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人間にならなかった妖怪

作者: まつだつま

 僕は左手に持った教科書をチラチラと見ながら学校の敷地内にある池の水面に映る自分の顔を眺めていた。

 教科書には人間の顔写真が載っている。その写真に映る人間は綺麗な二つの目を持っていて、高い鼻が顔の真ん中にあり、口は小さくてキリッとしている。そして頭にはフサフサの髪の毛が載っている。

 それに引き換え、僕の目は大きいけど顔の真ん中に一つあるだけ。鼻はないし口は横にやたら大きい。頭は髪の毛がなくツルツルだ。池の水面に映る自分の顔を見てため息が出た。

「人間ってかっこいいな。それに比べて僕の顔はこんなだしな。人間が羨ましいな」

 僕は教科書の写真を見ながらそう呟いた。

 教科書の写真に見とれていると、頭のてっぺんに冷たいものがポツポツと当たる感触があった。水面に映る自分の顔を見るとポツポツと雨が落ちてきた。そのせいで水面の僕の顔は歪んで見えた。

 降ってきたなと空を見上げた瞬間、強い風が吹いて、その粒は大きくなり勢いを増した。池に映っていた僕の顔はぐしゃぐしゃになっていた。慌てて校舎へと逃げ込んだ。

 僕は一つ目小僧という妖怪だ。妖怪学校で『人間の心得』を学んで、僕はすごく感動した。

 人間は見た目がかっこいいだけでなく、心も凄く綺麗な生き物だと知った。

 僕は、もっと『人間の心得』を学んで、学校を卒業したら資格を取って人間になりたいと思っている。人間界で幸せに満ちた生活を送るつもりでいた。

  僕に『人間の心得』を教えてくれているのは、あずき洗いという先生だ。先生は『人間の心得』を僕たちに教えているが、人間には、なりたくないらしい。

 先生に『何故人間になりたくないのですか』と訊いたことがある。その時の先生の答えは、こうだった。

『『人間の心得』を学ぶことは、非常に素晴らしいことだ。しかし、人間になって人間界で暮らすことは、あまり素晴らしいと私は思わない。『人間の心得』だけを身に付け、妖怪として生きるのが一番幸せだ』

 僕は、先生の言っている意味がよく理解出来なかった。せっかく『人間の心得』を学んだのに、人間にならないなんて、それなら学ぶ意味がないじゃないか、そう思っていた。

 僕は絶対に『人間の心得』をマスターして、人間になって幸せに暮らすつもりだ。


『人間界の心得』

1、相手へのおもいやりの心を持つ。こんな風にすれば相手が喜ぶだろうなと思う事を実践する。

2、相手の立場に立って考える。相手と一緒になって苦労し努力する。協力的な精神を持つ。

3、自己犠牲の精神を持つ。相手の利益になること、喜んでもらうことを分け与える。

4、相手に文句を言ったり傷つく言葉を使わないで、相手が気持ちよくなる言葉で話す。


 ある日、僕は友達のからかさ小僧といっしょに街に出た。からかさ小僧は『人間界の心得』は堅苦しくて苦手だと言っていた。だから人間になることには興味が無いみたいで、妖怪のまま気楽に暮らしたいそうだ。

「一つ目小僧よ、そんなに人間になりたいのか」

 からかさ小僧が傘を半分だけ開いて、僕と同じ一つ目をパチパチしながら、不思議そうに訊いてきた。

「うん、僕は人間になって、幸せな生活を送りたいと思ってるんだ」

「人間て、そんなに幸せなのかな。妖怪の方が自由で楽しく生きてるんじゃないか。将来の事だから慎重に考えた方が良いと思うぞ」

 今度は、傘をぎゅっと閉じて、真剣な表情だった。

「妖怪の世界は、妬みや醜い争いが多いから好きじゃないんだ。その点、人間は心が綺麗で優しいだろ。だから、人間界で暮らしたいんだ」

「人間界も妖怪の世界も、そんなに変わらないと思うけどな。教科書には、良いことしか書いてないから、それを鵜呑みにするのはどうかと思うぞ」

「からかさ小僧は人間界に詳しいの?」

「詳しくはないけど、たまに人間界を覗きに行ったりしてるんだ。その時見る人間はそんなに幸せそうじゃないけどな」

「えっ、からかさ小僧は勝手に人間界に行ってるの。それダメだよ、先生に怒られるよ」

「そんな堅いこと言うなよ、俺以外にもみんな行ってるぞ」

「人間に見つかったらヤバイんじゃない。捕まって焼かれたりするって聞いたよ」

「ハッハッハッ」

 からかさ小僧は傘をバサバサとしながら、大声で笑った。

「お前は真面目すぎるよ。人間に見つかっても大丈夫だよ。捕まるどころか、人間は俺の姿をみると腰抜かして逃げて行くよ。のっぺらぼうなんて人間を脅かすのが趣味みたいで、休みの日は毎日人間界に行ってるぞ」

