5 天使、事情を語る
忙しそうな保健医から絆創膏をもらって迷子が簡単に傷の手当てを済ませたのを見届けると、亮は「それじゃ」と自分の教室に向かおうとした。
「あの、亮くん」
歩き出そうとした亮を迷子が呼び止めた。
「どうもありがとう。……声をかけてくれたのも、事故から守ってくれようとしたのも」
迷子は先ほどからずっと顔が赤い。照れ隠しなのか、言いたいことだけを言うと亮の返事を聞かずに一礼をして走って行ってしまった。
「よっ、亮。おはよ」
教室に入ってからも、亮は迷子のことが頭から離れなかった。友人の大介から声をかけられても、生返事を返す。
「お前、今日、宝樹迷子とイチャイチャしてたんだって?」
「……誰に聞いたんだよ?」
イチャイチャなどしていない、と否定しようと思ったが、迷子を抱きかかえている姿を見れば、そう誤解されるのも仕方ないことだろう。
感情が昂ぶって、大胆なことをしてしまった。
後悔はしていないが、迷子がさらに悪評を買う結果になったら申し訳ないなと亮は思った。
「うわさになってるよ。お前が宝樹迷子と手をつないでたとか、お姫様抱っこしてたらしいとか」
「うわさが出まわるのがずいぶん早いな……」
呆れる亮に、大介はスマートホンを見せながら言った。
「そりゃー、面白いうわさは一瞬で広がるからな」
そこから先は声をひそめる。
「けどよ、気をつけろよ。あのひと、評判悪いぞ」
大介の言葉で、亮の胸の奥に一度は押し込めたイライラが再び小さな火を灯すのがわかった。
「人を殺したとか? そんなの、馬鹿馬鹿しい作り話だろ?」
「んー、俺が聞いたのは、男癖が悪いって話。次から次へと男をたらしこんで、利用して、飽きたらポイって捨てちまうらしい」
「なんだよ、それ。それもSNSで広まってるうわさか?」
亮の口調は自然と、とげとげしいものになる。
「何を怒ってるんだよ。おれはお前のためを思って言ってるんだぞ」
大介が鼻白む。
その時、始業を告げる鐘の音が鳴り響いた。
* * *
「おい、灰月」
呼び止める声があったのは、亮が次の授業のためにコンピュータ室に向かっている時のことだった。
暗がりから腕だけを伸ばして手招きをする者がある。怪しく思いながら亮が近づいてみると、どうやって学内に潜入したのか、呼び声の主はファタリだった。
「……建造物不法侵入」
「おいやめろ」
110番に通報しようと亮が携帯電話を取り出すが、ファタリが力ずくでそれを阻止する。
「いいから、私の話を聞け」
「変態の話を聞く趣味はない」
「今日、このままいけば、人類は滅亡する。きっかけとなるのは宝樹迷子だ」
「あんた、言ってることがめちゃくちゃだぞ」
亮が呆れるのを無視して、ファタリは語り続ける。
「地球理論って知ってるか? この惑星は一つの大きな生命体だ。そこに生息する人間たちは、言わば細菌みたいなものだ。菌にも良いものと悪いものがあるように、人間は地球に良い作用をもたらすこともあれば、悪い作用をもたらすこともある。悪い菌に感染すると生物は病気になる。病気になると、薬を使って悪い菌を駆除しようとするだろ? それと同じことが、この地球という生命体に起ころうとしている。今、地球は病みつつあるんだ。その原因となる人間は、駆除されようとしている」
「それが迷子さんと何の関係があるんだよ?」
「宝樹迷子の感情がスイッチになっている。彼女が絶望して、『こんな世界、なくなってしまえばいい』と願った時に、駆除が始まる。災厄という災厄が人類に襲い掛かって、ついには滅亡してしまう。逆に言えば、宝樹迷子が幸福であるうちは、人類は安泰なんだ」
ファタリの説明は失笑ものだった。彼女がその論を信じているのなら、放っておいたら迷子に何をするかわかったものではない。亮は、ファタリを論破したい気分になった。
「それが本当だとして、なんでそんなことあんたが知ってるんだ?」
「それは私が人の運命を司る天使だからだ」
「へーそりゃーすごい」
亮は棒読みで相づちを打つ。
「天使だって言うなら、空を飛んだり、魔法を使ったりできるんだろうなあ?」
「それは……下界に降りると、下界の規則に縛られるから、今は飛べない」
ファタリは悔しそうな表情を浮かべた。
「運命の天使なんだろ? それなら、人の運命なんて簡単に変えられるんじゃないのか? わざわざ迷子さんに危害を加えるような真似なんてしなくてもさ」
「危害なんて……。保護しようとしただけだ。運命を司るといっても、天界から直接ひとの運命に干渉することはできないんだ。ただ、運命の流れを観測し、予測するだけで」
「それで、迷子さんに人類を滅亡させる力があるとして、あんたは彼女をどうしようっていうんだよ?」
「今日は宝樹迷子にとって運勢が良くない。大小さまざまな不幸が宝樹迷子を襲うことになるだろう。その不幸を何としてでも回避させること。人類生存の道は、それしかない」
力強く言うファタリ。その言葉の真偽はともかくとして、ファタリが本気で言っていることを亮はひしひしと感じた。
「おーい、亮、何やってんだー? 早くコンピュータ室に行こうぜー」
物陰で話し込んでいるのを訝しんで大介が声をかけてきた。
「とにかく、宝樹迷子を悲しませたり、傷つけたりするな。これ以上、彼女を不幸にしてはいけない」
そう忠告して、ファタリは大介がやってくるのとは反対方向へ姿を消した。
妙な妄想でファタリにまとわりつかれること、それ自体が迷子にとって一番の不幸じゃないだろうかと亮は思った。