エピローグ
……えっと、なんだろうか。これは。
どうやらおれは出血のせいで意識を手放していたようだが、目を覚ますと、そこには驚くべき光景が映っていた。
巨大な蛇――ミドガルズオルムが、鎌首をもたげるようにして頭をゆっくりと持ち上げたかと思ったら、ビタァァンッと額を地面へと擦りつけたのである。
――端的に言えば、蛇の土下座だ。
何事かと思ったが、この光景……どこかで見たような気がするな。
「ごめんなさい。早とちりしたボクが全部悪かったです。何でもしますから許してください。もう焼かれるのは嫌です。熱い、怖い、痛い……」
本当に何があったのか。
大蛇はガクガクと震えるようにして、うわ言のように謝罪の言葉を繰り返していた。
イルルがこの場をおさめてくれたようだが、おれは気絶していたため、何があったのか詳しくはわからない。
彼女が助けに来てくれたことだけは記憶に残っているが……そういえば、イルルはどこに行ったのだろう?
「……まずいな。折れた肋骨が内臓に突き刺さっているし、他にも肩や腕、足の骨も骨折している。頭からの出血は止まる気配がないし、心音がどんどん弱まっていく」
どうやら、彼女は人間の姿となって、おれの体の状態を調べていたようだ。
かすれそうな視界の端から顔を出したイルルは、表情こそ焦っていないものの、言葉に心配の色を含んでくれていた。
きっと、長く生きてきた中で、人間の医術ぐらいかじったことがあるのだろう。
耳が良いと言っていたから、小さくなっていく心音を聞き取るのも容易なはずだ。
自分の体のことは、自分が一番よくわかる……なんて言葉をよく聞くが、あれはあながち間違いではないと思う。
なんだか、呼吸も苦しくなってきた。
「ありがとうな、イルル。また……助けてもらっちゃったな」
きちんと……お礼を言っておかないと。
それにしても、なぜおれがここにいるとわかったのだろうか。
あの後、魔力が枯渇して倒れてしまった彼女は、おれがもとの世界へ戻ったものと思っていたはずなのに。
「……自分が魔力を分け与えた相手がどこにいるかなど、すぐにわかる。それどころか、相手が今どこで何をしているのか、何を考えているのか、朝食に何を食べたかまで全部わかるぞ」
なにそれ、怖い。
「冗談だ。しかし……なぜ戻ってきた?」
せっかくもとの世界へ帰れるチャンスだったのに、自分でそれを拒むような真似をしたのは、なぜだろうか。
……皆が大変なときにこそ、世話になった人たちへ恩返しをしたかったから?
もちろん、それもあるが……おれは、もうちょっとだけ――――
そこで、意識を保っていられるのも限界だった。
視野が暗く狭窄していき、瞼が鉛のように重たくなっていく。
そのとき、イルルが自らの指を爪先でピッと切り裂いてみせた。
「なにして……」
ポタリ、ポタリ……と血が地面にこぼれていく。
そうして彼女は、もう何度目かになる誘いの言葉を口にした。
いつもの通り、なんでもないことのように。
「――ふむ……ちょっとだけ、飲んでおくか?」
「あ、ははは……。そんな……疲れたなら一杯いっとく? ……みたいな口調で聞かれても困るって……何度も言ってるだろ」
◇◇◇◆◆◆◇◇◇
――数日後。レイトルテの街にて。
「いらっしゃいませっす! フェリシア港で獲れたばかりの新鮮な魚をふんだんに盛りつけた海鮮丼っすよ! 食べてってくださいっす」
元気にお客から注文を取っているのは、ネイリである。
街に戻ってから特別ボーナスをプレゼントしたが、少女は無駄遣いすることなく貯金に回すと言っていた。
貯金して何を買うのか聞いてみたところ、最新式の魔導銃を買うのだとか。
遊び盛りの女の子がそれでいいのかとも思ったが、お金の使い道は人それぞれだ。
「ジンさん。海鮮丼の特上三つと、並を二つお願いします!」
「はーい! ちょっと待っててくれ」
えーと……どこから話したらいいものか。
とりあえず、おれの体調はすっかり回復し、こうして元気にやれている。
あの後、ミドガルズオルムの加護を失ったファルファトリアの軍隊は、リムリアさんの指揮によって間もなく敗退した。
神の使いと崇めていた対象が姿を消し、戦意を著しく下げた兵が相手だったこともあり、ほとんどこちらに被害はなかったらしい。
奪われた砦も取り戻し、そのまま一気にファルファトリア聖教国に攻め入ることになるのかとも思ったが、連合国側としては他国を侵略するつもりはないようだ。
