中村君シリーズ⑤ 『静かなカフェほど、だいたい邪魔が入る』
第1話 悪くない夜のはずだった
仕事終わりの空気は、だいたい人を雑にする。
パソコンを閉じた直後のフロアで、部長が何気ない顔で言った。
「中村、お前さ。もうちょい給与分働けよ」
冗談みたいな口調だった。
だから余計に、返しづらい。
やっと少し出てきた仕事のやる気が、すっと消えた。
「……はい」
返事はした。
したが、少しだけ遅れた。
相沢が横で笑う。
「部長、それ今どきだいぶ危ないっすよ」
「何がだ」
「発言がです」
「うるせえ。暇ならお前が働け」
「ほらそうやってすぐ雑になる」
桃花がファイルを抱えたまま、にやっとする。
「中村さん、今日ちょっと効いてます?」
「通常営業です」
「そういう日に限って通常じゃないんですよね」
「便利な言い方だな、それ」
「そういえば」
と桃花が言った。
「駅前に新しいカフェできたんですよ」
「夜は静かで、スイーツも美味しいらしいです」
「へえ」
と相沢。
「中村そういうとこ行かなそう」
「行かないですね」
「即答だな」
「即答できる自信があります」
白石さんが、その会話に少しだけ入る。
「でも、静かならちょっと気になります」
「私もです」
と桃花がすぐに乗る。
「前からちょっと気になってたんですよね」
相沢がにやにやしながら言う。
「じゃあ決まりじゃん」
「中村、白石さん、桃花」
「ちょうどいいメンツだな」
「相沢さんは来ないんですか」
と中村。
「俺は今日は家族サービス優先」
「年始からポイント稼がないと命に関わるんで」
「生々しいな」
「大事だろ、家庭運」
桃花が吹き出す。
「相沢さん、そういうのだけ妙にリアルですよね」
白石さんが少し笑ってから、中村を見る。
「中村くんも、もし時間あれば」
「無理なら全然いいんですけど」
中村は一瞬だけ止まった。
断る理由を探す。
でも、どれも少し嘘っぽかった。
しかも桃花が、もう完全に行く顔をしている
「……行きます」
と中村。
「やったぁ」
と桃花。
「じゃあ決定ですね」
「決まるの早くないですか」
「迷ってると行かないタイプの人いますから」
「誰のことですか」
「言わなくても分かる人です」
白石さんが、ほっとしたように小さく笑った。
「よかったです」
「……まあ、静かなら」
「そこ重要ですよね」
「かなり」
相沢は帰り支度をしながら手を振る。
「じゃ、俺はここで離脱な」
「家族によろしく」
「おう。お前らは静かに楽しんでこいよ」
「その言い方がちょっと嫌なんですよ」
「気にすんな。俺はもうそういう目で見てる」
「……もういいんで、早く帰ってください」
三人で駅前の新しいカフェに入った。
外観だけ洒落ていて中は騒がしい、みたいな店を中村は少し警戒していたのだが、そうではなかった。
照明はやわらかい。
席も近すぎない。
コーヒーの匂いがちゃんとしている。
店内の音楽も、主張が弱くて助かるやつだった。
「……すごいな」
と中村。
「思ったより落ち着いてますね」
と白石さん。
その時、入口の横に立っていた店員がにこやかに声をかけた。
「本日、開店記念フェアでご来店のお客様にミニくじを引いていただいてます」
「当たりが出た方には、限定の焼き菓子をサービスしています」
「え、そういうの好きです」
と桃花が即答した。
「見た目通りだな」
と中村。
「どういう意味ですか」
「今だけに弱そう」
「大正解です」
桃花はさっそくくじ箱を差し出した。
「はい、中村さん」
「なんで俺なんだよ」
