エピローグ
この日、奏絵はリクルートスーツを着た若い女性と向かい合っていた。
間にあるテーブルの上には、重ねられたタロットカードの山と、そこから引かれた3枚のカード。
占う内容は就職先をどうするか。2つの会社から内々定をもらって、どちらかを選ばないといけないが、決断できずにいる、と。
「1枚目のカードは正位置の『吊るされた男』。意味は停滞、我慢、自己犠牲。こちらの会社に就職した場合、安定はしているものの努力がなかなか報われないでしょう。長い目で見ると充実感を得ることが難しいかもしれません」
彼女の顔が曇るが、2枚目のカードに送る視線にはまだ希望が残っている。
「2枚目のカードは逆位置の『正義』。不公平、偏見、誤解を意味します。こちらの会社を選択すると、社会人として成長するでしょう。でも、周囲とぶつかったり、理不尽なことに巻き込まれたり、難しい立場に追い込まれる可能性も否定できません」
彼女の眼から希望が消えた。
――どうしたらいいんだ、って顔ね。
「3枚目。このカードはこれからどうしたらいいか悩んでいるあなたへのアドバイスです。……正位置の『星』。意味は希望、夢の実現」
彼女の顔に戸惑いが浮かぶ。
――当然ね。
――これまでのカードからは希望がないと言われているのに、真逆のことを言われたのだから。
――でも、確かに、カードは希望を告げている。
――なぜ?
「星」を指でなぞって、カードの真意を探る。
――……そういうことね。
奏絵の声に妖しさが増す。
「2つの選択肢以外に、あなたには就職先の本命がありますね」
「え? ええっ?! どうして分かったの? 話していないのに?」
「カードが教えてくれました」
妖精のドロシーが「星」のカードの横に胸を張って立って、ドヤ顔を見せた。口の中を金平糖でモゴモゴさせながら。
「……ええとね。本当はドイツにある研究所に行きたかったの。でも、その研究所で空いているポストがなくて、ポストが空く見込みもなくて。それどころか、財政難で人員整理が行われるかもしれない、って向こうの人から言われて」
彼女の顔には乾いた笑みが浮かんだ。
「あきらめたんだよね。……」
「ならば、カードをもう1枚引きましょう」
ドロシーがカードの山に飛んでいって、見つめるが、何もしない。笑いかけてきた。
奏絵にも次に来るカードの想像ができた。
だから、1枚引く。めくる。
「正位置の『運命の輪』。転機、チャンスの再来、流れの変化。しばらく時の流れに身をゆだねることもいいかもしれません」
「内々定をもらった会社はどちらも数日中に返事を欲しいと言われているんだけど。……どちらも断れってこと?」
彼女の顔には「教えてほしい」「導いてほしい」とありありと書いてあった。けれど、
「最初に説明しましたが、決断するのはあなた自身です。運命はあなたが決めなければなりません」
失望の表情が浮かんだ。そして、彼女の顔が下を向いて、表情は分からなくなる。
ドロシーが彼女のそばに行って、仰ぎ見ていた。
横に顔を向ければ、梨々花がいつものようにニコニコ笑顔を浮かべている。
あれから数か月。
しばしの様子見の時間を経て、奏絵は以前と同じようにカフェ「ノクターンテーブル」で過ごすようになった。
SNSへの書き込みは恵梨果と梨々花と一緒に探し出して、事業者に連絡して削除してもらった。
時々占いのために訪れてくる客には、必ず誰かの紹介を求めるようにした。飛び込みの客は全て断ることにした。
今日の客は、沙羅の恋人の大学院生の姉。沙羅の紹介でやってきた。
「よし! 決めた!」
顔を戻せば、大学院生の彼女は決意の顔になっていた。
「両方とも内定を断る! どちらかを選んで後悔するくらいなら、どっちも選ばない! 就職浪人になったってかまわない!」
「……そう」
奏絵は顔に笑みを浮かべる。あなたの選択を尊重する、という思いを込めて。
「ありがとう! あなたの占いのおかげで踏ん切りがついたわ! 今から、断りの電話を入れてくる!」
言い残して、彼女はバタバタと店の外に出て行った。
彼女の後姿を見送ると、奏絵はテーブルのコーヒーカップを口元に運ぶ。チョコレートのような甘いアロマが鼻をくすぐる。
今日のおすすめのコーヒーは、この時期限定のブレンドコーヒー「サクラ」。
一口、口に含めば、甘く爽やかな酸味の後はスッキリとした味を残す。
♪~
天井に置かれたスピーカーから流れるピアノの音色をかき分けるように、ポシェットにしまっていたスマホが着信を告げるメロディを鳴らした。
カップをテーブルにおいて、スマホを取り出すと、
>今日の夕飯、カレーでもいい?
