人間
先程まで助けを乞うていた口は中途半端に空き、目は大きく見開かれ瞳孔は拡大していた。男は横たわり、腹を抱えて胎児のようにうずくまりこと切れた。男の下には時間が経ち変色した黒い水たまりができていた。
俺はしばらく目の前の茶髪の男の抜け殻を呆然と見ていた。まるでどこか夢のようで、ふわふわと足元が定まらないで自分を俯瞰してみている感覚がずっとあった。不意に鼻をついた悪臭に我に帰る。男の体から包丁を抜き出す。また少し血が漏れ出した。何となく包丁を自分の服で拭く。包丁に映った自分と目があった。無造作に伸ばした髭、脂ぎった髪、やけこけた頰に虚ろな瞳。これではどちらが生きているか分からなかった。
八年、地獄のような年月だった。物を食べても味はしなかった。深く眠ることも出来なくなった。笑うことも無くなった。ただ、この時を夢見て生きた。皮肉にもコイツを殺したこの俺を今まで生かしたのは、紛れもなくコイツ自身だった。
当時、十七歳のコイツは俺の妹を犯して殺して捨てた。
「誰でも良かった」
そう言ってコイツは檻の中へと逃げ込んだ。
妹が殺されたのに理由なんて無かった。ただコイツがそうしたかったから。妹は偶然そこにいて、コイツには偶然本来なら人にあるべき正義、常識、倫理それが欠如していた。
誰でも良かった。
口の中で言葉を反芻する。また、どす黒い感情が心に戻ってきて包丁を男の脇腹に刺した。皮膚を簡単に抜けたそれは肋骨で一度止まり、もう一度力を込めて臓物にまで到達させる。包丁を抜き、もう一度刺す。今度は骨に当たらず一回で深くまで差し込めた。血がゆっくりと流れる。もう一度抜く、刺す。刺す。刺す。 悲鳴が聞けないことが残念だった。
復讐なんて意味が無いし誰も望んでいない事は分かっていた。コイツを殺しても妹の命は還らない。妹は喜ばない。
でも、こうでもしなければ俺は俺で無くなる気がした。人と獣を区別するものは理性だと先哲入った。殺す、という最も原始的な行為に理性はあるのだろうか。俺は激情に身を任せ殺した。考えることを放棄した人間などもはや、獣との差異など無いのではないだろうか。俺も、コイツも、本能で人を殺した。
今、先程まであれほど生き生きとしていた本能はなりを潜めている。俺はこれまでと違い、冷静な頭で自分がすべきことを考えれた。
首筋に死が明確な形を持って俺に触れている。何故か頰がつり上がった。指先が、本能が震えている。死を拒んでいる。
俺はこうして、人として終わる。