悪魔のデッキブラシ①
縦書きで読んでいただければと思います。
20000字完結済み。週一回のペースで投稿していきます。
悪魔のデッキブラシ
起
物心ついたときから、僕は当然のようにデッキブラシは乗り物で、またがって空を飛ぶためのものだと思っていた。それがただの掃除道具であり、またがってジャンプしたって、普通の人は空を飛べないということを知ったのは小学生のトイレ掃除でだった。
僕が初めてデッキブラシに触れたのは小学校に入る前のことだった。僕の家には魔法の倉庫がある。父が言うには倉庫は悪魔が守っていて、大人に内緒でその倉庫に入ろうとすると悪魔に呪われてしまうのだ。倉庫の中には子供が勝手には触ってはいけないもの、鎌やらバーベキューセットやらシャベルやらがしまわれていて、魔法の倉庫というのはつまり、よくある子供が勝手に立ち入らないようにするための方便だった。そこにしまわれていたのが、僕が初めて触ったデッキブラシであり、そして、その時本当に魔法の倉庫が悪魔に守られていることを僕は知ったのだった。
小学校に入るだいぶ前、僕は父がカギをかけ忘れた魔法の倉庫におびえながら入っていった。倉庫は、外から見れば小さな倉庫だったはずが、一歩足を踏み入れると、暗く視界も限られていて、どこまでも続く洞窟のように感じられた。今すぐ引き返したいほど怖かったが、それと同じくらいの魅力をこの魔法の倉庫に感じて、「悪魔なんかいない、悪魔なんかいない」とつぶやきながら手を突き出してゆっくり進んでいった。すると、棒状のものに手が触れるのを感じた。やっと暗さに慣れてきたころで、その全容をなんとか確認することができた。僕にはその棒状のものに見覚えがあった。この間お父さんと見た映画で、少女がまたがって空を飛んでいた、あの棒だ。テレビを見ながらお父さんが「あの緑のふさふさが空を飛ぶ秘密さ」と得意げに語っていたのを思い出す。なるほど、暗くて色まではわからないけれどふさふさしたものが下についている。やはり、僕の家には魔法の倉庫があったのだ。
少しずつ、恐怖よりもその棒にまたがって、あの少女のように空を飛んでみたい気持ちのほうが強くなってきた。映画の内容は僕にはよくわからなかったけれど、あの少女が空を飛ぶ姿は、すごくかっこよかった。
とにかく、これを外に持っていかなくちゃ。そう思って、棒を持ち上げようとすると、かわりに僕の身体がふわりと浮いた。手を離すと、着地する。よく見るとその棒も僕と一緒に浮くみたいだ。飛んでいる。これはいよいよ、お父さんとお母さんに見てもらいたい。棒を引きづって、外に出ようとしたその瞬間、声が聞こえた。低くもなく、高くもない、男なのか女なのかすらわからない声だった。それでいて十年経った今でもまだはっきりとその声を覚えている。その声は確かにこう言ったのだ。
「お前がこれを欲するのであれば、私はそれをいただこう。」
その後のことはあまり憶えていない。ただ、自分が悪いことをしているという自覚が急に押し寄せてくるあの感覚と、得体の知れない声に対する恐怖だけは今でもたまに夢に見る。当時の僕の様子は、未だに母のお気に入りの笑い話で、倉庫を出て庭から家に駆け戻った僕は、大泣きしながら母にしがみつき、泣き疲れて眠るまで何かに謝っていたらしい。
それが僕と悪魔の出会いであり、その日から僕は車に乗ることができなくなってしまった。
急に車に乗れなくなったことで、両親は非常に困惑したらしいが、僕はそれが、悪魔との取引だったことを本能で理解していた。僕はあの棒状のもので空を飛ぶことができるようになった代償として、車に乗ることができなくなったのだ。乗れない理由は様々だった。車に乗ろうとすると急に頭痛や腹痛に見舞われたり、嘔吐、痙攣、気絶、珍しいパターンだと笑いが止まらなくなって呼吸困難というのもあった。色々な症状に苦しむなかで、頭の中には必ず、あの悪魔の言葉がこだましていた。
「お前がこれを欲するのであれば、私はそれをいただこう。」
