悪魔のデッキブラシ(完全版)
ページを開いていただきありがとうございます。
おしゃれに連載形式に挑んでみたのですが、難しかったので一括でアップします。
楽しんでいただければ幸いです。
今日の一言
アクセサリーの似合う人間になりたい
これからもよろしくお願いします。
物心ついたときから、僕は当然のようにデッキブラシは乗り物で、またがって空を飛ぶためのものだと思っていた。それがただの掃除道具であり、またがってジャンプしたって、普通の人は空を飛べないということを知ったのは小学生のトイレ掃除でだった。
僕が初めてデッキブラシに触れたのは小学校に入る前のことだった。僕の家には魔法の倉庫がある。父が言うには倉庫は悪魔が守っていて、大人に内緒でその倉庫に入ろうとすると悪魔に呪われてしまうのだ。倉庫の中には子供が勝手には触ってはいけないもの、鎌やらバーベキューセットやらシャベルやらがしまわれていて、魔法の倉庫というのはつまり、よくある子供が勝手に立ち入らないようにするための方便だった。そこにしまわれていたのが、僕が初めて触ったデッキブラシであり、そして、その時本当に魔法の倉庫が悪魔に守られていることを僕は知ったのだった。
小学校に入るだいぶ前、僕は父がカギをかけ忘れた魔法の倉庫におびえながら入っていった。倉庫は、外から見れば小さな倉庫だったはずが、一歩足を踏み入れると、暗く視界も限られていて、どこまでも続く洞窟のように感じられた。今すぐ引き返したいほど怖かったが、それと同じくらいの魅力をこの魔法の倉庫に感じて、「悪魔なんかいない、悪魔なんかいない」とつぶやきながら手を突き出してゆっくり進んでいった。すると、棒状のものに手が触れるのを感じた。やっと暗さに慣れてきたころで、その全容をなんとか確認することができた。僕にはその棒状のものに見覚えがあった。この間お父さんと見た映画で、少女がまたがって空を飛んでいた、あの棒だ。テレビを見ながらお父さんが「あの緑のふさふさが空を飛ぶ秘密さ」と得意げに語っていたのを思い出す。なるほど、暗くて色まではわからないけれどふさふさしたものが下についている。やはり、僕の家には魔法の倉庫があったのだ。
少しずつ、恐怖よりもその棒にまたがって、あの少女のように空を飛んでみたい気持ちのほうが強くなってきた。映画の内容は僕にはよくわからなかったけれど、あの少女が空を飛ぶ姿は、すごくかっこよかった。
とにかく、これを外に持っていかなくちゃ。そう思って、棒を持ち上げようとすると、かわりに僕の身体がふわりと浮いた。手を離すと、着地する。よく見るとその棒も僕と一緒に浮くみたいだ。飛んでいる。これはいよいよ、お父さんとお母さんに見てもらいたい。棒を引きづって、外に出ようとしたその瞬間、声が聞こえた。低くもなく、高くもない、男なのか女なのかすらわからない声だった。それでいて十年経った今でもまだはっきりとその声を覚えている。その声は確かにこう言ったのだ。
「お前がこれを欲するのであれば、私はそれをいただこう。」
その後のことはあまり憶えていない。ただ、自分が悪いことをしているという自覚が急に押し寄せてくるあの感覚と、得体の知れない声に対する恐怖だけは今でもたまに夢に見る。当時の僕の様子は、未だに母のお気に入りの笑い話で、倉庫を出て庭から家に駆け戻った僕は、大泣きしながら母にしがみつき、泣き疲れて眠るまで何かに謝っていたらしい。
それが僕と悪魔の出会いであり、その日から僕は車に乗ることができなくなってしまった。
急に車に乗れなくなったことで、両親は非常に困惑したらしいが、僕はそれが、悪魔との取引だったことを本能で理解していた。僕はあの棒状のもので空を飛ぶことができるようになった代償として、車に乗ることができなくなったのだ。乗れない理由は様々だった。車に乗ろうとすると急に頭痛や腹痛に見舞われたり、嘔吐、痙攣、気絶、珍しいパターンだと笑いが止まらなくなって呼吸困難というのもあった。色々な症状に苦しむなかで、頭の中には必ず、あの悪魔の言葉がこだましていた。
「お前がこれを欲するのであれば、私はそれをいただこう。」
症状を改善するために何度もカウンセリングを受けたが、お医者もお手上げだった。ついには親もあきらめて、僕を連れて移動する場合は自転車や電車を使った。お父さんは笑って、「今時車がなくても何も困らないな」なんて感心していて、母は心配そうに僕を見ていたのを思い出す。僕はどうしても悪魔との出会いを両親に相談することはできなかった。
僕がその棒状のものと再会したのは、小学校に入学して初めてトイレ掃除の係になった時だった。悪魔との出会い以来、魔法の倉庫には近づいていなかった。
それが、デッキブラシという名前で、床をごしごしして綺麗にするためだけのものだという事実に僕は愕然とした。僕にとってそれは魔法の道具であり、悪魔の持ち物だった。そう簡単に手を触れていいものではない。ましてや、それをスティックに、石鹸をホッケーボールにしてトイレで遊ぶなんてとんでもないことだった。トイレ掃除のとき、僕は断固としてブラシを握ることを拒否して、皆が嫌がる亀の子たわしによる便器掃除に徹した。
デッキブラシを見れば顔を真っ青にする、どうやら車に乗ると気絶するらしい、そんな噂がクラスメイトの間に流れて、僕は学年の変わり者となった。陰でブラシと呼ばれるようになって、友達もなかなか作ることが出来なかった。次第に僕は誰とも話さず、休み時間には教室の隅でじっと机を眺めることしか出来なくなった。
