第二話 ひととなり
女は赤子を抱き、町外れの大教会に隠れていた。
数世紀を超えて変わらない神の家の堅牢は御使を防ぐことを期待させる。それでも、女の心中が穏やかであるはずはなく、いくつかの考えが浮かんでは消えていった。
礼拝堂奥深くまで隠れるべきか、何かあったときに逃げやすいようこのまま入口にいるべきか。
追っ手たちに追いつかれたときに背負い鞄を無くした今、泣き疲れて寝ている子どもの離乳食はどうするべきか。
そもそもろくに食べ物もないのにこの先どうやって生きていくのか。
……それを短期的には解決するかもしれないキャリーケースを前にして、自分が何をするべきなのか。
女の前には先程出会った男が投げ出した荷物が転がっている。それから視線を離せずに、女の思考は更に回る。
超常のちからを使う少女、その連れらしき黒衣の男。
彼女たちは自分を助けてくれたと素直に思う。ただ、あれには抗えないだろう、とも。
だから、この荷物を捨て置くことはそもそもが彼女たちの犠牲に対する冒涜であるし。
そもそも、ずっと他人を犠牲にして生きてきたのだから、言葉をろくに交わしてもいない彼女たちに気を配る必要なんて。
ない、と考えてしまうことが、なんて醜い。
そうあり続けたくないからこそ、今ここにいるのに。
堂々巡りになる思考で女の頭が熱を持ち出した、そのとき。
「あ、いらっしゃいました! お怪我はないですかーっ?」
ぶんぶんと手を振る少女と、少し意外そうな表情をした男が歩いて来るのを、女は見た。
-◇-
「わたしが『ミロ』で、こちらが『クリス』と申します。やー、マリアさんがお料理上手で助かりました!」
少女-ミロ-、男-クリス-、女-マリア-は教会前の開けた場所で、グツグツと煮えた鉄皿を囲んでいた。
鉄皿の中身は、ソバの実を塩で煮たうえでバターを絡めた粥である。
それが、それぞれの持つ深い木皿によそわれていた。赤子-ベラ-の分は湯を加えて薄められたうえで、冷ますためにマリアの横に取り分けられている。
「いえ、こちらこそ……服をお貸しいただいたうえに御相伴にあずかり、重ね重ねありがとうございます」
食材はいずれもミロとクリスの持ち物だ。この世界においては貴重なものである。
特に、保存の効かないバターの類はマリアが失った荷物にも入ってはいなかった。
「調理の対価だ。気にしないでくれ。子どもにも後で食べさせてあげればいい」
ベラはマリアの近くに敷かれた毛布の上に転がっていた。うつ伏せで上半身を上げ、三人の様子を興味深そうに見つめている。
「やっぱりベラちゃんかわいい……! わたしのごはん、分けてあげても良いですか?」
「あ、えっと……」
きっちりと潰してやれば、食べられないということはないだろう。ミロがその手間を拒むような性格でないことは、短い時間のうちにマリアは理解していた。
けれど知識に基づく別の理由がマリアのうちに存在する。ただ、それをミロに説明するには躊躇われた。
ミロとクリス、二人のどちらかにでも気を悪くされては子ども共々命運尽きると、マリアは常に意識している。
「バカ、やめろ。赤子の食べ物は大人と分けるものだ」
「そうなんですか?」
クリスの言葉に、ベラへにじり寄っていたミロの動きが止まる。
くりくりと丸く黒い瞳がマリアを見た。
「は、はい。成人の口内には虫歯の原因があって、3歳を超えるまでは食器を分けることが推奨されていました」
言いながら、マリアはひどく虚しい気分になる。
生まれ落ちることすら容易ではないこの世界で、子どもがその年まで育つことがどれほどの奇跡を要するか。
それを彼女は身をもって知っている。
「おぉー、そうなんですね。マリアさん、お医者さまか何かなのです?」
どきり、と。自らの心臓が大きく跳ねる音をマリアは聞いた。
けれど。
「ミロ」
クリスが静かな声で連れの名を呼ぶ。
びくっと背を伸ばし、ミロはゆっくりとクリスに向き直った。
「『それ』は自らの意思で行うものだ。不意打ちで強制させても意味はない」
「う……ごめんなさい」
縮こまり、か細い声でミロが謝罪する。その少し剣呑とした雰囲気にマリアは気圧された。
けれど。
「ふあぁっ……」
場の空気か、それともマリアの様子にか。
怯えるように、ベラが今にも泣き出しそうな声を上げた。
「ああ、ごめんね、大丈夫だからね」
マリアはすぐさまベラを抱いて立ち上がる。背中を少し早めにとんとんと叩き、合わせるように体を上下させていく。
それで、少しずつベラの様子は落ち着き、しばらくもしないうちに大人しくなった。
けれど、その視線はじいっ、とクリスを捉えたままである。
「……俺が悪かったからそんなに睨まないでくれ」
耐えきれず、クリスは両手を上げて『降参』のポーズを取った。
しばらくベラはその様子を眺めていたが、満足したように「んいー」と間延びした声を出す。
それで、緊張した空気は霧散する。
ミロは再びベラに目を輝かせ、クリスはマリアに苦笑を向けた。
「まあ、紛い物の神父と坊さんみたいなものだ、俺たちは。余計なお節介が染み付いているくせに、なかなか意見が合わなくてな。申し訳ない」
息を吸う。少しだけ、言葉に意味を持たせる様に。
「話すべきと思うことがあるなら、いつでも話してくれ。それがきっと、俺たちにとって一番嬉しい」
穏やかな様子で言葉を告げて、クリスは視線の先の空を見た。
夕焼け。黄金のひかりが四人を照らしている。背にした教会からは長い影が伸びているだろう。
日が暮れてゆく。