「のっぺらぼうは、そんな悪いことしてるんだ。真面目そうな顔してるのに」

「なんで、のっぺらぼうなのに真面目そうな顔なんだよ、意味わかんねぇな。ハッハッハッ」

 からかさ小僧は傘を一段と大きく開いて、笑いが止まらないようすだった。

「それにしても、からかさ小僧ものっぺらぼうもすごいね。僕も一度、人間界を見てみたいな」

「それじゃあ、のっぺらぼうを誘って三人で人間界に行こうぜ」

「そんなことして大丈夫かな。先生に怒られないかな。捕まって焼かれたりしないかな」

 僕は人間界に行きたい気持ちもあるが不安な気持ちも大きかった。

「お前、何、ビビってんだよ」

 からかさ小僧が自分の傘の先で僕の脇腹をツンツンとつついてきた。

「くすぐったいから、やめてくれよ」

 僕は、からかさ小僧の傘の先を払った。

「へへへ、のっぺらぼうを誘ってから、三人で人間界に行こうぜ」

「えっ、ほんとに行くの。不安だな」

「大丈夫だって。人間界はおもしろいぞ。それにお前、将来本当に人間界に行くつもりなら、絶対見ておいた方がいいぞ」

「そうだね、確かに一度見ておいた方がいいとは思ってた」

「よし、善は急げだ。すぐにのっぺらぼうを呼びに行こうぜ」

 そんなわけで、僕は、からかさ小僧と、のっぺらぼうとで、人間界に行くことになってしまった。


「ここが人間界か。どこを見てもやっぱり綺麗だな」

 僕は人間界の空間のあらゆる方向に視線を走らせた。

 白い雲に青い空、山の緑は鮮やかな色をしている。教科書で見た写真と同じだ。

「別にたいしたことないだろ」

 からかさ小僧が僕の頭の上に乗って言った。

「からかさ小僧、重たいから頭から降りてくれよ」

「へへへ、そっか、ここからの方が見晴らし良いんだけどな。仕方ねえな、降りてやるよ。ヨイショ」

 からかさ小僧は僕の頭からピョンと飛び降りた。

 からかさ小僧が降りたちょうどその前を二人の人間が、僕たちに気付く様子もなく通り過ぎていった。

「婆さん、その荷物は重いからわしが持とうか?」

「お爺さん、大丈夫ですよ。ありがとうね。お爺さんこそ腰の具合は大丈夫なんですか?」

 二人の人間は僕たちの前を通りながらそう言っていた。

 人間はやっぱり凄い。『人間の心得』通りだと思った。

「人間には僕たちの姿は見えてないの」

 僕はからかさ小僧に訊いてみた。

「ああ、見えてない。俺たちが念じない限りは人間は俺たちの姿は見えない。そうだよな、のっぺらぼう」

 今度は、のっぺらぼうが僕の頭に乗って、胡座をかいている。

「そうだなぁ、普通の人間は、わしらの姿は、見えとらんなぁ。たまーに見える人間もおるけどもなぉ」

「なんで、二人とも僕の頭に乗るんだよ。降りてよ」

 僕は、頭の上に乗るのっぺらぼうを両手で持ち上げて、ゆっくりと地面に置いた。

「フゥー、重たいなー」

 のっぺらぼうはそのまま地面で胡座をかいていた。

「それじゃ、もっとたくさん人間のいる所へ行こうぜ。ちょっと人間を脅かしてやろうぜ」

 からかさ小僧はピョンピョンと楽しそうにその場で跳ねながら言った。

「ダメだよ、そんなことして、人間に捕まったらどうするんだよ」

 僕はからかさ小僧を止めようと太い一本足を掴んだけど、からかさ小僧は傘をバサバサして、僕の手を振り払った。

「大丈夫、心配いらないぜ」

 そう言ってピョンピョン跳ねたまま先へと行ってしまった。

「じゃあ、行こうかのぉ」

 のっぺらぼうも、からかさ小僧の後をドシドシと音を立て走ってついて行った。

「待ってよ、僕も行くよ」

 僕は二人の後を追いかけた。

 すぐに、のっぺらぼうに追いついた。のっぺらぼうは立ち止まっていた。

「のっぺらぼう、からかさ小僧は?」

 のっぺらぼうの隣に立って訊いた。

「そこでおるわ」

 のっぺらぼうが顎で差した。顎の先に視線を向けると、そこにからかさ小僧の姿があった。

 からかさ小僧は公園の前で立ち止まって、公園の中をじっと見ていた。

「からかさ小僧、どうしたの?」

 僕とのっぺらぼうは、からかさ小僧の横まで行って訊いた。からかさ小僧の目はいつもと違うきつい目をしていた。

「あそこ、人間だぞ」

 からかさ小僧の視線の先を見ると、三人の少年の姿があった。

「あっ、ほんとだ」

「なんか揉めてんな」

 からかさ小僧が言うので、少年たちを見ると、確かに揉めている様子だった。一人の少年がもう一人の少年に向かって大声で怒鳴っていた。

 怒鳴っているのは、背が高く細くてガイコツみたいな少年だった。怒鳴られているのは、少しぽっちゃりした子泣き爺みたいな少年だった。子泣き爺少年は、その体を小さくして怯えているように見えた。

