シェアハウス
タタタと走る、ごく軽い音がする。
スマホの時計を見れば、既に午前2時を回っている。
現代の丑三つ時は、電気をつければ昼間のごとく、怪談全盛期だった何時ぞやに比べれば物理的には闇などあって無きがごとし、だ。
そういう意味では、闇に潜む脅威などというものとは一見無縁になったかのように見える。
それでも、いるものはいるし、あるものはあるのだ。
悪意が人の形をしているとは限らないし、恐怖は目に見えるとは限らないのだ。
タタタ、タタタ。タタタタ。今日はずいぶんと元気に走り回っているらしい。
「これ、ネズミとかじゃないのよねー。驚き!」
あまりにも真夜中の運動会が賑やかなので、この前業者に入ってもらって屋根裏を一通り点検してもらって。
結果、問題がない程度の雨漏りの痕跡があるものの、小動物の痕跡は皆無、ネズミなんて影も形も皆無だったらしいから笑える。
「いやいや、笑えないんだけどもね」
跳び起きてドアの向こうを見に行っても、特に誰がいる訳でもない。
「ま、いても困るんだけどねー」
1人でひとしきりノリツッコミをした後、私はふぅ、とため息をつく。
あまり続くようなら対策しないとな、と思いながら、私はもう一度眠りに落ちた。
あれからどれぐらいたったのだろう。
うとうとした明け方、少し薄明るくなり始めた頃に、ふと気配がして意識が覚醒する。
「ちょっと、狭いから」
パタンと部屋のドアが開いて閉まった音がしたから、耳を澄ましていれば床が軋むギシッギシッという音がするから少し待っていたら、それがだんだん近づいてくるのだ。
ベッドのスプリングが軋んでたわみ、横向きに向けた背中に重みを感じる。
「重いからやめて」
容赦なく寄りかかってくる感覚に相手を咎めれば、不服そうな間の後、再び床を踏みしめて去っていくような音がする。
そのまま、誰もいなかったかのように沈黙に包まれる。
「……うーん。何がしたかったのかな?」
気になってドアを開け、階下をのぞき込んでも誰かがいた形跡はない。
もやもやした気分が募っていく。
思わず声を掛けたからなのか、その後2,3日は重そうな足音の主の訪いはなかった。
相変わらず、タタタ、タタタと扉の外を走る音はするけれど。今日はいつにも増して元気な気がする。
「悪意は感じないんだよなぁ。変な感じ」
呟いて、私はあくびをひとつした。
ギシッギシッと、足音が歩き回っている。
この間咎めたからなのか、今日は必要以上に近づいてくることもなく、うろうろと室内を歩き回っている。
近くなったり遠くなったりするその音を追っていると、不意にその音が止む。
バンッ ガンッ
突然大きな音が立て続けにして、ビクッとする。
何だか怖くなって布団をかぶっていると、いつの間にかまた足音が近づいてきて、様子をうかがうかのようにすぐ近くで立ち止まるのが分かった。
暗闇の中で、息を殺してこちらを伺う気配を感じる。
やがて何かに満足したのか、それはまたしても出ていった気配もなく消えていた。
手探りで手に取ったスマホの時計は、3時を少し回っていた。
不意にタタタと軽い足音が走り回り、バンバンと、窓を叩くような音がする。
私は雨戸とカーテンを二重にしておいたことにホッと息を吐きながら、頭まで布団をかぶって寝たふりを続けた。
答えたり気にしたりしたらとても面倒なことになりそうな気がして、何も言えなかった。
タタタタ、タタタタと走り回る音が聞こえる。
上に下に、今日は階段を走り回っているらしい。
「ねぇ、聞こえる?」
「うん。子ども?」
音に耐えきれなくなって電話した友人の反応に、私は自分だけに聞こえている幻聴ではないと、思わず安堵の息を吐いた。
「その家、なんかヤバいって。いわくとか聞いてないの?」
「知ってたら住んでないって」
「だってさ、絶対ヤバいでしょおじさんもおばさんも、入院しちゃったんでしょ?」
友人の指摘に、私は乾いて張り付く唇を舐めた。
弱った声なんか出したら、今度こそ本当に何かが起きそうで、必死に明るい声を作る。
「お母さんは元々持病があってそれがちょっと心配だから検査入院しただけだし、お父さんは元々手術の予定が入っていただけだから」
「だからってさ、普通重なる? 去年と一昨年はおじいさんとおばあさんが相次いで亡くなっているんでしょ?」
