第1話
コーヒーカップを手に持った宝来奏絵の目の前を、妖精のドロシーがその背中の羽をはばたかせながら通りすぎていく。
その向こう、カフェの内と外を隔てるガラス窓の向こうでは、交差点の信号が赤から青に変わったことで、車が走り始めていた。
カップを口元に運べば、ナッツの香りの中にベリーが混ざったコーヒーのアロマが奏絵の鼻をくすぐる。
カフェ「ノクターンテーブル」のこの日のおすすめは、ブラジルのとある農園で栽培された豆だけを使ったシングルオリジンのコーヒー。
一口口に含めば、コーヒーの苦みの奥に、砂糖もミルクも入れていないのに感じる甘さが、彼女の目元を柔らかくした。
でも、目の前の通りをゆっくりと選挙カーが走って行って、
「~~でございます! どうか清き一票をよろしくお願いします! よろしくお願いします!」
ガラス越しでも響いてきたウグイス嬢の甲高い大声が、目元を固くさせる。
選挙カーが去っていくと、ピアノが奏でる静かな音色に置き換えられていく。カフェの天井に置かれたスピーカーから流れている音だ。そこに別の音が加わった。
♪~
テーブルに置いていたスマホが着信を告げるメロディを小さく鳴らしたのだ。ピアノの音をかき分けるように、でも、ピアノのメロディを少しアレンジしたようにも聞こえた。
手に持つ物をカップから交換して確認すると、目じりが少し下がる。
倉元恵梨果からのメッセージ。奏絵の又従姉妹で、保護者兼同居人の姉的存在である。今は彼女と二人で暮らしている。
>夕飯は何が食べたい?
小首をかしげて少し考える。そして、浮かんできたイメージで口角をかすかに緩ませると、
>ハンバーグ!
すぐに返信が帰ってきた。
>りょ
>楽しみにしててね
子猫がバンザイしているスタンプで返信にする。
再返信がないことを確認して目線をあげて横を向くと、目の前のガラス窓には日本人形のような少女の姿が写りこんでいた。白い肌に、アーモンド形の目。なにより長く艶やかな黒髪が目を引く。頭の後ろで紫色のリボンで束ねられた髪は腰よりも長く伸びている。白のブラウスとラベンダー色のロングスカートが黒髪を引き立てる。
写り込みが同い年の別の少女によって覆い隠された。高校の制服を着た彼女がガラス越しに笑顔で手を振ってくる。
奏絵は小さく溜息を吐いた。一人だけのゆっくりとした時間の終わりを意味したから。
でも、金色に髪を染めている彼女の後ろに、もう一人、別の高校の制服を着た少女がいることに気づくと、
「ドロシー。仕事の時間だよ」
小さくつぶやく。
すると、奏絵の周囲を自由に、だけど、彼女以外の人には見られることなく飛び回っていた妖精は、顔の前で止まって、悪戯っけたっぷりの笑顔を浮かべた。
合わせて、小さくうなずく。それから膝上に置いていたポシェットにスマホをしまい、代わりにカードケースと小さなガラス瓶を取り出した。
ガラス瓶に入っているのは色とりどりの金平糖。それをテーブルに広げた紙ナプキンの上に1つ取り出す。
次いで、店内に視線をめぐらすと、一人のスタッフと視線を合わせた。このカフェのオーナーの薄田佐奈子。
彼女に向って軽くうなずいて、合図を送る。店先でこれから行うことへの許可取りを意味する。
笑顔で手を振ってきた。OKの意味。
そして、少女たちがやってきた。
「やっほ、奏絵! 元気してた?」
カウンターで受け取ったアイスコーヒーのグラスを片手に持った金髪の少女が明るく話しかけてくる。
畑岡梨々花。奏絵と同じ18歳で、近くの高校に通う高校生。
彼女の笑顔は目を細めたくなるほど眩しい。そのせいで、
「……そこそこ元気にしてたわ」
煩わしげに冷たく返してしまう。
いつも明るい梨々花のテンションに当てられて、毎回、奏絵のテンションは暗く沈んでしまう。
「もう、相変わらず、奏絵は冷たいなあ。たまには、親友のあたしに明るく元気に返してみない? そうしたら、世界がきっと明るく元気になる!」
「結構よ。世界が明るく元気になったら、ついていけないわ」
「ぶー。やっぱり冷たいなあ。でも、そんな奏絵もあたしは大好きだよ!」
「……あっそ」
梨々花のニコニコ笑顔の眩しさから目をそらすように、彼女の後ろへと視線を動かす。
「それよりも紹介してくれない? それとも名乗りたくないタイプのお客さん?」
「あ! ごめん!」
梨々花は、一瞬キョトンとした後、すぐに後ろに控えていた少し小柄の少女を前に押し出すと、
