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ひかりあれ  作者: さいか
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第四話 痛悔 -罪ある一人の女あり-

 血生臭い光景が広がっていた。

 

 街の外れ。

 教会からおよそ、徒歩で一時間ほど北の場所。

 そこには、細長く硬質なものによってバラバラに千切られたような人体と、そこから溢れ出た血の池と。

 まるでそれらが跳ね除けられたかのように、いずれにも触れていない背負い鞄が硬い石畳の上に存在していた。

 

「ありました……! ありがとうございます」


 マリアが感嘆の声をあげてクリスに感謝を述べる。そのまま、足元が血に濡れることも厭わずに鞄へと駆け寄った。

 

 開く。

 中身は全く損なわれていない。

 一週間分ほどの食料と、水筒を含む食器類。さらにはベラの着替えが複数枚とオムツや体を拭くための布がいくらか。小箱には石鹸の類。

 小瓶には使用期限などとうに過ぎた解熱剤と抗生物質。そして置いていくことがどうしても憚られた紙の束。


 全てあった。

 それが全てだった。


 足りない。

 この街から離れ、どこか。死の危険がない場所まで旅するためには。


 当然だ。

 ここが目的地だったのだから。

 子供の敵が悉く鏖殺されると伝え聞いたこの街こそ、ベラを救うためにマリアが選んだ逃げ場だった。

 

