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ひかりあれ  作者: さいか
2/8

第1話 子の敵よ、全て死ね(ひかりあれ)

 かつて東欧と呼ばれた場所。

 その一角。


 尖塔を備えた古式ゆかしい建造物。

 50世帯は収容可能なアパルトメント。

 それらの間を走る石畳の道。

 そんな、古き良きヨーロッパと呼ばれた風景の残骸において、動くものはごく僅か。


 例えば、街中を流れる川の水だとか。

 例えば、風によって揺れる木々だとか。

 そのような、意思によらずに動くものを除けば、獣すら住まず、鳥たちも寄り付かない、このひかり溢れる地にある命など。


「ごめん、ごめんねーー。大丈夫だから、大丈夫だから……っ」


 硬い音を立てながら石畳を駆ける女のような、他に寄る辺のない追い詰められた者ぐらいしか。


「あああんっ! ふあああぁんっ!」


 赤子が女に抱かれている。

 からだ全てを震わせて、今しがた起きた出来事の恐怖を声にならない泣き声で叫んでいる。


 赤子を連れた女の身は赤に染まっていた。

 血だ。けれど、それは女が流したものではない。


 血の主は人の形をした呪われるべき獣ども。

 ひかりなき地に溢れてやまない、騙り、奪い、犯すゴロツキたちの、その何匹か。

 逃げた女を連れ戻すためにこの街に足を踏み入れたそれらはみな、犯した罪のかたち通りに殺されて死んだ。


 それを為したひかりこそ。


子を切り殺した(ひかり)気狂いに死を(あれ)

 子を轢き殺した(ひかり)老人に死を(あれ)

 子を飢え殺した(ひかり)母に死を(あれ)

 子を殴殺した父に死を(ひかりあれ)

 そのように。おまえが行った罪のとおりに。

 おまえが死ね(ひかりあれ)

 おまえが死ね(ひかりあれ)

 おまえが死ね(ひかりあれ)

 おまえが死ね(ひかりあれ)。』


 顕現する。

 始原に刻まれた『子の敵()よ、全て()死ね』。()

