第五話 告白 あるいは伝わるべきこと
我を忘れたようなマリアの謝罪はどれほど続いたか。
誰に対するものかすら定かではない言葉の群れは、空に届くことなく消えていく。
そのあいだ、ずっとクリスは自らの赦しを乞うマリアの言葉を待っていた。
赦しが必要なのだ。
御使の手から逃れさせるために、『赦しの秘跡』を速やかにマリアへ施さなければならない。
しかし。
次第に落ち着きを取り戻して、顔を上げたマリアの言葉は。
「神父さま。どうか、ベラだけは。あの子だけは助けてあげてください。わたしへの裁きはどうかわたしだけに」
己の罪を痛悔してなお、娘のためのものだった。
紛い物たるクリスは思う。
ああ、そうだ。いつも。
真に赦しを得られるべき、痛悔のうちにある者こそ自らの赦しを望まない。
だからこそ。
「もう良いんだ、マリアさん。痛悔はここに。主の代理として俺があなたの罪を赦す。だから……」
人が自らを赦すためにも。
「神のいつくしみに信頼して、あなたの罪を告白してください」
神が必要なのだ。
-◇-
『赦しの秘跡』
それは、回心した者の罪を神の名の下に赦す、司祭(神父)に与えられた権能の一つである。
神の名の下の赦しであればこそ、それはこの歪んだ世界のひかりが訴う罪についても例外ではない。
赦しを乞う者はこの秘跡を受けるために『痛悔・告白・償い』の三つを行わなければならない。
痛悔とは、自らの罪を心から悔いることだ。そしてそれは罪を繰り返さないという、悔い改めの決意を伴うものである。
痛悔は信仰から起こるものでなければ『完全な痛悔』とはならない。それ以外の理由によるものは『不完全な痛悔』となる。
ならば、マリアのそれは『赦しの秘跡』に足り得ないか。
(そんなわけがない)
記憶にある入門書を思い出しながら、クリスは自らの問いかけに首を横に振った。
『不完全な痛悔』であっても、『赦しの秘跡』を経れば罪は赦される。そして何より。
虚空に溶ける謝罪を繰り返し、『娘だけはどうか』と叫ぶ人間が悔いていないなど、どうして言えるだろうか。
-◇-
痛悔の次になすべきは告白。
司祭に対して自らの罪を告白をしなければならない。
クリスに促されながら、マリアは自らの罪を告白していった。
背負い鞄にしまわれたカルテの束。それらをひとつひとつ取り出し、モノクロの写真を露にしながら、いつ命を奪ったのか、子どもたちの様子はどうだったかを嘘偽りなく述べていく。
百枚を越す写真のいずれにも同じものはない。
似た姿をしていても、彼または彼女たちは異なる命なのだから、同じものなどありようがなかった。
時が流れていく。
東の空にあった陽は既に中天を越し、西への旅の半ばまでに達した。
罪の一つを告白したのち、マリアは次のカルテを取り出す。
それは他のものと比較して明らかに情報の量が異なっていた。
「あっ……」
マリアが小さく声をあげた。
顔を歪め、天を仰ぐ。
そこには、子供の名前欄が記入されている。
子供の名前は『ベラ』。
母親の名前欄には『アンジェラ』と記されていた。
「マリアさん、あなたは」
あの子供の母親ではないのか。
その言葉を、すんでのところでクリスは言いとどめた。
それが罪に関わるものであれば、告白者に語らせなければならない。
それでなくとも、その残酷な言葉を放つことがクリスにはできなかった。
ざあ、と、風が吹いた。
カルテが巻き上げられそうになる。
それをマリアは両の手で押し留めた。
カルテは少しの間ばさばさと暴れ、じきに動きを止める。
そしてマリアは口を開く。
「ベラは私の子どもではありません。あの子の母親は私が殺したのです」
予想だにしないマリアの罪の告白に、今度こそクリスは言葉を失った。
けしてなにも。
この世にあるものは何一つとして、思い通りには進まない。
一切皆苦である。
-◇-
一切皆苦。
それはここ、ベラとミロがいる信徒会館でも。
「あぁーん!」
空腹によるものか、母親を求めてのものか。
あるいは全く別の理由によるものか。
信徒会館の中にベラの鳴き声が響く。
そしてそれを呼び水として。
『ひかりあれ』
顕現する。ひとりの男の姿。創世記にて神とともに歩み、神に召し上げられたとされるもの。あるいは天にてメタトロンに変容したとされるもの。その似姿。
只人と変わらぬ姿をしたそれは、二人からわずかばかり離れたところに顕れた。そしてゆっくりと、彼女たちへのもとに歩いてくる。
小さな体。
けれどそれがもたらす裁きが小さいはずもない。
ミロは泣きじゃくるベラの髪をそっと撫で、数歩前に踏み出した。
凄惨な何かが起きるかもしれない。耐えきる覚悟はあるけれど、耐えきれないこともあるかもしれない。
そうしたときにベラがそれを見ないで済むように、被害の余波が及ぶことのないように、ミロはベラから離れた。
「ひかりあれ」
男の指先がミロに触れる。
そして。
「いやだ」
ミロの口から言葉がこぼれた。
ありえないことである。
救済者であると自らを定義し、弱音は吐かないと決めた。そしてそれは揺るぎないものになっていた。
けれどそれすらも突き抜けて心を染め上げるもの。
それは理由の分からない極地にある感情の発露。名状できないからこその純粋な不快感。
つまり。
「お前が感じさせたようにお前は感じよーーそういうことですね……っ」
打ち上げられた魚のように暴れ回りたくなる衝動を抑え、ミロは言葉を紡いだ。
不快感。それはベラが感じているものと同じだということ。その認識をひかりと共有するために。
男は何も示さない。
言葉を返すことも、頷くこともない。
それは人に似た姿をしていてもけして人ではないのだから。
それでも。
「ありがとうございます。ベラちゃんの感情を伝えてくれて。わたしはあなたのおかげで智慧を得ました」
慈悲とともに救済に必要な智慧の断片。
ミロはそれをもたらした男に言葉を告げる。
あなたがたは人であると。
瞋恚に囚われただけのものではないと声をかけるのだ。
「ああ、これは……っ」
全身を侵す不快感。それを一つずつ理性と意思でもって解きほぐし、明確なかたちを掘り出していく。そうして理解したもの。
それを。
「お腹すきましたね、ベラちゃん。おむつもかえましょう……!」
言葉をかける。泣いた理由を取り除くために。
そうして下着を変えて食事を与え、ベラが眠るころ。ミロは全身を包む不快感が消えていることに気付く。
いつのまにか男の姿は消えていた。