恋愛にコスパを求めないで欲しい。流石に寛容な私もしんどいです。
実験作です。書き方についても試行錯誤中です。
連載版を始めました。詳しくは後書きにて。
侯爵令嬢のリリー・ハーグレイヴには、幼い頃から決められた婚約者がいる。クロフォード伯爵家の嫡男、アルバート・クロフォード。互いに十歳にもならない頃に婚約したため、付き合いはすでに十年以上になる。
二人の仲は、決して悪くなかった。
少なくとも、リリーはそう思っていた。幼い頃から何度も互いの屋敷を訪ね、一緒に勉強をして、成長してからは舞踏会にも婚約者として参加した。大人になってからのアルバートは王宮で財務に関わる仕事をしており、若手ながら非常に優秀だと評判だった。数字に強く、一度目を通した書類の内容はほとんど忘れない。複雑になっているものを整理したり、無駄な支出を見つけたりすることも得意で、上司からの信頼も厚い。
リリーは、そんな彼を愛していた。
だからこそ、自分にできることはしてきたつもりだった。アルバートの仕事が忙しい時期には、自分の予定を変更して彼に合わせた。伯爵領について相談された時には、侯爵家で使われている資料を調べ、領地経営に詳しい父にも話を聞いた。誕生日には何か月も前から彼が必要としているものを考え、仕事で使える上質な筆記具を選んだこともある。疲れていると聞けば労いの手紙を送り、彼が王宮で昇進した時には自分のことのように喜んだ。
別に、見返りが欲しかったわけではない。
好きな人に喜んでもらいたい。ただそれだけだった。
しかし、アルバートは昔から少し変わっていた。
「来週の日曜日ですが、もしお時間があれば一緒にお茶でもしませんか?王都に新しい菓子店ができたそうですよ」
十七歳の頃、リリーがそう誘ったことがある。当時の二人は、ほぼ毎週のように顔を合わせていた。婚約者なのだから特に珍しいことではないし、リリー自身も週に一度彼と会うことを楽しみにしていた。
ところが、アルバートは予定帳を確認したあと、不思議そうな顔をした。
「先週も会ったばかりだろう?来週まで会う必要はないと思う。毎週会わなくても関係が悪くなるわけではないのだから、一か月に一度くらいでも十分ではないか?」
「一か月に一度ですか?今までは毎週のように会っていましたし、私としてはそれほど負担に感じていませんけれど」
「君が負担に感じるかどうかだけの問題ではない。私がここまで来るのに往復で一時間近くかかるし、君も出掛けるなら準備が必要になる。その時間を勉強や仕事に使った方が有益だろう。話したいことがあるなら、一か月分まとめて話せばいい」
アルバートは冗談を言っているわけではなかった。本当に、一か月に一度会えば十分だと考えているらしい。
リリーは少し寂しかったものの、当時は彼も勉強で忙しい時期だった。将来伯爵家を継ぐために学ばなければならないことも多いのだろうと思い、それ以上は何も言わなかった。
「分かりました。それなら、来月にしましょう。無理をさせたいわけではありませんから」
「助かるよ。君はこういう話をすると、きちんと理解してくれるからありがたい」
そう言って満足そうに頷くアルバートを見て、リリーも笑った。
その頃は、まだ本当に些細なことだった。
けれど、それからも似たようなことは何度もあった。
十八歳の春、二人で王都を歩いていた時のことだ。道端で花を売っていた少女が、リリーたちを見つけて駆け寄ってきた。籠には春らしい色とりどりの花が詰められており、少女はその中から小さな花束を一つ取り出した。
「お連れの方にお花はいかがですか? 今日摘んだばかりなので、とても綺麗ですよ」
決して高価なものではなかった。貴族にとっては気にもならない程度の金額で、リリーも少しだけ期待してアルバートを見る。
しかし彼は花束ではなく、値札を見ていた。
「この金額を払って、それは何日ほど持つんだ?」
「えっと……お水を替えてあげれば、一週間くらいは綺麗だと思います」
