第一話
ラ・グラージュ帝国の辺境地<フォッセル>。
自然豊かなで空気も澄んでいる、そう評価されることもあれば、ただの辺境、田舎と言われることも多い。だが歴史は古く、一部の帝国貴族からは一目置かれている。
いや、置かれていた。過去形になる。二年前のあの戦い以前は間違いなく帝国有数の貴族だった。領主は聡明、領地軍の力も強く、鉄機兵の数も領地軍としては多い。
「……もう昔の事」
フォッセル領主の屋敷。その二階にある執務室の窓から、一人の少女が自らの領地を見渡しながら呟く。日が昇ってまだ数分、やや冷たい風が吹くフォッセルは、もう以前のような活気はない。人は減り、畑の一部は荒れ、領地を囲う石壁の一部は崩れ、大門の守備をしていた鉄機兵もそこには居らず、数名の歩兵が居る程度。
行商人も数ヶ月は来ていない。薬や保存食等をボルグス連合領内に買い付けに行った領地の兵士も戻ってこない。途中で何かあったのか、それとも家臣の言うように金銭だけを持って逃げたのか。
「せめて無事かだけでも確認したいのに…」
だが、この屋敷の主である少女は彼らが逃げたとは思っていなかった。兵士と個人的な関わりがあったわけではない。だが、少なくとも彼と彼の家族はこの領地を愛していた。そう感じた。
未だに彼の妻と娘は、彼の帰りを待っている。今自分に出来ることは、彼の無事を祈る事だけだった。捜索に兵士を回す、そんな余裕があればまた違った事も出来るのかもしれないが。
少女は閉じていた窓を開ける。やはりやや肌寒い。部屋の中に入る風は少女の長く美しい金髪が踊り、翡翠色の双眸は陽の光を浴びて輝く。
少女の名は<シェフィーナ・ファン・フォッセル>。
二年前、齢十二で領主となった少女。いや、他の貴族から見れば、この難しい時期に、領主に“なってしまった”少女である。
「姫様! 起きて居られますか姫様!!」
突如、自室の扉がややノックで震える。朝日を眺めていた少女は少し驚き、そしてすぐ窓を閉め、扉に向かう。
「オルヴァ、何かあったのですか?」
「申し訳ありません! 入りますぞ!!」
シェフィーナの言葉を受け扉が開く。そこに居た白髪の老人はフォッセル領主に五十年近く仕えている家臣の一人<オルヴァ・ロー>。七十歳の老体は肩で息をしている事から、急いでここまで来たのだろう。
「何かあったのですか?」
その様子を見て、未だ子供の色を残すシェフィーナの顔も険しくなる。先程外を見ていた時に街の様子を見ていたが、特に目立った混乱は起きていなかった。ということは窓の反対、裏門側で何か起きたのだろうか。そう考え、一瞬魔物の襲撃を考えてしまう。
「う、裏門に、裏門に現れました」
「現れた…魔物ですか?!」
「いえ、ち、違います。馬車です!」
ぜぇぜぇと息をしながら報告するオルヴァの言葉に、ふと連合領内へ向かった兵士の事を思い出した。
「帰ってきたのですか!」
自然と笑顔になる。ずっと待っていた彼の家族が喜ぶ、そう考えながら。
だが、オルヴァはその言葉を聞いて、目を伏せて首を横に振る。その仕草を見て、シェフィーナの笑顔は消えた。
「いえ…。ですが、荷馬車は間違いなく我が領地の物でした。それから、荷馬車を運んできた者がおり、今は詰め所に拘束しております」
「運んできた……拘束?」
運んできた、ということは、その人物が荷馬車をどこかで拾ったのだろうか。だが拘束とはどういう事だろうか。刹那の間だが、オルヴァの言葉がシェフィーナの思考を支配する。
「詳しい事はその者を含め、詰め所の方で出来ればと考えております」
オルヴァはまだ部屋着の状態であるシェフィーナを見る。するとシェフィーナは頷き、オルヴァの背後に控えていた侍女たちに目を配らせた。それを確認したオルヴァは一礼し、部屋から退出、部屋の前の廊下で待機した。
侍女たちに身支度を整えさせている間、シェフィーナはひたすら考えていた。この後、一体何が起こるのだろうかと。
せめて、何も悪い事が起きませんようにと。そう祈りながら。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽
