を見破った隆文が、霊符を掲げて高らかに神歌を読んだ。


「夏は来つ、根に鳴く蝉の唐衣、吾れ吾れが身の上に着よ」


 霊符が炎上して失われた途端、般利の目の前で店主の頭が、爆ぜた。中身を飛び散らせて、脊椎の途中だけが残り、やがて足元から腐り落ちていく。ぼたぼたと血肉が地面に吸い込まれ、明らかに人間のものではない形状の骨が崩れ、それもすぐに灰燼と消えた。後には屋台だけが崩れて残った。

 夜風が吹く。般利は決着を見届けて、隆文を振り返る。若く優秀な祈祷師は疲れたように歩道に座り込み、説明した。


「野狐だったんだ。たちの悪い狐の異形だよ。害をなして人を貶めるのが好きな腐れが多い」

「なるほどね」


 般利が納得すると、すでにいつも通りの三善がへらへらと歩いてきて調子よく喋りだした。


「いやーナイス連携プレーだね。これはきっと神様の決めたチームだ。というわけでチーム名はどうする? 三善堂クラブとか?」

「黙れ論外、誰がチームだ!」

「そうだね。あえて言えば“役立たずとその保護者・被害者たち”かな?」「メトロポリタン・サアカス?」


 隆文ががなりたて、いつの間にか人型に戻っていたキュウキとカシャが妖怪らしく痛烈に皮肉る。般利は肩をすくめて、すっかり暗くなった辺りを見回した。忘れかけていたが、まだ気分が悪そうにしている中年の男が、花壇に腰掛けてこちらを見ていた。どうやら三善の神酒が効いたらしく、正気の目だった。般利は、目が合った以上何か口にしなければならない気がして僅かに迷い、


「ひぃ──」

「あ」


 急にその必要性を失った。

 捨て置かれていた店主の作った禍々しい商品から、何か怨念のような黒い影が飛び出し、中年男の上半身を食い千切って夜の都市へと消え去った。

 突然の出来事で一同あっけにとられている間に、残った胴体が花壇の土に倒れこみ、両足だけがそのままぶらんと腰掛け続ける。

 しばらく沈黙があって、なんともいえない顔つきで隆文が呟いた。


「そういえば、なんか怨念が篭ってるって言ってたっけ……」

「うん。世も末だし、そろそろ人間も滅び時だってことだねー」


 三善が遠くのビル郡を見据えて、どこか楽しそうに混ぜ返す。般利は煌々と鈍く輝く都市を見ながら、その意見だけはあながち間違ってもいないんじゃないかと、ふと思った。





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