友人の指摘に、思わずスマホを握りしめる。
「2人とも元々高齢で、自分たちの持病隠して好き勝手やってたから、あっさり逝っちゃっただけだし」
話す間にも、タタタ、タタタといつになく走り回っている。
何か落ち着かないことがあるかのように動き回る軽い足音に、不安が掻き立てられる。
その足音が、突然不自然に止まる。
ガンッガンガンガンッ、ガガガンッ
「ひゃっ」
「え、なに、なに、何の音?」
誰かが力一杯に壁を叩いているような音が響く。
思わずベッドに横になっていた姿勢から跳び起きて、音の方向へと走る。
ドアを開けて、廊下の方向を確かめる。
誰もいないし、何もない。
「誰もいない。……何も、ない」
バンッ
階下で響いた大きな音に、恐る恐る電気をつけながら居間を覗き込む。
当然ながら誰もいないし、どこから響いた音なのかさえ判然としない。
「え、ヤダヤダ。音だけでもマジ怖いんだけど! その家ホントヤバいって!」
電話口の向こうで、半泣きになっている友人の声が聞こえる。
ヤバいヤバいと繰り返す声に、所詮は他人事だと急に気持ちが醒める。
ヤバかろうとなんだろうと、他に住む家もなければ引っ越す当てさえなければ、家なしになるわけにもいかないのだから、どうしろというのか。
ここから逃げようも、捨てようもないのに。
ヤバかろうとヤバくなかろうと、どうにもならないものはどうにもならない。
理不尽な状況に怒ったら何だか冷静になってきた私は、じっと家の中の様子をうかがう。
ギシッギシッと音を立てて、あの足音が近づいて来る。
ふと、すれ違ってそのまま階段を上って行ったようだった。
ガチャンッ
突然、今までとは違う重いものが落ちる音と、何かが割れる音が響く。
「え、今の音なに?」
「分かんない。でも、何か落ちて割れたみたいな気がする」
バクバクと激しく鼓動を打つ胸を押さえて、私は震える足を踏みしめて階段を上った。
部屋を覗き込み、さっきまで寝ていたベッドを見渡して息をのんだ。
「嘘でしょ……」
「え、どうしたの? なになに? 黙んないで、聞いてるだけで怖いから、ホント!」
「……うるさい。ちょっと黙って」
スマホの向こうで勝手にパニックになってわめき続ける友人を黙らせて、それでも通話を切ることができずに私は眩暈がしてその場に座り込む。
私の、激しい息遣いだけが聞こえる。
あれほどしつこく続いていた足音は鳴りを潜め、目に見えない住人はどこに行ってしまったのか。
「絵の、額縁が落ちて、下にあったガラスの置物が粉々になって、ベッドに散ってる」
硝子を避けて額縁に近寄れば、額縁を掛けていた紐が経年劣化で切れたらしいことが分かる。
ガラスが粉々になったせいで、寝具が大方使えない状態になっている。
その出費だけでも痛手だが、何よりも。
「あのまま寝ていたら、落ちてきた額縁の直撃と、砕けたガラスが刺さっていたかも」
「それってさ、知らせてくれたってこと?」
「……どうなんだろうね」
私は曖昧に言葉を濁しながら、闇の中に潜む気配に目を凝らす。
こういう気の回し方をする近親者を、私は知らない。
祖父とも祖母とも、違う動き方をするこの人は、誰なのだろう。
「あなたは、誰?」
私の問いには答えず、足音は僅かな音を立てながら、その場を歩み去る。
その後も、ふとした瞬間に視線を、気配を感じるこの家は、間違いなくヤバい家なんだと思う。
だけど、追及したところで分からないのならそれは姿が見えようと見えまいと、ただの同居人でしかないと思うことにした。
我ながら多少強引な結論だと思うけれど。
だけど、だからこそ世の中には家の守り神だとか、座敷わらしの伝承があるのだろうし。
考えようによっては生身の人間よりも、ある意味理想的な同居相手なのかもしれない。
勝手に部屋をうろつくという無遠慮な一面はあるとしても、何かを強いてくるほどの強引さはない相手。
そんな相手を、嫌う必要も、恐怖する必要もあるのだろうか。
目に見えず、触れられなくてもそこにいるのは確かな明確な存在感。でも、それだけだ。
家族ではなく、関係者ですらない、空気そのもののような同居人。
そう。同居人だ。
だからこの家は、好むと好まざるとにかかわらず、今日も見えざる誰かと一緒に住むシェアハウスでしかないのだ。