フォッセル領には元々六十万の民が暮らしていた。それを護る為に相当数の兵士がおり、当然その兵士たちが利用する詰め所も複数存在する。領地正面の大門とその反対に位置する裏門に一つずつ、更に街の中に数カ所配置され、何かあれば迅速に戦力を展開出来るよう人数も分配されていた。
だが、今の兵士の数は全盛期の一割程度。更に魔物の襲撃頻度は正面大門が多かった為、多くの兵士を大門側に割いていた。裏門の詰め所は基本、歩哨の一時待機場として利用されている。
そんな裏門詰め所に、今は多くの兵士と、更に領地の重鎮とその主まで集まっていた。重鎮と言っても、既に一人の老人だけなのだが。
領主であるシェフィーナ、そしてオルヴァに警護兵が五名。そして三名の兵士が、拘束している人物を向かえに地下牢へ向かっている。
「荷馬車を届けてくれた方の身元が不明、ですか」
「はい。その為、一時的に拘束という手段を取りました」
その待ち時間でシェフィーナはオルヴァから情報を聞く。領主が居る部屋にしては警護兵の数が少ないのは、その人数がシェフィーナの指示だからだ。現在の少ない兵力、その一部をここに割くにしても、多すぎては街の警護が薄くなる。たった数人による手薄さであっても、それは避けたかった。
「その者は肉体強化系の魔法を使えるようです。荷馬車と言っても馬は無し、かなりの重量がある荷馬車を一人で運んできました。元々積んであった物資の重量を考えても、常人ではまず運ぶのは不可能でしょう」
魔法を行使出来る、という事はどこかの領地の兵士である可能性が高い。軍属ではない魔法士も居るが、殆どは治癒師だ。特にこの時勢、単独で高い戦闘力を誇る魔法士は、通常の兵士よりも優遇される傾向にある。
であれば、オルヴァが警戒するのも分かる。例え同じ“帝国”の兵士であっても、今は信用することが出来ない。まして兵士から野党に堕ちた者であったなら、領民にまで被害が及ぶ可能性がある。
「失礼致します。件の者達を連行して参りました」
そこで会議室の扉が開き、兵士たちが荷車を運んできた人物を連れてきた。そこでシェフィーナは疑問に思う。
(“者達”――。複数?)
確かに人数は聞いていなかった。そうシェフィーナは納得する。
だが、連れてこられた人物を見て、驚愕した。
(…子供?!)
連れてこられたのは二名。一人は黒髪の男性で、もう一人はローブのような何かを纏った少女だった。フードで顔は見えず背丈だけの判断だが、自分と同い年かそれよりも下に見える。
子連れだろうか。だが男性の顔を見るに、子持ちの年齢には見えない。自分よりは年上だろう、だが周囲にいる兵士たちより外見は若い。
二人はシェフィーナとオルヴァの机を挟んで正面の席につく。その両脇と背後に兵士が待機し、状況は整った。
「まず、我が領地の荷を届けて下さった事に感謝いたします。そして、そんな方々にこのような対応をした事、謝罪いたします」
オルヴァが口を開けようとした所で、シェフィーナの言葉がそれを遮った。その内容は感謝と謝罪、しかも頭を下げている。
「姫様!?」
彼女は席から立ち上がり、頭を下げていた。周囲の兵士たちも驚いたのか、腰の剣の柄を握っていた数名がその手を離して数歩前に出てしまっている。
シェフィーナはその状況を理解しながらも、話を続けた。
「お伺いしたいのですが…。あの荷物はどこで?」
「ここから東。俺の足で徒歩半日ぐらいの森の中」
早い回答。シェフィーナに返答したのは黒髪の男性。その黒い双眸を、シェフィーナの翡翠の瞳に向ける。
「周囲に遺体が一つ。ここの連中と同じ装備だったから、多分ここの関係者だろう。これを渡しておく」
そう続けて、枷をされた状態の両手で机の上に一枚の金属板を置く。それは兵士全員が持つ認識票と同じもの。その表面の汚れは、おそらく血液が固まったものだろう。
シェフィーナの表情が悲痛なものに変わる。だが、この場で泣くことは許されない。曇った表情を振り払うかのような動作をした後、認識票を男の前から持ってきた兵士から受け取る。
名前は、間違いなくあの兵士のものだった。やはり最後まで任務を全うしようとしたのだ。領地を、この街を目前に力尽きた兵士の無念を思い、認識票を胸の前で握りしめる。
