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ひかりあれ  作者: さいか
8/8

七話 fiat lux

 罪の直視。そして告白。

 それはマリア自らを引き裂くほどの情動を伴いながら、心の(おり)に溜まったものを吐き出すさまにも似て。


 けれど裁きはなく。

 クリスと名乗る神父は神の名の下に赦すとまで言ったのだ。


 それで、罪悪感が消えるわけではないけれど。

 それで罪がなくなるわけではないけれど。


 感情はどこか浮いたまま。

 麻酔がかかったように痛みは遠く。ただ悼む気持ちだけがあるまま男たちの埋葬を続けた結果、いつのまにか陽は暮れかかっていた。


 作業も半ば、クリスに声をかけられ促されて教会に戻り、まるで何もなかったかのようにいつも通りにベラの母としての役割をこなして。それでもなお、心が痺れたような感覚が消えることはなく。


 どうすればよいのか。

 何をすればよいのか。

 いまだ分かることは無いままに。


 信徒会館の一室。

 マリアは、少し詰まったような寝息を立てるベラの髪を柔らかく撫でていた。


-◇-


 教会の前。

 昨晩とさほど変わらない場所で、クリスは同じように焚き火を見つめていた。


「あと少し……」


 あと少し。ばらばらの遺体の埋葬が完了すれば償いは果たされ、赦しの秘跡は完遂される。


 赦しの秘跡。


 必要なことだった。

 御使からの暴力を防ぐという即物的な目的のためにも。マリアの抱える自罰的な意識を和らげるためにも。

 それでも。


「神の声が聞こえない俺が神の名のもとに赦しを与えるなど」


 自分自身の至らなさ。

 これに対する歯痒さは消えようがなかった。


「んぅ」


 びく、と。隣から聞こえた声に思わず顔を向ける。

 ミロだ。

 膝を抱えながら、こっくりこっくりと船を漕いでいる。


 いつの間にか眠っていたようだが無理もない。昨晩は一睡もしておらず、昼間はずっとベラの面倒を見ていたのだから。


 聞けば、何度か御使も現れたと言う。

 マリアの前で疲れた様子を微塵も見せなかったのは流石の強靭さではあるが、無茶がいつまでも続くわけがない。

 休ませてやるべきだろう。


 栗色の髪からのぞく横顔は緩みきっていて、普段の様子はうかがえない。

 人当たりの良い笑顔も、語りかける真摯な表情も、自然に表れるものだけではないだろう。

 常に自らを律し、そのようにあろうとしているのだ。


「すごいやつだよ。お前は」


 悟りの道はそのようにある道と聞くけれど、誰もがそうあれるわけではないだろうに。


 呟いて、クリスは視線を上に向ける。

 満天の星が映る、そのときに。


「すいません……! こちらに来ていただけませんでしょうか……っ」


 ひどく狼狽した様子のマリアが、教会の敷地から小走りで駆けてきたのだった。


-◇-


 マリア、クリス、ミロの視線の先にベラはいた。


 ベッドの上で眠っているが、ときおりくしゃみをし、透明な鼻水がじわりとこぼれていく。


「風邪でしょうか」


「そうかもしれません……」


 マリアは人肌に温めた濡れ布巾で柔らかく鼻水を拭う。その顔には不安が張りついていた。


「風邪だとしても楽観視できないんだな?」


「は、はい。やはり薬がありませんから……。悪化したときの対処法がないんです。鞄に入っていた薬も期限が切れているので、できれば飲ませたくありません」


 それでお呼びしたのですが、と続けるマリアにクリスとミロは頭を巡らせる。


「ごめんなさい、マリアさん。わたしたちもハチミツや生姜など、栄養がつきそうなものは持っているのですが……」


「……ハチミツはダメなはずだ。生姜は、どうだろう。体が暖まりそうなものだが」


 クリスの提案に、マリアは目を強く閉じた。

 記憶の奥底、新生児に取らせて良い食事を思い出すように。


「たしか……」


 絞り出す。

 記憶を。そしてクリスとミロへのおそれを振り払うように。


「たしか、生姜も危険なはずです。刺激が強すぎて胃腸が耐えられない可能性があって」


 絞り出したその声。

 クリスやミロの提案を否定するそれは、昨日では考えられないものだ。

 