今は砦の補修作業が急ピッチで進められており、その費用を聖教国に賠償するよう求めている最中だとか。
リムリアさんは総督としての仕事が色々と増えているようだが、結論として、レイトルテの街は今日も変わらず平和である。
身近なところで変わったことといえば、店に従業員がもう一人増えたことだ。
「ミド、なにしてるっすか! どんどん皿を洗わないと料理を出すのが遅れるっすよ」
「くぅっ……なんでボクがこんなことを……人間にこき使われるなんて屈辱――」
「――……なにか言ったか?」
「ひぃっ! な、何も言ってないです。あはは、お皿を洗うのってすごく楽しいや。いくらでも洗い続けていたいぐらいだよ」
洗い場でジャブジャブと皿洗いをしてくれている金髪の子供は、ミドと呼ばれている。
ネイリよりも幼くみえるが、まあ正体は言わずもがな。
人間の姿となった場合にあのような子供の外見をしているということは、イルルよりもかなり若いということなのだろう。
まあ、人間よりは遥かに長生きしているのだろうが。
「そういえば……ネイリはイルルの正体を知っても、あんまり驚いてないみたいだな」
イルルが竜から人間の姿へと転変する瞬間を見たはずなのに、彼女の態度は前と何ら変わりはない。
「え? う~ん、まあ……だってアネゴですもん。ああ、なるほどって納得するしかないじゃないっすか?」
お、おう。たしかに、そうかもしれない。
ちなみに、おれが気絶していた間のことはネイリから大体聞いたが、イルルはミドに適度なお仕置きをしたらしい。
そのため、心から深く反省して土下座することになったのだとか。
争っていた二匹の竜とどういった関係なのか、色々と事情を聞かれると面倒くさいことになるので、あの場に兵士たちが偵察へ来る前に、おれたちはすたこら逃げ出した。
そのときに、戦意喪失してガクブル状態になっていたミドガルズオルムもなぜか一緒についてきたのだ。
店でタダ働きでもさせてみてはどうかとイルルに言われ、さすがに迷ったものの……よくよく考えれば、こうしてイルルの監視下に置いておくのが一番安全なのかもしれないという結論に達した。
下手に追い出したりして、暴れられたりしたらとんでもないことになる。
「――はい。皆頑張ってくれたから、今日のまかないはちょっと豪勢にしておいたよ」
本日の営業も無事に終了し、お腹を空かせた皆にまかない料理を振る舞う。
「え……っと、ジンさん? なんというか、ネイリにはご飯だけのように見えるんですが」
今テーブルに置かれているのは、酢飯が入っている木製の桶だけだ。
「いやいや、これだけじゃないよ。ほら」
大皿に盛られた刺し身を厨房から運んでいった。
「ふん。これを乗せるだけなら、店で出してた海鮮丼のままじゃないか。豪勢とかいって、残り物をまとめて食わせようってわけ――あ、うんっ! 実はボク、海の幸が大好きなんだよ。こうみえて泳ぎも得意だし、ああすごく楽しみだなぁ!」
「海鮮丼とはちょっと違うかな。こうやって酢飯を海苔に乗せて、自分の好きな刺し身を選んで一緒に巻いてやると……」
――手巻き寿司の完成である。
一度作り方を教えてあげれば、あとは自分で色々と作れるのが面白い。
ネイリなどは、嬉々として自分の好きな刺し身だけを乗せて、くるくると海苔で巻いているようだ。
「まあ……色々と工夫したほうがおいしいのは認めるけどね。うん……まあ……たしかにおいしいよ。でもさぁ、こっちの刺し身はもうこれしか残ってないわけ? ボク、このトロサーモンっていうのがもっと欲しいんだけど」
「なるほど。こういった食べ方もあるのだな。海苔の風味が刺し身によく合っていて、酒とも相性がいい。ああ……そうだ、ジン。ちょっと隣の部屋を借りるぞ」
「う、嘘だろ!? ボク、今そんな悪いこと口にしてないじゃないか!」
イルルの言葉に、酢飯を吐き出しそうになったミドが行きたくないと懇願している。
なんというか、一階の隣の部屋が説教部屋みたいになっている気がするな。
「冗談だ。そんなに嫌がられたら、余計に連れていきたくなる」
ピタリと動きを止めたミドは、それ以降は何も言わずにモクモクと手巻き寿司を食べることを決意したようだった。
――そうして手巻き寿司を食べていると、店の扉に付けてある鈴がカランコロンと音色を奏でた。