「おい、デブ、お前太ってるからトロいんだよ。俺らの足ばっかり引っ張りやがって。お前のせいで今日も負けたじゃねぇか」

 子泣き爺に似た少年は、ガイコツみたいな少年に怒鳴られてからバットで頭をこつかれていた。

「ごめんなさい」

 子泣き爺少年は頭をおさえ、体を一段と小さくした。

「謝ってもすまねえんだよ」

 ガイコツ少年はそう言って、子泣き爺少年の尻を力いっぱいにまわし蹴りした。

「ごめんなさい」

 子泣き爺少年は両手で尻をおさえた。

「謝ってもすまねえって言ってんだろ。何度も言わせんな、このウスノロがー!」

 ガイコツ少年が、子泣き爺少年の耳元に顔を近づけて怒鳴った。

「どうしたら許してくれるの」

 子泣き爺少年が情けない声を出した。

「そうだな、俺の靴を舐めて綺麗にしろや。靴が綺麗になったら許してやる」

 ガイコツ少年は自分の右足を前に出した。

「これを舐めるの」

 子泣き爺少年がガイコツ少年の出した右足を見下ろし、指をさした。

「これってなんだ。俺の靴だぞ。山岡様の靴だ。山岡様の靴を舐めさせて綺麗にさせてくださいって言えや」

 ガイコツ少年は山岡というようだ。

「わかったよ」

 子泣き爺少年が四つん這いになった。

「わかったよ、じゃねえだろ。山岡様、かしこまりましたじゃ。言いなおせ」

「や、山岡様、か、かしこまりました」

 子泣き爺少年の声が涙声になっていた。

「山岡様の靴を綺麗にさせてくださいわ」

 ガイコツ少年が四つん這いになる子泣き爺少年の頭の上に足を置いておさえつけた。子泣き爺少年の額が地面についた。

「山岡様の靴を綺麗にさせてください」

 子泣き爺少年は地面に額をつけたまま言った。

「よーし、早く舐めさせてやる」

 四つん這いになった子泣き爺少年はガイコツ少年の靴を舐めはじめた。

「ゴホン、ゴホン、ウオェー」

 舐めはじめてすぐに子泣き爺少年が咳をし嗚咽した。子泣き爺の唾や痰がガイコツ少年の靴に飛んだ。

「てめえ、いいかげんにしろよ」

 ガイコツ少年は、子泣き爺少年の顔面を蹴り上げた。子泣き爺少年はそのまま後ろに倒れた。

「ごめんなさい」

 子泣き爺少年はその場で土下座をした。

「俺を舐めてんのかー」

 ガイコツ少年は怒鳴った。

「『俺を舐めてんのか』って、てめえが靴舐めろって言ったじゃねえか」

 からかさ小僧が僕の横で呟いた。

「よし、山岡、お前はもういい。後は俺にまかせろ」

 ずっとガイコツ少年の後ろで様子を眺めて立っていたもう一人の少年がポケットに手を突っ込んだままガイコツ少年の前に出てきた。

「はいっ」

 ガイコツ少年はすっと直立不動になった。こっちの少年がリーダーのようだ。体は三人の中で一番小さいが、眼光がするどく狼男みたいな少年だ。

「おい、ウスノロ」

 狼男少年はしゃがみ、土下座している子泣き爺少年の髪の毛を引っ張り顔を上げさせてから、耳元でそう言った。

「ごめんなさい」

「このグズがー」

 狼男少年が子泣き爺に往復で平手打ちをした。次に子泣き爺少年の首根っこを掴み、立ち上がらせてから思いっきり腹を三発殴った。

「オゥエー」

 子泣き爺少年は腹をおさえた。

 狼男少年は、腹をおさえて前のめりになった子泣き爺少年の顔面を蹴り上げた。次に上がった顔面に往復パンチを何度も見舞った。

 殴られて左右に首が揺れる子泣き爺少年の鼻からは赤いものがピシパシと飛んだ。

 狼男少年が手を止めると、子泣き爺少年は鼻をおさえ下を向いた。赤いものがポタポタと地面に落ちていた。

 狼男少年は手を緩める気配はなく、また子泣き爺少年の胸ぐらをつかんで、顔を近づけ睨みながら右手にまた拳を作り振り上げた。

「ムゥームゥー」

 僕の隣に立っていたのっぺらぼうが、急に変な声を出した。

 次の瞬間、のっぺらぼうが子泣き爺少年の後ろに背後霊のように立って狼男少年の前に姿を現せた。のっぺらぼうの顔面は真っ赤で、体の大きさがいつもの三倍くらいになっていた。

 のっぺらぼうは怒っている様子だが表情はわからない。ただ顔が真っ赤になっていたので、相当怒っているのだろう。

 狼男少年は、子泣き爺少年の後ろに背後霊のように立つのっぺらぼうの姿を見て目を大きく見開いた。

 子泣き爺少年の胸ぐらを掴んでいた手をほどき、そのまま腰を抜かすように後ろに倒れた。

「でっ、でたー、お、お、お化けだー」

 狼男少年はのっぺらぼうに向かって人差し指を向けて、ガクガクと体を震わせていた。腰を抜かしたのか起き上がれないようすで、地面に腰をつけたままズルズルと後退りしていた。

「ヒ、ヒエー」

 ガイコツ少年ものっぺらぼうの姿に驚いて悲鳴を上げ一人逃げようとした。

 逃げようとするガイコツ少年の前に今度は、からかさ小僧が姿を現せた。からかさ小僧は傘を大きく広げてグルグルと回し、ガイコツ少年の前につむじ風を起こした。

「ギャアー、た、た、たすけてぇー」

 ガイコツ少年もその場でへたりこんでしまった。

「抵抗しない弱い者をいじめるお前らは最低じゃー。俺が食い殺してやる」

 からかさ小僧が、口を大きくあけてガイコツ少年を大きな一つの目で睨みつけた。

「お前も食い殺してやるぞぉー」

 のっぺらぼうが狼男少年の鼻の先に真っ赤な顔面を近づけた。

「ウワーン、ウワーン、ごめんなさい」

 二人の少年は大声で泣き出してしまった。

 子泣き爺少年は、何が起こったのかわからない様子で、その場でキョトンと立ち尽くしていた。この少年にはのっぺらぼうとからかさ小僧の姿が見えてないようだ。

「ギャー」二人の少年はやっと立ち上がり走って逃げて行った。

「ハッハッハッ」

「ヒッヒッヒッ」

「ヨッシャー、おもしれえなー」

 からかさ小僧とのっぺらぼうは笑いながら、ハイタッチしていた。

「あのバカ野郎が。弱いものいじめしやがって。ほんと人間は下等な生き物だぜ」

 からかさ小僧が逃げて行く二人の少年の背中を睨みつけた。

 僕はビックリして子泣き爺少年と同じように立ちつくしていた。 からかさ小僧が人間のことを下等な生き物と言ったのは気になった。

「ハァー、スッキリしたー」

 からかさ小僧がそう言って僕の肩に手を置いた。

「二人共、すごく怖かったよ。君たちがあんなに怒った姿、はじめて見たよ」

 僕はからかさ小僧とのっぺらぼうの顔を順に見て言った。

「俺達、妖怪は外見がみんなバラバラで個性的じゃないか。俺は傘の形してるし、君は頭が丸いし、のっぺらぼうなんて、こんな顔だぜ」

 からかさ小僧は目を閉じて無表情になって、のっぺらぼうの顔真似をしてから続けた。

「でも、そんな事でいじめたりしないだろ。けど、人間はちょっと違うだけで仲間はずれにしたり、バカにしたりするんだ。本当に下等な生き物だ」

 からかさ小僧は、傘をぎゅっと閉じて怒っている様子だった。また人間を下等な生き物と言った。のっぺらぼうも顔を真っ赤にして頭から湯気が上がっていた。僕は二人のいつもとは違う一面を見た気がした。