 その姿にミロはクリスへ目配せをする。それにクリスは小さく頷いた。

 それで充分。ミロはマリアに何かがあったのだと理解した。


「分かりました! それではどうしましょう。流石に部屋の中で火を焚くわけにもいけませんし」


「えっと……。タオルのような布があれば。温めた濡れタオルがあれば、部屋も加湿できると思います」


 ミロの問いかけに、マリアははるか昔、研修医だったときの産院の様子を思い出して言葉を紡いでいく。


「分かりました! いちばん綺麗な布を用意しますね!」


「では、俺は湯を沸かしておこう」


「お願いします……!」


 三者三様、すべきことをなしていく。

 マリアが忌憚なく意見を言えるのならば、対処方針の精度は大きく向上するだろう。


 それは赦しを得た魂の輝きにも似て。

 きっとベラの命を救う助けとなる。


 けれど。

 けれどまだ。まだあとひとつ。

 足りてない。


-◇-


 夜が明けて。


 外部からの衝撃で信徒会館が大きく震える中、マリアは包み込むようにベラの手をそっと握る。


 熱い。

 ベラの体温は、触れれば容易に危険と分かるほどに上昇していた。


 例えば環境変化に伴う体調の悪化であるならば、自然に治癒することもあったかもしれない。

 もしも普通の風邪だったなら、三人の看病で体調の悪化は防げただろう。


 けれど、そうはならずに。


 献身的な看病も虚しく、ベラの呼吸は浅く、早くなっていく。

 唇は酸素不足により青紫色に変化している。


 口からこぼれるのは、か細くなった咽び声。

 大きく泣くこともできないその声は、けれど御使を呼び覚ますに足るものだった。


 振動が響く。


 ずっと。

 数時間前にベラが泣いてからずっと。

 ミロとクリスが外に駆けていってからずっと。

 信徒会館を揺らす衝撃が絶えることはない。


 二人が食い止めているのだ。

 マリアを殺そうとする御使の裁きの掌を。

 ずっと。ずっと。

 絶えることなく。


 絶えることなく。

 御使は現れている。

 ベラの窮地を救おうと、そのために。


「あ……」


 思い至った、その瞬間。

 マリアはアンジェラがひかりに包まれた光景を思い出していた。


 理解する。

 自らの命はいま、このときのためにあったのだと。

 自らを裁くために現れる天使こそ、ベラを救うために現れる神の奇跡に違いないのだと。


「ベラ……」


 そっと髪を撫でる。愛おしさを込めるように。

 すると、うなされていたベラの表情がわずかに緩んだ。そして。


「まま……」


 ひとこと。それが。


「ああ……っ」


 どれだけの奇跡だっただろう。

 どれだけの祝福だっただろう。


 言葉にできないほどの感情の飽和。

 肯定される、自らの命。そのすべて。

 強く胸を穿つ使命感。


 この命を守るためなら何をしても良いと。

 何もかもをするのだと。


 こころの震えに膝をついたマリアは決意した。


-◇-


 信徒会館の入口すぐそば。

 そこには目を覆いたくなるような光景が広がっていた。


 いくつもの倒れ伏した御使の残骸。

 それらは折り重なり、そしてそれを乗り越えるように新たな御使が前にあふれ進んでくる。


 殺到する先。

 そこにいるのはミロだ。

 守りの要を叩き潰さんと、御使は雲霞の如く集まっている。


 そしてクリスは。

 クリスはミロのすぐそばで膝をついている。

 両手両足、そして右脇腹から(おびただ)しいほどの出血があり、生きているのかどうかすら危うい状態だった。


 そんななか。


 こつり、こつり、と、この場には似つかわしくない、ひどくゆっくりとした靴音が響いた。


「ごめんなさい。ミロさん、クリスさん。もう、終わらせますから」


 マリアだ。

 ベラを腕に抱いたまま、ただまっすぐに足を進めている。


 それは殉教者の姿そのものに見えて。

 その光景を見たクリスの瞳に光が灯った。


「だめだ、マリアさん……」


 ごぼりと口から血を吐きながら声を出す。


「『赦しの秘跡』は、完遂されて、いない……っ。だめなんだ……っ」


 それでもマリアの歩みは止まらない。

 ()めてくれ、と隣の相方に声をかけてもミロが動く気配もない。


 限界なのだ。

 すべてがすべて。


 そしてクリスが止めること叶わずに、マリアは御使の前にその身を晒した。

 

