第四話
その男は、後悔していた。
――もっと、彼女を愛するべきだった。
――もっと、愛娘を愛するべきだった。
脇からの出血が止まらない。座り込んで数分、千切れた右足の感覚は消えた。止血処理をしていなかったら、もう死んでいただろう。背もたれにしている大樹の葉が風に揺れて音を鳴らす。その音も、もう男には聞こえていない。
「………マ…リィ……、……ロ………し…」
掠れた声。それが名前を紡ぐ。
その男は兵士だった。軽装に兜、右手には刃が半ばで折れたロングソード。よく見れば鎧も所々に凹みや傷、場所によっては欠損もある。その表面にある黒ずんだ汚れは、男の血。
兵士の任務は大陸南方、ボルグス連合の領内まで食料や医薬品を買い付けに行くことだった。帝国や王国は戦争で崩壊状態だが、ボルグス連合は議会の一部や<ギルド>が無事だった事で貿易ルートの安全が確保され、規模は縮小されたが通貨による商業は生きている。
男が暮らしていた<フォッセル>がある帝国領は、貿易が停止している。食料は自給自足、魔物が突如活発化した事で狩りも出来ない。街周辺に施されたとされる魔物避けの魔法具とやらの恩恵で街の安全は辛うじて確保されているが、食料も薬もなければ、どちらにせよ滅ぶ。
領主であるシェフィーナ・ファン・フォッセル。まだ成人前の少女は、亡くなった前領主や姉君の代わりに領地を必死に守っていた。男はその懸命さを知っていた。だから、この任務を引き受けた。志願兵は自分だけ、絶望的だった。
七年前に結婚した妻、その最後の表情は泣き顔だった。行かないでほしい、娘と自分を置いて行かないでほしいと、泣いて懇願してきた。四歳の娘は、そんな妻の後ろで不思議そうな顔をしていた。
だが男は兵士だった。民の為、領主であるシェフィーナの為、そんな家族を置いて、一台の荷馬車と共に領地を出た。同僚はギリギリまで見送ってくれた。最後まで三人の騎士が自分に同行すると言ってくれたが、断った。
「どうか妻と娘を、そしてこの街を護ってください。自分の帰るべき故郷を、護ってください」
彼女たちは男に誓った。帰ってくるまで、必ずこの街の全てを守り抜くと。
その言葉を信じ、男は旅立った。
ボルグス連合とラ・グラージュ神聖帝国の国境にたどり着いた彼は、シェフィーナから渡された資金で買えるだけの食料と薬を買い込んだ。足元を見た価格だった物もあるが、男は時間を最優先した。交渉は出来ない、今も街の人々は飢饉に苦しんでいる。早く、早く帰らなければ、と。
買い込めた物の量は想定よりもずっと少なかった。だが無駄足ではなかった。保存に適した肉や野菜、穀物。それに薬草。それらをある程度は確保出来た。男は喜び、妻と娘の顔を思い浮かべながら帰路につく。
そしてフォッセルの街を目前に、魔物の群れに襲撃された。おそらく食料の匂いに釣られたのだろう狼の魔物、数は五。小規模な群れ。兵士一人では、到底対処しきれない数だった。
荷を捨てて馬で逃げれば、自分だけは街に帰れる。その考えた。優しい領主の事だ、決して自分を責めたりはしないだろう。同僚たちも、男の事を「よく戻った」と迎え入れてくれるだろう。そんな温かい街なのだ、フォッセルは。
だから護りたかった。この食料を、薬を。彼らを救うために。妻や娘を護るために。
応戦を選んだ男の結末は、悲惨だった。
加速した荷馬車を魔物は方位し、まず馬を襲った。馬は首を食いちぎられ、一種で絶命した。荷馬車の御者席に座っていた男はその時の衝撃で吹き飛ばされる。その時点で既に左腕を骨折していた。
魔物はそんな男をジリジリ方位し、一斉に襲いかかった。男は雄叫びを上げ、剣を振るい、抗った。
左腕に食いついた狼の頭に剣を突き立て殺した。自分の左腕にも剣が刺さる、痛みが倍増する。だがそれでも戦う。
二匹が左右から襲いかかる。もう動かない左腕を餌にし、食いついた狼を先程と同じ要領で殺そうとするが、右足に食いついたもう一匹のせいで狙いが逸れ、剣は魔物の胴体に突き刺さる。一撃で仕留めきれなかった。左腕は骨が見えるほどに深く抉られる。だが男は剣を握る右手に力を入れ、魔物の心臓を貫く。二匹目。
その間に、残りの三匹の全てが男の右足に喰い付いた。千切れかける右足を尻目に、男は再び剣を振るう。一匹の首にそれが当たり、出血。甲高い鳴き声を上げ絶命する。