「じゃあ、次、行こうか」

 からかさ小僧は気をとり直したようで、ピョンピョンと太い一本足で飛び跳ねながら走って行った。

 その後ろをのっぺらぼうがスキップしながらついて行った。僕も置いてけぼりにされないように走ってついていった。


 からかさ小僧を追いかけていくと、からかさ小僧は、見たことないくらいものすごく高い建物の前で立ち止まった。

「すごいだろ」

 からかさ小僧が建物を見上げながら僕に言った。

「うん、すごく高いね」

 僕も建物を見上げた。

「ここには人間がたくさん住んどるんじゃ」

 のっぺらぼうも建物を見上げながら言った。

「へぇー、そうなんだ」

「中に入ってみるか」

 からかさ小僧がガラスの自動ドアをすり抜けて建物の中に入って行った。

 僕とのっぺらぼうも後に続いた。

 中に入るとドアが四つ並んでいた。

「これがエレベーターだ。人間はこの中に入って、この建物の上に上がるんだ」

「このドアの中に入ると、上に上がれるって凄いね」

 僕はそう言って、不思議なドアに手を触れてみた。するとドアに触れた瞬間に急に開いた。ビックリしてドアから慌てて手を引いた。

「これに乗って上まで行ってみるか」

 からかさ小僧がエレベーターに乗り込んだ。

「乗ってみるかな」

 のっぺらぼうも乗り込んだので、僕も乗り込んだ。こんなすごい乗り物まで人間は作っているんだとエレベーターの中を上下左右に視線を走らせた。思ったより狭い空間だけど、上に上がるだけならこれで充分だなと思った。

 すると後ろから二人の人間の女性が走って僕たちの乗ったエレベーターに乗り込んできた。

 乗り込んだ二人は「ハァー、ハァー」と息を切らしていた。

 女性の年齢はどちらも四十歳位だろうか。二人共、身長が高くてモデルのように美しかった。

 切れ長な目をした女性とクリクリと黒目の大きい目の女性だ。鼻は二人とも高くてすっとしている。唇は赤くてキラキラ光っていた。

 僕は女性たちのあまりの美しさに見とれてしまった。

「何じろじろ見てんだよ。このスケベ野郎」

 からかさ小僧に気づかれ後頭部をパシンと叩かれた。

「へへへ」

 僕は叩かれた後頭部を右手でさすりながら笑った。

「一五〇三号室の佐伯さんの息子だけどさぁ、金泉中学に行くらしいわ」

 切れ長の目をした女性が気だるそうに言った。

「エー、あのボンクラ息子が有名私立中学のお坊っちゃま学校に入学するの。あそこは勉強できないと入れないはずよ」

 もう一人の女性がビックリした顔をした

 女性たちはエレベーターの中で二人っきりなのに、ヒソヒソ話をするようにお互い顔を耳元に近づけて話していた。

「あの息子、どう見ても勉強出来そうには見えないでしょ。だからお金の力じゃないの」

「あたしもそう思う。あの息子、あたしに会っても挨拶も出来ないからね。親のしつけがなってないわ」

「佐伯さんところは奥さんも旦那さんも挨拶しないし、ゴミ出しのルールは守らないわ。その上に不正入学なんて、最低の家族ね」

「それからさー、水口さんとこだけどさー、あそこの家族も酷いわよ。この間、最悪でさー」

 切れ長な目の女性が口元を歪めていた。

「えっ、何かあったの?」

 クリクリ黒目の女性が興味深そうに目を輝かせた。

「それがさー」

 切れ長の女性がクリクリ黒目の女性の耳元に口を近づけた。


「聞いてらんねぇや」

 からかさ小僧がそう言って、エレベーターの非常ボタンに手を伸ばした。

「何するつもり?」

 僕が訊くと、からかさ小僧はニヤリと笑って、非常ボタンを押した。エレベーターはガクンと止まった。

「あら、何、急に止まったわよ」

 切れ長な目をした女性がエレベーターの中をキョロキョロと見渡していた。

「故障かしら。こわいわ」

 クリクリ黒目の女性がエレベーターの開のボタンを連打した。

 エレベーターの中に声が響いた。

「妬むんじゃねぇよ。陰口ばっかり言うな。てめぇらは、バカか!」

 からかさ小僧がドスの効いた低い声を出した。

「今、なんか変な声しなかった? 怖いわ」

 のっぺらぼうがエレベーターの照明を消してこう言った。

「他人の陰口ばっかり言う奴は許せねぇー。お前たちを一生恨んでやるぅー」

「キャー、誰か助けてー」

 二人の女性は悲鳴を上げ、人差し指で耳に栓をしてその場にしゃがみこんだ。

「行こうぜ」

 からかさ小僧がエレベーターのドアをすり抜けて出て行った。

「おぉ」

 のっぺらぼうも続いて出て行った。

「ちょっと待ってよー」

 僕は二人の女性の怯えている様子を見て、そのままにしていいものか悩みながらも結局二人に続いて出て行った。

「ハッハッハッ」

「ヒッヒッヒッ」

 建物からも出て、からかさ小僧は楽しそうにピョンピョンと跳ねていた。のっぺらぼうの表情はわからないけど、笑い声が聞こえるし、スキップしてるから楽しいんだろう。

 二人を見ていると、僕までなんだか楽しくなってきた。いつも、この二人といると楽しいんだけど、今日は特に楽しい気がする。

 からかさ小僧は、車のボンネットの上をピョンピョンと跳ねて道路を渡り、今度は向かいの建物に入っていった。

 今度の建物は全面ガラス張りで建物が太陽の光を反射しピカピカと輝いていた。

 僕とのっぺらぼうは、横断歩道を渡って、からかさ小僧の後を追いかけピカピカと輝く建物の中に入って行った。

 からかさ小僧は建物に入ったところで立っていた。

「一つ目小僧、これがオフィスビルってやつだ。さっき入った建物がマンションといって人間が生活しているところで、このオフィスビルは人間が仕事するところだ。ここも色んな人間がいて、なかなか面白いんだぞ」