そんな僕の心の支えになったのは、底抜けに明るい父と、優しい母と、一人の女の子だった。
学校の先生に心配されながら、一人ぼっちの小学校生活も半分を過ぎたころ、一人の女の子と話すようになった。きっかけは、三年生の秋の席替えで隣の席になったことだった。
その日、僕は算数の教科書を忘れてしまった。これは一人ぼっちの僕にとって、絶対に避けなければならないことで、何せ隣の人に教科書を見せてくれと頼まなければならない。それができない僕は、幾重もの対策を講じて、恥を忍んでお母さんに確認してもらってまで教科書を忘れないようにしているが、忘れてしまった場合はじっと机を見つめ続けて先生が気づいてくれるのを待つことしか出来なかった。
その日も教科書を忘れてしまったことに気がついた直後に、僕の身体は石のように動かなくなって、机以外に目を向けることが出来なくなった。そんな時に声をかけてくれたのが、隣の席の女の子だった。名前はアンナという、アメリカ人と日本人のハーフの子だった。色が白く、瞳が蒼い彼女は僕と同じように学年で浮いていた。僕との違いは、アンナはクラスの人気者で、僕が一人ぼっちだということだ。アンナは僕が教科書を忘れたことに気が付くと、黙って机を僕の机に寄せて教科書を二人の間に開いてくれた。その時の僕は感謝というよりも恐怖していた。アンナと隣の席になっただけでも、僕にとっては過ぎたことで、クラスの男子からも女子からも、「なんでブラシが」なんて視線を浴びた。教科書を見せてくれるなんて、恐怖以外の何物でもなかったのだ。僕はいよいよ机を見つめる石像となって、せっかく二人の間に開いてくれている教科書に目もくれず、授業終了のチャイムをひたすらに待った。
その時、ふっとアンナから優しい風が吹いてくるのを感じた。先生が、次回の授業の宿題を説明し始めたころだっただろうと思う。実際には窓際に座っていたアンナの向こうの窓から風が入ってきたのだろうが、その風に包まれて、僕にはそれがアンナの優しさに感じられて、思わず机から目を離してアンナのほうを見てしまった。その時のアンナの瞳の深い蒼と、優しい笑顔は僕の殻をいとも簡単に溶かしてしまって、その光景は深く心の一番繊細なところに刻まれた。それから授業が終わるまでの5分間は、流石にアンナの顔を直視する勇気はなかったが、自分の机と、アンナの算数の教科書を交互に見ることで終えた。授業が終わってアンナにありがとうを言うときは、一生分の勇気を振り絞った気がした。その時もアンナは優しく笑ってくれた。
それからアンナと僕は、たまに話をするようになった。当然、僕から話しかけるなんてことはできなくて、話しかけてくれるのはいつもアンナのほうからだった。アンナが窓際の席で、左隣がいないというのもラッキーだった。もちろん、アンナは前後の友達ともすぐに親友みたいになって仲良く話をしていたし、特にアンナの前に座る中沢君はアンナと喋れることが嬉しくて、しょっちゅう後ろをみて、冗談を言ってアンナを笑わせていた。よく先生に怒られていたけど、その冗談は隣で聞いている僕も笑ってしまいそうになるくらい面白かった。もちろん僕はそんな様子を表に出さないように必死に隠したし、中沢君も僕なんかいないような振る舞いをした。別にそれは中沢君が特別僕をいじめようと意図していたことではなく、クラスの皆がそうするし、アンナが特別だったのだ。そんな特別なアンナは、前後の友達と十回話すうちの一回くらいは僕に話しかけてくれた。
僕は中沢君のように、うまい冗談を言えないし、アンナの後ろの花房さんみたいににっこり笑って相槌も打てない。アンナに話しかけられると、「うん」とか「そうだね」とかしか言葉が出てこなくて、手も震えていた。自分はなんてつまらない人間なんだと思いつつ、話しかけられたのが嬉しくて、話しかけてもらえたその日は、一日アンナとの会話を思い出していたりした。
そんな僕は悩んでいた。僕はアンナに自分から話しかけたいと思ったのだ。中沢君みたいに、アンナが興味を持ちそうな話をふって、僕の話で笑ってほしかった。そのためにアンナが好きだと言っていたアニメも見たりした。女の子向けのアニメで、お父さんとお母さんの前で見るのはとても恥ずかしかったけれど、僕の知ることのできるアンナは、中沢君や花房さんとアンナの会話から知るアンナであって、限られた情報からしかアンナと接点を作ることが出来なかった。恥を忍んでアニメを見たはいいけれど(最近はお父さんも夢中になって観ている)、アンナに話しかけるのはもっと難しい問題だった。いきなり僕が気さくに「昨日のあのアニメ見た?サクラちゃんかわいかったよね!」なんて言っても、びっくりされるだけだ。今まで相槌しかうたなかった男の子が、女の子のアニメの話をいきなりしたら、アンナだけならともかく、クラスの皆もいよいよ僕を仲間外れにするだろう。それでも僕はアンナと話がしたかった。
二人きりになるチャンスを待っていたが、人気者のアンナと二人きりになれる機会なんてそうそう来なかった。二人きりになるのは諦めて休み時間にチャンスをうかがっても、中沢君がすぐに後ろを向いて話し始めてしまう。この時だけは中沢君をうらんだ。昼休みは中沢君はチャイムと同時に外へ駆け出す。僕の学校では昼休みだけはグランドが解放され、サッカーコートは学校中の男子によって毎日取り合いがなされていた。中沢君もこの時だけはアンナよりもグランドを優先する。けれど、そんな隙を狙っているのは僕だけではなくて、だいたいは後ろの席の花房さんとアンナを中心に女の子たちが集まり始める。最近はノートを机に広げて大笑いをしている。何をしているのかは僕にはわからなかった。