「彼女は西高の宮内沙羅さん」
それから、奏絵の横に移動して、
「そして、彼女は私の親友で」
「『自称・親友』よ」
「もう、奏絵! ここであたしの紹介を邪魔しなくてもいいじゃない」
「言葉は正確に」
「ぶー。もういいよー。だったら、こう言っちゃうもん」
言葉を切ると胸を張ると、宣言した。
「稀代の天才占い師、宝来奏絵様よ」
何事もなかったかのように、奏絵は無視する。
照れることはない。梨々花からだけでなく、耳にタコが出来るほど聞かされた言葉だから。
「さ。こっちに座って」
「え? あ、あの」
「いいのよ。こんなバカは無視して」
「うわーん。奏絵があたしのこと無視するー」
「占う内容は何?」
「あ。え」
「うわーん。奏絵があたしのことをいじめるー」
「……」
「えと、あの」
「うわーん。奏絵のおにちく、ひとでなしー」
いい加減、鬱陶しくなった。
「梨々花」
彼女の手を引いて顔を引き寄せる。
「静かに座る? それとも出ていく?」
声も占いの大切な要素。客に占いの重みを与えるため。
奏絵の声は、特に意識した時の声は、ひどく妖しい魅力をたたえる。
「……黙って座ります」
「そう。素直な子は好きよ」
最後は梨々花の耳元で静かに囁く。声の妖しさを最大限に発揮させて。
握っていた手を離すと、彼女はストンと横の席に座った。顔が真っ赤になっている。
――これで静かになる。
再び沙羅に向き合ったら、正面の席に座る彼女は顔を赤くして両手で顔を覆っていた。指の隙間から覗き見ているのは簡単に分かる。
梨々花との距離の近さから、
――頬にキスしている、とでも勘違いしたのかしら。
「こんなところでキスなんかしないわよ」
声は元に戻しているが、どこか余韻が残っている。
「す、すみません!」
「……何か始める前に確認しておきたいことはある?」
「ありません!」
「そう。なら、先に聞いているかもしれないけれど、一応、占いを始める前に簡単な説明をさせてもらうわ」
沙羅の顔から動揺が消えて、真剣さが宿った。
「はい」
テーブルの上に置いていたカードケースの中身を取り出す。
クラシカルなデザインが施されたタロットカード。
そのカードの束にドロシーが腰かけた。彼女の正体はタロットカードに宿る精霊だ。
「私が占うのはこのタロットカードを使った占い」
沙羅の視線がカードに落ちるが、その焦点はドロシーには合っていない。妖精の姿は奏絵にしか見えないから。
「占いの内容や質問の仕方でも変わるけれど、基本、私はあなたにああした方が良い、こうした方が良いといったことは言わない。占いの結果に関わらず、どうするか決めるのはあなた自身であることを決して忘れないでほしい」
「はい!」
力強い返事に、奏絵の目元が少し柔らかくなる。
――こういう芯が強そうな子は好きだ。
芯が弱くて依存しそうな相手には、もっと口酸っぱく言うこともあれば、この時点で占うことなく席を立つこともある。
――占いは、道しるべにもならない。
――心の中でもう決まっていることを最後の一押しをしたり、悩みの整理を手伝ったり。
――できるのはその程度。
――占いとは、所詮、根拠もない曖昧なものでしかないから。
「じゃあ、占い料は、あなたは学生だから5000円。現金でお願いね」
――それでも人はちょっとした手助けが必要となることがある。
「お願いします」
沙羅が差し出してきた可愛らしいポチ袋を受け取って、ポシェットにしまう。
中身は確認しない。奏絵にとって金額の多寡はほとんど関係がない。無料ではなく有料なのも、便利なキャッシュレスではなく現金なのも、占いという行為に重みを与えるため。ありていに言えば、ひとつの演出だ。
――そんな人に手を差し伸べる。
――占い師としての私の誇りをかけて。
「じゃあ、カードをシャッフルしてちょうだい。そうしながら、占う内容を聞かせて貰えるかしら」
カードの束を前に押し出す。己のタロットカードを他人に触られるのを嫌う同業者もいるが、奏絵は気にしないタイプ。妖精のドロシーも気にしない。今もニカッと笑って、飛び立った。
「ええと……」
受け取った沙羅がカードをシャッフルしながら、話し始める。
こういう時、相手の性格が露になる。ざっくりとシャッフルする人、満遍なくシャッフルする人。話すことに集中する人、話すことがおろそかになる人。
中には、占いよりもタロットカードそのものに関心を注いでしまう人も。