症状を改善するために何度もカウンセリングを受けたが、お医者もお手上げだった。ついには親もあきらめて、僕を連れて移動する場合は自転車や電車を使った。お父さんは笑って、「今時車がなくても何も困らないな」なんて感心していて、母は心配そうに僕を見ていたのを思い出す。僕はどうしても悪魔との出会いを両親に相談することはできなかった。
承
僕がその棒状のものと再会したのは、小学校に入学して初めてトイレ掃除の係になった時だった。悪魔との出会い以来、魔法の倉庫には近づいていなかった。
それが、デッキブラシという名前で、床をごしごしして綺麗にするためだけのものだという事実に僕は愕然とした。僕にとってそれは魔法の道具であり、悪魔の持ち物だった。そう簡単に手を触れていいものではない。ましてや、それをスティックに、石鹸をホッケーボールにしてトイレで遊ぶなんてとんでもないことだった。トイレ掃除のとき、僕は断固としてブラシを握ることを拒否して、皆が嫌がる亀の子たわしによる便器掃除に徹した。
デッキブラシを見れば顔を真っ青にする、どうやら車に乗ると気絶するらしい、そんな噂がクラスメイトの間に流れて、僕は学年の変わり者となった。陰でブラシと呼ばれるようになって、友達もなかなか作ることが出来なかった。次第に僕は誰とも話さず、休み時間には教室の隅でじっと机を眺めることしか出来なくなった。
そんな僕の心の支えになったのは、底抜けに明るい父と、優しい母と、一人の女の子だった。
学校の先生に心配されながら、一人ぼっちの小学校生活も半分を過ぎたころ、一人の女の子と話すようになった。きっかけは、三年生の秋の席替えで隣の席になったことだった。
その日、僕は算数の教科書を忘れてしまった。これは一人ぼっちの僕にとって、絶対に避けなければならないことで、何せ隣の人に教科書を見せてくれと頼まなければならない。それができない僕は、幾重もの対策を講じて、恥を忍んでお母さんに確認してもらってまで教科書を忘れないようにしているが、忘れてしまった場合はじっと机を見つめ続けて先生が気づいてくれるのを待つことしか出来なかった。
その日も教科書を忘れてしまったことに気がついた直後に、僕の身体は石のように動かなくなって、机以外に目を向けることが出来なくなった。そんな時に声をかけてくれたのが、隣の席の女の子だった。名前はアンナという、アメリカ人と日本人のハーフの子だった。色が白く、瞳が蒼い彼女は僕と同じように学年で浮いていた。僕との違いは、アンナはクラスの人気者で、僕が一人ぼっちだということだ。アンナは僕が教科書を忘れたことに気が付くと、黙って机を僕の机に寄せて教科書を二人の間に開いてくれた。その時の僕は感謝というよりも恐怖していた。アンナと隣の席になっただけでも、僕にとっては過ぎたことで、クラスの男子からも女子からも、「なんでブラシが」なんて視線を浴びた。教科書を見せてくれるなんて、恐怖以外の何物でもなかったのだ。僕はいよいよ机を見つめる石像となって、せっかく二人の間に開いてくれている教科書に目もくれず、授業終了のチャイムをひたすらに待った。
その時、ふっとアンナから優しい風が吹いてくるのを感じた。先生が、次回の授業の宿題を説明し始めたころだっただろうと思う。実際には窓際に座っていたアンナの向こうの窓から風が入ってきたのだろうが、その風に包まれて、僕にはそれがアンナの優しさに感じられて、思わず机から目を離してアンナのほうを見てしまった。その時のアンナの瞳の深い蒼と、優しい笑顔は僕の殻をいとも簡単に溶かしてしまって、その光景は深く心の一番繊細なところに刻まれた。それから授業が終わるまでの5分間は、流石にアンナの顔を直視する勇気はなかったが、自分の机と、アンナの算数の教科書を交互に見ることで終えた。授業が終わってアンナにありがとうを言うときは、一生分の勇気を振り絞った気がした。その時もアンナは優しく笑ってくれた。
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