 からかさ小僧がニヤニヤ笑いながら教えてくれた。

 僕たちのすぐ前に、今度もまた綺麗な女性が二人立っていた。

 一人は髪の毛が短く目がクリッとしたリスのような可愛い女性だ。猫娘もこれくらい可愛いければ良いのになと思った。

 もう一人は背が高くて髪の毛が長い女性だった。切れ長の目が魅力的で肌の色がすごく白い。機嫌のいい時の雪女に少し似ているなと思った。

 二人はこの建物の受付嬢だと、からかさ小僧が教えてくれた。

 彼女たちの話し声が聞こえてきた。

「さっきの客、最悪だったわね。ぶっさいくな顔してるくせに、食事に誘ってくるなんてあり得ない」

 雪女みたいな受付嬢が不機嫌そうに口元を歪めていた。

 僕は機嫌のいい時の雪女みたいに綺麗だった女性の顔が、砂かけハバアの顔に変わったように見えた。不思議だなと思って女性の顔をもう一度まじまじと見た、やっぱり砂かけババアにすごく似ていた。

「うちに来るのって、あんな奴ばっかりだね。もううんざりだわ」

 猫娘より可愛かったはずの女性の顔も、砂かけババアみたいになった。おかしいな。人間の顔ってこんなに変わるんだなと思った。

 知らない間にのっぺらぼうが彼女たちの前に立っていた。また、のっぺらぼうが何かやらかしそうだと思った。

「ギャー、お化けー」

 急に女性たちが悲鳴のような声を上げた。

 見ると、のっぱらぼうは彼女たちの前に大きな鏡を向けていた。彼女たちは鏡に映った自分の顔を見て驚いたようだった。

「ヒッヒッヒッ、鏡に映った自分達の顔を見て、お化けだって驚いてるわ。今の自分たちの顔がお化けみたいになってることに気付かせてあげたぞぉー」

「ハッハッハッ、さすが、のっぺらぼうだな。いつも笑わせてくれるぜ」

 からかさ小僧が傘をパタパタと開いたり閉じたりして笑っていた。

 僕もついケラケラと笑ってしまった。

「次は上の階に行ってみようぜ」

 からかさ小僧が階段をトントンと上がっていった。僕とのっぺらぼうは、いつも通りからかさ小僧の後ろを追いかけていった。


 三階まで上がったところで、からかさ小僧が「この部屋、ちょっとヤバそうだ」と言って、部屋の中から聞こえる声に耳をすました。

「行こうか」

 からかさ小僧はそう言って、部屋に入っていった。僕とのっぺらぼうも続いて部屋に入って行った。

「お前、いい加減、何とかしろよ。このバカが」

 五十代くらいの男性が椅子にふんぞり返り、前に立つ若い女性に向かって怒鳴っていた。

「申し訳ありません」

 若い女性が頭を下げた。

「部長に営業やりたいなんて偉そうに直訴したくせにこの様かよ。女はいいよな。実力なくても色仕掛けで部長口説けるんだからな」

「色仕掛けなんて、そんなんじゃないです。営業部で活躍したい、そう思って部長に相談しただけです」

「それが色仕掛けなんだよ。男が部長にそんなこと言ったところで相手にされないんだよ。どうせ部長の膝に手でも置いて迫ったんだろ」

「してません」

 若い女性は下を向いて涙声になった。

「営業でも、その色仕掛け使っていいから、成績上げろよ。お前は色仕掛けくらいしか取り柄ないんだから」

「……」

「おい、何とか言えよ。部長に営業やりたいなんて大口たたいたんだから結果くらい出せよ」

 男性は椅子から立ち上がり、女性を睨みながら、一歩二歩と近づいていった。

「これから、頑張って努力します」

 女性が背筋を伸ばしてから、頭を下げた。

「この体を使ったら、確かに営業も取れそうだよな」

 男性は女性の腰の辺りに手をやった。

「課長、やめてください」

 女性はきつい口調で言って、男性の手を払い、後退りした。

「その態度はなんだ。営業で頑張りたいなら、俺に逆らうな。この体を利用して営業とれや」

 男性は女性の腕を引っ張った。

「やめてください」

 女性は嫌がったが、男性は女性を引き寄せ抱きついた。

「これくらいいいだろ。お前の営業の練習だよ」

 男性は女性の体を撫で回した。


「ムカつくな。これが人間の得意技、パワハラ、セクハラちゅうやつだな」

 からかさ小僧が一つしかない目の両端をつり上げた。

「やっつけますかぁ」

 のっぺらぼうの顔が真っ赤になった。

「ガーオー」

 先にからかさ小僧が姿を現した。二人の頭の上で傘を開いてグルグルと回しつむじ風を起こした。

 ビックリした男性も女性も床に尻餅をついた。からかさ小僧は尻餅をついた男性の腹の上に一本足をのせて男性を睨みつけた。

 男性は「ヒェー」と言って、後退りしながら、腹にのるからかさ小僧を払おうとした。

「お前がやってんのはパワハラだぞ。そんな悪いことする奴を俺は絶対に許せない。すぐにでも殺したい気分だ」

 からかさ小僧は大きな口を開けて長い舌で男性の顔を舐めた。

「た、助けてくれ。もう二度としない」

 そこで、からかさ小僧は男性の腹の上から離れた。男性は、慌てて立ち上がり逃げようと、ドアに向かおうとした。

 次にのっぺらぼうが姿を現せた。

「ガーオー」

「ヒェー」

 男性はのっぺらぼうを見て、そこでまた尻餅をついた。

 のっぺらぼうは男性の上に馬乗りした。男性は、のっぺらぼうを払おうとするが、のっぺらぼうの体はびくともしない。