「こういうのは、乗り気じゃない人から引かせると面白いんです」
「性格悪いな」
「観察眼です」
中村はため息をつきながら、くじを引いた。
小さな紙を開く。
当たり。
「え」
と中村。
「えっ」
と桃花。
「ほんとですか?」
と白石さん。
店員が笑顔で言う。
「おめでとうございます。限定の焼き菓子をお選びいただけます」
「……当たることあるんだな」
「今日ちょっと持ってますね」
と桃花。
「今ちょっとだけ羨ましいです」
と白石さんが笑う。
その言い方に、中村は少しだけ視線をそらした。
悪くない。
まだ何も起きていないのに、そう思ったのは少し久しぶりだった。
桃花もくじを引く。
はずれ。
「えー!」
「見事な落差だな」
「中村さんのあとに引かせるからですよ」
「知らないよ」
白石さんは少し迷ってから引いた。
参加賞。
「よかった。ちょうどいいです」
「その感想、かなり白石さんっぽいですね」
と桃花。
「ですよね」
と中村。
「今の、ちょっと分かります」
白石さんが小さく笑った。
席に着く。
中村は端の席にそっと座った。
白石さんが向かい。
桃花がその横。
(助かった)
最初から白石さんと二人きりだと、たぶんもう少しだけ呼吸が難しかった。
桃花はそういう意味で、かなりありがたい。
「中村さん、なんか今ちょっと安心しました?」
と桃花。
「してないです」
「してますね」
店員が注文を取りに来る。
桃花が慣れた感じでまとめて伝える。
「すごいな」
と中村。
「何がですか?」
「こういう店で自然にしゃべれるの」
「中村さん、たまに自分を珍獣みたいに言いますよね」
「否定しづらいのやめてくれ」
会話は、思っていたより流れた。
桃花がいるからだと思う。
話題が切れそうになると、すぐ別の話に飛べる。
中村が返事に迷っても、軽く拾ってくれる。
白石さんも、それで少し自然に笑っていた。
「今年の初詣、何お願いしたんですか?」
と桃花。
「平和です」
と中村。
「ざっくりしてる」
「いや、かなり本気で」
「中村さんっぽいですね」
と白石さん。
「白石さんは?」
「私は……健康と、周りが元気でいてくれること、ですかね」
「いい人すぎる」
「俺よりだいぶちゃんとしてるな」
「中村さんは?」
「平和です。できれば昼休みが昼休みとして使えますように」
「切実すぎる」
と白石さんが笑う。
その笑い方がやわらかくて、中村は少しだけ水を飲んだ。
悪くない。
本当に、少し驚くくらい悪くなかった。
しかも今日は、さっき当たりまで引いた。
そんな小さいことでも、人間は案外その気になる。
だからたぶん、油断した。
最初に来たのは、水だった。
次に桃花のケーキ。
そのあと、なぜか中村の前にスプーンだけが置かれた。
「……スプーン」
と中村。
「ですね」
と白石さん。
「中村さん、先に気持ちだけ食べてください」
と桃花。
「無理だろ」
「しかも当たりの焼き菓子より先にスプーン来るんですね」
「順番がだいぶ自由だな」
「今日ほんと、ちょっとずつズレますね」
と白石さん。
まあ、これくらいなら別にいい。
そう思った瞬間だった。
白石さんのラテが運ばれてきた。
中村は固まった。
ストローの先に、黒い小さな何かがぶら下がっていた。
影が濃くなったみたいな、輪郭の曖昧なやつだ。
しかも、ぺたぺたとストローを舐めている。
「……」
「どうかしました?」
と白石さん。
「その、ストロー……交換した方がいいです」
桃花が目を丸くした。
「今日一の声ですね」
「え?」
と白石さん。
「このストロー嫌だったんですか? ちょっと可愛いのに」
