10円
大勢の人が歩いている通路だが、流れに逆らえないほどではない。
金属音がして、ふと横を見ると、白いひげを生やした紳士が銅色のコインを落としたようだった。
紳士も一緒にそちらの方を振り返ったが、拾わず、そのまま歩き出してしまう。
灯台下暗しというやつなのか……
うーん、そうは見えなかった。
1円玉を拾うとその拾っている時間で働いたほうが儲かるため、損しているという話を聞いたことがある。
紳士が落としたのは恐らく10円玉であったが、普通の人の10倍の給料を貰っているのだろうか。
外国のコインだから、拾う価値が無いのかもしれない。
真相が気になった私は、紳士がコインを落とした場所に戻ることにした。
*
誰かが既に拾ってしまったのだろうか。
私がその場所に戻るとコインらしきものは見当たらなかった。
代わりに、個包装の飴が1つ、路上に取り残されていた。
事が起きた現場を正確には覚えていないため、紳士が落としたものがそれであったかどうかは分からない。
だが、その袋が反射するオレンジがかった光は5分前に私が見たものと同じような気がする。
記憶を探ってみたが、飴のようなものが他に落ちていたということは思い出せない。
果たして、これこそが老紳士の落とした物の正体なのだろうか。
ふと、私にその可能性を消し去るためのアイデアがよぎる。
袋の中身が入っていなければあのような音は鳴るまい。
道端に落ちている飴の袋に手で触るようなことも足で踏んづけるようなこともしたくないので、誰かがそれを踏むのを待つ。
だが、誰もそうしない。
もどかしくなった私はその飴こそが老紳士の落としたものだと思い込むことにした。
だが、どうしてもあの音は金属が地面に落ちる音であったように思われる。
私は左ポケットに手を突っ込んで、中をゴソゴソと探る。
『にやり』
私の手はポケットの中の飴に触れる。
非常食として買っておいたものだ。
幸い、あの音だけは鼓膜に焼き付いている。
実際にこれを落として確かめてやろうか。
通行人の邪魔にならないように私は通路の端の方に移動する。
この床も、紳士が飴を落とした床と同じ。
私はポケットから飴を取り出す。
黒糖味の飴だ。
偶然、錆びた10円玉の色であった。
紳士が落とした飴は錆びていない10円玉の色をしていたため、こちらのほうが本物らしく見えるだろう。
だが、左手に飴を持った私の動きは止まる。
人通りが少ないと言っても、通路の端には休憩や待ち合わせなどで立ち止まっている人が多い。
こんなところであの音を響かせてしまえば、注目を浴びてしまうこと間違い無しだ。
飴を左手の熱で温かくしながら、私は考える。
このまま落としてしまうべきか、こんな妄想とともにポケットにしまい込んでしまうべきか。
手の中でビニールが優しく弾ける音がする。
突然、黒糖の甘い香りが鼻に入る。
それに驚いた私か、覚悟を決めた私の手からは飴が滑り落ちる。
コッコロン
金属音とは掛け離れた音が鳴る。
私が無意識の内に握りしめてしまっていたビニールの部分から地面に落下してしまったのだろう。
なるほど、いくらなんでも硬い飴の部分から落下しなくてはあの音は鳴らない。
いつの間にか黒糖の香りは先程よりも濃くなっていた。
飴の部分が下になるように袋を構え、もう一度手を離す。
チッコロン
先程よりは甲高い音が鳴り響いたが結局、私を納得させる音は鳴らなかった。
突然、誰かの舌の音が通路に響き渡る。
私が落とした飴よりも、紳士が落とした物よりも甲高く。
はっとした私は前に進むことにした。
今日の話です。