「助けてくれー」

 男性は天井に向かって大声を張った。

「お前のやったのは、セクハラだそぉー。わしは絶対許せないよぉー。お前を殺したいんだぁー」

「すまん、申し訳ない。二度としないから、頼む、助けてくれ」

 男性は涙声になった。

「二度とやるなよぉー。次やったら、許さんからなぁー」

「二度と、二度とやりません」

 そこでのっぺらぼうは男性から離れた。

「自分のストレスを弱いものにぶつけるもんじゃないぞぉー」

 のっぺらぼうは男性に向かってそう言った後、女性の方を見た。

 女性はビックリして立ち尽くしていた。

「君は、営業、これからも頑張るんだぞぉー」

 のっぺらぼうが女性にそう言ってから姿を消した。


「次に行くかな」

 からかさ小僧が上の階へと階段を上がって行った。

 五階まで上がると、からかさ小僧は、一番手前の部屋のドアをすり抜けて入って行った。僕とのっぺらぼうも続いて入った。

 部屋にはスーツ姿の五人の男性が大きなテーブルを囲んで椅子に座っていた。

「今から、こいつらここで会議するみたいだな」

 からかさ小僧が言った。

「会議って?」

 僕が訊いた。

「まっ、人間の仕事の中でも最も時間の無駄なもんかな」

 からかさ小僧が教えてくれたが、よく意味がわからなかった。

「部長はまだ来ないのか」

 一人の男性がボールペンでテーブルをトントン叩きながら言った。なんかイライラしているようだった。

 イライラしている男性の目は一重まぶたでキツネのようにつり上がっていた。

「十分位、遅れるって、さっき連絡入ったよ。だから先にはじめてくれってさ」

 他の男性が言った。

「えー、遅れんのかよ。自分から会議やるぞって言っておいて何なんだよ。こっちは、忙しいのに無理に時間作ってやったのによぉ」

 キツネ目の男性の目が一段とつり上がり、ボールペンの叩き方が強くなっていた。

「いつものことじゃねぇか、カッカしてもしかたないぞ」

 さっきの男性がなだめていた。

「あのバカ、ムカつくんだよな。いっつも遅れるし、会議したところで、意味もない自分の自慢話ばっかり話してるし」

 キツネ目の男性は、一段と機嫌が悪くなったようだ。他の三人はスマホをいじっていたり、腕を組んで居眠りしたりしていた。

 キツネ目の男性はそれらを見渡してから「チェッ」と舌打ちをして「呑気なやつら」と吐き捨てるように言った。

「先にはじめてもダルいだけだし待っとくか」

 キツネ目の男性が言って、椅子の背もたれに体を預け天井に顔を向けた。

「そうだな」

 もう一人の男性が同意して、彼もスマホを取り出した。

 しばらくして、「お疲れ」と言って男性が入ってきた。男性の頭は僕の頭に似てツルツルしていた。恰幅のいい男性だった。

「部長、お疲れさまです」

 キツネ目の男性が椅子からすっと立ち上がり、深々と頭を下げた。

「遅くなって、すまんな」

 部長は右手を上げて、ニッコリ笑った。

 他の男性も立ち上がった。床を擦る椅子の音がガタガタと部屋の中に響いた。

「お疲れさまです」

 男性全員の声が揃った。

「ああ」

 部長は椅子に腰を下ろした。

 男性全員も椅子に腰を下ろした。

 椅子を引く音がおさまるとキツネ目の男が口を開いた。

「部長、お疲れさまです。今日はお時間をとっていただき有難うございます」

 つり上がっていたキツネ目の男性の目尻は、なぜか下がっていった。

「どうだ、会議は進んでいるのか」

 部長がテーブルに両肘をついて前で手を組んで訊いた。

「いえ、部長をお待ちしておりました」

 キツネ目の男性が背筋をピンと伸ばした。

「先に初めてくれて良かったのにな。私なんていなくても、君たちだけで大丈夫なんだから、ハハハ」

「そんな事はありません。部長がいらっしゃらないと良い会議にはなりません」

 キツネ目の男がハエのよう手を擦り合わせていた。

「この人、さっき話してた事と言ってること全然違うよね。なんでだろう?」

  僕は首を傾げながら、からかさ小僧に訊いた。

「まあ、そうだわな。これが人間界ってもんだな」

 からかさ小僧はニタニタと笑っていた。僕はまた意味がわからなかった。

「これが人間界なんだよ!」

 からかさ小僧が念を押すように言った。

「どういう意味?」

 僕はもう一度訊いた。

「人間界は表と裏の顔を持ってんだなぁ。それをうまく使い分けんと生きていけんわけだなぁ」

 のっぺらぼうが、いつの間にか僕の頭の上であぐらをかいていた。

「表と裏の顔の意味がよくわかんないな」

「一つ目小僧には、ちぃと難しいなぁ。あんたは純粋だからなぁ」

「のっぺらぼう、いろいろ有難う。でも、僕の頭の上であぐらをかくのはやめてくれる。僕は押し潰されて、一段と背が低くなっちゃうよ」

「そうかい、残念だなぁ。一つ目小僧の頭はツルツルしてて、気持ち良いんだけどなぁ」

 のっぺらぼうは僕の頭から降りて、僕の頭を撫でながら言った。

「そうそう、一つ目小僧の頭に乗っかると、気持ちいいし元気が出るよな」

 今度はからかさ小僧は僕の頭をポンポンと叩いた。この二人は、いつもこんな感じだ。僕をからかって喜んでいる。でも、二人と遊んでいると楽しい。今日もすごく楽しかった。