「一週間か。それなら必要ないな。数日で枯れるものに金を払う意味が分からない。同じ金額でも、もっと長く使えるものはいくらでもあるだろう」
少女が困ったように花束を引っ込めたため、リリーは慌てて自分で一輪購入した。少女を見送ってから隣を見ると、アルバートは本気で理解できないという顔をしている。
「アルバート様。あのような言い方をしなくてもよかったのではありませんか? それに、花は長く使うために買うものではありませんよ」
「だが、実際に数日で枯れるだろう。君が花を見たいなら侯爵邸の庭にもいくらでも咲いている。わざわざ切った花を買う必要はないと思うが」
「そういう問題ではないと思います。誰かから花を贈ってもらうこと自体が嬉しいこともありますから」
「では、枯れない造花の方が合理的ではないか? 一度買えば何年も使える」
真剣に提案されてしまい、リリーは返す言葉を失った。
婚約十周年を迎えた時も同じだった。せっかく十年という節目なのだから二人で食事でもしようと提案すると、アルバートは「婚約した時に一度祝ったのだから、同じ出来事を毎年祝う必要はないのではないか」と返してきた。
手紙についてもそうだ。地方へ出掛けたリリーが旅先から便箋二枚ほどの手紙を送ったところ、アルバートから届いた返事はわずか数行だった。無事に到着したようで安心した、こちらに変わりはない、帰る日が決まったら知らせてほしい。それだけである。
後日、リリーが冗談交じりに「もう少し書いてくださってもよかったのに」と言うと、彼は申し訳なさそうにするどころか、純粋に疑問を抱いた様子で答えた。
「必要なことはすべて書いたつもりだ。私が元気だということも伝えたし、君が無事だと分かって安心したことも書いた。それ以上に何を書けばいいんだ?」
「例えば、最近あった出来事ですとか。今日はこんなことがあったとか、そういう些細なことでも私は嬉しいですよ」
「だが、それは君が帰ってから話しても同じだろう。手紙を書くにも時間がかかる。急ぎでもない話を書くために時間を使うくらいなら、その間に仕事を進めた方が有益だと思う」
そんなことが何度もあった。
それでも、リリーは受け入れてきた。
アルバートは元々こういう性格なのだ。そう思っていたからだ。
浮気をするわけではない。酒や賭博に溺れることもない。約束したことは守るし、リリーが本当に困っている時には助けてくれる。仕事には真面目で、家族に対しても責任感がある。伯爵家の跡取りとして考えれば申し分のない男性だった。
何より、リリーは彼を愛していた。
会える回数が少ないくらい我慢すればいい。花なんてもらえなくても構わない。記念日だって、自分が覚えていればいい。手紙を書いてくれないなら、自分から送ればいい。
好きな相手なのだから、その程度は受け入れよう。
そうやって十年以上付き合ってきた。
アルバートもまた、そんなリリーを非常に高く評価していた。
「君は本当に結婚相手として優秀だと思う。私の同僚は婚約者から会う時間を増やしてほしいだの、誕生日に何を贈ってほしいだのと言われて困っているらしいが、君はそういう感情的な要求をほとんどしないだろう? 仕事についても理解してくれるし、領地経営について相談すれば有益な意見を出してくれる。君となら結婚後も無用な衝突をせずに済みそうだ」
褒められている。
きっと褒められているのだろう。
それなのに、リリーはその言葉を聞くたび、胸の奥に小さな違和感を覚えていた。
ただ、それが何なのかを深く考えようとはしなかった。
そんな二人の関係が決定的に変わったのは、結婚を半年後に控えたある日のことだった。
「リリー。結婚後の生活について、今のうちに決めておきたいことがある。私なりにまとめてきたから、一度目を通してほしい」
侯爵邸を訪れたアルバートがテーブルに置いたのは、一冊の書類だった。十枚や二十枚ではない。表紙まできちんと付けられ、かなりの厚みがある。
「ずいぶん本格的ですね。領地と王都のどちらを生活の中心にするか、そのあたりについてでしょうか?」