「いや、そういうことじゃなくて……」
言いよどんだその間に、黒いのはするりとストローから降りて、今度は白石さんの袖口の影に潜り込んだ。
「うわ」
と中村。
「え?」
「いや、なんでもないです」
桃花がじっと中村を見る。
「中村さん」
「何」
「今日ほんとちょっと変ですよ」
「疲れてるだけだよ」
「それにしては、見てる場所が変です」
「言い方が怖いな」
「観察眼です」
「便利だな、それ」
向かいで白石さんが、少しだけ困ったように笑う。
「今日は、ちょっと変な日ですね」
「……そうですね」
そのタイミングで、店員がやってきた。
「申し訳ありません、こちらラテにお付けするスプーンです」
「失礼しました、遅くなりました」
今度は白石さんのラテ用のスプーンだけが、なぜか一周遅れて届いた。
桃花が小さく吹き出す。
「今日ほんと、ちょっとずつズレますね」
「そうですね」
と白石さん。
「でもまあ、こういう日もあります」
「中村さんのスプーン先行事件もありましたし」
「事件にするな」
三人で笑う。
その空気は、ちゃんとしていた。
ぎこちないけど、悪くない。
少しだけ背伸びした店なのに、変に疲れない。
今日は、ちゃんとした時間になるかもしれない。
そう思った瞬間、また黒いのが動いた。
今度は、テーブルの端の影から顔だけ出して、明らかにこっちを見ていた。
(……また増えたのかよ)
「中村さん?」
と桃花。
「え?」
「さっきから、たまに変なとこ見てません?」
「そんなことない」
「ありますよ」
「気のせいだろ」
「白石さん」
と桃花が楽しそうに振る。
「今の、中村さんちょっと怪しかったですよね」
「ちょっとだけ」
と白石さんが笑う。
中村は小さく息を吐いた。
「今日は二人とも、やたら人のこと見てるな」
「そりゃ見ますよ」
と桃花。
「珍しい組み合わせですし」
桃花のスマホが、その時小さく震えた。
画面を見る。
眉が少しだけ上がる。
「あ」
「どうしたんですか?」
と白石さん。
「友達からです」
「“近くまで来てるから、今から顔出せる?”って」
「急だな」
と中村。
「まあ、桃花っぽいけど」
「どういう意味ですか」
「交友関係が広そう」
「それはたしかに」
と白石さん。
桃花は少し迷う顔をしたあと、にやっとした。
「どうしよっかな」
「いいんじゃないですか」
と中村。
「別に、こっちは気にしなくて」
「えー」
桃花はわざとらしく中村と白石さんを見比べた。
「ここで私が抜けたら、なんかすごい空気になりそうなんですよね」
「ならないよ」
「その否定、もう三回くらい聞きました」
「数えるな」
白石さんが少し笑ってから言う。
「大丈夫ですよ。せっかくなら行ってきてください」
「うーん……」
桃花は少しだけ考えたあと、立ち上がった。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「でも中村さん」
「何」
「変に黙りすぎないでくださいね」
「なんで事前にそんな注意をされるんだよ」
「不安しかないので」
「ひどいな」
「褒め言葉です」
「どこがだよ」
桃花は楽しそうに笑って、白石さんに軽く手を振った。
「じゃあ白石さん、あとはお願いします」
「え、何をですか」
「そのへん全部です」
「雑だなあ」
と中村。
「相沢さんと同じ種類の雑さがある」
「光栄です」
「そこ喜ぶな」
桃花は最後にもう一度だけ、意味ありげに二人を見てから店を出ていった。
急に、席の空気が少し広くなった気がした。