 それを為すかたち。


 36対の翼を持ち、36万5000の瞳を持つもの。

 エノク書に語られるメタトロン、その似姿。

 おおよそ全長10mほどの巨体が女の前を塞いだ。


「あ、ああ……」


 恐怖で震えて、動けない。

 人に似た姿なのに、全身に溢れる瞳すべてがこちらを見ている異様さが。

 簡単に人をくびり殺してしまう暴力が。

 その罰に値する己の罪深さが。

 女は恐ろしくて、たまらない。


 身じろいだ。赤子が、腕の中で。


 女のからだが(ひるがえ)る。

 恐怖は内にある。それでも、ここで死ぬわけにはいかないと衝動が足を前に進ませる。


 その先行きが如何に脆いものか。

 がくがくと震えながら走る速さなど、覆い被さってくる御使の右手よりもずっと遅く。

 触れられれば全身はばらばらに千切られて、赤子はここでひとりきり。

 叫び声が誰かに届くこともなく、それは程なく消えるだろう。


 ああ、けれど。それは正しくないと。

 子よ、守られよ、と。

 そのように始原へ願われた祈りも、確かにあって。


「おん どどまり ぎゃきてい そわか!」


 衝撃。

 発光。爆音。

 静止。


 少女が。

 真言を叫びながら駆けてきた少女が、自らの背ほどある御使の手を両の掌で受け止める。


「ご無事ですかっ!? 動けるようなら出来るだけ遠くにっ」


 逃げてください、と。

 視線は真っ直ぐ御使に、少女は声だけを女に向けた。


「ーーっ」


 逡巡は僅か。

 女は頭を下げながら、もつれる足で駆けていく。


 その場には少女と御使のみが残された。


 御使に物理的な実体はない。ただそこに満ちる世界の法則(ひかり)を為すかたちであるが故に。

 それでも少女の掌で留まる理由は、掌にまとうちからが御使を物理的な存在に変えているからだ。


 けれどそこまで。

 全長10mの御使を成す質量は限りなく、少女の体で耐えられるものではない。


 体が軋む。

 石畳がひび割れる。おおよそ150cmの小柄な体が沈み込む。


 女は既に駆けていて、御使の手の下に居ないけれど少女はそこから動かない。


 掌に込めたちからを解けば御使は重さを失うけれど、御使の手は少女を裁きはしないけれど。

 御使をこの場に留めるために、少女は纏うちからを解きはしない。


 そこに。


「ヨハネ福音書第8章7節に曰くーー」


 かつり、かつり、と、この場には似つかわしくない、ひどくゆっくりとした靴音が響いた。


「『あなたがたの中で罪のない者がまず彼女に石を投げなさい』ーーさて、お前はどれだけの罪を重ねたかな」


 現れたのは長身の青年だ。黒衣の男でもある。

 やせぎすの体から放たれた声はしかし、よく通るものだった。


「ああ、子を害する者を裁くことはお前の領分。お前にとってそれは罪ではないだろうさ。だがーー」


 言葉は無力なはずだ。

 御使は神に仕える天使ではなく、満ちるひかりを為すだけの紛い物であるが故に。

 しかし。


「裁かれた者の子はどうなった? お前は、どのようにしたのか、そうーー」


 御使は、罪を裁くものである。

 それは自らの罪も例外ではない。


お前が殺したように(ひかり)お前が死ね(あれ)


『あ、あああああああぁぁぁんっ!』


 びりびりと、周りが震えるほどの大声で御使が叫んだ。


 死が再現される。

 無数の瞳は落ちくぼみ、節々は筋張って乾いてゆく。

 巨体は地に倒れ伏し、ただ右手だけは誰かに届くよう真っ直ぐ伸ばされて--。

 少女が触れた右手を最後に、崩れて消えた。


 僅かな静寂。

 御使が再び顕れる様子が無いことを確認し、男は口を開く。


「ったく。あんまり先行するな筋肉バカ。新訳が効いたから良いものの、あれは偽典に属するものだから効果があるかどうかは」


 分からなかっただろうが、と言いかけたところで、少女が手を合わせる姿を見て口をつぐむ。


 自らを痛めつけたものであっても。

 人を殺すものであっても。

 命なきかたちであったとしても、少女の慈悲に区別はない。


「お待たせしました。先ほども助けてくれてありがとう」


 肩口ほどに切りそろえた栗色の髪を揺らし、少女が男に向かって振り返る。


「ん、まあ、な。……っと。逃げていた親子には会ったぞ。街外れ近くの教会に隠れてもらった」


「さすが! 助かります!」


 幼さの残る顔に天真爛漫な表情。

 黄土色の袈裟から覗く小麦色に焼けた右肩の肌。


 外観だけは可愛いらしいと、男は思う。


「まあ、それで走り疲れた。御使もしばらくは大丈夫だろう。親子の所までは歩かせてくれ」


「なんてことを言うんですか。赤ちゃんもお母さんも不安でいっぱいのはずです。さあ、走りましょう。はやくはやく」


 頭まで筋肉で出来ていることは、どうかと思うわけだけれども。


-◇-


 この世界にはひかりが溢れている。

 ひかり。自然法則と同様に世界を成す決まりごと。


 例えば、あらゆるものが引き合うように。

 例えば、触れ合った熱の総和が変わらないように。

 例えば、磁場の中で動く導体に流れる電流の向きが定まっているように。


 子は守られ。

 努力は報われ。

 分け与えることで幸福となる。


 始原へと足を踏み入れた者により、そのようなひかりが各地に満ちた。


 そうして紛い物の御使たちは歪められた神のことばに従って、ひかりを為す。

 けれど、それらは神の愛に程遠く。

 嘆きの果ての祈りにあるものなど、人を傷つけるものに他ならない。


 故に救済が必要であることは、今も変わらず。

 救世主の復活も、竜華樹(りゅうげじゅ)の下の悟りも未だ遠く、待ち望まれたままである。

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