「もちろんそれも含まれている。ただ、結婚してから一つずつ決めるのは非効率的だからな。今のうちに想定できることは、なるべく決めておいた方がいいだろう」
「それは確かにそうですね。では、拝見します」
リリーも最初は何も疑っていなかった。
ところが、表紙をめくって数ページ読んだところで手が止まった。
夫婦で食事をする回数――週三回を基本とする。夫婦で外出する回数――月一回。観劇、音楽会等の娯楽――二か月に一度を目安とする。夫婦間の贈答品――誕生日及び結婚記念日の年二回。贈答品については事前に年間予算を設定する。夫婦で会話をする時間――一日三十分程度を目安とし、双方の自由時間及び仕事時間を圧迫しないよう配慮する。
リリーは一度書類から顔を上げ、それからもう一度同じ部分を読んだ。
何度読んでも内容は変わらない。
「アルバート様。一つ確認してもよろしいですか? この『夫婦で食事をする回数は週三回』というのは、どういう意味でしょう」
「書いてある通りだ。朝食や昼食まで含めれば自然と同席することもあるだろうが、夕食については週三回程度で十分だと考えている。毎日必ず同じ時間に食卓へ着くとなれば、互いの予定を調整する必要が出てくるからな」
「ですが、私たちは夫婦になるのですよね? 特別な予定がなければ、一緒に食事をするものだと思っていました」
「夫婦だから毎日一緒にいる必要がある、という考え方自体を見直した方がいいと思う。私が仕事で遅くなる日に君が待っている必要はないし、君に夜会の予定がある日に私が合わせる必要もない。互いの自由時間を確保した方が効率的だろう?」
言っていることだけを抜き出せば、完全に間違っているわけではない。仕事で帰りが遅い日まで待っていてほしいとはリリーも思わない。
しかし、なぜ最初から週三回と決める必要があるのだろう。
リリーは嫌な予感を覚えながら、次の項目を指した。
「では、贈り物が年二回というのは? 私は別に頻繁に何かを買ってほしいわけではありませんけれど、ここまで明確に回数を決める必要がありますか?」
「基準を作っておいた方が分かりやすい。誕生日と結婚記念日なら忘れる心配もないし、年間予算も計算しやすいだろう。もちろん、君が何か必要なものを買うことまで制限するつもりはない。これはあくまで夫婦間で交換する贈答品についてだ」
「……そうですか。では、この一日三十分というのは?」
「会話の時間だ。必要な話がある日は長くなっても構わない。ただ、特に話すこともないのに何時間も同じ部屋で過ごす必要はないと思う。私も仕事を持ち帰ることがあるだろうし、君にも君の時間が必要だ。最初から適度な距離を保った方が、長期的には良好な関係を維持できるはずだ」
アルバートは自信を持って説明している。
きっと彼なりに真剣に考えたのだろう。
だからこそ、リリーは頭が痛くなった。
まだ続きがある。
新婚旅行は近隣の保養地に三泊四日。それ以上は仕事への影響が大きいため不要。観劇や音楽会への同行も年間六回程度。それ以上は各自の友人と参加する。夫婦で使用する馬車についても、同じ目的地へ向かう場合のみ相乗りする。
そして、さらにページをめくったところで、リリーの指が完全に止まった。
「……子どもについてまで決めたのですか?」
「そこは特に重要だろう。クロフォード伯爵家を継ぐ者は必要だから、事前に方針を共有しておくべきだと思った」
「『原則として後継ぎ一人を儲ける。二人目以降については必要性を考慮して判断する』と書いてありますけれど……これは、本気ですか?」
「もちろんだ。後継ぎが一人いれば家の存続という目的は達成できる。二人目以降は養育費も教育費も増えるし、将来的に財産を分ける必要も出てくる。最初から何人も望む理由は薄いだろう」
リリーはしばらく彼の顔を見つめた。
「もし、最初に生まれた子が女の子だったらどうするのですか?」
「その場合は二人目を検討する。クロフォード家は男子が爵位を継ぐからな。もちろん、二人目も娘だった場合は三人目について改めて相談する必要があるが、必要以上に子どもの数を増やすつもりはない」
