夫の遺産
夫が死んだ。
スポーツジムに通い、バキバキに筋肉を鍛えていて、人一倍、身体に気を付けていたのに、交通事故で呆気なく死んだ。
それも会社の女と二人で。
夫と女との関係は、わからなかった。死人に口なしということか。
女と一緒に亡くなったという事実が私心に棘を残し、涙は出なかった。
夫が遺していったものは、二人の子どもとマンションと保険金だけだと思っていた。
無くなって、一か月後にある男が訪ねてきた。
ある契約の話だという。
私は、物騒な世の中になったので、大事をとって近所のファミレスで話を訊くことにした。
男は、短髪できりっとした顔つきで、ダークグレイのスーツで現れた。
角ばって冷たそうなメガネをしていた。
「この度は……」と世間と同じ挨拶した。低い落ち着きのある声だった。
男は、黒のパイロットケースから、A4版の書類を取り出し、私の前に差し出した。
「私どものパンフレットです。簡単に申しますと、病気に備えて依頼された筋肉や臓器を提供する会社です。
世間には、公表していません。公表しなくても、多くのご依頼を受けているからです。
失われる又は失われると予想される筋肉や臓器の細胞を摂取し、培養し移植までを行います。
当社の培養と移植の技術は、世界一です。アクチェエータ、つまり機械を使った人工筋肉では得ることが難しい技術です」
”世界一”と言いきり、男はメガネを軽く掛けなおした。
パンフレットには、何やら長ったらしい英語やカタカナが並べられ、筋肉の写真や折れ線グラフや人種の分からない研究者の顔写真が印刷されていた。
私が、パンフレットから目を上げると男は話を続けた。
「ご依頼されている方は、お陰様で大勢いらっしゃるのですが、コンプライアンス順守の関係でお見せすることはできません。決して怪しい会社ではございません」
男は、夫の契約書を取り出した。
「ご主人様のご契約はこの通りです。Eプランでして、成人病の臓器と血管や基本的な筋肉の提供となっています。
年契約になっていまして、培養にかかる費用はこのようになっています」と、金額を指さす。
「今回、亡くなられてしまったので、培養を中止いたします。契約を終了することになります。よろしいですか?」
先ず先ずの金額なので、解約することに問題は無かった。
男は急に、姿勢を正した。本題はこれから話すことらしい。
「それでですね……、培養されている臓器や筋肉については、奥様が受取人になります」
「私が……ですか?」
「奥様です。三つの方法があります。ご主人の臓器や筋肉の培養を継続する。これには別途、奥様との契約が必要になります。培養を辞める場合は、臓器と筋肉を奥様がお引き取りになるか、当社が買取る。又は、一部を奥様が引き取り残ったものを当社が買取ることになります」
「臓器を引き取っても……」
夫の臓器や筋肉をどうしろというのだ。
「一般的には、培養を継続する方はいません。当社が引き取ることが多いです」
更に、男は姿勢を直し、話を続けた。
「では、この書類にサインをいただきたいのです。これは、ご主人の臓器や筋肉の培養を継続しないことと、これからのお話を口外しないという誓約書になります。これにサインしていただかないと話を続けることができません」
と、言うとクロスのコベントリーボールペンを差し出した。
私は、書類に目を通し問題が無かったので、サインした。それより、口外しないでくれという内容が訊きたかった。
男は、書類を確認し、鞄に入れた。
「このような不要になった臓器や筋肉は、需要があるのです」
「需要?誰が……」
「どのように使われるかは、調べない方がいいと思いますよ。世の中には、色々な方がおられますので」
「……食べるのですか?」恐る恐る訊いてみた。
「人間の肉を食べる行為をカニバリズムと言います。人肉レストランもあるようです」
「どんな味なんでしょう?」
「匂いは牛肉に近くて、ラム肉と豚肉を合わせるとそれに近いという話です。需要があるので、当社の取引額ですが……」
と、言うと男は電卓を叩いて、金額を見せた。
「こんなに?」
「そうです。その金額を今の契約解除にも使えるので、損はさせません」
私は、電卓の金額から目が離せなかった。
「有名な方、つまり、天才とか俳優業やタレントさんは、このくらいしますよ」
と、電卓を叩いて、私の前に置いた。私は、驚きの声も出なかった。
「これは、培養された臓器や筋肉の話で、ただの肉です。肉屋で売られている肉と変わりはありません。死んだ本人のものつまり、死体なら何十倍の価格になるでしょうね」
そんなことが行われているとは、考えてもみなかった。
「今、返事をしないといけないですか?」
「後で、結構です。年契約なので、十二月末までは料金をいただいてますので。あと、先ほどの誓約書をお忘れにならないように」
と、男は私の目をじっとみつめた。
「では、ご返事をお待ちしています」
男は、書類を会社ロゴの付いた封筒に入れ、私に差し出した。
私は後日、契約を済ませていた。
夫が亡くなってから、女と一緒に死んだことによる心の底の棘が取れることはなかった。
ふとした時に、思い出してしまう。時が棘を取ってくれると信じて過ごすことにした。
私がキッチンで夕食の準備をしていると、寂しいのか私の足元に二人の子ども来ていた。
そして、顔を上げた。
「ママ、今日のご飯は何?」
「今日は、ハンバーグよ」
「わーい、ハンバーグだって、ハンバーグ、ハンバーグ」
と、踊りながらリビングに行ってしまった。
「今日のハンバーグは、きっと美味しいわ」と私は、呟いた。