「じゃあ、そろそろ帰るか」

 からかさ小僧がそう言って歩き始めた。

「そうだね」

 僕とのっぺらぼうもからかさ小僧に続いて歩き始めた。

「一つ目小僧、初の人間界はどうだった? 楽しかったか?」

 帰り道、僕の前を歩いていたからかさ小僧が僕の方に振り返り訊いてきた。

 からかさ小僧の傘が夕陽で赤く染まっていた。人間界の夕陽はとても綺麗だ。人間界は景色は街も自然もとても綺麗で教科書で見た通りだなと思った。けど、人間の心は少し印象が違った。

「君たちと遊べたのは楽しかったけど、人間界は僕の思い描いてたのとちょっと違ってたよ。人間界は僕には難しいかもしれない」

 僕は初めて見た人間に少しショックを受けていた。

「そうだろ、俺は一つ目小僧に人間界は向いていないと思ってたんだ」

 からかさ小僧は真剣な話をする時は傘をギュッと縮める。今は傘を縮めたまま、僕の方を見て後ろ向きに歩いていた。

「わしも、からかさ小僧に同感だなぁ」

 多分、のっぺらぼうも僕のことを真剣に考えてくれているんだろう。僕の隣で顔を宙に向けていた。

「それでも人間界に行くのか」

 からかさ小僧が足を止めた。

「うん、悩んでるけど、やめた方がいいのかなと思っている」

 僕も足を止めた。

「よーし」

「よーし」

 からかさ小僧と、のっぺらぼうが飛び上がってハイタッチした。

「なんで、喜んでるんだよ。僕は人間界にちょっと幻滅して落ち込んでるのに」

「ごめんよ、でもな、おれ達は一つ目小僧に人間界に行ってほしくなかったんだ。もし行ってしまったら俺たちは今日みたいに三人で遊べなくなるんだからな。それに、一つ目小僧は人間界より妖怪の世界の方が合ってると思ってたんだ」

 からかさ小僧は、今日僕を人間界につれて行ったのは、それに気付かせる為だったんだろうか。僕はそんな気がした。

「からかさ小僧の言う通りだよ。僕には人間界は難しいよ。帰ったら、あずき洗い先生に、この事を伝えに行ってくるよ」

「よーし、じゃあ、急いで帰ろうぜ」

 からかさ小僧は前を向きピョンピョンと高く跳ねて走って行った。僕はからかさ小僧を走って追いかけた。

「待ってよー」

 いつの間にか、のっぺらぼうは僕の頭の上であぐらをかいていた。重たくて走りにくいけど、今はまあいいかなと思った。


 次の日、僕はあずき洗い先生に人間界に行かないことを伝えに行った。

 あずき洗い先生は、この時間、いつも職員室の奥にある部屋で読書をしているはずだ。

 あずき洗い先生の部屋の前に立って、僕はドアをノックした。

 しばらくするとドアが開いて、ドアの隙間からあずき洗い先生が顔を覗かせた。

「先生、おはようございます」

 先生に頭を下げた。

「おー、一つ目小僧くんか。こんな早くにどうしたんですか?」

 あずき洗い先生は曲がった腰を少しだけ伸ばして、僕の顔を見上げた。

「ちょっとお話があります」

 僕は背筋を伸ばした。

「そうですか。まあ入りなさいよ」

 あずき洗い先生がそう言ってドアを大きく開けて部屋の中に僕を招いてくれた。

 部屋に入ると机の上に本が伏せて置いてあった。その本の背表紙を覗くと、『人間の煩悩』と書いてあった。

 あずき洗い先生はいつも人間について学んでいる、本当にすごい先生だ。

「どうしたんですか? 『人間の心得』についてわからないことでもありましたか?」

「いえ、そうではないんです。先生、実は人間界に行くのをやめようかなと思っているんです」

「ほほぅ、どうしましたか。あれほど人間になりたがっていたのに」

「それがですね」

 僕が言いかけると、「まあ、掛けて話しましょうよ」と言って、あずき洗い先生は先に椅子に腰を下ろした。

「実は、昨日勝手に人間界に行って来たんです。申し訳ありません」

 僕は椅子に腰を下ろさずに頭を下げた。

「そうでしたか、まあ、まずは掛けましょうよ」

「人間界に勝手に行って本当に申し訳ありません」

「何度も謝らなくていいですよ。それよりどうして気が変わったのですか?」

 僕はもう一度頭を下げてから、椅子に腰を下ろした。

「人間界へ行くことは特に禁止しているわけではないですが、危険ですからね」

 あずき洗い先生はニコニコと柔らかい笑みを僕に向けてきた。

「初めて見た人間界はどうでしたか?」

 あずき洗い先生が僕の目をじっと見てきた。その瞳は湖面のように深く穏やかだった。

「昨日、人間界を見て、僕には合っていないかなと思ったんです」

「なるほど」

 先生は深く頷いた。

「そうですか、その選択は良い選択だと思いますよ」

 あずき洗い先生は僕が人間界に行った事を叱ることはなかった。ずっと笑みを浮かべ、どちらかと言うと嬉しそうだった。

「もし、あなたが妖怪の世界に残ってくれれば、妖怪の世界の宝になる方だと思っていますからね。過去に『人間の心得』をこれだけ真剣に学んでくれた生徒を私は知りません。あなたにはこれから先、私に代わって『人間の心得』を妖怪の世界に広めてもらえたらなと思っていました。そして、あなたの力で妖怪の世界をもっと住みよい世界にしてほしい。私はそう思っていましたから」