「では、最初に男の子が生まれて、私がもう一人子どもを望んだ場合は?」
「なぜ二人目が欲しいのか理由を聞いた上で判断することになるだろう。明確な理由があるなら、私も最初から否定するつもりはない。ただ、兄弟がいた方が楽しいから、という程度では費用に見合うとは――」
「もう結構です」
自分でも驚くほど低い声が出た。
アルバートがようやく口を閉じる。
リリーは書類を膝の上に置いたまま、しばらく何も言わなかった。
今まで、本当に色々なことを受け入れてきた。
一か月に一度しか会えなくても我慢した。花をもらえなくても構わないと思った。記念日を一緒に祝えなくても、自分が気にしすぎなのだと思うことにした。手紙が数行しか返ってこなくても、彼は忙しいのだから仕方ないと納得した。
しかし、これから何十年と続く結婚生活まで、表にして管理されるとは思っていなかった。
まだ生まれてすらいない子どもまで、費用対効果で判断されるとも思わなかった。
そんなリリーの様子を見て、アルバートはようやく何かがおかしいと感じたらしい。
「リリー、何か気になるところがあるなら修正する。これは決定事項ではなく、あくまで私からの提案だ。愛情がないからこうしているわけではない。むしろ逆だよ。私は君と長く良好な関係を築きたいからこそ、互いの負担になりそうなものを最初から減らした方がいいと思っている」
「……これが、良好な関係を築くためのものなのですか?」
「そうだ。世間では恋人や夫婦だからという理由だけで、必要以上に時間や金を使いすぎている。毎週会ったり、意味もなく贈り物をしたり、毎年同じ記念日を祝ったりする必要はないだろう? 愛情があることと、無駄を許容することは別だ。恋愛というものは、もっと効率よくできるはずだと私は思っている」
その言葉を聞いた瞬間、リリーの中で、十年以上かけて積み重ねてきた我慢が音を立てて崩れた。
「恋愛に効率を求めないで欲しいです。正直しんどいです」
アルバートが目を見開いた。
「……そんなに嫌だったのか? 君は今まで一度も不満を言わなかっただろう。会う回数を減らした時も納得してくれたし、記念日についても理解してくれた。私はてっきり、君も同じように考えているものだと――」
「理解はしていました。あなたがそういう考え方をする人なのだということは、ずっと前から理解しています。でも、理解しているからといって、私まで同じ考えだという意味ではありません」
リリーは自分でも不思議なくらい落ち着いていた。
「私は、あなたに毎日会いたいとは言いません。高価な宝石も必要ありませんし、毎月どこかへ連れて行ってほしいとも思っていません。仕事が忙しいなら、そちらを優先しても構いません。でも、私と一緒に食事をする時間も、話をする時間も、贈り物をする回数も、これから授かるかもしれない子どもの数まで損得で計算される結婚生活は嫌です」
「だが、私は君との生活を軽視しているわけではない。むしろ大切だからこそ、長続きする形を考えているんだ。何十年も続く関係なら、感情だけで決めるより――」
「それです。アルバート様は、いつもそうです。私が寂しいかもしれないということより、それが合理的かどうかを先に考える。私が花をもらったら嬉しいかもしれないということより、何日で枯れるのかを考える。私に手紙を書こうと思うより、その時間で何枚の書類を処理できるのかを考える。今までは、それでもいいと思おうとしてきました。でも、一生続けられるかと聞かれたら……もう無理です」
アルバートの表情から、初めて余裕が消えた。
リリーは膝の上にあった書類を閉じ、テーブルへ戻した。
「婚約を解消させてください。私は、あなたとは結婚できません」
「待ってくれ。そこまで話が飛ぶのはおかしいだろう。気に入らない部分があるなら修正すればいい。君との婚約を解消して、今から別の相手を探す方が双方にとって負担が大きい。君は侯爵令嬢で家柄にも問題がなく、教養も社交能力も十分だ。領地経営についても理解しているし、私の仕事にも協力してくれる。容姿も申し分ないし、浪費癖もない。今から君と同等以上の条件を持つ女性を探すのは、あまりにも非効率的だ」