「遺体は損傷が激しかったから、その場に埋葬した。野犬やらに食い荒らされる事はないと思う」
その行動は男にとって、慈悲もあったが自己防衛でもある。まだ肉の残る屍をそのままにしていたら、獣が寄ってくる可能性が高い。それを回避したかった。
「いえ、感謝致します。これで親族に報告ができます」
シェフィーナは認識票を胸の前で認識票を強く握りしめ、再び頭を下げる。そして兵士たちに男の拘束を解くように命令した。
拘束を解かれた男は背伸びを一回すると、再びシェフィーナを見る。
「申し遅れました。私はこの領地の主、シェフィーナ・ファン・フォッセルと申します」
その視線を受けて、シェフィーナは貴族らしい仕草で名を名乗る。金色の髪が重力に引かれてサラサラと靡く。それを聞いてやや見惚れていた男もまた、自分が名乗っていない事に気付いた。
「俺はカガリ。こっちはマシロ。よろしく」
互いの名を知り、シェフィーナはまずマシロと呼ばれた少女を見た。先程から一言も喋らないのは会話の邪魔をしないようになのか、それとも別の理由か。
「ああ、悪いがこいつは喋れない。ちょっと訳ありでな」
その思考を読んだかのように、カガリと名乗った男はマシロのフードを取る。白銀の髪に金色の瞳、白い肌。浮世離れしたその少女の顔には、表情と呼べるものが見えない。まるで人形だ。
「――おほん!」
そんなわざとらしい咳払いをしたオルヴァはカガリに鋭い視線を向ける。説明を求める、そういう視線だった。
カガリと名乗った男は、小さく呻きながら無造作な黒髪の頭を掻き、説明を始めた。どう説明するべきか、どんな顔で説明すればいいのか。結局結論は出ず、まず端的に結果だけを伝える。
「そっちの爺さんには話したけど、記憶が欠けてるんだよ、俺ら」
ここから東の森、そこにある洞窟で目覚めた事。
自分の名前やマシロの事は覚えていたがそれも完全ではなく、一部記憶が欠如している事。
出身地も分からなければ、何故そんな所に居たのか、それも分からない。
真っ先に拘束してきた兵士たちに軽くこの事を話したらオルヴァが出てきて、こうして拘束されたという事。
オルヴァは「当然の処置だ」と呟きカガリを睨むが、シェフィーナの視線に気付いて再び咳払いを一回。
「以上が俺の話せる事の全てだ。当然だが、あんたたちに害を与えるつもりなんてない。というか、この対応だって間違っているとは思ってない。怪しさしかないからな」
カガリはそう言うと、自分の前に置かれたグラスの水を飲む。久しぶりの水分補給らしく、一息に飲み終えてしまった。マシロもそれを見て、水をチビチビと飲んでいる。
「悪い、マシロはどうも会話が出来てないらしいんだ。詳しい事は俺も分からんから、そこは勘弁してくれ」
マシロを見ながらカガリは言う。人間として当たり前の動作、そうした事は覚えている。だが、会話が出来ないというのは重症だった。シェフィーナはマシロを見つめながら、少し悲しい顔をした。
「そんな状況で何故荷馬車を…。それにこの街の事をどこで?」
「荷馬車の中に地図が置いてあった。その地図の一部に、兵士の認識票にあった紋章と同じものが描かれていたから、そこがその兵士の国だと思ってさ。俺が狩った獣を買い取ってもらえないかな~ついでに色々と教えてもらえないかな~って思惑があったりして、結果こうなったわけ」
「狩った獣…」
シェフィーナは首を傾げる。オルヴァはそんな主君の様子を見ながら兵士の一人から一枚の紙を受け取り、その内容を報告した。
「荷馬車にシルバーボアが三匹載っておりました。その事かと」
シルバーボア。この周辺ではよく見る猪の魔物である。中型種の中では弱い分類だが、通常の兵士単独で挑むような相手ではない。少なくとも三人、それが安全面も考慮した最低人討伐人数。それを三匹。
カガリが言うには、食料として確保したらしい。だが森の中で解体する場合は他の獣が寄ってくる可能性も高く、近くに水源もなかった為、解体を止めて売って路銀にする事を選択したという。
そうした説明をしている最中も、オルヴァの表情は険しかった。警戒八割恐怖二割、そんな複雑な表情にも見える。周囲を警戒する兵士たちには常に警戒を怠らないよう厳命しているのも、その恐怖の表れだろう。
