第7話
窓の向こうの梨々花が、中の微妙な空気を感じ取ったのか、小首を傾げた。
でも、見ることなく、奏絵は外へ出るために片づけを始める。
「奏絵ちゃん、今日はもう帰るの?」
「はい。このまま残るとお店にご迷惑をかけてしまいますから」
「だから、いいって。気にしないで。それとも、この後、梨々花ちゃんとどこかへ遊びに行く約束でもしている?」
「いいえ」
「なら、いつも通り、ここでおしゃべりしていきなさい。奏絵ちゃんのお代わりのコーヒーを奢るわ。梨々花ちゃんの分もね」
「! そこまでしていただくわけには……」
「ほらほら、座って座って」
言葉以上の圧力を感じて、促されるまま席に座ってしまう。そして、
「大人に格好いいことをさせて。ね?」
佐奈子の魅力的なウインクによって、罪悪感に覆われた奏絵の心が少し軽くなる。そこに、
「ねえねえ。何かあったの?」
右手にはアイスコーヒーのグラスを、左手にはコーヒーカップを持った梨々花も来て、
「あのね、梨々花ちゃん」
佐奈子の説明を聞くと、
「はぁぁああ? その女、奏絵の占いにケチをつけるなんて、何様のつもり?」
「そうなのよ。本当に、何様よね。だから、ね。梨々花ちゃん、今日は奏絵ちゃんとゆっくりしていって。ね!」
「! はい! 分かりました!」
2人の間で交わされたアイコンタクトを奏絵は理解できず、少し疎外感を感じてしまう。
「じゃあ、今日は一杯、あたしとおしゃべりしよ!」
それでも、客の女がいた席に梨々花が座ると、心がまた少し軽くなった。
改めて、ガラス越しではなく、直接正面から彼女の眩しい笑みを向けられる。今日は普段とは違って、
――深海の底から明るい海へ引き上げられる。そんな気がするわ。
「先週のフォーチュネラのライブ、最高だったよー。奏絵も今度、一緒に行こうよー」
「行かない」と切って捨てるのは簡単だけど、今日は出来なかった。だから、
「梨々花は先週、アイドルのライブに行ってきたのよね」
「うん? そうだよ?」
「以前、聞いた時はリ・ヴェルサだったかしら。そんな名前のアイドルグループを推していると聞いたはずだけど、違った?」
かつて彼女から布教を受けた時に見せられた写真が思い出される。5人ほどの男たちが肩を組んで映っていたその写真は、仲良さげな明るい空気で満たされているように見えた。でも、
――近いうちに破綻しそう。
――メンバー同士の不協和音を嘘の笑顔で隠しているわね。
奏絵の目にはそのように見えた。
写真の記憶が今日の出来事と重なる。
――今日の客のようにね。
偽りだった「人好きのする笑顔」が脳裏によみがえって、心がまた少し沈み込む。
「違わないよー。でも、リ・ヴェルサで最推ししていた子がグループから卒業しちゃったんだ。それで冷めちゃった」
梨々花の笑顔に乾いたものが混ざったから、つられて奏絵の心の沈み込みも強くなるが、
「でもね、新しい推しが見つかったんだ」
パッと梨々花の笑顔が明るく眩しくなった。
「この子たち! フォーチュネラって名前のアイドルグループなんだけど、歌もダンスもコンセプトも格好良いんだ」
差し出してきたスマホには、ゴシック調の黒の衣装を着た3人の女の子が澄ました表情でポーズをとった写真が表示されていた。
女の子たちは笑顔を浮かべず、それぞれ別方向を見ているが、奏絵の目には、
――みんな、良い目をしているわね。
――1つの目標に向かって一緒に頑張ろう、って強い意志が見えるわ。
「……ふーん」
「あ! 奏絵の目にも良さそうに見える? 前のアイドルの写真を見せた時には、チラッと見ただけだったもんね」
「……よく覚えているわね」
「ふっふーん。凄いでしょ」
「褒めてないわ」
「でね。これが曲。ちょっと聞いてみて」
半ば無理やり、イヤホンが耳にはめられる。ピアノを中心とした優しいサウンドが響く中、聞こえてくる歌声は叶わない恋の物語を歌う。
――衣装からはもっと激しい音楽かと思ったけれど。
――意外ね。
――……でも、悪くないかも。
すぐにイヤホンを外す。
彼女たちの強い眼差しに少しだけ憧れを抱いてしまう。
――私は彼女たちのような人生を歩けるだろうか。
「どう? いいでしょ。儚くて尊くて、もう最高っ! 今度は台湾でライブをするんだって。どう? 一緒に行かない?」
「行かないわ。パスポートを持っていないもの」
「行かない」の一言で切って捨てたくはなかったから、理由を付け加えた。
そうしたら、また梨々花の笑顔がパッと明るく眩しくなった。
「私も持っていないから、一緒に作ろ! あたしたち、18歳になったから10年有効のパスポート作れるからさ。一度作っておいたら、いつでも一緒に海外旅行行けるよ! ね!」
「行かない」
「えー! けちー。奏絵のおにちくー」
「勝手に言ってなさい」
「一緒に行こうよー」
――煩わしい。
と梨々花のことを思うが、悪い気はしなかった。
身体と心にまとわりついていた疲れがいつの間にか消えていた。
口には出さなかったが、
――梨々花、ありがとう。
いつの日か、この感謝の気持ちを伝えられる日まで、奏絵は心の中に宝物として仕舞い込む。




