第三話 随機には未だ遠くとも
朧げな月明かりの下、教会のすぐ手前で焚き火が燃えている。
その熱が幾許か届くほどの距離で、クリスは揺れる炎を一人で眺めていた。
『紛い物の神父』
マリアに語った自らの評。思わず口をついて出たそれはあまりにも相応しく、思わず自嘲してしまう。
神の声は聞こえない。
ずっと。きっと初めから。
それでも。
赤子。母親。
救わなければならないものだった。
「クリス。お疲れ様です」
「ああ。マリアさんたちは? 寝たか?」
後ろから声を掛けられ、クリスは首だけで振り返る。ミロは質問に対して「ええ」と答えながら、クリスのそばに座った。
「やっぱり、緊張というか、警戒なさってたみたいですけど。疲れてたんでしょうね、ベラちゃんを寝かしつけながら、そのままお眠りになりました」
教会に併設された信徒会館の一室。元々は訪問客が一夜を過ごしたであろうその場所で、マリアとベラは眠りについていた。
「そうか。良かった」
「ええ。良かったです」
それきり二人の間から言葉が消える。
ぱちぱちと焚き火の音だけが響く。
絶え間なく揺れる炎に照らされて、それぞれの頬は赤く色づいていた。
時間が流れていく。
東の空から昇った星々が人の目には分からないほどにゆっくりと動き、やがて南の空に浮かぶころ。
泣き声が響いた。
信徒会館の奥から反響し、入口を過ぎたこの場所にまで。
御使は子供の泣き声に反応して顕現する。
それゆえに。
「来るぞ」
「はい」
立ち上がる。その視線の先。
『ひかりあれ』
顕現する。
天空より出でし燦然と輝く炎の柱。出エジプト記にて人々を導いたと語られるもの。あるいはメタトロンの別の貌とも語られるもの。その似姿。
太陽よりも眩いそれは、二人から幾許か離れたところに顕れた。そしてゆっくりと。
「近づいてきます……!」
いかなるあり方がそうさせるのか。
天から降り注ぐ炎は只中にある枝葉に遮られることなく、また傷つけることなく大地までをまっすぐに貫いている。
無害なのだ。罪のないものに対しては。
けれどもそれが咎人とみなすものに対して等しくあろうはずがない。
炎の柱は神の家の護りを越えて中にいるものを灰燼に帰すだろう。
「お前が殺したようにお前が死ね!」
クリスが叫ぶ。
しかし。
「聞く耳持たずか!」
炎の柱に何ら変わるところはない。
天使の似姿よりも現象としての側面を強く持ち、己が思考を持たないかたちであるが故に。
昼と同様のやり方で消すことは不可能だった。
「すまん、役立たずだ! マリアさんたちを逃がす。足止めしてくれ!」
「ええ。任せてください!」
クリスが信徒会館へ駆けていく。
あとにはミロと炎の柱が残された。
ミロが柱の前に立つ。
「おん あぎゃなえい そわか」
深く呼吸したのち印を結び、真言と共に一歩だけ前へ。そのようにして、彼女は天から降る柱に身を晒す。
すり抜けるはずの体が炎に包まれる。
それもそのはず。
火天の真言は自らの身を守るためのものでなく、炎をそこに留まらせるためのものであるが故に。
けれどそれは炎に触れるということ。
そしてそれは。
『どうして正気でいられるのか分からない。
毎日のように子供が殺されるニュースが目に入る。
ごめんなさいと親に手紙を書いた子供が。
体重が平均の半分にも満たない子供が。
かわいくてたまらない笑顔の子供たちが殺されているというのに。
どうして誰も、血が沸騰してしまいそうなほどに狂わないのか。
どうして誰も、頭の中がそれだけに塗りつぶされてしまわないのか。
どうして誰も、ふさわしい報いを与えることをしないのか。
それが、許せない。
子供の死を放置して、当たり前のように回る世界が許せない』