そうこうしているうちに、アンナに話しかけたいという思いは日に日に強くなり、ついに僕は明日アンナに話しかけようと決めた。勇気をくれたのは、奇しくもアンナが好きだと言っていたあのアニメだった。
その女の子は、世界を救うために敵となってしまった親友を倒さなければならなかった。その女の子は世界を救うのか、親友を打ち負かすのか、選択を迫られる。僕はてっきり女の子は親友を打ち負かすのだと思っていた。女の子は確かに親友のことを大好きだったけど、世界だって女の子の大好きが溢れていたのだ。世界を救わなければお父さんだってお母さんだっていなくなってしまう。それに実のところ僕は、その親友があまり好きではなかった。
しかし、最後のシーンで女の子は世界をなげうって、親友を守るという選択をする。僕は叫んだ。夢中になって「だめだ!」って叫んでいた。一緒に見ていたお父さんに同意を求めたけれど、お父さんはじっとテレビを見つめて僕のほうを見てはくれなかった。子供向けのアニメなので、やっぱり最後はハッピーエンドで、女の子が親友を思う心が親友に届いて、親友は悪者の洗脳から解き放たれて、女の子と共に戦う仲間になる。僕はそれを見て、大泣きした。そして、その女の子の勇気と、大泣きする僕を慰めるようになでるお父さんの手が、僕にアンナに話しかける勇気をくれた。
翌日、僕はアンナに話しかけるために三つの休み時間を費やした。話しかけることは決めていたのに、どうしても声が出なかったのだ。中沢君はやっぱりアンナに話しかけていたけれど、その時の僕にはそれはもう関係なかった。問題は僕に勇気が出なかったことだった。
昼休みに入るとき、ついに僕は声を出した。アンナのほうをちゃんと見て、声は小さかったけれど、こう、話しかけたのだ。
「昨日、アニメ見た?」
僕は言い終わった瞬間、アンナから目をそらし、机を凝視していた。まるでそこに宝探しの重大なヒントが隠されているかのように。目をそらす瞬間にはアンナが目を見開いてこっちを見て口を開こうとするのが目に映った。けれど、アンナの声が僕の耳に届くことはなかった、と思う。タイミングが悪く、僕の声の後半にかぶさって、クラスの女子がアンナに話しかけたのだ。クラスの女子たちは気が付かなかっただろうけど、僕は顔を真っ赤にして、席を離れた。
トイレにこもって、僕は震えていた。こんなに強い感覚に襲われたのは、魔法の倉庫で悪魔の声を聴いて以来だった。そのときと違うのは、この震えが恐怖からではなく達成感や嬉しさと、悔しさがごちゃ混ぜになった、そんな感覚だったことだ。しばらく経って感情の波と震えが収まってきたころ、僕の中に残ったのは悔しさだった。せっかく勇気を振り絞って話しかけたのに目をそらしてしまった。もう少し頑張っていれば、もしかしたらアンナと話ができたかもしれない。それが悔しかった。
昼休みが明けてからアンナに話しかける勇気は僕にはなかった。中沢君と話しながらも、アンナがたまに何かを言いたげにこちらを見た気配を感じたけれど、僕がそうあって欲しいと思っているだけだと思った。
それが勘違い出なかったことを知ったのは放課後だった。授業が終わって、下駄箱で靴を履き替えているとき、声が聞こえた。
「加治君!」
下駄箱は静かだった。一緒に帰る友達を待つ必要のない僕は、たいてい誰よりも早く下駄箱から学校を出る。アンナと僕しかいな静かな下駄箱にアンナの声がやけに響いて聞こえた。僕は驚きを通り越して、「先生以外に久々に加治君って呼ばれたな」とか、「アンナが一人になるのを待つのは大変だけど、僕はいつも一人だもんな」とか変なことを考えていた。
「加治君」
僕が呆けているとアンナは近づいてきて、もう一度僕の名前を呼んだ。僕はまだ事態をうまく飲み込めず、でも何か言わないとと思って、思わず「アンナ」とつぶやいていた。よく考えれば、僕だってアンナの名前を呼んだことなんてなかった。
「一緒に帰らない?」
アンナの問いかけに、僕にはうなずく以外の選択肢はなかった。二人だけの下駄箱の静けさは、教室から降りてきた生徒たちによって少しずつやぶられていた。
帰り道、流石のアンナも少し気まずそうに黙っていた。アンナの家の方向を知らなかったので、僕は自分の家のほうに、いつもより少しだけゆっくりと歩いた。アンナは黙ってついてきていた。少し歩いて、赤信号に引っかかって、僕はやっと口を開いた。今度はちゃんと届くはずだ。
「昨日のアニメ見た?」
そこからは夢中になって話をした。
「最後、すごく意外だったよね」
「そう?私はサクラちゃんは絶対に楓ちゃんを助けると思ってたの!」
サクラちゃんが主人公の女の子で楓ちゃんが親友の子だ。
「サクラちゃんは楓ちゃんのことをずっと好きだったの。」
「でも、サクラちゃんはお父さんもお母さんも学校の友達も大好きだったじゃん。楓ちゃんだけ助けるのは変だよ。」
「そういう問題じゃないのよ、サクラちゃんの好きは。」
アンナは全部わかってるみたいな顔をして、よくクラスの女子がするような、男子を子ども扱いするような眼を僕に向けていた。僕は何となく馬鹿にされている気がして、いい気分ではなかったけれど、そんなアンナも魅力的だったし、少しだけだけど、僕なんかいないみたいに真剣にテレビを見つめるお父さんの顔がなぜかアンナの表情と重なって、それ以上反論をすることが出来なかった。