 あずき洗い先生はずっとおだやかで優しい口調だった。

「人間の心得を妖怪の世界で広める活動をしている先生を尊敬しています。僕もいつか先生のようになりたいです」

「嬉しいことを言ってくれますね。でも、私は、そんな大した妖怪ではありませんよ」

 先生は顔を少し赤くして照れた様子だった。

「先生は人間界に行ったことはあるのですか」

「人間界、ですか? そうですねー」

 あずき洗い先生は、そう言って宙に視線を向けた。何か昔を思い出しているようすだった。

「行ったことあるんですか?」

 僕はもう一度訊いた。

「そうですね。まあ、行ったことがあるというより、人間界にいた、ですかね」

「人間界にいた?」

 僕は首を傾げた。、

「実は私、人間だったんですよ」

 あずき洗い先生が言って後、引き出しから何かを取り出して僕の前に滑らせた。

 僕はそれに視線を落とした。それは髪の毛を丸めた可愛らしい一人の少年が映っている写真だった。

「これは?」

 僕は顔を上げて、あずき洗い先生に訊いた。

「私が人間の頃の写真です」

 僕は「えっ」と言ってから、写真に映る少年とあずき洗い先生を何度も見比べた。

「まったく似てないから、信じられませんよね」

 あずき洗い先生が苦笑いを浮かべた。

「似てないですけど、本当なんですか?」

 あずき洗い先生が僕に嘘をつく必要もないので、本当なんだろうとは思ったが、僕はすごくビックリした。

「嘘のような本当の話なんです」

 あずき洗い先生がニコリと笑った。

「先生が人間だったなんて、全然知らなかったです」

「誰にも話したことないですからね」

「なぜ、人間から妖怪になってしまったんですか?」

「知りたいですか?」

「はい、差し支えなければ」

「あなたになら話してもいいでしょう」

 あずき洗い先生はそう言って、「フゥー」と息を吐いてから続けた。

「当時、私は『日顕』という僧侶でした。そして私は住職からすごく可愛がってもらいました。それである時、住職から後を継いでほしいと頼まれたんです。それを聞いた時、私はすごく嬉しかった」

 あずき洗い先生は宙に視線を向けて、昔を懐かしんでいるようだった。口元が綻んでいた。

「しかし、他の僧侶たちはその事をすごく妬んだようでした。そして彼らは私をいじめるようになりました。日に日に酷くなっていく彼らのいじめに耐えられなくなった私は、ついにカッとなってしまい、彼らと殴りあいの喧嘩をしてしまいました。さほど喧嘩の強くない私が、私より体の大きかった三人の僧侶相手に勝てるはずもなく、私は彼らに井戸に落とされ殺されてしまったんです」

 僕は「えっ」と声が出た。

 あずき洗い先生は、過去の悲惨な話をしているにも関わらず、優しい笑みを浮かべたまま話を続けた。

「死んでしまった私は、その後、今のこの姿、あずき洗いとなって、こうして妖怪の世界で暮らしているというわけです」

 あずき洗い先生は話し終えると、立ち上がり窓の外を眺めていた。

 辛い過去を思い出させてしまったと、僕は申し訳なくなった。

「先生は人間界でそんな酷い目にあってたんですか」

「ええ」

「それなのに先生は人間界を嫌いにならなかったわけですか」

「そうですね、人間界のことは嫌いにはなりませんでした。しかし、人間界は難しい世界だなと思いました」

「昨日、人間界を見てきたので、僕もなんとなくわかる気がします」

「人間界、妖怪の世界、関係なく、妬みや憎しみが無くなれば良いなと思っています。でも、なかなか簡単には無くならない。だから『人間の心得』のような戒めが必要なのかもしれません」

「妬みや憎しみがなくならないから『人間の心得』を学ぶことが必要ということですね」

「そういうことです。私は妖怪の世界にはびこる妬みや憎しみを少しでも無くそうと思って『人間の心得』をあなた方のような若い妖怪に伝授しようと取り組んでいるんです」

「妖怪の世界に『人間の心得』を広めてるわけですね。そのおかげで僕はすごく勉強になりました」

「そうですか、それは良かったです。でも、本当は人間界でやるべきだったかもしれませんが、私には人間界は少し複雑で難しいです」

「先生はやっぱり凄いです。僕、先生を尊敬しています」

「あなたにそう言ってもらえて、すごく嬉しいです」


 それから僕は人間になることはやめて、妖怪の世界であずき洗い先生といっしょに『人間の心得』を妖怪の世界に広める活動に取り組むことにした。

 からかさ小僧や、のっぺらぼうも僕を応援してくれた。

 それから人間界も良くしたいので、僕とからかさ小僧、のっぺらぼう三人で人間界に行って、イタズラを繰り返している。

 イタズラと言っても『人間の心得』が出来ていない人間を見つけては脅かして反省してもらおうとしているのだ。

 誰にでもある、ちょっとした悪魔の心、それが出てきた時に、僕たちが脅かすことで人間の本来持っている綺麗な心を引き出すようにしている。

「一つ目小僧よ、次は、あの少学校に行ってみようか」

 からかさ小僧がピョンピョンと走っていった。

「あそこに、今、いじめが起こってるみたいだから、ちょっといじめっこを懲らしめに行ってくるぞ」

「からかさ小僧、ちょっと待ってよ。あまり過激な脅かし方はやめてよ。相手は子供だからね」

 僕は息を切らしからかさ小僧を追いかけた。

「おーい、ハァハァハァ、ちょっと待ってよ」

 頭が重くてなかなか進めない。からかさ小僧との距離は開く一方だ。

「のっぺらぼう、走りづらいから、僕の頭から降りてよ。早く人間たちにも『人間の心得』を広めなければならないんだから」


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