逆に、奏絵の占いに心から向き合おうとする人は、シャッフルも真剣に行うし、話も丁寧に話す。
沙羅もその一人だった。
占ってほしいことは恋愛事。
最近、幼馴染の男性から告白された。沙羅も前からこの幼馴染のことが好きだったが、この告白が本当かどうか信じ切れないでいる。
「だから、占いで確かめさせてほしいんです」
「うん。分かった」
よくシャッフルされ、けれども綺麗に揃えられたカードを奏絵は受け取った。
そして、カードの一辺でトンとテーブルを軽く叩く。
それを合図にして、妖精のドロシーが奏絵たちの周りを円を描くように一周飛んで、結界を構築する。
周囲の喧騒がシャットアウトされた。
揃えられたカードをテーブルの上に置く。
「これから3枚のカードを引くわ。その後、カードが告げていることを教えてあげる」
奏絵以外目にすることがないドロシーがテーブルに置かれたカードの横に降り立つと、カードの順番を入れ替えた。
精霊として因果律を見通す目を持つ彼女は、タロットのカードが相応しい結果を示すように順番を入れ替えるのだ。
入れ替え終えたドロシーは、ニコニコ笑顔を浮かべながら、紙ナプキンの上に取り出された金平糖を頬張る。これが彼女の仕事への報酬。
「カードはそれぞれ過去、現在、未来を意味するの」
妖しさが増した奏絵の言葉に、沙羅がコクリと顔を縦に動かした。
それを見て、奏絵はカードの束の一番上から一枚ずつ三枚、テーブルの上に並べる。
「それでは1枚目」
最初のカードに手をかける。
どのカードが出てくるかは、精霊であるドロシーだけが知っている。
でも、奏絵にも、どのカードが出てくるか、大体想像できる。これまで数多くの人を占ってきた彼女の経験に基づいた直感から。
そして、そのカードをどのように解釈するか、が彼女の仕事。
「これは過去」
めくる。
「正位置の『愚者』。意味は新しい始まり、純粋な気持ち、素直さ」
2枚目のカードに手をかける。
「2枚目は現在」
めくる。
「正位置の『恋人』。意味は愛情、選択、結ばれる運命」
3枚目のカードに手をかける。
ゴクリ。誰かの生唾を飲む音が聞こえたような気がした。
「3枚目は未来」
めくる。
「正位置の『太陽』。意味は成功、幸福、輝かしい未来」
思わず、奏絵の顔から笑みが溢れてしまう。
これだけ分かりやすくて、明るいカードが揃うことはあまりない。
それでも、視線をあげれば、結果をはっきりと聞きたいと待っている大切な客がいる。
「じゃあ、説明を始めるわ」
沙羅の顔がコクリと縦に動いた。
「過去で出てきた『愚者』は、あなたたちがこれまで重ねてきた関係を示しているわ。あなたたちの幼馴染の関係は嘘偽りのない大切な関係である、って」
彼女の顔がもう一度コクリと縦に動いた。
「現在で出てきた『恋人』は、気持ちが本物であることを意味しているわ。幼馴染の彼も、そして、あなたの気持ちもね」
頬が紅くなった。
「未来で出てきたのは『太陽』。さっきも言ったけれど、意味は輝かしい未来。……もう、これ以上何か言う必要はあるかしら?」
顔は横に勢いよく振られて、
「ありがとうございました!」
頭が大きく下げられた。
戻った彼女の頬はまだ紅いままであったが、瞳からは迷いが消えていた。
妖精のドロシーが築いた結界はもう解けている。カフェの喧騒とBGMとしてスピーカーから流れているピアノの音色が聞こえる。
だから、送り出す。
「それじゃあ、行ってらっしゃい」
「はい!」
勢いよく彼女は出ていった。彼女の向かう先は……。
残った奏絵は広げられたカードを淡々と片付ける。
見送らないのは、
「いいなあ。羨ましいなあ」
横から聞こえた梨々花の言葉に、心の中だけで同意する。
とはいえ、言葉にした彼女とは少しニュアンスが違う。
梨々花は恋愛に恵まれた沙羅への羨望。
奏絵が抱く羨望は少し違う。
――占いに頼らない白紙の人生を歩きたい。
だから、占いの宣伝は全くしていない。客は、基本、誰かの紹介に限っていて、飛び込みの客はほとんど受け入れていない。SNSへ書き込みをしてもいいか、と客に聞かれても断っている。むしろ、しないでくれと頼むほど。
――彼女のように、親しい人との関係に悩み、恋愛に悩み、悩み続ける人生で構わない。
――彼女のように、自由が広がる世界を私はゆっくりと歩きたい。
喧騒とピアノの音が、奏絵の口からわずかに漏れた声を誰かの耳へ届けないように遮る。
「……そんな日は私に来るだろうか」