その後も僕は夢中でアンナと話をした。友達と一緒に帰るなんて入学して僕が有名になってしまって以来初めてだったし、ましてや相手はあのアンナだ。嬉しくないわけがなかった。普段無口な僕がいきなり饒舌になって、アンナがびっくりしてしまうかもしれないという不安もあったが、好きなアニメの話をするアンナは僕以上に興奮していたと思う。そんなアンナは中沢君の冗談に笑う時よりも、花房さんの話に優しく微笑む時よりも、魅力的に見えた。僕しか知らないアンナだった。
アンナと僕の帰り道は途中まで一緒だった。話題が来週のアニメの展開予想に差し掛かったころ、分かれ道が来た。そのころには、僕のアンナへの遠慮もほとんどなくなって、「来週も一緒に帰ろう。来週のアニメの話もできるし。」と、自然に誘っていた。アンナも嬉しそうにうなずいてくれた。
次の週も、その次の週も僕はアンナと一緒に帰った。もちろんアニメ以外の話もした。僕は一人っ子だが、アンナにはお姉さんがいるらしい。年に一度はアメリカに帰ると言っていたアンナを、少し遠くに感じたりもした。色々な話をして、すごく楽しかったけれど、僕は結局デッキブラシで空を飛べることは言わなかったし、アンナも僕がブラシを握ると血相を変えることについて触れることはなかった。
アンナの様子が変わってきたのは四度目に下校した時からだった。いつものように楽しそうに笑いながら話しているのだけれど何となく元気がない。昨日のアニメでアンナが落ち込むような展開はなかったし、給食だってアンナの嫌いな春雨サラダは出ていない。アンナは誰とでも仲良くなるし、なんでもおいしそうに食べる子だったが、なぜか春雨サラダのことは憎んでいた。味が嫌いというよりも、苦い思い出があるらしく、目の敵にしている感じだった。アンナの元気のなさの理由がわからなくて、僕はアンナが元気になるような話題を頑張って話してみた。嬉しそうに返事はしてくれるが、あまり話が続かない。いよいよ、僕たちは無言で帰り道を歩いていた。アンナと話をせずに歩くのは最初の頃以来だった。そんなアンナのことはもちろん心配だったが、それと同時にあのアンナと一緒に歩いていることを今さら妙に意識してしまって、ドキドキした。
そんな中、ふと、そういえば最近中沢君とアンナの、あのコントのような会話を聞いていないことを思い出した。もしかしたら、中沢君とケンカしてしまって落ち込んでいるのかもしれない。そう思うと、そんなに落ち込んでしまうほど中沢君がアンナにとって大切な存在だったのだということに少し落ち込み、今なら中沢君よりもアンナと仲良くなれるかもしれないというドロドロとした喜びが同時に押し寄せてきた。けれどやっぱり一番はアンナに笑顔になってほしくて、僕はいつも以上に元気にアンナに話しかけた。
次の日、アンナの様子を注意深く伺ってみると、中沢君だけでなく花房さんもどこかぎこちなく、昼休みも女子がアンナのそばに寄ってくるということはなかった。僕はクラスとの関りをた絶つために、教室にいるときは極力自分の世界に籠ってしまっていたので、アンナとクラスの異変に気が付いていなかった。僕に対するほど露骨ではなかったが、アンナもクラスからのけ者にされつつあったのだ。もともとアンナは外見がクラスメイトと大きく異なるから目立つ存在だった。それに男子女子関係なく、誰とでも仲良くなるので一部の女子からは嫉妬の対象にされていた。当時の僕はそこまで詳しくアンナのクラスでの立ち位置の危うさに気づいていたわけではなかったが、アンナをよく思わない人もいることは感じていた。
アンナは日に日に元気がなくなっていき、ついにはアンナの笑顔を見ることが出来るのは、一緒に帰る時だけになっていた。そのころにはクラスのアンナへの仕打ちはいじめといっていいほどになっていた。アンナに話しかける人はおらず、時々女子の集団がアンナのほうを見て嫌な視線を送っていた。僕が気づかないだけで、他にも嫌がらせを受けていたのだと思う。アンナの隣に座っていながら、その現状を僕は傍観しているしかなかった。僕が何かクラスに対して行動を起こしても、アンナへの仕打ちがもっとひどくなることを知っていた。僕にできることは、アンナと一緒に帰る週に一度の二十分で笑ってもらうことだけだった。アニメの話をするアンナは少しだけ元気になるみたいだった。
僕はアンナの支えになりたかったのだ。独りだった僕を見てくれて、教科書を貸してくれて、救ってくれたアンナの、あの笑顔が戻るなら僕はなんだってしたかった。そして、小学生だった僕にとってアンナの支えに、もっと近くにいるためにとれる手段は、秘密の共有だった。僕の秘密をアンナに教えることが、僕のアンナへの信頼の証になると思ったのだ。
その日はアンナの顔がいつもより暗かった。なぜかは知っている。アンナの上履きがなかったのだ。気丈にもアンナはそれを必死に隠していて、先生には気づかれていなかった。僕も最初は何も気がづかなかった。けれど国語の授業中、ふとアンナの足元を、上履きを履いてないその足に気が付いた瞬間、僕の中で何かが音を立てて切れた。クラスメイトの前でアンナに話しかけることをあんなにためらっていた僕が、あろうことか授業中に立ち上がって。
「アンナ、ちょっと来て。」