さっきまで助かっていたはずなのに、今度はそれがそのまま落ち着かなさに変わる。
中村は水のグラスを持った。
冷たかった。
でも、その冷たさが少しだけ必要だった。
向かいで白石さんが、少しだけ困ったように笑う。
「静かになりましたね」
「……ですね」
「桃花さん、すごいですね」
「だいぶ助けられてました」
「私もです」
その言い方に、少しだけ救われる。
二人とも同じだったらしい。
その時、テーブルの端の影が、またほんの少しだけ揺れた。
⸻
第2話 いい感じだけ、だいたい消える
桃花が抜けると、会話の回し役まで一緒に持っていかれた気がした。
中村は水をひと口飲んだ。
冷たかった。
でも、それで少しだけ間が持つ。
向かいで白石さんが、少し困ったように笑う。
「静かになりましたね」
「……ですね」
「桃花さん、すごいですね」
「だいぶ助けられてました」
「私もです」
その一言で、少しだけ気が楽になった。
自分だけじゃなかったらしい。
「てっきり、白石さんはこういうの慣れてる方かと思ってました」
「二人でご飯、とかですか?」
「はい」
「全然です」
「たぶん、似たようなこと思ってたので」
「……ああ」
少しだけ間が空く。
気まずいわけではなかった。
むしろ、気まずくなりそうでならない、その途中みたいな時間だった。
白石さんがラテのカップを両手で持つ。
「でも、桃花さんがいてくれたから来やすかったのはあります」
「それは、かなり分かります」
「かなりなんですね」
「大事なところなんで」
白石さんが笑う。
その笑い方が、さっきより少し近かった。
中村はそこで、ようやくひと息ついた気がした。
テーブルの端の影は静かだった。
さっきの黒いのも、今は見えない。
このまま何も起きなければいい。
今日くらい、ちゃんと終わってくれればいい。
「中村くんって」
と白石さんが言った。
「思ってたより、ちゃんと話してくれるんですね」
中村は少しだけ目を上げた。
「それ、褒めてます?」
「褒めてます」
「思ってたより、がちょっと気になりますけど」
「すみません」
白石さんは少し笑う。
「もう少し壁がある人かと思ってました」
「ありますよ」
「でも、今はそんなに」
「……それは、たぶん桃花のおかげです」
「それもありますね」
また少し笑う。
中村は、まだ来ていない当たりの焼き菓子用の小皿を見た。
空っぽのままだった。
でも、別にそれでもよかった。
こうして普通に会話が続いているだけで、今日はかなり上出来な気がした。
「こういう店、よく来るんですか」
「たまにです。今日はかなり当たりです」
「それはよかった」
「中村くんは?」
「自分からはあんまり来ないです。でも、思ったより落ち着きます」
「よかったです」
「はい」
その「はい」は、自分でも少し素直すぎた気がした。
白石さんがカップを置く。
それから、少しだけ迷うように目を伏せた。
「あの」
と白石さん。
中村は反射で姿勢を少し正した。
「今日誘ったのも……」
その言い方が、いつもより少しだけ真面目だった。
中村は一瞬だけ背筋を伸ばした。
いや、待て。
さすがに違う。
違うはずだ。
でも、じゃあ何だ。
何でもない顔をしているが、心臓だけちょっと先に騒いでいた。
「……はい」
とだけ返す。
その時だった。
「申し訳ありません」
と店員がやってきた。
中村は顔を上げる。
店員は申し訳なさそうに笑っていた。
「少し混み合ってきまして、こちら相席をお願いしてもよろしいでしょうか?」
中村は一瞬、意味を飲み込めなかった。
(えっ……カフェで相席?)