 ぴたり、と。

 全ての御使の動きが停止する。


 音もなく、震えもなく、ただ時の止まったような異様な静寂がその場を支配し、そして。


「どうか。どうかこの子をお守りください」


 マリアは目の前にある、ひときわ大きい御使に祈りを告げた。


 それで。

 意思のないはずの御使、その腕がまるで躊躇うようにゆっくりと動き、マリアに触れる。

 

 刹那。

 全身をバラバラに引き裂くような痛みがマリアを襲った。

 一瞬が永遠のように感じられる、その痛みのあと。


 どさりと。

 何かの落ちる音が、静寂を引き裂くように辺りに響いたのだった。



 

-◇-



 ゆっくりとマリアは目を開く。

 そこは。

 煉獄でもなく。また、地獄でもなく。


 御使の満ちる信徒会館の前。

 痛みに覆われて目を閉じた、その前と変わらなかった。


 変わらない。

 --いいや、違う。


 目の前にいたはずの御使の姿はすっかりと消え失せて。そこにあるもの、それは。


「本、と薬……?」


 見慣れない文字で書かれた、ハードカバーの分厚い本と。ひかりあふれる前に何度も見た、薬のブリスターパックのシートとが。

 

 信徒会館の前。石畳の上に落ちている。


 理解、できなくて。

 マリアも、クリスも、ミロも固まった、その中で。


 どさり。どさり。どさり。

 どさどさどさどさ。


 音が響く。御使が消えていく。


 あるものは医学書を。あるものははるか昔に配られた緊急時用のガイドブックを。

 かつての市販薬を。処方薬を。効能効果の記載された添付文書を。


 自らの代わりに残すよう、変じたままに消えていく。


「『きっとこの薬がいいんじゃないかしら』」


 呟いた、その言葉の主はミロだった。

 弾けて、変じて、消えていく。

 御使たちのその言葉。


 それは。


「『いやこちらではないか』『ならばいずれも』『薬だけ渡しても仕方ないでしょう』『使い方を』『理解できるか?』『あらゆる言葉とあらゆる薬を』」


 御使からこぼれるひかりの意思。

 それは、わちゃわちゃと心配そうに集まる人の群れにも似て。


「『どうか。どうか。こどもを助けてあげて。あらゆる痛みと悲しみから』」


 怒りを取り払ったあとに残る、ひかりへと変わった人々の願いそのものだった。


 裁くもの。罪を犯したもの。

 ミロによるひかりとの対話。

 クリスによる赦しの秘跡。


 それを両輪として。

 今。

 ひかりは自らの本質を取り戻す。


 悪徳が人を殺すのに、善性は人を救わない。

 そんな、ままならない一切皆苦の世ではあるけれど。

 それでも。


『こどもは守られなければならない』


 そんな単純な祈りをどこまでも純化したひかり。彼らは。

 

 その場にたった一人。医学書と薬を、理解し扱えるマリアに託して消えてゆく。


 つう、と。

 クリスは自らの頬を流れる感触に、驚きと共に手を当てた。


 涙。それは理解したからだ。


 ひかりが与えた薬と医学書。

 かつての世界ではありふれたもの。

 それを正しく扱えるマリアがここにいること。


 それこそが奇跡なのだと。


 人が他者を救けることができるよう神は世界を形作られた。

 それはずっと昔、祈りのひかりが世界に溢れるよりも、ずっと昔に。


 そのように。


 『fiat lux』


 ひかりあれと神はことばを述べられたのだと。

 クリスは神の声を聞いた。





-◇-


 そして、ここではないどこか。

 今ではない未来のいつか。


 たどり着いたその場所で。


 産婦人科医として働くマリア。その子供、ベラ。

 彼女たちは久しぶりに会う二人組を出迎える。


 いまだ救済の旅のさなか。

 慈悲を体現する尼僧と皮肉屋を気取る神父の二人組を。








ここまでお付き合いいただきまして誠にありがとうございます。

何か足跡を残していただけますと非常に嬉しいです。


このたびはお読みいただきありがとうございました。




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