アンナに話しかけていた。その時のアンナの顔は忘れられない。嬉しそうでも、怒ってもない、ただただ困った顔をしていた。けれど僕にはそんなことを気にしている余裕はもちろんなかった。僕は困り顔のアンナの手を引いて、教室を出た。先生が何か言っているのがうっすら聞こえたけれど、自分の鼓動がやけに大きく聞こえるだけで、他の音は僕の中で意味を為さなかった。やけに狭い視界の中で、僕は一目散にトイレを目指した。男子トイレだ。入るとき、アンナは一瞬躊躇した。僕はやっと少し我に帰って、アンナが裸足であることを思い出した。
「これ履いて」
僕は自分の上履きを脱いで、その足で上履きの向きをアンナが履きやすい方向に変える。アンナはおびえた目をしていたけれど、僕の迫力に気圧されてしまったのか、言われるがまま僕の上履きを履いた。サイズはピッタリだった。僕はアンナの手を引いて、男子トイレの奥に進んでいった。僕はアンナに、デッキブラシのことを、空を飛べることを教えるつもりだった。今でもその時の僕の気持ちをうまく説明することはできないけど、とにかくちっぽけな僕が、クラスで自分の地位すら築けない僕が出来ることは、これしかないと本気で思っていた。
トイレ掃除の用具扉に手をかけたとき、僕の手は震えていた。多分顔も真っ青だったと思う。家の倉庫で悪魔に声をかけられたときの恐怖が蘇る。あの時の悪魔の声が蘇る。「お前がこれを欲するのであれば、私はそれをいただこう。」しかし、それは僕が車に乗ろうとするときに頭にこだます悪魔の声そのものではなかった。僕が、勇気で乗り越えられる恐怖だった。僕は用具扉を開き、振り返ってアンナの目を見つめた。アンナの目をこんなにしっかり見るのは初めてだった。こんなに綺麗なものを僕は見たことがなかった。僕とは違う蒼い瞳。その中では僕は真剣で、少しおびえたような顔をして僕を見ていた。
「アンナ、これは絶対に秘密にしてほしいんだけど」
アンナは少したじろぐが、僕はアンナの手を放さない。
「僕は空を飛べるんだ。デッキブラシに乗って。」
僕はそれだけ言って、振り返り、デッキブラシと対峙した。そして、アンナの手首を握る手とは逆の手でデッキブラシを握る。その時のアンナの顔は覚えていない。多分見てすらいなかったと思う。
「飛ぶよ」
僕は小さな声でそう呟いて、倉庫で体が浮いた感覚を思い出してデッキブラシを握る手に力を入れた。
……
身体が浮かない。僕は焦って手を放してもう一度握る。浮かない。ついにはアンナの手を離して、両手で握る。やっぱり浮かない。僕は自分が空を飛べないことに気が付いて、身体が一気に熱くなり、そしてどんどん冷たくなっていく。僕は恐る恐るアンナのほうに振り返り、
「今日は調子が悪いみたい」
と、消え入りそうな声で言った。その時のアンナの顔は覚えている。目が点とはまさにこのことだった。あの綺麗な瞳がきれいな丸になって僕を無表情に見つめている。
「ごめんね、僕は本当にデッキブラシで飛んだことがあるんだ。アンナにだけは教えてあげようと思って、」
「ふっ」
言い訳をしようとすると、アンナから変な音が出た。
「ぶふっ」
やっぱりアンナの方から聞こえる。アンナの顔が無表情なまま少しずつ赤くなっていく。
「んぶっ。あはは!うっふふ、あはははは!」
アンナは笑っていた。今まで見た中で、最高の笑い方だった。アンナを笑わせるためにあの手この手を使ってきた僕は、アンナが笑顔になってくれたとき、それを大切に記憶に刻み、蓄積した。そうしていつの間にか、アンナの笑顔評論家を自負するようになった僕だったが、その僕から見ても、その笑顔は最高の笑顔だった。そしてその笑顔は、素敵なまま少しずつ歪んでいって、涙が次から次へと流れていった。国語の先生が泣き声を聞きつけて駆け付けるまで、僕は泣くアンナを前に何もできずにただ立ち尽くしていた。その日、アンナは親に迎えられて早退し、僕は担任の先生に事情を話して、一人で帰った。先生は僕の説明に理解を示してくれて、優しく頭を撫でて、お母さんを呼ぼうとしてくれたけれど、僕は一人で帰れますといった。辛いのは僕ではなくて、アンナだ。
運良く、次の日は土曜日で学校は休みだった。土日を休む間に、色々と考えなければならないことがある気がしてはいたが、何も考えられず、あのアニメの録画をずっと見ていた。いつもは一時間以上テレビの前にいると、お父さんに抱きかかえられて公園に連れていかれるが、その日に限って、お父さんはずっと隣で一緒にアニメを見てくれた。その時のお父さんの温かさと大きさは月曜日に学校へ行く勇気を僕にくれた。
月曜日の朝、学校に着くと、教室は静かだった。アンナも学校に来ている。僕は少しほっとして席に着いた。アンナはずっとうつむいていて、僕は声をかけられなかった。珍しく先生も朝の会よりも前から席にいて、真剣な顔をしている。チャイムが鳴った。
「起立、礼」
「おはようございます」
日直の号令で一日が始まった。朝の会では、アンナのいじめ問題が扱われた。いつものように、いじめはよくないと先生から教えがあり、いじめを素直に認めた数人がアンナに頭を下げた。アンナは黙っていた。この儀式に関しては、僕も何度も経験していたし、これによっていじめがなくなるはずがないことを知っていた。アンナをいじめていた本当に悪い奴らは、頭を下げた数人の中にはいないし、今もニヤニヤ笑っているのが見える。僕はまた立ち上がって何かをしたい衝動に駆られたが、何もできなかった。