 だからもう先はない。

 昨夜見た『炎の柱の中で火に包まれた少女』のように、いずれ自らの罪が明らかにされて裁かれるのだ、と。


 できることがなくなったマリアの意識は悲観を加速してーー。


「マリアさん。ちょっと手伝ってくれないか」


 言われるがまま、ゆっくりと振り向く。

 そこには、ズタ袋を脇に置いたクリスの姿があった。


 十字を切って手を合わせ、二言三言呟いたのち、ぐちゃりと。

 血溜まりに手を差し入れて、比較的大きな塊を抱き上げている。


「袋の口、空けておいてくれ。土のある場所に運んで弔ってやりたい」


「……はい」


 線の細い娘なら卒倒してしまいそうな頼みであるにも関わらず、マリアは諾々とそれを受け入れた。


 遺体が袋に入る際、血が跳ねて頬に付く。

 どろりと皮膚をぬめる感触にも、忌避感を覚える様子はない。


 ひとつ。ふたつ。

 ……ここのつ。とお。


 あらかたの欠片が入れられて、残る塊はひとつだけ。


 首から上。

 頭。


 それと目が合う。

 クリスに抱えられた腕の合間から、どろりと濁った瞳がマリアを捉えた。


 それでもマリアに動揺はない。

 慣れているのだ。ばらばらの遺体を処理することに。

 追い詰められて疲れ果てた脳が、その事実に思い至っていないだけで。


 けれど。


「マリアさん。もし分かるなら、コイツ等の名前を教えてくれないか」


 名前が分からない。

 その事実で気付いてしまう。


 同じだと。


 女たちの意思など構わず、ただ命じられるまま冷たい金属で掻き出した、名前が付けられることもなかった命たちと。

 自分が逃げたために、『子供の敵が悉く鏖殺される街』へ来た、名前も知らない追手たちは。


 いずれも、自分が自らの意思に基づいて殺したのだと。

 『他人を犠牲にする生き方を続けることはもう出来ない』そう嘆いた舌の根も乾かないうちに、彼らを犠牲にする方法を選択していたのだと。


 気付いた。


『どうしてあの子の赤ちゃんは生きているのに、私の赤ちゃんはここにいないの』


 記憶にある問いかけに答えられる訳もない。

 濾紙の上に自らが置いた命の欠片と、似つきもしない目の前の死体が重なって。


「ごめんなさい……! ごめんなさい……!」


 赦しを求めるためでなく、ベラを生かすための考えに依るものでもなく。

 ただ自らが犯してきた罪の大きさに耐えられず、マリアは悔恨の声を上げた。


ー◇ー


 --数年前。

 ひかりなき地にて。


 合成樹脂で出来た抗菌性の床。

 微かな駆動音を響かせる、モニターとプロープを備えたエコー用の機械。

 銀色に光る、様々な形をした手術道具。


 そこまではかつての処置室を思わせる。

 けれど。


 床にはあちこちに剥がれがあるうえ、機械は晴れた日でなければ電力不足で起動することはない。手術道具を消毒するためのエタノールは酒から蒸留した粗悪品だ。


 それに何より。

 かつて命が産まれる喜びに満ちていた場所が今はもう、命を奪うことしか行われていない。


 『堕胎室』


 部屋の入口脇の壁には、諦観と自嘲を煮詰めたような殴り書きの文字が書かれている。


 擦り切れてほつれの目立つ施術服を着た女医が、分娩台で眠る少女の前に立つ。


 少女。

 歳の頃は14、5といったところか。

 深いクマが刻み込まれているものの、その顔からは幼さも見てとれる。

 腹の膨らみはわずか。痩せていなければ妊娠しているとは気付けないほど。

 自己申告をしなかったのか、今まで雇い主に発覚しなかったのだろう。


 超音波で中の状態を確認するためのプロープが、少女の下腹部に押し当てられる。

 すると、『とっ、とっ、とっ』と心拍を伝える音がスピーカーから流れた。

 プロープが動かされ、胎児の全身がモニタに映り込む。

 胴体から小さく生えた足が、まるで歩きの練習をしているかのように動いていた。


 生きている。

 わずか4cmほどの大きさでも。

 瞼があり、鼻があり、口がある。

 顔がある。


 女医が機械を操作し、写真を吐き出させた。

 全身と顔、それぞれを一枚ずつ。

 それをカルテに挟み、袖机にしまい込む。

 そのままの足で水を溜めた桶まで歩き、手を洗う。エタノールもどきで消毒し、使い回しの手袋に手を通す。


 それで準備は終わってしまう。

 もう引き伸ばすための作業はない。


 女医は強く目を閉じ、数秒ののちに目を開いた。


 子宮頸管。

 本来であれば出産時にようやく広がる、膣と子宮を繋ぐ、とても細い管。

 

 その子宮頸管を拡張させるために少女の膣に挿入していた複数のラミナリアを、専用の鉗子で一つずつそっと引き抜いていく。


 ひとつ。ふたつ。みっつ。


 一晩のあいだ水分を吸い続け、直径6mmほどに膨張したそれらを金属製の盆に置き入れる。


 次に、女医は細長い棒状の子宮ゾンデを手に取った。中を傷つけないよう柔らかく差し入れたのち、手触りだけで子宮の位置を再確認する。


 中央、やや斜め上。

 度重なる経験は速やかにその場所を把握させた。


 太い棒状の金属からなる子宮頸管拡張材を突き入れて子宮頸管をさらに拡張させたのち、女医は胎盤鉗子に持ち替える。


 胎盤鉗子は、両の先端に平べったい把持部を備える、細長いペンチのような形状をした器具でありーー。

 子宮内に挿入し、内容物(・・・)を可能な限りひとかたまりに摘出するためのものである。


 こつ、と。

 子宮最奥に当たる微かな手応えを感じ取り、女医は僅かに手元を引いた。

 鉗子を開き、内容物に触れ、把持部で掴み、引く。

 

 取り出された内容物の足は、押し当てられた把持部により潰されていた。

 引きちぎられた臍帯(へその緒)が、行き場を失ってだらんと揺れている。


 それを濾紙(ろし)に置き入れて、女医はキュレットを手に取った。


 先端の、ザラザラとした輪っかで子宮内壁を掻爬(そうは)し、胎盤を含めた全ての組織をこそげとっていく。


 手術開始から三十分。

 少女の体から妊娠の痕跡は消え去っていた。


-◇-


「よォ、先生ェ! お疲れさん!」


 処置室を後にした女医を出迎えたものは、下卑た男の労いだった。


「……どうも」


 肩にかかる、ゴツゴツとした手の不快感を我慢しつつ会釈を返す。


「おぅ! カネはいつも通りでいいよな?」


「はい、……妊娠初期でしたから」


「そりゃ何よりだ。先生ェ、女はまだ中だよな」


 角ばった男の掌が女医を押しのけて、処置室のドアノブに触れる。

 連れて行く気なのだ。

 体の傷でさえ、まだ癒え始めていないのに。


「やめて!」


「あァッ!?」


 思わず叫んだ声は、男の一喝にかき消されてしまう。


「申し訳ありません。……まだ、店に出れる状態じゃないんです」


 残るのは、か細い声の懇願のみ。


「なあ、先生」


 男が深く息を吐きながら女医に向き直る。


「女どもは股開いてメシ食ってんだよ。休むンなら食わすモンはねェ」


「それは……」


「それともアンタが代わりに抱かれてやるってェのかい?」


 無遠慮な男の視線が、顔・胸・腿と女医の全身を這っていく。

 女医は思わず自らの体を隠すように抱きしめた。


「まぁ、やめときな。愛想のねェ痩せたガキよりはよっぽど稼げるだろうがよ」


 一拍、男は呼吸を置く。

 そして。


「俺たちゃ、無理強いはしないんでね?」


 男が横を抜けて扉を開ける。


 今度は、女医が口を開くことはなかった。


 中から怒号と叫び声が届いてきても。

 頬に真新しいアザをつけた少女と目が合ったときも。

 男に連れられて、少女の背中が見えなくなったあとも。

 ただ中途半端に伸ばされた右手だけが、届くあても定まらないまま揺れ続けた。


 女医の名はマリア。

 父親の遺した病院を研修過程半ばで引き継いだ娘であり、いまや娼館付けの堕胎専用となった産婦人科診療所に残る唯一の医者であった。

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