この時点で男は自分の限界を超えていた。一兵士としては突出する程の戦果。準騎士に推される事もあり得る程。
その代償は大きい。右足が食い千切られる。男が痛みに吠え倒れ込む。だが決して剣を手放す事はない。頭を噛み砕こうと襲いかかってきた魔物の口内目掛けて突き、切っ先が魔物の頭から飛び出す。三匹目。
一匹が男の胴体、脇腹に喰い付いた。もう一匹は頭、兜に喰い付いた。男は血を吐きながらも抵抗し、剣を振る。だがその剣を脇腹に喰い付いた魔物が口で受け止め、そのままその剣を噛み砕いた。
もう武器がない。自分の拳や牙ではこの魔物たちは倒せない。男は折れた剣を手放さず、折れた状態で魔物に突き立てる。切っ先がない剣の突きでは魔物の軽装並みの強度を誇る剛毛を貫通する事は出来ない。浅く刺さった程度。
瞬間、自分の頭に喰い付いていた魔物が離れ、顔面を抉ろうと牙を向く。
「ああああああああ!!」
男は折れた剣で突き刺していた魔物を、全力でその魔物の前に押し出した。同族の牙は魔物の剛毛を貫通し、肉を抉り臓物が飛び出る。断末魔を上げ、四匹目が絶命する。
同族を殺した魔物は、その口に含まれた肉を吐き捨て、再び男に襲いかかる。その血のように赤い眼が男の眼を射抜く。もう男は動けない。魔物はそう判断した。
「ああああああああああああ!」
だが男は動いた。血を吐き傷口から内蔵が見える、そんな状況で、まだ動いた。折れた剣を襲いかかった魔物に突き立て、そのまま覆いかぶさるように倒れ込む。
全体重を剣に預ける。ブチブチと音を立て、折れた剣は魔物の肉に食い込む。魔物も抵抗し、暴れる。口から血液を含んだ泡を吹きながら。
「っ帰る! 俺は帰るんだ!!」
愛する妻と娘が待つ街に。それだけが男を支え、力を与える。出血量が増す。男の視界が霞む。だがそれでも、剣を持つ右手の力は緩めない。
「かえるかえるかえるああああぁぁぁぁぁ!!!!」
男の血走った瞳は、確かにそれを見た。
折れた剣が、魔物を貫く瞬間を。
最後の一匹が、死ぬ瞬間を。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽
地震の中、獣から距離を取るべく全力で走った俺は、それを見つけた。
「…酷いな。なんだこれ…」
息も絶え絶え、腹が減った。そんな状態で、俺は人間の遺体を発見した。最悪だ。空腹の感覚が一気に引っ込んだ。
大樹を背に座り込んでいるミイラ化した人間と、周囲に散乱する獣の死体。人間の手には折れた剣。
状況証拠からの推測だが、おそらく戦闘の後。獣の数は五、人間側は一人。武器は剣。人間の損傷具合から見て、一対五。着ている鎧のような物の削れ具合や欠けた部分を見るに、この獣の咬合力は鉄などの金属を食い破る可能性もある。剣一本で挑むような相手ではない。俺のように強化されていれば別だが。
周囲には馬の死骸と荷馬車らしきもの。馬が死んで荷物を護りながら戦った? 兵士か?
なんで逃げなかったんだ。自分の命が第一だろうに。
無言のまま、俺の腕の中からマシロが自らの脚で立ち上がり、歩く。ゆっくりと人間の遺体の前に行き、そこで止まる。やはり歩行は出来るのか、そう考えると同時に、死を悼んでいるのだろうかと考えてしまう。そんな感情が残っていれば万々歳だが、のぞみ薄だ。
全方位に警戒しながら、俺は荷馬車に近付き荷台を確かめる。陶器製のツボの幾つかは砕け、木製の箱から中身が飛び出している。
「食料っぽいな。こっちの中身は……葉っぱがぎっしり」
木箱の中身は干し肉や黄色い穀物。自分が覚えている野菜のような物もある。少しデザインの違う木箱には草が詰められていた。なんか妙な臭いがする。割れたツボの中身は分からないが、刺激臭はしない。無事な壺の中身も同じ液体だろうか。口にしないでおこう、なんか怖いし。
待て。臭い? しかも刺激臭? こんな獣が出る山の中で?
その瞬間、俺の目は確かに捉えた。遠くの茂み、その間から何かが見ている。赤い眼、人間のものではない。
俺は咄嗟に武器を探す。あの遺体の持っていた剣では無理だ。だが銃火器の類は見えない。やばい、重い何かが走ってくる音、あの赤い眼が近付いてくる。それもかなり速い。
その時、マシロが御者席から何かを持ってきた。ナイフ、それが二本。よくやった褒めてやる。めちゃくちゃ心細いけどね!