事件はその日の給食の時間に起こった。その日は一日中先生が教室を離れることはなかったし、離れる際も別の先生が教室の様子を見に来ていた。しかし、給食当番が給食を取りに行くのに担任が付いていくその隙に、ことは起こった。
給食はいつも近くの席の人と班を作って食べる。アンナとは隣の席なのでもちろんおなじ班だ。いつものように席を向かい合わせて近づけようとすると、話しかけてくる女の子がいた。
「ねえ、アンナちゃんって、ブラシのこと好きなの?」
そう言いながら、アンナと僕以外の班の人たちの机を僕たち二人の机から一つず離し始めた。おなじ班の中沢君も花房さんも抵抗せずに机を離して座ってしまった。
「ねえ、アンナちゃんやっぱりブラシのこと好きなんでしょ」
意地悪な目でそう言った女の子は、アンナの腕をつかんで無理やり立たせて僕のほうに投げつける。僕は危ないと思って立ち上がって、アンナを抱き留めた。
「ほら!やっぱり好きなんじゃん!ブラシが好きなんだー」
「今まで、私たちアンナちゃんをいじめようと思ってたわけじゃないの。二人が仲良しだからね、ほら二人だけにしてあげたかったの。だってブラシなんかと私、仲良くなりたくないもん」
別の子が横やりを入れる。
「ブラシなんかと仲良くするから、こんなことになるんだよ」
僕はアンナを立たせて、顔を真っ赤にした。ここから逃げ出したかった。僕はアンナが好きだった。そこに触れられた恥ずかしさもあったが、もっと衝撃的だったのはアンナが僕と仲良くしていたからいじめられていたのだという事実だ。僕は、アンナがいじめられているのは、その目立つ容姿と、男女関係なく誰とでも仲良くなるその明るさのせいだと思っていた。僕が原因だなんてこれっぽっちも考えてなかった。確かに、根本にはクラスメイトのアンナへの嫉妬があったろう。しかし、それに火をつけ、燃え上がらせるきっかけを作ってしまったのは僕だった。アンナの笑顔をなくしてしまっていたのは僕だった。
起きた時、何時だか分らなかった。少なくとも、朝の会はとっくに終わっていて、先生が様子を見に来てくれていたことがわかる。置手紙があった。
「目が覚めたら保健の先生に言ってください。少し、お話をしましょう」
僕は重い頭を持ち上げて、ベットから出た。カーテンを開けると、もう夕方だった。保健の先生は、にっこり笑って「おはよう」と言ってくれた。保健の先生は綺麗で優しくて、学校の生徒から慕われていた。
「今日はもうすぐ、授業は終わっちゃうわ。どうする?帰るなら、お父さんかお母さんを呼びましょうか」
「いや、先生がお話ししようって手紙があったから。」
「そう。お話していく?無理しなくてもいいんだよ。」
「少しだけなら、話せます。」
保健の先生はまた、にっこり笑って「少し待ってて」と言い残して、保健室を出て行った。けれど、僕の暴挙について結局、担任の先生と話をしても、先生の知りたかったことは何も知れなかったと思う。僕は何を聞かれても「わかりません」としか答えなかった。最後に一つだけ、先生にお願いをした。
「席替えを、してください」
先生は黙ってうなずいてくれた。最後に先生は「教室には行けなくてもいいから、学校には来てくれるか」と聞かれ、「はい」と答えた。あれから一日が経って、教室にもう一度入る勇気がもうなかった僕にはありがたい言葉だった。
結局二か月ほど、僕は教室に行かずに保健室や空き教室で勉強をした。アンナのことは気になっていたが、僕にはどうしようもできないし、また何かをしてアンナを傷つけてしまうことが怖かった。アンナの様子は、事件の日に駆け付けてくれた先生を通して、保健の先生がたまに教えてくれた。アンナは昔のようにみんなと仲良くとまではいかないが、中沢君や花房さんとは仲良く話をしているそうだ。それを聞いて、少し安心した。移動教室のときや、体育館での全体朝礼の時など、アンナを遠目に見かけることはあったが、話しかけることも、話しかけられることもなかった。
冬になって、クラス替えが近づいてきた。あと一週間で、三年生が終わる。僕は先生とお父さん、お母さんと相談して、四年生からクラスに復帰することになっていた。そのころになると、僕も元気になって、家ではお父さんとアニメを見て、主人公を必死に応援していたし、学校の登下校も一人でできていた。四年生になってクラスに戻っても、今まで通り、石像となって外界を遮断していれば、大丈夫なはずだ。先生も無理に友達を作らせようとはしていないみたいだった。
三年生の終業式前日、僕はいつものように皆より15分早く保健室を出て、帰り道につこうとした。下駄箱で靴を履き替えていると、声が聞こえた。
「加治君!」
下駄箱は静かだった。当然だ。この時間、学校を出ようとするのは僕くらいしかいない。そこにいたのは、アンナだった。静かな下駄箱で、僕とアンナだけ。僕は「アンナ」と呟いた。すごく驚いていたが、それと同じくらい、やっぱりアンナが声をかけてくれたことを喜んでいる自分がいた。いつかこの時が来ると何となく、思っていた。嬉しかったけれど、僕はアンナと仲良くなってはいけない。叫ぼうか、無視しようか。そう考える僕がそうできなかったのは、あるものが僕の目をくぎ付けにして、離れなかったからだ。
「持ってきちゃった。一緒に帰らない?」
デッキブラシを抱えながら、にっこり笑ってそういうアンナの言葉に、僕はいつの間にかうなずいていた。
下駄箱を出るときも、校門をくぐるときも、学校は静かで、まるで僕とアンナの二人しかいないみたいだった。