「お強いのですね、カガリ様は」
そういう認識になるのは当たり前だ。シェフィーナは驚いたような、どこか憧れるような表情をカガリに向ける。カガリはその顔に少し困惑しながら顔を逸らした。マシロはその仕草を見て不思議そうに首を傾げる。
「強いかどうかはさておき、俺らはどうすればいい? すぐ街から出ろってならそうするけど」
シェフィーナはそう話すカガリと、それを見ているマシロに目を向ける。記憶喪失という事は事実なのだろう。嘘だとしても、記憶喪失という人に怪しまれるような嘘をつく理由はない。誰に話してもオルヴァのように警戒する。それでは嘘をついてまで行動する利点がなさすぎる。話していない情報はあるかもしれないが。
では、彼を街に入れた場合、どんな不都合が生じるか。外部の人間なのだから、街の住民は快く思わないかもしれない。昔ならいざしらず、今の住民たちは自分の事だけで精一杯、そんな考えを持ってしまう人もいるだろう。だが、彼はこの領地の荷物を届けてくれた恩人であり、彼が荷馬車を引いてきたのは既に住人が目撃している。無理やり彼らを排除するような者はいないだろう。いや、そうだと信じたい。
だから。
「オルヴァ、彼らを客人として迎え入れる旨、通達をお願いします」
そう結論づけた。その言葉を聞いたオルヴァは何か言葉を紡ごうとしたが、シェフィーナが向けてきた視線を受けて思いとどまる。
シェフィーナは気弱そうに見えるが、頑固さは父親譲り。彼女の姉のような勇猛さは備えていないが、今は自分の領主としての役割を理解し動く。
そして領主とはいかなる者か、教え込んだのは他でもないオルヴァ自身。何よりもまず領地の為に。民のために。年端も行かない少女に教え込んだのだ、たった二年で。
負い目と感じる事もある。本来なら領主という立場になる筈の娘ではなかった。前領主である彼女の父も、そして姉も、シェフィーナには純粋な幸せのみを享受出来るような、そんな人生を歩んでほしかっただろう。
「……かしこまりました。そのように」
数秒の思考の後、オルヴァが折れる。それを聞いた兵士たちは緊張を解き、武器の柄から手を離す。命令が下った場合はすぐ抜剣出来るようにしていたのだ。
カガリも気の抜けた息を零していた。彼も色々と考えていたのだろう。どうやら彼にとっても最悪の結果ではなかったようだ。
「…ナイス金髪美少女」
やや下卑た思考もあるのはご愛嬌である。この世に美女が嫌いな男性は存在しない。多分。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽
大陸暦三五六年。当時このオーレンベルト大陸には、三大国家が存在した。
ラ・グラージュ神聖帝国。大陸最大の国家にして最強と謂われた大国。国という枠を超えて様々な支援を行い、遺跡研究の第一人者とされる組織<天の教会>との繋がりが最も強く、教会の創設者である<八賢者>を崇めると同時に、古代技術の発掘や復元にも力を注いでいた。人間絶対主義というわけではないが、亜人には排他的な事でも知られており、奴隷制度も存在する。
エメリア王国。三大国家の中で最も勢力の小さな国家とされているが、王族はかの八賢者の末裔だとされる由緒正しい、そして最も古い国家。森人や獣人の国とも交友を持ち、ラ・グラージュ程ではないが遺跡から発掘された遺物の調査や復元も精力的に行っていた。だが、その出自故にラ・グラージュとの関係は悪く、奴隷制に反対している事もあり、対立する事も多かった。
ボルグス連合。人間と亜人の国々が協力し立ち上げた連合国家。歴史は百年弱と浅いものの、商業力では他の国家を圧倒していた。教会ともその方面で繋がりがあるとされ、遺跡の発掘や技術研究ではエメリア王国とも協力関係を結んでいる。志願兵で構成された連合軍も保有していたが、流れ者たちを雇用する<ギルド>と呼ばれる組合を抱えており、単純戦力だけみれば三大国家最大ともされていた。
その三大国家が、全て崩壊した。破壊されてしまった。
人間にではなく、魔物に。通常の魔物とは比べ物にならない程強力な“白い魔物”。
厄災によって――。