(しかも、なんでうちのテーブルだけ)
たしかに、さっきより店内の席は埋まっていた。
でも、まだ他にも空いている席はある。
なのに、なぜか今このタイミングだった。
「え、あ……」
向かいの白石さんも、少しだけ目を丸くしている。
たぶん、同じことを思った。
でも、二人ともこういう場面で強く断れるタイプではなかった。
「大丈夫です」
と白石さんが言った。
「……はい」
と中村も続ける。
そう答えた瞬間、テーブルの端の影が、ほんの少しだけ揺れた。
見る。
黒いのがいた。
さっきと同じ、輪郭の曖昧な小さいやつ。
今度はテーブルの角に頬杖でもつくみたいに寄りかかって、こっちを見ていた。
まるで、うまくいった、とでも言いたげに。
(お前かよ)
黒いのは、ぴくっと揺れた。
それが笑ったように見えたのは、たぶん気のせいじゃなかった。
やがて案内されてきたのは、女性二人組だった。
声が大きいわけではない。
むしろ静かな方だ。
でも、だからこそ会話の内容だけが妙に耳に入る。
「で、それってもう告白みたいなもんじゃない?」
「いや、まだそこまでは……」
「いやいや、それ絶対そうでしょ」
中村は水を飲んだ。
白石さんも、少しだけ視線を落としている。
さっきまであったはずの空気が、きれいに別のものにすり替わった気がした。
「……すみません」
と白石さんが小さく言う。
「いえ」
と中村。
「白石さんが謝ることじゃないです」
「でも、なんだか」
「……俺も、ちょっと今そう思いました」
「ですよね」
「はい」
そこにまた間ができる。
さっきまでなら、その間もそこまで悪くなかった。
でも今は違う。
隣の会話が、その隙間に入り込んでくる。
「それで、なんて返したの?」
「まだ返してないって」
「いや、それ一番だめなやつでしょ」
中村は、空っぽの小皿をもう一度見た。
当たりの焼き菓子は、まだ来ない。
その時、店員がようやくコーヒーを持ってきた。
「お待たせしました、ブレンドです」
「……どうも」
置かれたカップから、やわらかく湯気が立つ。
ようやく来た。
それだけなのに、少しだけほっとする。
でも、その湯気の端に、また黒いのがいた。
ふわ、と揺れて、湯気を吸うみたいに顔を寄せる。
「……」
「どうかしました?」
と白石さん。
「いや」
中村は首を振る。
「ちょっと、思ったより遅かったなって」
「コーヒーですか?」
「いえ、いろいろ」
「……ああ」
白石さんが少しだけ笑った。
その笑い方はやわらかいのに、今日はそこへたどり着くまでが妙に遠い。
隣から、また声がする。
「で、次会うの?」
「うーん……」
黒いのが、今度は白石さんのカップの影へ移った。
タイミングを見計らうみたいに、じっとしている。
中村はその動きを目で追った。
「中村くん?」
「え」
「また、変なとこ見てます」
「今日はみんなそれ言いますね」
「実際見てるので」
「否定しづらいな……」
白石さんはラテに口をつけようとして、少しだけ止まった。
「あの」
と白石さんが言う。
「さっきの続きなんですけど」
黒いのが動く。
中村は反射でそっちを見た。
その瞬間、隣の席の片方が少し大きめの声で言った。
「え、じゃあそれ告白じゃん!」
白石さんが、言葉を止めた。
中村も、反応が一拍遅れた。
テーブルの端で、黒いのが満足そうに丸まる。
そこでようやく、中村は少しずつ分かってきた。
こいつは、ただ邪魔しているんじゃない。
ちょうどよくなりそうな時だけ、そこを狙ってずらしている。
いい感じになりかけた空気だけを、食っている。
黒いのが、今度は中村のカップの縁にぴたりと張りついた。
中村にだけ聞こえるくらいの小さい声で、そいつは言った。
「その“ちょうどよくなりそうな感じ”、うまいな」
中村は、カップを持ったまま止まった。
隣の席の会話。
途中で切れた白石さんの言葉。
まだ来ていない当たりの焼き菓子。
少しずつよくなっていたはずの空気。
