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第2話

 その夜。


 洗面所の鏡の前で、奏絵は日中とは真逆の表情になっていた。目尻は下がり、口角は上がって、頬は緩んでいる。


 ドライヤーの風音をBGMに、又従姉妹の恵梨果の鼻歌に耳を傾けながら。


 恵梨果の操るドライヤーが動くたびに、奏絵の長い黒髪が舞う。


 奏絵は自分の髪が嫌いだ。長くて重くて、身体にまとわりつくのが非常に鬱陶しい。夏の暑い日はさらに暑くなるから、ますます嫌いになる。


 はっきり言えば、髪をバッサリと短くしたい。後ろでご機嫌に鼻歌を歌う恵梨果のショートカットのように。


 彼女が美容師であることを知った時、「ショートカットにしたい」と口にしたことがある。


『え? 短くしちゃうの? こんなに綺麗なロングヘアなのに?』


 ――この髪が綺麗? まさか。


 その頃の奏絵の髪は今よりは少し短かったが艶は全くなかった。枝毛、切れ毛ばかりで、ボサボサ。祖母の真似をして適当に頭頂部でひとまとめにしていた。祖母がヘアサロンに行かなかったから、奏絵も切ることはなかった。短くしようとして、その辺に転がっていたハサミで切ろうとしたら上手くいかなかった。それ以来、伸ばしっぱなし。手入れも適当。と言うよりもやり方を知らなかった。


『普通なら痛んだところから切っちゃうんだけど、奏絵ちゃんの髪の毛は髪質がとても良いの。だから、このままでもなんとかなりそう。というか、私に手を入れさせて!』


 以来、奏絵は「ショートカットにしたい」と二度と口にしていない。


 なにより、今は、恵梨果にこうして髪を手入れしてもらっている時間が一番幸せで大切な時間だから。


 この後の、


 ――お姉ちゃんと一緒にアイスクリーム。


 食べることを考えれば、さらに顔が緩む。


 風呂に入る前の夕飯で食べた、


 ――ハンバーグ。美味しかったなあ。


 口の中に味の記憶が広がり、生唾も出てくる。


 恵梨果と一緒に住む前、占いの師である祖母といた時は仕出し弁当ばかりだった。祖母がひどい偏食だったから、毎回同じ内容の。


 さらにその前、母といた時に食べていたのは、スーパーで売られている袋パンばかり。パンが無ければ水だった。


 それが今では、毎日三食違うものが恵梨果によって用意される。ちなみに、昨日の夕飯はエビフライ。


 掃除も洗濯もしてもらっている。奏絵がするのはちょっとした手伝いだけ。


 ――本当にこれで良いのだろうか。


 後ろめたさを感じてしまう。そもそも祖母が死んだとき、奏絵は17歳だった。まだ保護者が必要だったから、恵梨果の下に身を寄せた。


 今は18歳。いつでも独り立ちできる。一人で住む家を新しく探して、借りる契約もできる。


 ――いつまでも子供のままではいられない。けれど、

 ――……幸せすぎる。


 抜け出せない。それでも、


 ――いつかはこの幸せな時間に終わりが来る。


 例えば、恵梨果が結婚する時。


 鏡に映り込んだ彼女の背は高い。男性の中にはもっと背が高い人がいる。


 髪は黒く。まるで男性のように短い。着ている服も黒のズボンに黒のシャツ。それでも暗い印象を持たせないのは、顔立ちが華やかだから。まるで、女性のみで構成される劇団の男役スターのように。実際、梨々花から「そうなの?」と聞かれたことがある。


 そんな女性も恋をする。


 年齢もまだ30。


 今でこそ、男の影を感じることはないが、いつかは……。


 タロットカードに聞けば、未来はすぐに分かる。


 ――聞けない。……怖い。


 この恐怖を押しのけて聞いても、結果を受け入れられない。


 「明日別れる」でも、「永遠に続く」でも、受け入れられない。むしろ、逆に、


 ――手放したくない。


 それどころか、


 ――私だけのものしてしまいた……。


「奏絵ちゃん」


 気がつくと、ドライヤーの風音が止まっていた。恵梨果の鼻歌も。


 鏡に映る奏絵の顔からは表情が抜け落ちていた。


「何を考えているの?」


 両頬が恵梨果の手で包まれた。そして、鏡越しではなく、直接顔を合わせられる。


 ふと、奏絵の脳裏に、10年ぶりに再会した時の恵梨果の顔が浮かんできた。


 首相官邸近くのホテルの一室で祖母と一緒に閉じこもっていた日々が終わった日。出会った彼女の顔は強張っていた。


 周囲からの期待で押し潰されそうになっていた。開業したばかりのヘアサロンのオーナー店長としての重圧。従業員との人間関係。周りから押し付けられる勝手なイメージと期待。


 そんな彼女のために、奏絵はタロットカードを5枚めくった。


 正位置の「ソードの10」と逆位置の「カップの9」は重圧に追い詰められていることを示していた。


 正位置の「ワンドのペイジ」「星」「愚者」は、一度立ち止まって、肩の力を抜くように勧めていた。


 最後に「星」を指さして、


「大丈夫ですよ。星が瞬いています。あなたの希望はまだ輝き続けています」


 その瞬間、恵梨果が泣き崩れた。


 この時のことを、奏絵は今でもはっきりと思い出すことが出来る。


 母の下から祖母に引き取られた8年間、占った相手がそんな感情を露にするのを目にしたのは初めてのことだった。


 政治家に、会社や法人のトップ。奏絵が占っていた相手はそんな人間ばかり。ほとんどは無感動に占いの結果を聞き流された。たまに、感情を表に出すのは、彼ら彼女らにとって都合の悪い結果が出た時。


 だから、恵梨果の泣く姿を見て、初めて、


 ――私の占いは誰かの力になれるんだ。


 そう思った。


 そして、今の恵梨果の顔に陰りは全くない。生気に満ちている。


 少しだけ憂いが見えるのは、奏絵が顔から感情を落としたから。


 だからこそ、満面の笑みを浮かべて、言葉にして伝える。


 ――愛する人に、今、私はとても幸せであることを。


「大好きだよ、お姉ちゃん」

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