二つの欲についての一考え方
承認欲求と自己顕示欲、この二つは似ているようで違うみたいだ。各々の意味の違いについて考えてみると、承認欲求とは「他者から認められたい、自分を受け入れて欲しい」という願望であり、受け身の姿勢である。一方自己顕示欲の方は「自分をアピールしたい」「注目を浴びたい」「称賛されたい」という気持ちで能動的だ。
以前あるタレントさんが大病を患い、発病直後から闘病の様子を綴ったブログが、多くの読者を集め話題になった。その後めでたく病を克服したのだが、療養中は殆どが励ましや労りの内容だったブログへのコメントに、平癒後は誹謗中傷の内容が目立つようになったという。その後も収まることがなく、裁判沙汰にまでなったようだ。
私はそのブログを一度も読んでいないのだけれど、だいたいの経緯はネットニュースに逐一載っていた。有名人だからといっても、全く取り上げられない人も多いのに、大病との闘いは大変だということもあってか、その人のブログは頻繁にネットの記事になっていた。
それにしても励ましや労りが、どうして誹謗中傷に百八十度変化してしまうのかと考えた時に、「承認欲求」と「自己顕示欲」という似ているけれど性質の違う二つの欲求に、原因があるのではないかと考えてみた。
上記のタレントさんの場合、ブログの方向性が途中で変わってしまったことにより、読み手の気持ちにも変化が表れてしまったのではないだろうか。そのブログはタレント活動の一環として、発病以前から書かれていたもののようなので、発病するまでの読者は殆どがファンだったと思われる。しかし、発病と闘病で話題になり、ファンではない人たちも含めて、一気に読者が増えたのだろう。その頃のそのタレントさんの気持ちは、大病と闘うことに一生懸命で、その様子をブログに書いているだけだったのだろうが、それが客観的に見ると、承認欲求になっていたのかも知れない。また、ネットニュースがきっかけで、ブログを知り読者になった人達は、それと意識しないまま、承認欲求を満たす立場になっていたのではないだろうか。
欲求の主とそれを満たす人達の双方が、それと気づくことなくそれぞれの立場に着いていたということになる。ともかく多くの読者が集まり、皆で励まし慰めてくれた。そして遂には病を克服することができたのだ。それでメデタシメデタシの筈だった。タレントさん本人にとっても、またブログを読みコメントしていた人達にとっても。
ところが、ブログは一件落着とはならない。発病以前から書かれていたものであり、タレントとファンの交流のツールでもあるのだから、これでおしまいという訳にはいかない。でも、幸い病の方は癒えたので、内容の主旨が病気に関することではなくなった。それで、日々の出来事として有名な観光地へ行ったことや、美味しい料理を食べたことなどを載せる。恐らく発病前は多くの有名人のブログと同じように、旅行や料理ネタもあっただろう。でも、その頃の読者は主にファンなので、自分が応援しているタレントが何を書いても、当然のこととして支持していたのだろう。
ところが、話題になってからの読者は、旅行や料理の様子を最初は受け入れていても、それが度々続くとなると、自慢話ばかりを読まされているように感じてしまう。元々のファンであれ新しくなったファンであれ、ファンなら受け入れることができるが、発病をきっかけに読者になった人達は、必ずしもファンとしての気概がある人ばかりとは限らない。その人達にとっては、求めていないものを提供されているような気持ちになったのだろう。タレントさん本人としては、ただ単に発病以前のブログの内容に戻っただけなのだろうが、内容が変わった時点でブログ自体が、受け身であった承認欲求から能動的な自己顕示欲に変化していたと考えられる。承認欲求に対して能動的にそれを満たしてあげた読者は、今度は自己顕示欲による自慢アピールをされて、受け身になれと言われているようで困惑したのだろう。
だからといって、誹謗中傷をしても良いことにはならない。義務を課されている訳でもないのだから、書かれている内容に不満があれば、そのページを訪れないというのが最善の方法だろう。件の読者の場合は病気が治った時点で、そのタレントさんのブログから離れれば良かったのに。それとも、今度は読者の方に承認欲求が生まれたのだろうか?
尤も一度もそのタレントさんのブログを読んでいないので、飽くまでもネットニュースを読んでの客観的なひとつの考え方にすぎないのだが。
承認欲求は欲求の主が受け身であるのに対して、自己顕示欲の方は欲求の主が能動的である。ということは、二つの欲求を満たしてあげようと思うなら、承認欲求に対しては能動的に、そして自己顕示欲に対しては受け身で、対応しなければならないということになる。