第六話 赦しがたき過去
一年前。マリアの産院にて。
ベラの母、アンジェラがマリアの産院を訪れたとき、その腹は出産間近であることが容易に想像できるほど大きくなっていた。
そしてベラは骨盤位(逆子)だった。
胎の中で大きく育ち、その体勢が変わることはない。
経膣分娩を行うにせよ、帝王切開を行うにせよ、いずれの方法においても、通常の出産とは異なる技術及び知識が要求されるものであり--マリアはそのいずれも持ち合わせていなかった。
堕胎以外の経験など。世界にひかりがあふれてからは片手の指の数よりも。
それでも。
それでも彼女は何かをしなければならない。
街の中には他に産院などなく、頼るべき他者はどこにもなく。街の外は乱れた物理法則に適応した異形が蔓延っている。
何かをできるのはマリアだけ。
どれだけ不足があったとしても、何もしなければあるがままに母子ともに死が訪れる。
マリアの住むこの地には、子を守るひかりが届かない。あるがまま。なすがまま。奇跡が起こることはないだろう。
だからこそ。深く息を吐いて、マリアはアンジェラを自らの産院に受け入れた。
命になりたがっているこどもたちを殺すことより、それはずっとやりたいことだった。
-◇-
アンジェラを病室に案内したあと、マリアの姿は父の遺した書斎にあった。
その顔には焦りが滲んでいる。
現実的に考えて、帝王切開を選ぶことはできない。
衛生環境も、麻酔も、出血を補うための血液も。技術以前の何もかもが足りていないのだから、それを選んだ時点で母親の死は避けられない。
ゆえに選ぶのは骨盤位における経膣分娩。
かつて『骨盤位分娩は予定帝王切開すべき』との勧告がなされ、ひかりが溢れる前ですら失われつつあったその方法こそ、マリアが取り得る唯一の方法だった。
「あるはず、あるはずよ……」
分娩の手技について記載された本。
そのうちなるたけ古いものを中心に速読し、机の上に積み上げていく。
まずは関連しそうな部分に栞を挟むだけ。
書斎の本すべてを熟読する時間がない以上、効率的に調べなければならなかった。
「どうして読んでいなかったの……!」
今まで。アンジェラが産科医を訪れるまで、時間はいくらでもあったのに。
堕胎する自らの罪深さで酒に溺れたり、自らの無力を嘆いて無為に過ごす時間はあったのに。
もはや出産に立ち会う機会など来ることもないと、備えることをしてこなかった。
そして今、今更になって、足りないものを補おうとなんて。
深く沈んでいく思考。
けれど。
強く、強く頬を張る音が書斎に響いた。
「しっかりしなさい……!」
頬を張ったのはマリア自身。
後悔など。いくらでも湧き上がるそれなど、今の状況には何の足しにもならないと彼女は自らを踏みとどまらせた。
そうして彼女は知識と手技を積み上げていく。限られた時間、それを全力で使い尽くし。
そして。
けれど今。分娩のとき。
ベラが産声を上げるより先に、心拍の乱れを機器が告げる。
経膣分娩の継続はベラの命を優先するならば不可能だった。
-◇-
「せんせい、どうか。きってくださいな」
ベラの母、アンジェラがマリアに声をかける。
しかし、そのときマリアの耳に届いたものは、マスクの中で響く自らの荒い呼吸音だけだった。
医学書を読み、何度も頭で再現した手技による娩出。これに備えた緊張が継続するなか、突然にそれから解き放たれたのだ。
そして次に襲いくるものは母子いずれの命を優先するかの問い。
帝王切開。
そのための最低限の準備は済んでいる。
腹を切るメスも、そのための手技の訓練も幾ばくか。
それでも。
麻酔も。輸血も。消毒液も。何もかも足りない現況において、腹を切るならば母体は助からない。
だからこそ経膣分娩の成功に賭けるしかなかったのに。
「せんせい?」
「は、はい」
再びかけられる声にマリアは思考を取り戻す。
「もう少し。もう少しだけ待ちましょう。子宮口さえ大きく開けばうまく出てくる可能性はあるんです」
努めて絞り出した落ち着いた声。けれどもその内容は祈りと縋りに満ちていた。
けれど乱れてゆく。
弱々しくなってゆく。
心拍が命の灯火の有り様を克明に伝えていく。
死ぬ。このままでは産まれることなく子は命を落とす。
思考が暴走する。
医学的知見は吹き飛んで、ひとりの意識だけが自問自答に絡まっていく。
こころの内側から語りかけてくるように。
切るべきだ。
母親の望み通りに。
切るべきだ。
子の命の尊さがあるままに。
そう。
切るべきだ。
いつものように。他人に求められるまま胎児を殺すように。今度は母親を殺すのだ。
おまえはおまえの望む通りに。
「ゔっぐ」
湧き上がる胃の蠕動運動。吐き気すら制御できなくなる、その刹那。
「せんせい、ありがとうございます。わたしのために苦しんでくれて」
この場に相応しくない、ひどく穏やかなアンジェラの言葉が手術室に響いた。
「できればわたしも戻りたかったけれど。けれどもう、わたしはこどもではなくなってしまったから」
錯乱。
アンジェラの様子をマリアはそのように捉えた。その様子を見て、自らの混乱はすぅと引いていく。
しかし、アンジェラは正気だった。
口を開く。
「てんしさま。どうか。わたしの子を助けてください。こどもを危機に晒すわたし自身を取り除いてください。……ひかりあれ」
顕現する。
アンジェラの首飾り。光溢れる地より持ち出したそれを媒介にして。
ただ眩く光るそれはそこに顕れて。
アンジェラの体、そのすべてを天に召した。
寝台には赤子と。
母親と確かに繋がっていた証の臍の緒だけが、そこに残されていた。
-◇-
「わたしは決断すらしませんでした。帝王切開でも母親の命が繋がる可能性はあったのに。わたしはわたしの無能ゆえにベラから母親を奪ったのです」
そう言ってマリアは全てを語り終えた。
その瞳は自らの罪から目を逸さぬかのようにクリスに向けられている。
その眼差しがいかに重いことか。
彼女は言葉を待っているのだ。
神の代理人たるクリスの言葉を。それこそが自らを裁くものになると信じて。
けれどマリアの行いは聖書の語る罪ではない。道徳に反したものでもなく、良心に反したものでもない。
不足は罪ではなく。それゆえに赦しの秘跡では赦すことのできない過去である。
それでも痛悔は強く。その痛みはいずれマリアの精神を灼くだろう。
だから。
「マリアさん。あなたの行いは愛の中にあった。罪ではない。それでも……」
深く息を吸い、吐いて。
「罪ではないその過去も主は赦してくださる。あなたは今まで自らの過去を悔い、いま告白し、そしてベラを育ててきたのだから」
罪ですら赦されるのだから、それですらない行いが赦されないはずがないと。
クリスは言葉を口にした。