第8話
あれから10日ほど経った。
今日も、奏絵はカフェ「ノクターンテーブル」にいた。
外の陽射しは強く、気温も高い。
ゴロゴロゴロ
近くで雷が鳴った。1回だけでなく、さらにまた1回。
スマホを取り出して、気象アプリを立ち上げる。
――通り雨が来そうね。
アプリの雨雲レーダーは真っ赤な雨雲が近くで湧いて、風に流されて1時間もしないうちに降り始めると示していた。
――どうしようかしら。
ここで通り雨をやり過ごすか、雨が降り始める前に恵梨果のヘアサロンに移動するか。
テーブルにはアイスコーヒーが入ったグラス。コーヒーの黒をベースに、グラスの外側についた露と内側の氷が織りなす光の屈折が、見た目にも涼やかさを演出していた。
この日のような暑い時には、さらに映える。
奏絵の目にしか映らないが、グラスの縁には妖精のドロシーが腰かけていて、足をぶらぶらさせている。異世界のような幻想さも醸し出す。
そんな時間は、3度目の雷の音と一緒に、突如として終わりを迎えた。
ドロシーが慌てて飛び立ち、グラスが誰かの手によって取り上げられる。
彼女が抗議する間もなく、グラスが逆様に傾けられた。
奏絵の頭の上で。
コーヒーと氷が降る。
コーヒーは服に染みを作り、染みを作らなかった残りのコーヒーと氷が床を彩る。
ドロシーが口をあんぐりと開けているのが見えた。
そのまま視線を移して、奏絵はグラスを取り上げた相手を見据えると、
「何か用?」
「ナニカヨウ? ナニカヨウ? ナニカヨウ? あんたがそれを言う?」
先日占った社会人の女がいた。でも、「非の打ちどころの無い社会人」でも「激情家」でもなかった。
それは「狂気」。髪はボサボサに乱れ、指のネイルには噛み跡があったり剝げ落ちたり、顔のメイクもボロボロ。なにより、吊り上がった眼からは狂気があふれていた。
すぐ近くで、また雷が落ちた。
それでも、雷鳴を引き裂くように、彼女の病んだ声が響く。
「あんたのせいで私の人生メチャクチャよ! 会社からはクビにされ、転職先からも断られ。横領? 別にそれ位いいじゃない! あいつらの金は私のもんよ。そのために経理の仕事をしてやってんだから!」
――「塔」と「死神」のカードが両方現実になったのね。
――過去の行いの清算を強いらされている。
「なのに! あんたでしょ! 私のことを会社にチクったのは! 私の人生をメチャクチャにしたのは! インチキ占い師!」
「……全部、自分の身から出た錆じゃない」
「っ! このガキっ!!」
彼女が右腕を振りかぶった。
その姿が、奏絵の中で、幼いころに目にした母の姿と重なる。
――大丈夫。
――まだ体が覚えているはず。叩かれた瞬間に顔を動かせば、痛みは小さくなる。
――それに、私はもう子供じゃない。
――叩かれれば、この女を警察に告発できる。
――このカフェに二度と来店できなくさせられる。
――……さあ、叩きなさい。
でも、視界が一人の背中によって遮られた。
「言いがかりをつけるのも、いい加減にしな」
佐奈子だった。
「それ以上やったら、警察に通報するよ」
「はん! どいつもこいつも! 私の邪魔をして!」
「今までのあんたの様子は全部、店内の防犯カメラで撮っているからね。またトラブルを起こしたら、今日の分と一緒に警察に出すから覚えておきな」
「チッ! やっぱり、インチキ占い師を置く店なら、最低も、クソみたいな最低ね!」
「さあ、出ていきな。これ以上居座るなら、営業妨害で警察を呼ぶよ」
「言われなくても、こんなところ出ていくさ!」
「災い」は去る。奏絵の心を大きくえぐり取る捨て台詞を残して。
「あんたたちのことは全部SNSに書きまくってやったわ。あんたたちの商売、これでお終いよ。ざまあみろ!」
――占い商売の評判は全然かまわない。でも……。
カフェ「ノクターンテーブル」の評判への傷は、奏絵の心に深い大きな傷を負わせる。
――私のせいだ。
――私の過去の行いへの報いだ。
――日本の政治を陰で動かしていた傲慢な私の。
と、そこに明るい声が店内に響いた。当人にはそんな意図はなく、予想外に響いてしまっただけなのだが。
悪意の残滓とも言うべき静寂がかき消される。
「よし! セーフ! 雨が降り始める前に着けた! ……? どうしたの?」
店の入口の扉を開けた梨々花がキョトンとした顔になって、あたりを見回した。
けれど、奏絵は気に留めない。
立ち上がると、佐奈子に向かって深々と頭を下げて、
「佐奈子さん。本当にごめんなさい。また、ご迷惑をかけてしまいました。本当にごめんなさい」
「奏絵ちゃん……」
「奏絵! その姿、どうしたの!? 何があったの?」
梨々花が様子に気づいて、駆け寄ってくるが、
「え? 奏絵! どこ行くの? 雨が降り出したよ!」
「そうよ! 奏絵ちゃん、ちょっと待って! 待ちなさい!」
「待って! 奏絵!」
「梨々花ちゃん! 奏絵ちゃんをちゃんと引き留めておいて! 今、恵梨果ちゃんを電話で呼ぶから!」
二人の声は、奏絵の耳に入っているようで、聞こえていない。
ただ、彼女の眼はガラス窓に映った姿を捉えていた。ガラスの目をした黒髪の日本人形。
――私は罰を受けたんだ。
ガラス窓の向こうでは雨が勢い良く降り始めていた。