全部まとめて、目の前の黒いのに食われている気がした。
白石さんが少しだけ困ったように笑う。
「今日は、なんだかちょっとタイミングずれますね」
「……そうですね」
と中村。
本当は違うと言いたかった。
白石さんのせいじゃないと。
でも、うまく言えなかった。
黒いのがまた揺れる。
中村はテーブルの影を見た。
今度は、はっきりとにらんだ。
(……今のは食うなよ)
⸻
第3話 ちゃんと食べたかっただけなんだよ
中村が影をにらんだあとも、すぐには何も変わらなかった。
隣の席では、まだ恋の相談が続いている。
「いや、でもそれ絶対気あるって」
「そうかなあ……」
「そうだって。じゃなきゃ二回も会わないでしょ」
中村はコーヒーカップを持ち上げた。
湯気はまだ出ている。
でも、さっきみたいな“ほっとする感じ”は、もう少し遠かった。
白石さんもラテに口をつける。
けれど、そのあと少しだけ視線を落とした。
当たりの焼き菓子は、まだ来ない。
間食いはテーブルの端で、やけに満足そうだった。
小さいくせに、妙に堂々としている。
「中村くん」
と白石さんが言う。
「はい」
「さっきの続きなんですけど……」
また黒いのがぴくっと揺れた。
中村は反射でそちらを見そうになって、ぎりぎりで止めた。
見るな。
今はそっちじゃない。
向かいを見る。
白石さんは少しだけ言いにくそうだった。
でも、ちゃんとこっちを見ている。
「今日、誘ったのも」
と白石さん。
「なんとなく、ですけど」
「なんとなく?」
と中村。
「はい。ちゃんとした理由はないんですけど」白石さんは少しだけ笑った。
「でも……たまには、こういうのもいいかなって思って」
「中村くん、ずっとちゃんとしてるのに、たぶんちゃんと休めてない気がして」
中村は少しだけ目を見開いた。
白石さんは、少しだけ視線を落とす。
「それに」
「話してみたら、思ってたよりちゃんと話してくれるから」
「もう少し、こうして話してみたいなって思ったんです」
隣で、椅子がきいと鳴った。
店員が奥を通る。
間食いが、また湯気の端を舐めるみたいに揺れた。
でも今の言葉は、ちゃんと聞こえた。
「……それは」
と中村は言いかけて、止まる。
何を返せばいいのか、少し分からなかった。
白石さんが、ほんの少しだけ笑う。
「やっぱり、変なこと言いました?」
「いや」
中村は首を振る。
「変ではないです」
そこまで言ったところで、店員がまた来た。
「お待たせしました、開店記念の焼き菓子です」
やっと来た。
小さい皿の上に、丸い焼き菓子が二つ。
甘い匂いがした。
白石さんが皿を見て、少しだけ笑う。
「これ、スプーンいらないですね」
「……あっ、はい。そうみたいです」
自然と、少しだけ笑いがこぼれた。
それだけで、最初に当たりを引いた時の空気まで一緒に戻ってきた気がした。
悪くない、と思ったあの感じだ。
その皿の縁に、間食いがいた。
黒い小さな影が、先に一口かじるみたいに顔を寄せている。
中村は固まった。
「どうかしました?」
と白石さん。
「……いや」
言いながら、中村は皿を見る。
最初に当たった小さいご褒美。
うまくいくかもしれないと思えた小さい始まり。
それまで、こいつに食われるのか。
白石さんが少しだけ表情を曇らせた。
「中村くん」
「はい」
「もしかして今日、私といると落ち着かないですか?」
中村はすぐに顔を上げた。
「違います」
自分でも驚くくらい、すぐに出た。
白石さんが少し目を見開く。
中村はカップを置いた。
小さく音が鳴る。
「違います」
と、もう一度言った。
隣の席の声も、店内の音楽も、その時だけ少し遠くなった気がした。
「今日は」
中村は言葉を探す。
でも、探しているうちに、逆に余計なものが落ちていった。
飾る言葉とか、無難な返しとか、そういうやつだ。
「今日は、ちゃんと食べたかっただけなんです」
白石さんが黙って聞いている。