帰り道は、お互いほとんど話さなかった。なぜかデッキブラシを抱えている美少女は人々の注目の的になっていたが、本人は気にしていなかった。一度、僕が持つよと言ってみた。「どうせ飛べないんだし」とはさすがに言えなかったが、彼女は黙って首を振った。
結局、声を出したのはその一度きりで、二人の別れ道まで来てしまった。アンナが何か言いたいのは分かっていたし、僕はアンナを近くの公園へ誘った。仲が良かったころ、アニメの話が盛り上がって止まらなかったときに、たまに一緒に過ごした公園だ。
公園のベンチに座ってしばらくすると、アンナが口を開いた。
「私、もういじめられてない。中沢君も、花房さんも友達だよ。」
僕はもうそれを知っていたが、笑って「よかったね」と答えた。うまく笑えているだろうか。
「中沢君はね・・・」
この後、しばらく僕がいない間に、三人組が仲良く楽しく過ごしていたという話を聞いた。やっぱり中沢君は面白くて、アンナからの間接で聞いていても、つい噴き出してしまうような、話がいくつかあった。でも、アンナがそんな話をする意図がよくわからなくて、面白いけど我慢して、あんまり興味がないふりをした。
「クラスにいた時も、よくそんな顔してた。」
アンナに指摘されて、思わずアンナの方を見てしまった。アンナは気づいていたのだ。
「私と中沢君の話、よく聞いてたでしょ。笑いそうになってるの、知ってたよ。」
僕は恥ずかしくて、耳まで赤くなっていた。
「私ね、加治君が笑いそうになってくれると、うれしかったんだ。もっと笑ってくれないかな、話に入ってくればいいのにって思ってたの。」
それでたまに、僕に話しかけてくれていたのだ。僕なんかが笑いそうになってるだけで、アンナは嬉しかったのか。僕はなんだかその事実だけで嬉しくなっていた。
「中沢君も、多分気づいてたんじゃないかな」
それはない、と僕は思った。アンナ以外の人にとって僕はいないも同然の存在だった。
「それはないよ。」
「そうかな?あの時から、中沢君は加治君のことチラチラ見てたよ。加治君、ずっと机を見てたから気づかなかったかもしれないけど。あのね、」
正確に言うなら、机とアンナを見ていた。確かに、中沢君の話は聞いていたが、中沢君のこと顔は見ていなかった。見ることが出来なかった。
「あのね、私中沢君と花房さんに、加治君と友達になろうって、言ったの。そしたら二人とも、もちろんいいよって言ってくれた。ねえ、加治君、明日一緒に終業式に行かない?クラスの子たちは皆無視するかもしれないけど、私と中沢君と花房さんは絶対に無視しないから。」
そこまで一息に言ったアンナは、デッキブラシを見つめて黙り込んでしまった。まるで石像のようで、昔の自分を見ているようで面白かった。
「終業式には出るけど、後ろでこっそり見てるよ。」
ピクリとアンナの肩が動いたが、アンナはうつむいたまま何も言わない。そんなアンナを見ていると、いじめられていたアンナを笑わせようと一生懸命だったころの気持ちを思い出す。あの頃はそれがすごく難しく感じられたけれど、今ならそれはすごく簡単なことだ。一言、終業式に一緒に出ようと言えば、アンナは今までにないくらいに嬉しそうに笑ってくれるだろう。けれど僕はアンナを笑わせることはできない。アンナの提案は確かに魅力的だったけれど、受け入れるわけにはいかなかった。僕がクラスに戻って、またアンナがいじめられてしまったらと考えると、それは絶対に嫌だった。そして、何よりクラスの前でもう一度アンナと話をする勇気が僕にはなかった。今こそ、アンナは僕の、僕だけの言葉を求めてくれているのに、僕はその一線を踏み越えることはどうしても出来なかった。あの頃は求められてもいないのに、あれだけ無理を通してアンナに近づいたくせに。
アンナは放っておけば、いつまでもそうしていそうだった。見かねて僕は言った。
「今日はもう帰ろう。寒いよ。」
出てきた言葉は、思ったよりずっと冷たかった。アンナは瞳に涙をいっぱいためて、怒ったように顔を上げた。そして口を開いた。
「…んで。」
「え。」
「飛んでよ!飛べるんでしょ!」
アンナは持っていたデッキブラシを僕に押し付けて、叫んだ。
「飛んで見せてよ!飛べるって言ってたでしょ。私は加治君のこと、信じてるよ。」
「あれは、ごめん、嘘なんだ。学校のトイレで言ったのも、クラスで叫んでたのも、全部うそ。デッキブラシで飛べるわけないよ。」
そのために、アンナはデッキブラシをわざわざ学校から持ってきていたのだ。僕はどんな顔をしていいか、分からなくて少し笑ってそう答えた。冗談にしてしまえば、全部なくなってくれるような気がしたのだ。アンナはデッキブラシを落として、泣き出してしまった。
しばらくして落ち着いてきたころ、僕はデッキブラシを拾ってアンナに声をかけた。
「帰ろう」
アンナは今度は素直に僕の言うことに従って、公園の出口のほうに歩きだした。別れ際にアンナが消え入りそうな声でつぶやいた。
「明日学校に一緒に行こう。私ここで待ってるから。」
すごく小さな声だったし、僕はもう僕の家のほうに歩きだしていてアンナには背を向けていたから、聞こえないふりをしたけれど、その声ははっきりと僕に聞こえていた。それでも僕は立ち止まらずに、家へと足を進めたのだった。
翌日、僕はいつもよりも早く家を出て学校に向かった。保健室に着くと、保険の先生もすでに学校に来ていた。先生に挨拶をして、ランドセルを置いて先生の前に座る。いつの間にか日課になっていた二人だけの朝の会だった。