そこまで聞いて、リリーは呆気に取られた。
そして数秒後、思わず額に手を当てた。
「……そういうところです」
「だから、何が――」
「今、私があなたとの婚約を解消したいと言ったのですよ? そこで最初に考えるのが、『私を失いたくない』ではなく、『同じ条件の女性を探すのは非効率的』なのですね」
アルバートは言葉を失った。
◇
数日後、両家を交えた話し合いが行われ、リリーとアルバートの婚約は正式に解消された。
アルバートは当初、それほど深刻には考えていなかったという。自分は伯爵家の嫡男で、王宮でも将来を期待されている。新しい婚約者くらい、すぐに見つかるだろう。
そう考えた彼は、まず候補となる令嬢の条件表を作った。
家柄、美貌、教養、持参金、社交能力、性格、健康状態、領地経営能力。すべてを点数化し、一定以上の点数を獲得した令嬢だけを候補に残す。実にアルバートらしい方法だった。
ところが、条件を増やせば増やすほど、候補者は減っていった。
ようやく条件を満たした令嬢と会うことができても、その先が続かない。
「結婚後の外食についてですが、年四回程度で十分だと考えています。頻繁に外で食事をするより、屋敷で取った方が費用を抑えられますから。その分を将来のために貯蓄した方が有益でしょう」
「……わたくし、月に一度くらいは夫婦で出掛けたいのですけれど」
「必要なら検討します。ただ、目的のない外出は時間の浪費になりやすいので、事前に行き先と所要時間を決めた方がいいでしょう。それから誕生日の贈り物についても年間予算を設定して、新婚旅行については生産性がほとんどありませんので――」
「申し訳ありません。この縁談は辞退させていただきますわ」
そんなことが何度も続いたらしい。
やがて社交界でも、「クロフォード伯爵家の嫡男は、妻にまで費用対効果を求めるらしい」「あの方との結婚生活は、夫婦というより共同事業ではないか」と噂されるようになった。
一方、婚約を解消したリリーは、驚くほど気持ちが楽になっていた。
最初の頃こそ寂しかった。十年以上も将来を共にすると思っていた相手である。簡単に忘れられるはずがない。
それでも、少しずつ自分のために時間を使えるようになった。
以前ならアルバートの予定に合わせるため断っていた観劇にも出掛けた。友人から舞踏会へ誘われれば、素直に参加した。街で綺麗な花を見つければ、自分のために買った。
そんな日々の中で知り合ったのが、子爵家の次男であるセドリックだった。
彼も決して浪費家ではない。むしろ金銭感覚はしっかりしているし、派手な愛情表現を好む男性でもなかった。
ただ、リリーが何気なく話したことをよく覚えていた。
「これ、以前好きだと言っていただろう? 近くまで行ったから買ってきたんだ」
そう言って渡されたのは、小さな菓子の包みだった。
「覚えていたのですか? 一度、友人とのお茶会で美味しかったと話しただけですよ」
「一度でも聞けば覚えていることくらいあるよ。それに、店の前を通った時に君の顔が浮かんだからね。高いものではないけれど、よければ食べてほしい」
たったそれだけのことなのに、リリーは嬉しかった。
忙しい日には短い手紙が届いた。
『今日は仕事が長引きそうで会えない。残念だ。また今度、ゆっくり話そう』
何か重要なことが書かれているわけではない。それでも、自分に会えないことを残念に思ってくれている。その気持ちを伝えるためだけに、わざわざ紙とインクを使ってくれた。
そしてある日、予定になかったセドリックが侯爵邸へやって来た。
「今日は何か御用でしたか? お会いする約束はしていなかったと思いますけれど」
「ああ、約束はしていない。近くまで来たから顔を見たくなって……と言いたいところだけど、正確には君の屋敷へ寄るために少し遠回りした。迷惑だったならすまない」