恵梨果からのメッセージに目尻が下がる。
>大歓迎!
子猫がバンザイしているスタンプと一緒に返信を送る。
このやり取りが終わるのを見計らったように、横から梨々花が声をかけてきた。
「奏絵。高校生活はどう?」
「まだ始業式とスクーリングを1回行っただけ。でも……」
「でも?」
「数学が難しい」
終わりが見えない先の長さには、眉をへにょりと曲げるしかない。
――オンラインの授業で少し手ごたえをつかめそうだけど。
「にゃはは! 難しいよ、数学は。ガンバレ、ガンバレ」
笑い声をあげる梨々花に、恨めし気な視線を送ってしまう。
高校を卒業した彼女は、この春から近くの大学の経済学部に通っている。理数系は得意。
対して、奏絵は通信制の高校に通いだした。高卒認定試験も考えていたが、
――急がば回れ、で行こう。
――決して、数学に挫けかけたからではないわ。
「じゃあさ、気分転換でカラオケに行かない? 割引クーポンがあるんだ。どう?」
「大学の友達と一緒に行ったら?」
「奏絵と行きたいの!」
「……カラオケに行ったこともないし、歌を歌ったことすらまともにないわ」
「! 全然OK! あたしがカラオケの使い方から歌い方まで全部教える!」
梨々花の笑顔が、さらに太陽のように明るく眩しくなった。
最近は、彼女の眩しい笑顔を目にしても、気持ちが落ち込まなくなった。
「……なら、行こうかな」
「行こう! 行こう!」
梨々花がグラスに残っていたアイスコーヒーを一気に飲み干して、立ち上がって、
「さあ、行こう!」
さらに催促してくる。
――仕方ないわね。
おまけに、妖精のドロシーも肩の上に乗って、「さあ、行け」と言わんばかりに右腕を前に突き出した。
奏絵もカップに残っていたコーヒーを飲んでしまうしかなかった。
「そんなに急がなくてもいいでしょ」
飲み終えたら、梨々花に腕をとられ、半分無理やり立ち上がらされてしまう。
「急ぐの! 奏絵とのデートなんだから、1分1秒でも惜しい!」
「デートなんかじゃないわ」
「奏絵にとっては違うかもしれないけれど、あたしにとってはデート! さあ、行こう!」
「……はあ」
思わず、特大の溜息が口から出てしまう。
それでも、
――悪くはないわね。
「奏絵ちゃん、梨々花ちゃん。行ってらっしゃい」
「行ってきます!」「……行ってきます」
佐奈子の見送る言葉を背中に受ける。
梨々花に引っ張られながらカフェの外に出たが、奏絵の足取りは軽かった。まるで、背中に羽が生えたように。
――こんな毎日が続くのでしょうね。
――本当に悪くない。
仰ぎ見れば、雲ひとつない真っ青な青空がどこまでも広がっていた。
……。
「あ、そうだ。カラオケの後、寄りたいところがあるけど、いい?」
「いいよ! どこ、どこ?」
「駅前にシュークリーム屋さんのポップアップストアが出ているから、お姉ちゃんに買って帰りたい」
「いいよ! いいよ! あたしも家族に買って帰ろう!」