茂みから灰色の生き物が飛び出してきた。
「猪?」
呟く。自分の記憶の中にある猪のフォルムに近い。だが、サイズがおかしい。明らかに数倍、立ち上がって二メートルの熊レベル。マジか。なんだこれ。
「ブオオオオ!」
「ああちくしょう、結局か!」
獣から逃げてきた先で獣に補足された。最悪だ、さっき俺が消費したカロリーを返してほしい。突っ込んできた猪を横飛びで回避しながら、悪態をつく。マシロは危険を察知したのか、荷馬車の中に隠れている。そこはそこで危ないんだが。
猪は一度止まり、こちらに向き直る。そして再びの突進。先程とほぼ同速度。
意識を一気に戦闘状態へ。全身の筋肉に力を入れる。握っていたナイフの柄に若干の亀裂が入る。
突進してきた猪を再び横に飛ぶ事で回避する。すれ違いざまに右手のナイフで猪の側面を斬りつける。硬い。やはり自分の知る猪ではない。
次の突進を仕掛けてくる。今度は立ち止まる事無く、その場で土煙を上げながら旋回する猪を見て、いけると確信する。
突進してくる猪。
俺は、その猪の鼻先に膝蹴りを入れた。
衝撃が俺の身体を突き抜けるが、耐えられる。蹴りを入れた右足の骨と肉はその衝撃に耐え切り、逆に猪が蹴りの衝撃で浮き上がる。その跳ね上がった横っ面に回し蹴りを叩き込む。全力で。踵に獣の肉が食い込む。
そのまま吹き飛んだ猪は、近くの木に衝突した。木がその衝撃を受け止めきれずなぎ倒されるが、そんな環境破壊の事を気にしている暇はない。俺は横たわる猪に一瞬で近付き、その腹に左右の手で握っていたナイフを突き立てた。
「ブモオオオオオ!」
「うるせぇ!」
俺の力で突き立てられたナイフは、深々と猪の腹に沈む。更にそのまま左右に切りつけ、引き抜き、更に斬りつける。
力任せ。だが俺はナイフの扱いに慣れているようだった。浅く何度も斬りつけながら、防御の薄くなった箇所をピンポイントに突き刺す。
結果、猪は死んだ。
…この猪、食えるのかな?
空腹だからか、結構ワイルドな事を考えてしまった。俺の知っている猪なら食えるはずだ、とりあえず血抜きしよう。そう考えて、荷馬車にあったロープを使い、近場の大樹に猪を吊るし上げる。そして止めた。
結構な量の血が出ている。この臭いはまずい。また獣が近付いてくる可能性が高い。それは勘弁してほしい。
そう考え、俺は荷馬車を使わせてもらう事にした。とりあえず狩った猪を荷馬車に積み込む。でかいな本当に。とりあえず天幕を降ろして密閉。密閉になってないけど。
作業中、マシロが俺に近付いてきた。その手には金属の板。無言でそれを俺に渡して荷馬車に戻った。
「これは…認識票か」
そこには紋章らしき何かと、文字が刻まれていた。読める、人名だ。男の名前、おそらくこれは、死んでいた兵士らしき者のもの。マシロが回収してきたのだろう。どんな思惑かは分からない。
御者席からひょっこりとマシロが出てきた。小動物かこいつは。だがそれよりも、その手に握る紙に目が行った。また何か見つけたらしい。
「…これはこれは」
地図だった。世界地図ほど広大ではないようだが、スケール的にこの辺りのものだろうか。認識票に刻まれた紋章と同じ物が、ある一箇所に描かれている。方位記号はないが、描かれた山脈等の情報から、なんとなく方位は絞れる。ちょっとした賭けだけど。
おそらくあの兵士の所属する勢力の拠点だろう。この辺りも推測でしか無い。だが、他に情報がない。今はとにかく人の居る場所に行きたい。腹が減って死にそう。
だが見知らぬ人間を受け入れるか? それも記憶を失った人間を。俺ならしない。なんの特もしない限り。
なら、あの荷馬車だ。あの兵士が運んでいたのだから、それを届ければ受け入れられる可能性も若干だがある。多分。もし外敵判定されたら即退散してもいいし、人数が少ないなら制圧する。腹が減って思考が端的になっている気がする。がるるるる。獣化しそう。そんなファンタジー能力ないけど。
そんな俺の考えを読んだのか、マシロが御者席に座っていた。馬は居ない。ならばどうするか。
「俺がっ! 馬にっ! なるんだよぉぉぉ!」
なけなしの体力だが仕方ない。懸架式の荷馬車を人間の力だけで動かす。重い、だが仕方がない。もう仕方がない事しかない。くっそ面倒。
やるべき事は多い。荷馬車を引きながら考える。コンテナに置いてきたノウウィングの事も気になる。生体認証があるから誰かに使われる事はないだろう。だがあそこに放置するわけにもいかない。
「マシロさんや…虚数格納は…」
「…?」
「…無理っぽいね。いいやもう…。なんで俺がこんな事しなきゃいけないんだ…そもそもここどこだよ何時だよなんなんだよ――」
愚痴しか出てこない。グチグチグチグチ。それをマシロは御者席で聞いているのか、それとも聞き流しているのか。その綺麗な金色の目は、遠くの空を眺めているようだった。せめて周辺警戒はしてほしいなって。
数刻後。夜が明ける頃。
俺とマシロが、フォッセルの街にたどり着いた。
その間に二匹の化け猪と遭遇し、荷馬車の重量は更に増していたのだった。