ミロは声を聞いた。
始源へ至った者の残滓。それを、ひかりがなす炎から感じ取った。
怒り。三毒のひとつである瞋恚。穏やかざる心にて悪行の依り所となるもの。
炎から感じる声は、それそのものだった。
「……そうですね。そうですよね」
瞋恚。思い通りにならないことに対する憤り。怒り。
けれどそれは。
「あなたがたの怒りをわたしは理解します。それは子どもに対する悲だから」
悲。
苦しみをともに感じる思い。その苦しみを取り除いてあげたいという心。
それをどうして単なる誤りであると断じることができるだろう。
それでも。
「けれどそれでも、怒りをおさめてもらうことはできませんか。それは他者とあなたがた両方を灼く火なのです」
ミロは声をかける。
釈迦如来の掌より溢れた衆生全てを救うことを定めとするが故に。
されど言葉は届かない。
それらはもう初めから理解していたのだから。
自らの怒りで身を灼かれて混ざり合い、己が何者か分からなくなったとしても。現象と化して未来永劫休まることがないとしても。
かまわないと決めて扉を開いたのだから。
嘆きと怒りは次々と流転し、共通するものは「子を傷つけるものに裁きを」という願いのみ。
どれだけミロが言葉をかけようと、それだけが、夜の帳とともに炎の柱が姿を消すまで変わらなかった。
-◇-
翌日。
「ふぇぇっ」
「ああっ、大丈夫ですよ! ほらほら、だっこ、だっこです!」
教会に併設された信徒会館。マリアとベラが一夜を過ごした部屋にミロとベラの姿のみがあった。
マリアはクリスと共に外に出ていて、ここにはいない。
追っ手たちの死体が生々しく残る場所へ荷物を取りに行っている。
マリアはベラと離れずにいるべきか、それとも血生臭い光景を見せないようにすべきか悩んでいたが、『わたしがベラちゃん見てますよ!』というミロの一言が決め手となり、そして。
今。
子守唄や手遊びが不発に終わり。
マリアと離れてぐずりだしたベラを前にして、ミロは自分が知る赤子をあやす方法を使い切りつつあった。
(たいへんだ)
思わず頭の中でひとりごちる。
疲労の中浮かぶのは、昨夜のこと。
嘆くまま消えていったひかりたち。
今にも泣き出してしまいそうな赤ちゃん。
何事も思い通りには進まない。その、一切皆苦を知る身といえど、続けざまに言葉が届かない事態に直面して、ミロはわずかな無力感を感じてしまう。
けれど。
「うー?」
肩口に柔らかく触れる手の感触。ミロが視線を落とすと、首を傾げるベラの姿があった。
不機嫌はどこに行ったのか、「どうしたの?」と尋ねんばかりにミロの肩をくりかえし触っている。
「ふふ……」
まさに諸行無常。そして、こちらを心配する姿など慈悲そのものにも似て、思わずミロは頬を緩めた。
「ご心配ありがとうございます。優しいですね、ベラちゃん」
ミロが髪をなでると、ベラはくすぐったそうに目を細めて体をよじる。
「ベラちゃんはママに優しくしてもらってるんですね」
この世界で他者に与える慈しみは貴重だけれど、マリアは確かにそれをベラに示しているようだとミロは感じた。体も精神も健やかに育っているように、彼女には見えて。
「ア、ア?」
「ああ? あ、ママのことですか?」
「うー」
ベラが『ママ』という単語に興味を持ったらしく顔をあげた。
その姿に何を語るべきかミロはわずかに考え、そして。
「ママ、って言うのはですね、赤ちゃんを産んだお母さんのことです。ベラちゃんのママはマリアさんですね! 今はクリスお兄さんと探しものに行っているはずですよ」
思いつく全てを口にした。
言葉、届けるのが難しいなら幾つでも話せばいい。そのうちの一つでも伝わればそれでいい。
そう考えて。