中村は視線を皿に落とした。
「静かに」
「普通に」
「それだけでよかったのに」
喉の奥が少し熱い。
怒っているのか、情けないのか、自分でも少しよく分からなかった。
でも、ずっと引っかかっていたものが、ようやく言葉になった気がした。
白石さんは何も言わなかった。
ただ、少しだけやわらかい顔をしていた。
中村はそのまま、テーブルの端の影を見る。
間食いがいる。
きょとんとした顔で、こっちを見返していた。
「もうやめろ」
と中村は言った。
「今日は、そういうのいらない」
間食いは動かなかった。
まばたきでもするみたいに、影が一度だけ細くなる。
「……お前、そういうの言うのか」
と、間食いは小さくつぶやいた。
「言うよ」
と中村。
「今日は、ほんとにそれだけでよかったんだよ」
間食いはしばらく黙っていた。
それから、少しだけ名残惜しそうに揺れる。
「……マジでうまい」
「これ、他のやつにも知らせよ」
「美味。美味」
そうつぶやいて、間食いはすっと空気に溶けた。
影が消える。
その瞬間、店の中の音が少しだけ元の大きさに戻った気がした。
隣の席の恋の相談も、ただの他人の声になった。
湯気の匂いも、ちゃんとコーヒーだった。
白石さんが、ふっと息をつく。
「……なんだか」
と白石さん。
「急に、少し静かになりましたね」
中村は小さく笑いそうになった。
「ですね」
「さっきまで、ずっとちょっとだけズレてた感じでした」
「はい」
「中村くん、そういうの苦手そうですもんね」
「かなり」
「そこは即答なんですね」
「大事なところなんで」
今度は、白石さんが笑った。
さっきまでより、少し自然だった。
白石さんは焼き菓子の皿を見た。
「……せっかくなんで、半分こします?」
「え?」
と白石さん。
「これ、当たりですけど」
「一人で二個食べるのもちょっと多いんで」
白石さんが小さく笑う。
「じゃあ、ちょうどいいですね」
「……そうですね」
白石さんが一つ取る。
中村も一つ取る。
さくっと小さな音がした。
甘かった。
それだけなのに、さっきまで届かなかったものが、ようやくちゃんと届いた気がした。
白石さんが焼き菓子を少し見てから言う。
「じゃあ」
「今度は、もっと静かな店にしましょうか」
中村は一瞬だけ止まった。
「……今度、あるんですか」
自分で言ってから、少しだけ図々しかったかもしれないと思った。
白石さんは、少しだけ不思議そうにしてから笑った。
「ありますよ」
「嫌じゃなければ」
「嫌ではないです」
「よかった」
その返事は、今度は自然に出た。
店を出る頃には、外の空気は少し冷えていた。
でも、来た時より悪くない。
並んで歩く。
沈黙はある。
でも、さっきまでの“壊れた沈黙”じゃない。
白石さんがマフラーを少し直しながら言う。
「今日は、ありがとうございました」
「いえ」
「途中ちょっと変でしたけど」
「ちょっとでしたかね」
「……かなり?」
「かなりでしたね」
二人で少し笑う。
駅の手前で、白石さんは立ち止まった。
「じゃあ、また」
「はい」
「今度は、ちゃんと静かな日に」
「それ、かなり大事ですね」
「ですよね」
白石さんはやわらかく笑って、手を振って帰っていった。
中村はその背中を少しだけ見送る。
それから、自販機の前で止まった。
いつものカフェオレを押す。
少し迷って、横にあった小さな焼き菓子も一緒に買った。
静かに食べたかっただけだった。
でも、そのくらいの望みなら、これからは少しずつ守ってもいいのかもしれない。
本作は『初詣で、変なのを拾った』に続く、
中村君シリーズ第5作です。
今回は、静かに食べたかっただけなのに、
なぜか“いい感じ”だけを食われていく話になりました。
前作まで読んでいただいていると、
中村君や登場人物たちの空気を、より楽しんでいただけると思います。
もし少しでも楽しんでいただけたら、
評価や感想で応援していただけると嬉しいです。