「おはようございます。今日は終業式ですね。加治君は、皆より少し遅れて体育館に行って、終業式に参加します。一緒に行きましょう。」
「はい。」
「三年生も今日で終わりですね。四年生になったらクラスで皆と授業を受けることになります。四月一日の予定など、細かいことは終業式が終わったら、担任の先生から説明があります。」
「はい。」
事務的な連絡事項を聞きながら、僕はこの朝の会が今日で終わってしまうことに心細さを感じていた。保健の先生は、優しくて好きだった。僕が毎朝保健室に登校するようになってからは、今日みたいに事務的な連絡をただ伝えるということが多かった。しかしそこに冷たい感じはなく、いつも僕の話を微笑みながら聞いてくれて、僕がアンナのことを気にしてるのを知って、たまにアンナの様子を教えてくれる。あまり口数の多い人ではなかったが常に僕を受け入れてくれているのを感じさせてくれる、そんな人だった。
「私からも一言。今日まで、学校を休まずに保健室に来てくれてありがとう。先生はそれがとてもうれしかったです。もし、加治君が学校に来なくなってしまったら、先生はすごく悲しかったと思う。四年生になってクラスに戻るのは少し不安かもしれませんが、加治君なら大丈夫です。もし何か困ったことがあったら、またいつでも保健室に来てください。」
「はい。先生、ありがとうございました。」
二か月ほどの短い間だったけれど、その二か月が思ったよりも辛くなかったのは先生のおかげだ。もちろん、いよいよ、本物の変人として学校中から奇異の目で見られるのは辛かったし、たまに見かけるアンナの顔を見れずに逃げ出してしまうと、すごく落ち込んだ。けれど、保健室に行けば先生がいて、いつもそれが当たり前のように普通に接してくれた。それが僕にとっては、とても大きな支えだった。先生は学校に来てくれてありがとうって言ったけれど、お礼を言わなければいけないのは僕だ。けれど、その時の僕にはその思いを伝える術がなくて、目に涙をためて、もう一度「ありがとうございました。」と言えただけだった。
それから少し先生と話をして、体育館に向かった。その時僕は、アンナのことをほとんど忘れていた。自分でも信じられないけれど、忘れていたのだ。昨日のアンナの言葉は、すごく嬉しかったし、びっくりしたけど、どこかでアンナが本気で僕と友達になりたいと思っているはずがないと思っている自分がいた。だから、昨日別れ際に言われた「一緒に行こう」の言葉も本気では受け取っていなかった。体育館に先生と一緒に入るまでは。
その時気が付いたのだが、僕は全体集会に参加するために体育館に入るとまず、アンナのことを探していたみたいだった。アンナの髪は皆と違うから目立つし、入り口が体育館の後ろ側にあるから、遅れて入った僕のことを気にする生徒はいない。僕が誰の目も気にせずにアンナを探せるのはこの時だけだったのだ。今日も無意識にアンナの金色の髪を探して、それがないことに愕然とした。僕があの綺麗な髪を見つけられないはずがない。
そこで僕は自分のやってしまったことに気が付いた。アンナはきっと、今も僕のことを公園で待っていてくれているのだ。僕はなんてことをしてしまったのだ。たった一人だった僕を救ってくれたその子を、僕は独りにしてしまったのか。昨日の別れ際の、消え入るような声と、深い蒼い瞳が鮮明に思い浮かんで、教室で僕に腕をつかまれて困ったような顔が、帰り道、アニメの話をして輝くあの瞳、そして教科書を見せてくれた時の、あの優しい風が思い出される。僕にそれだけのものをくれたその子を独りにしてしまった。
呆然としていた僕の前に、いつの間にか立っていたのは、中沢君だった。中沢君は泣いていた。泣いて僕の胸倉をつかんでいた。何か言っていたが、僕には聞こえなかった。
一つだけ、僕はアンナを迎えに行かなくちゃだめだ、それだけが僕の思いだった。それを理解した瞬間、僕は体育館を駆け出してトイレに向かっていた。一秒でも早く、アンナの元へ。
「やっぱり飛べるんだね。」
デッキブラシに跨って、アンナの元へ降り立った時、アンナはいつもの笑顔で笑ってくれた。僕はなんて言っていいかわからなくて、ただごめんなさいと言った。そして。
「一緒に終業式に出よう。」
そう言った僕に、アンナは頷いてくれたのだった。
終業式はお昼前には終わってしまう。どうしてもそれに間に合わせたくて、僕はアンナを後ろに乗せて飛んだ。そうしたら、アンナが学校に行きたくないって言いだした。最初はおっかなびっくりだったアンナも、しばらく飛ぶと楽しそうにはしゃいでいた。アンナがあまりにも嬉しそうだったから、僕も終業式に出るのは諦めた。そのまま学校を飛び越えて町を一周した。中沢君には後で謝ろう。そして、友達になってくださいと言おう。いつかきっと僕が飛べるって、中沢君にも教えてあげるのだろう。でも今は。今だけは、その秘密は僕とアンナだけのものだった。僕だけが見ることのできるアンナの笑顔だった。その笑顔を見たときに聞こえてきた。
「お前がこれを欲するのであれば、私はそれをいただこう。」
僕が本当に欲しかったものは、アンナの笑顔だったのだ。
終
最後までお読みいただきありがとうございます。
この物語を通して、あなたとつながることが出来たことをすごく嬉しく思います。
また何かしらの物語を書きますので、読んでいただけるとすごくうれしいです。
寒いのでお身体にお気をつけて。
ノリミツ