来客は、ゲンジさんだ。
「くぁっ! もう店のほうは閉まっちまったか」
残念そうに肩を落とす姿を見て、手巻き寿司でよければと誘う。
「そういえば、今日はゲンジさん一度も顔を見せてくれなかったですね」
「おお! ありがてえ! 今日は朝から何も食べてねえんだよ」
特大の手巻き寿司を作り終えると、ゲンジさんは大きな口を開けてかぶりついた。
「いやな。やっとこさドタバタしてたのが落ち着いたから、圧縮炉とかゲート発生装置なんかのチェックをしてみたんだよ。そしたらもう、ものの見事にぶっ壊れてるもんだからよ」
無理やり世界の壁を越えるゲートを発生させたのだから、装置への負担はすさまじいものがあったのだろう。
必死に修理をしているらしいが、まだしばらく時間がかかるようで、次も必ず成功するとは言いきれないそうだ。
「まあ、なんとか元通りに直してやるさ。ところで――表にある店の看板の名前、やっと正式に決定したんだな。なかなか良い名前じゃねえか。なんであんな名前になったのかは知らねえが、なんとなくこっちまでガツガツと食べたくなるような感じがするぜ」
そう言って、ゲンジさんは手巻き寿司をペロリと平らげると、満腹になったお腹をさすりながら店を出ていった。
ネイリやミドには、そろそろ二階で休憩してもらうことにする。
おれは明日の仕込み作業を済ませておくために、もうちょっとだけ厨房に残った。
「――やはり、もとの世界に戻りたいと思うか?」
そんなとき、声をかけてきたのはイルルだ。
おれはしばし手を止めて、彼女のほうを振り返った。
「うん。やっぱりまだ帰りたい気持ちはあるかな。いきなり行方不明になって、家族も心配してるだろうし」
だが……今すぐに帰らなくてはいけないという焦りは、不思議とあまり感じなくなった。
これは、おれの体が変化した影響だろうか?
いや、それとも……。
「今のおれには、たっぷりと考える時間があるからかな」
――竜の生き血を飲んだ者は、不老不死に近い存在となる。
……イルルは、そんなことを言っていたはずだ。
まあ……なんというか。
瀕死の重傷を負ったおれが、こうしてピンピンしているのは……つまりはそういうことだ。
「ああ。ジンがわしと同じぐらい長生きしてくれることを、祈っているぞ」
その言葉は、わりと本気で嬉しかった。
だからといって何千年も考えていたのでは、あちらにおれを知っている人物がいなくなってしまうわけだが……。
もうちょっとぐらい、のんびり構えていてもいいのではないだろうかと。
今は……そう思う。
「そうそう。ゲンジさん、店の名前を気に入ってくれてたな」
保留にしていたこの店の名前が正式に決定したので、この前、表の看板に彫ってもらったのだ。
「そうだったな。わしとしては、なにやら少しこそばゆい気もするが」
『――腹ペコ竜のイブクロ亭』
それが、この店の名前である。
看板には、腹を空かした竜がバクバクと料理を平らげているイラストまで彫ってもらった。
イルルと初めて会ったときの姿を、イメージとして彫刻師に伝えたら、こうなったのだ。
「わし……こんなにがっついていたか?」
このように彼女が恥ずかしがる姿は、非常にレアである。
「いいじゃないか。その……これからは、イルルが腹ペコにならないように……おれがしっかりとイブクロをつかんでおくから」
おれが勇気を出してそう言うと、イルルはわずかに頬を染めて小さく聞き返してきた。
「……ずっとか?」
「ああ……ずっとだ」
――そう。これは……おれが腹ペコ竜と出逢ったときの物語。
これからは、この竜が腹を空かせることがないよう、ともに歩いていく――そんな物語だ。
読んでいただき、まことにありがとうございました。
ジンとイルルの物語は始まったばかりかもしれませんが、これにて【腹ペコ竜のイブクロを満たすには】は完結となります。
いかがでしたでしょうか。
読後にちょっとお腹が減ったと感じたなら、すごく嬉しいです。
作者は料理人ではありませんが、本作品に登場した料理は一度は作ったことのあるものばかりです。
趣味に走った小説なので表現がくどい箇所もあったかと思いますが、最後まで読んでいただき、重ねて感謝をばm(^^)m
これからも精進して良い物を書いていこうと思いますので、他の作品などでも応援していただければ幸いです。
ではでは。