「どうして、わざわざ遠回りを?」
「今日は君に会いたかったから。それ以外に理由はないよ」
その言葉を聞いた時、リリーはようやく気づいた。
愛情とは、そもそも効率の悪いものなのかもしれない。
会わなくても困らない日に、わざわざ会いに来る。数日でなくなる菓子を買う。返事を急ぐ必要もない手紙を書く。遠回りをして、時間を使って、相手が喜ぶかもしれないというだけの理由で何かをする。
数字にすれば、きっと無駄ばかりだ。
けれど、その無駄が嬉しいのだ。
それからしばらくして、リリーがセドリックと観劇へ向かおうとしていた時だった。
「リリー、少しだけ話をさせてくれないか。君に伝えたいことがあるんだ」
久しぶりに会ったアルバートは、以前より少し疲れて見えた。
リリーが了承すると、彼はどこか緊張した様子で口を開いた。
「君が以前言っていたことについて、私なりに考えた。確かに、私は君に我慢をさせすぎていたのかもしれない。だから、もしもう一度やり直せるなら、以前より会う頻度を二倍にするつもりだ。月に一度ではなく月二回、必要なら三回でも構わない。贈り物についても予算を五割増額するし、結婚後の食事も週三回ではなく週五回に変更する。記念日についても毎年祝うようにする。それなら――」
「アルバート様」
リリーは彼の言葉を静かに遮った。
以前の自分なら、そこまで譲歩してくれたことを喜んだかもしれない。
けれど、今は違う。
「……まだ数字で考えているのですね」
アルバートの表情が固まった。
「違う。これは君が不満に思っていた部分を改善するための具体的な案であって、私は本当に以前より君を大切にしようと――」
「私が欲しかったのは、月二回会うという約束ではありません。贈り物の予算を五割増やしてもらうことでもありません。あなた自身が私に会いたいと思ってくれることが、嬉しかったのです。月に一度しか会えなくても、その一度をあなたも楽しみにしてくれているなら、それでよかった。花だって一度も贈ってもらえなくても、街で綺麗な花を見た時に『リリーが好きそうだ』と思ってくれるだけでよかったのですよ」
アルバートは、何も言わなかった。
そこでようやく、自分が根本的に何も理解していなかったことに気づいたのだろう。
リリーも、それ以上責めるつもりはなかった。
アルバートは悪人ではない。ただ、恋愛というものに恐ろしく向いていなかっただけだ。
その後、アルバートは仕事に打ち込むようになった。徹底した合理主義は仕事において大いに役立ち、王宮の財政改革でも成果を上げ、若くして重要な役職へと出世した。無駄な予算を見つけさせれば右に出る者はいないとまで言われるようになったという。
しかし、恋愛だけは相変わらずうまくいかなかった。
それもまた、彼らしい人生なのかもしれない。
一方のリリーは、それからしばらくしてセドリックと正式に婚約した。
婚約して最初の春。何の約束もしていなかった午後に、セドリックが突然侯爵邸へやって来た。出迎えたリリーが驚いていると、彼は少し照れくさそうに笑う。
「今日は近くに用事があったわけでもないんだ。ただ朝から君のことを考えていたら、どうしても顔を見たくなった。それで馬車を出してもらった。突然来たら迷惑かもしれないとは思ったんだけど……少しくらいなら会ってくれるか?」
リリーは思わず笑ってしまった。
「それでは、ここまで来るためだけに何時間も使ったのですか? 他に用事もないのに?」
「ああ。だから自分でも、ずいぶん効率の悪いことをしたと思っているよ」
そんなセドリックの言葉を聞きながら、リリーは嬉しそうに彼の手を取った。
「ええ。それくらい非効率な方が、私は好きです」
別作品ですが連載を始めました! かなり気合いを入れて書いてます。(代表作にも設定しました)
『一度は私を捨てたくせに、今さら口説き直すおつもりですか?』
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